カチコチと秒針が時を刻む。
静まりかえった部屋には、ページをめくる音と紙の上をペンが走る音が流れていた。秒針の音に急き立てられるようにペンの音はどんどん早まっていくが、さて、間に合うか。
ペンの音を聞きながら、俺は手元の小説のページをめくった。ちょうどきりのいいところまで読み終わったその時、部屋の中にアラームが響く。
「よし、そこまで」
「っあー! あと一問!」
「俺はギリセーフ! 間に合った!」
それぞれの前から答案用紙を抜き取ってざっと目を通す。
幸人に勉強を教えてほしいと頼まれてから、ちょくちょく俺の家で面倒を見てやっていた。最初は幸人だけだったが、最近は他の奴もくっついてきたりする。良い傾向なのでからかうことなく面倒を見てやることにしていた。中高レベルの勉強くらい苦ではないし、俺としてもいい気晴らしになっている。
「……うん、だいぶ解けるようになったな。採点するからちょっと待ってろ」
「へーい」
きゅぽんと赤ペンのキャップを抜いて、ひとつひとつの問題を辿っていく。
高校生のくせに少し前までは中学レベルの問題も解けなかった奴らにしては上出来の結果のように見えた。解答のスピードは問題をこなせば自然と上がっていくものだし、もう少し問題のレベルを上げてもいいかもしれない。
「ひーらぎさん、そっちの部屋って何?」
「ん? 寝室」
「よっしゃ」
俺が採点に気を取られている間に、そいつは景気よくドアを開けた。別に良いけどまず家主の許可をとってほしい。
「……この際勝手に開けるのはどうでもいいが、よっしゃってなんだ」
「え、こういうときってまずエロ本探さねえ?」
「クソガキ。ないよ」
「嘘は良くないよひーらぎさん」
男なら持ってるだろ普通と面白そうに言われ、そういえば女苦手の話をしていなかったことを思い出す。まあやましいものは特にないので気にすることなく採点を続けることにした。
その様子に俺よりも幸人の方が気になったらしく、そいつの後を追って首元をひっつかむ。
「お前な……その辺にしとけよ」
「何だよ幸人ー、だって気になるじゃん、ひーらぎさんの趣味」
「いやむしろ知りたくない。……ん? ひーらぎさん」
「うん?」
答案用紙に赤をいれる手を止めて、顔を幸人の方へ向けた。
「これってひーらぎさん?」
幸人の手にあったのは同期との記念写真だった。六人分の笑顔がこちらに向けられる。
「ああ、警察学校卒業した時の写真だな」
「……全然顔変わってねえじゃん」
「数年で早々老けねえだろ。一応俺まだ二十代だからな?」
「あ、もしかしてこの人、伊達さんだ?」
「ああ。一緒に写ってる奴らも同期だ」
へーとじっと写真を見つめるふたり。
そんなに珍しいものも特に写ってないと思うのだが、と思って顔を上げると、ふたりはやけに真剣な顔をしていた。
「……警察官ってイケメンしかなれねえの?」
しみじみとそんなこと言う馬鹿に思わず噴き出す。やばい赤ペンが滑った。答案用紙に歪んだ赤線が浮かぶ。
「皆タイプ違うけどイケメンだよな腹立つ」
「特にひーらぎさんとこの金髪の人並んでるとやべえな」
「他の人も普通にモテるだろ。伊達さんは男にモテそうだけど」
よし、今のは伊達に伝えておこう。
伊達が無理やり連絡先を渡したらしく、幸人とは交流があるらしい。せいぜい次会ったときに締められるといい。
「ほら、採点終わったぞ。いい加減戻ってこい」
「へーい」
写真立てを置いて戻ってきたふたりに答案を返し、そのまま解けなかった問題への解説へとうつった。難しい顔をして解説を聞くそいつらの顔を見ていると、口元が緩む。
根が素直なだけに、こいつらは考えていることがすぐに顔に出る。普段腹の中の読み合いばかりしているこちらとしては、この素直さは眩しくて好ましい。
先日、松田の上司の査問会を開いた。俺が主導で査問を起こすのはこれが初めてで、出席する上層にとっては俺の手腕を見極める場だったともいえる。
長年機動隊で職務を果たしてきた経歴から慢心し、部下に対して防護服の着衣、速やかな作業の執行の指導を怠るなど、任務遂行の妨害ならびに部下の生命を危機にさらす行為を行っているとして俺は処罰を求めた。実際に記録を洗い、松田をはじめ部下や関係者からも聴取をとった。死者こそ出ていないが彼の隊の負傷者は少なくなく、松田以外の隊員はどうも職務に対して意識が低い。上司の悪い点をしっかり受け継いでしまっているのは明白だ。
その上司自身は確かに能力が高いため、ともすれば多少の危機は乗り越えられるのかもしれない。しかし、まだそこまでの実力がない部下が同じように慢心して職務に当たっていれば、いつ何があってもおかしくはない。機動隊の一員として以上に、機動隊で指導にあたる立場の人間として相応しい態度ではない。これが俺の主張だ。
そしてそれは案の定、「功を焦った若手」の「青臭い正義感」として解釈された。もちろん上層の全員が全員そうであったわけではないが、特にその上司と個人的に親しいと言われる何人かは俺の主張を鼻で笑った。確かに彼の指導には不備があったのかもしれないが、それは処罰に値するほどのものではない、と。
結果、その査問は表向き「厳重注意」、実際には「その場での口頭注意」程度で終わり、俺としては惨敗だったと言えるだろう。
その結果については予想の範囲内だったが、そのあと当の本人に呼び止められ、いきなり礼と謝罪を述べられたのにはさすがに面食らった。
『部下を、殺していてもおかしくなかった』
査問会で俺の口上を聞いていた当初から顔色を悪くしていたその人は、そのときも思いつめた顔をしていた。
実際、この人は別に悪い人ではないのだ。少々楽観的な構えがあったところが悪く作用していただけであって、広く慕われている人柄だと聞いている。その職務態度に対して苦言を呈した人たちからも、それだけはわかってほしいと再三言われていた。
『今回の処分は覆らないだろうが、俺は職を辞そうと思う。少なくとも俺は、機動隊で職務にあたり指導をする者として、相応しくない』
自分が部下を殺す前にそれを指摘してくれたことをありがたく思う、と頭を下げられた。なかなかに、潔い。思うところがありつつも、萩原が慕っていた理由もわかるな、と苦笑を零して、どこかで小耳にはさんだ話を思い出す。
『……貴方ほどの方が職を辞されるというのは、さすがにもったいないでしょう』
『しかし、』
『機動隊に身を置くことが気に病まれるのであれば、どうでしょう、せめて今思い出されたものを後進に伝える職務に当たるというのは』
『……というと?』
確か警察学校の教官に、もうすぐひとつ枠ができるとどこかで聞いた。機動隊で培ってきた能力、そして慢心や油断が自分や仲間の命を奪うかもしれないという実感を伴った危機感。それらはどちらも、現場を走ってきた人にしか伝えられないものだ。ベテランと言ってもまだまだ働き盛りのこの人には、少々物足りない職務かもしれないけれど。
『やりがいはある仕事かと思いますよ。これからを支えていく警察官の卵たちに、貴方が今再認識されたものを伝えていくのは非常に重要なことだと思います』
『……ああ、それもいいかもしれないな……』
考えてみるよ、とその人は笑って言った。
もともと絶対に何かしらの処罰を与えるべきと思っていたわけではなかった。この人が自分の姿勢を省み、改めてくれるのであれば処分など必要はない。そういう意味で、査問会を開くだけの価値はあった。そのあと松田から「上司に頭下げられたんだが」と連絡も入り、俺としては上々の結果だったと思っている。
俺が落ち込んでいるとでも思ったのか、大河内さんからは不器用な慰めの言葉も頂戴したが、想定内ですのでご心配なくと返したら微妙な顔をされた。
『査問会の流れも把握できましたし、ご本人にはきちんと伝わったようなので』
『……上層からの評価は悪くしたかもしれないぞ』
『過分な評価を頂く方が心苦しいですし、私の実力がまだまだだというのは私が一番よくわかっていますよ。今後取り戻せるように励むまでです』
大河内さんにまでご迷惑をおかけしているようであれば申し訳ありませんと頭を下げれば、大河内さんの口から零れたのは大きな溜息。
『……まあ、堪えていないのであればいいが』
『お気遣いありがとうございます』
そうにこりと笑って見せた。実際全く落ち込んではいない。
査問会を開いた甲斐は十分にあった。査問の流れの把握や、ご本人に自身を省みて頂くことができたのはもちろん、「青臭い若手」の主張に対して上層に含まれる役職者がどういった反応を示すかも見ることができた。自分より格下の者の失態への態度というのは人となりが出やすい。励ますか、庇うか、馬鹿にするか、そもそも関心をもたないか。今後俺が上層を利用する必要があったとき、それぞれの人格を把握しておくことは非常に重要になる。
また、功を焦る馬鹿だと思ってもらった方が俺としても動きやすい。能力をひけらかしすぎれば無駄に警戒される。引き抜かれて注目されている今だからこそ、
つまり現状として、悲観すべき点は何もない。これからひとつずつ積み重ね、警察内部に入り込んでいくだけのこと。
薄暗い思考の底に沈んでいた俺は、幸人の声で現実に引き戻された。
「ひーらぎさんてば!」
「! ああ、悪い、ぼーっとしてた。どうした?」
「これわかんないんだけど……何、疲れてんの?」
「いや? 本当にぼけっとしてただけだよ。どこ?」
幸人が指さした設問を解説しながら、綺麗とは言えない自分の思惑をまた奥底にしまい込む。
素直でまっすぐに俺なんかを信頼してくれる愛すべき馬鹿たちと接している時くらいは、仕事のことは思い出さずにおこう。
策略と打算にあふれた俺の頭の中ほど、彼らにとって悪影響なものはない。
***
いつも通りの仕事を終えた後、珍しく大河内さんに声をかけられた。
「柊木君、この後時間はあるかね?」
「はい、特に予定はありませんが」
「神戸と飲む予定だが、君も来るか」
「神戸さんと」
大河内さんにも神戸さんにも、もちろん酒の場にも苦手意識はないので飲むこと自体は全く構わない。が、そういえば重要な話を大河内さんにしていなかった。今後も考えれば、伝えておいた方がいいだろうか。この人はそういうのを茶化したり言いふらしたりするタイプではないし、俺としても秘密にしているわけではない。
「……大河内さん」
「何だ。無理にとは言わないが」
「いえ、あのですね、……恥を忍んでお話が」
*
「……女性不信か?」
「それに類するものと言えるかと。ですからその、店員にしろ客にしろ、女性が多い場所はちょっと。仕事中は頭が切り替わるので問題はないのですが、プライベートになると、……まだ克服には至らず」
「……そういえば過去の誘拐事件の犯人は、女性だったな」
明らかに気を遣ってくれているその態度に、申し訳なくなって苦笑を返す。
「まあ、それだけではないんですが、理由のひとつでしょうか」
「わかった、心得ておこう。今日の店はそう人の多い場所ではない」
「では、是非。お付き合いさせてください」
杉下さんの部下であるという神戸さんとも、是非お話をしてみたかった。普段ではなかなか聞けない話も伺えるかもしれないし、楽しい飲み会になりそうだ。
*
「お邪魔します、神戸さん」
「やあ、君も来たんだ」
神戸さんは快く俺の同席も許してくれて、むしろ楽しそうにメニューを見せてくれた。
連れてこられたのは普段の俺ならなかなか入らない高そうな店。外で飲むと言えば気軽な居酒屋しか経験がないだけに少々身構えてしまう。
神戸さんに見せられたメニューには洋酒やワインの名前が気取ったレタリングで並んでいる。
「お酒は飲める方?」
「ほどほど、でしょうか。普段はビールばかりで、恥ずかしながら洋酒は全く詳しくないんですけど」
それなら、というと神戸さんはいくつかカクテルを見繕ってくれた。
その様子を見て思う。この人、慣れてる。洋酒にも、洋酒が慣れてない人間に酒を勧めることにも。まあこれだけハンサムでスマートな対応できる人ならそりゃモテるか、とこっそり邪推した。
大河内さんは大河内さんで、メニューも見ずにさらりとワインをオーダー。この人も酒には詳しいらしい。
「お待たせいたしました」
そうして注文した酒が運ばれてきたのを見たとき、思わず息を呑んだ。
酒を持ってきてくれた店員は運悪く女性で、震えそうになる手をこらえながら酒を受け取る。大河内さんは一瞬心配そうな目線を寄越し、神戸さんはそんな俺と大河内さんの様子を見てすっと目を細めた。
「……君、もしかして女性苦手とか?」
「、神戸」
「ああ、大丈夫です大河内さん」
大声で話したいわけでもないが、必要以上に隠すつもりもない。むしろ信用できる人であれば知っていてもらった方がありがたい。
そう考えて、苦笑しつつ簡単に事情をかいつまむ。
「誘拐事件の犯人も女性……うわ、ごめん、同情する」
「ははは……」
気を遣いすぎてはむしろ俺も困ると思ったのか、軽い調子で神戸さんは言ってくれた。大河内さんは難しい顔をしているが、俺としてもそれくらいのノリの方が話しやすい。
「友人曰く、私はどうも『女運が死ぬほど悪い』そうで。ストーカーは数知れず、目の前でキャットファイト繰り広げられるのは日常茶飯事、私が一声挨拶を返しただけの女の子がいじめられるなんてこともあったんですよ。誘拐のことだけなら乗り越えられたと思うんですが、そこまでくるとさすがに」
「うん、無理もないね」
「ああ、仕方がない」
もう笑うしかできないという感じの神戸さんと、本気で同情してくれた様子で頭を抱える大河内さん。まったく、いい人たちだと思う。
「もちろん、世の女性全てがそうではないことも頭では理解はしています。克服もしたいと思ってはいるのですが」
「感情面が追い付かないと。そりゃそうだ」
「……無理をすることはないんじゃないか」
無理せずゆっくり克服しようと思ってもう二十年経つんですよ、と遠い目をしながら言うと、そっとふたりは俺から目線を外した。
「でも君、これから付き合いもいろいろあるだろうし、お見合いだってあり得るよ?」
「見合いだけなら耐え抜きますが……結婚は現状無理ですね。吐きます」
「……言葉通り?」
「吐きます。あるいは号泣、失神します」
真顔でそう言うと、大河内さんは眼鏡を外して目元をマッサージしながら絞り出すように言った。
「……私の部下であるうちはそういった話は断るようにしておこう」
「本当に私は大河内さんの部下でいられて幸せです」
にこっとそう笑ってみせると、神戸さんはまた乾いた笑いを漏らし、大河内さんは一息にワインを呷った。
*
「へえ、神戸さんも元は警察庁に」
「ま、今はしがない特命係だけどね」
「それなりに楽しんでいるようにみえるが?」
「そう見えます? ……まあ、退屈はしませんかね」
ふ、と笑う神戸さんが少し羨ましい。閑職だと言われてはいるが、杉下さんと一緒ならちょっと配属されてみたい気がしなくもない。まあ周囲には全力で止められるだろうが。
「大河内さんも警察庁からの出向組ですよね」
「そうだな」
「……。……ではおふたりに、雑談として聞いていただきたいことがあるんですが」
今まで話していた様子を見ても、このふたりは信用できるし、おそらく口も堅い。俺よりずっと長くこの警察組織で生きてきた人たちだ。できることなら俺の疑念を考えすぎだと笑い飛ばしてほしい。そう思って口を開いた。
「私の同期に、警察学校を卒業して以来ほとんど連絡が取れなくなった者がふたりいるんです」
「何、辞めたってこと?」
「いえ、そう言った話も、全く。正義感も強く、ずっと警察官になることが夢だったと言っていたようなふたりです、私としては辞めたとは思えません。病気や怪我にも縁のないような、頑丈な奴らでした。仮に辞めたとしても、まったく連絡が取れないのが気にかかります。それなりに親しかったつもりでいますし、そんな不義理なふたりではなかった」
「……そのふたりは、優秀だったかね」
「非常に。片方はオールマイティに、片方は射撃に特化していました」
神戸さんは特に表情を浮かべないままグラスに口を付け、何でもないように言った。
「じゃあ、そういう部署でそういうことをしてるんじゃない? あまり首を突っ込まない方がいいと思うよ、君のためにも、彼らのためにもね」
「そうだな。ない話ではない」
大河内さんもワインに口を付け、チーズをつまんだ。「そういう部署」「そういうこと」、それは察している。ただ俺が気になっているのは。
「その可能性も考えました。ただそう考えたとき、……嫌な考えが浮かんでしまって」
「嫌な考えって?」
「彼らは確かに優秀でした。ですが、その『そういう部署』は、かなりの秘密主義で、配属される人間も相当に厳しく選抜されるはずでしょう。いくら警察学校で優秀だったといっても、所詮は学校での成績です。実際に警察官として職務にあたったことがない人間を、おいそれと引き抜くものなのでしょうか」
大河内さんと神戸さんがぴたりと動きを止めた。俺は構わず続ける。
「実務経験のない人間を引き抜き、……もし潜入任務にあたらせているんだとしたら、その理由は何なのか。警察学校を卒業したばかりの彼らを、潜入任務に就かせるメリットとは? ……私の頭で考えつくのは、彼らの顔と立場がまだ知られていないという点しかありませんでした」
どこにも顔が知られていない。そう、相手組織にも、―――警察内部にも。
もしそうであるとしたら、それだけ危険な組織が、警察の内情を知る手段を持ち得ているということを意味する。警察内部に情報を流している者がいるのか、すでに
警察の中に鼠がいる。それこそ、俺がもっとも懸念していることであった。
「……考えすぎですかね、やっぱり」
そう言って手元のカクテルに口をつける。
さすがは神戸さんチョイス、慣れていない俺でも飲みやすい。
「……考えすぎだろう」
「……うん、考えすぎじゃない?」
そう繰り返してもふたりの表情は硬い。笑い飛ばしてくれることを期待してこんな話をしたというのに、どうもそう上手くはいってくれないらしい。
そうですかと小さく言うと、ワイングラスを揺らしながら大河内さんが低い声を落とした。
「……思うところがあっても、不用意に探るような真似はしないように」
「もちろん、心得ています」
ぼそりとつぶやかれた大河内さんの忠告に、苦笑しながら頷いた。もちろん、不用意に探るようなことはしない。
もし探るならば、入念に準備をしてから、慎重に。絶対に、へまなどしてやるものか。