その日、俺は珍しくポアロのボックス席に座っていた。
漂う珈琲の香りはいつもと同じく心地よいのに、どことなく緊張した空気が漂っている。原因はわかっている。俺の前に座っている、真剣な顔をした彼女だ。その隣に座る新一君もどことなく居づらそうな顔をしている。
その彼女、毛利蘭さんは、意を決したように口を開いた。
「お忙しいのにお呼びだてしてしまって申し訳ありません」
「……それは別に構わないけど」
ただ何故俺を、と思っただけで。
俺と彼女の接点は以前にこのポアロで顔を合わせ、そして俺のリハビリにもなるからと新一君が紹介してくれたという程度のものだ。テーブルを挟んで会話するくらいなら問題こそないものの、それほど気軽に話ができる関係とは言いがたい。なのに今日は俺に用があるからと、新一君を通して呼び出しを受けていた。
カップを傾ける俺を前に、彼女は緊張した面持ちをしている。
「今日はその、お伺いしたいことがありまして……」
「うん」
「柊木さんは、私の父のことはご存じでしょうか」
それはもちろん、と軽く頷いた。今でこそメディアに出ることはなくなったものの、少し前に一世を風靡した名探偵「眠りの小五郎」。警察関係者でなくても知らなかったらニュースを見ろという程度の有名人だ。俺は直接顔を合わせたことはないが、そのひとが今いる店の上に事務所を構えていることも知っているし、彼の刑事時代の経歴も調べたことがある。
「探偵になる前は警察官だったことも?」
「知ってるよ。……ああ、もしかして毛利さんが聞きたいのは警察官を辞めるきっかけになった事件のことかな」
はい、と頷いたあと、彼女ははっと気づいて慌てたように首を振る。
「あの、父が警察を辞めることになったことについてどうこうというわけではないんです! それに納得がいっていないとか、そういうことではなくて!」
「うん」
「その、……何ていったらいいのか、わかりませんが……いえ、本当は納得していないのかもしれません。父が母を助けるためにやったことですから、全部が全部間違っているとは、どうしても思えなくて。でも、正しいことではないというのもわかっているんです」
ただ、とうつむきかけていた彼女は前を向いた。その瞳に浮かんでいるのは確かな決意。ああ、これと同じ目を俺はどこかで見たことがある気がする。さて、誰だったか。
「私、大学で法律を学びたいと思っています。具体的な職業はまだ決めていませんが、その関係で働きたいとも。だから、……だから、このもやもやに区切りをつけたくて」
ルールと感情の間で揺れ動いてしまっている自分をどうにかしたいのだと、彼女は言った。自分なりの答えを見つけ、けじめをつけて今後の学びにつなげたいのだと。
「そのために、現役の監察官でいらっしゃる柊木さんのお話も伺ってみたいと思ったんです。当時、父がその責任をとって依願退職したという事実に対して、柊木さんはどのようにお考えでしょうか」
なるほど、と俺は頷いた。もうひとくち、カップに口をつける。
十年以上前に起きたその事件については知っている。毛利探偵の経歴を調べたときについでに調べたし、立場的に過去の査問会についてはおおよその内容は頭に入れてある。
当時、取調中の被疑者が署内で彼の妻を人質にとり、毛利探偵は人質に構わず拳銃を発砲。その弾丸は人質の脚をかすめた。この発砲が妻を救い、被疑者の逃亡を許さないためだということはわかっているし、毛利探偵が優れた射撃の腕をもっていたこともまた事実。しかし、俺が監察官としてこの案件を見たとき思うのは、そりゃまあ。
「……監察官としての俺の意見は、甘くないけど」
「お気遣いなく。覚悟しています」
「なら言うよ。俺なら依願退職も許さない。懲戒免職を求める」
あっさりと言うと、彼女の隣で新一君が目元を覆った。彼女が覚悟して俺の見解を聞きに来たというのなら、俺はそれに応えるのが筋というものだろう。
毛利さんの瞳は、揺らがなかった。
「毛利探偵が発砲した理由も聞いてる。犯人の逃走において、まともに歩けない人質なんて邪魔なだけだ。あえて人質の足を狙うことで解放を狙ったんだろう」
「……それでも、懲戒免職」
「動機を考慮しないとは言わない。だがそれ以上に事実を事実として見なくてはいけない」
それだけ、毛利探偵のしたことは重い。彼は査問会で、事実の証言はしてもそれ以上を言い募ることはしなかったと聞いている。おそらくは彼自身もその重みを理解しているからだろう。
「毛利探偵は人質にされた妻を助けるためにあえて軽傷を負わせ、犯人を確保した」
「はい」
「言い方を変えよう。当時、取り調べに当たっていた刑事は人質をとって逃走をはかった被疑者に対し、近くにいた上官の指示を仰ぐことなく拳銃を発砲。発砲は二度。その一発目は意図的に人質を狙っていた」
そう言うと、目の前のふたりは顔色を変える。
先入観を排除し、事実のみを並べ立てるだけで印象はずいぶん変わる。それも、悪い方に。残念なことに、重要視されるのはその「事実」なのだ。
「……まあ、百歩譲って上官に指示を仰がず発砲したことまではいいかな。急を要する事態であり、どちらにしろ許可された可能性が高い。指示を仰いでおけばその発砲は上官の責任になるわけだから、賢い選択ではなかったと思うけどね」
「……そゆとこ汚い大人ですね、柊木さん」
「大人ってのは汚いもんだよ、処世術ってやつだ」
さらりと言ってみせると、まだまだおとなの世界を知らない彼はうへえと苦い顔をする。もし彼が今後何らかの組織に属するようになれば、いやでも実感することだろう。上司や部下、その間を行き来する責任という死ぬほどめんどくさいもの、そしてその利用の仕方を。もっとも、私立探偵として開業するのであればさほど必要のない技能かもしれないけれど。
おっと、話がそれた。だいぶ温くなってしまった珈琲に口をつける。
「刑事が一般市民に怪我をさせたという事実は重い」
「……それが、母を救うためだったとしても?」
「むしろ何で救うためだったら傷つけてもいいんだ? 無傷で人質を解放させるよう目指すのが警察の鉄則だよ。俺からすれば、人質との親密な関係性に甘えて無茶を選んだようにしか見えないけど」
毛利さんは真剣な顔のまま、口を開かない。強がりなのか、覚悟のうえだったのか、俺にはわからない。俺はただ、聞かれたことに答えるだけだ。
とはいえ、これ以上は酷だろうか。
「……もうやめとく?」
「、いえ! 最後まで聞かせてください」
いい覚悟だ、と少し笑った。泣かせてしまうかなと少し心配していたけれど、彼女の瞳にはその気配も見えない。
「それから、法という観点でみるともうひとつ、考えなきゃいけないことがある」
「それは?」
「前提条件はどうあれ、毛利探偵は人質を傷つけることで解放させた。それを不問にしてしまうと、それは『前例』になるんだ」
「前例……」
「……それ以後似たようなことが起こった場合も、許されてしまうってことですか」
難しい顔で言った新一君の言葉に、頷く。
ルールというのは、扱いが難しい。だから、どのように意義を定め、どのように解釈するか、たいていは「前例」から判断するのだ。プロの法律家だって、公判に挑む際はまず判例から調べ上げる。
「人質を傷つけることで解放させた警察官を、警察が許すことはできない。今後一般市民が人質にとられるような事件が起きた際に同じ対処をさせないために。何で毛利探偵のときは良くて自分のときはだめなんだとか言うような馬鹿を生まないためにもね」
そういう馬鹿に限って、前提条件が違うんだと説明しても納得しないんだこれが。これまで対峙してきた馬鹿たちが思考の端をよぎる。監察官として面倒な案件にも対処してきたなかで、そういう馬鹿たちに有無を言わせないように職務を果たすことが重要なのはよくよく理解させられた。
まあ、逆の立場になれば俺も間違いなくその詰めの甘さをつくので、あまり馬鹿だ馬鹿だともいえないのだが。
「そんなわけで、俺なら一番重い罰を言い渡す」
「……はい」
「……けど、実際に毛利探偵に下されたのは懲戒免職じゃなくて依願退職だった」
え、とうつむきかけていた毛利さんが再び顔を上げる。
理屈だけを言えば毛利探偵がしたことにはそれだけの重みがある。けれど、理屈だけで査問が進むわけではないのもまた、事実なのだ。
「懲戒免職はあくまでも俺個人の意見で、情状酌量を限りなく排した意見だよ。実際の査問ではきっとそっちの方もちゃんと議論されたんだろうね。犯人の逃走を許さず早期に再度確保したという功績もあるし」
当時の査問会のメンバーも半数くらいは想像がつくが、さて、毛利探偵をかばったのは誰だったのか。予想がつくようなつかないような、なんとなく面白い。
「さっきは厳しい方向にこの案件を言い換えたけど、―――愛する妻を人質にとられた刑事は一刻も早く妻を解放するため、最短・最効率の手段を選択。少々無茶な手段ではあったが、刑事の確かな拳銃の腕と、妻との間にある確固たる信頼関係により断行した。これもまた、事実には違いない」
依願退職という判断は、毛利探偵を許すこともできないが、その決断のすべてを否定することもできないという葛藤の上での結論だったのだろう。俺がその査問を担当したとしても、結局は同じ結論に達したような気がする。
「理屈と感情、両方の面で起きた事実を解釈し、その間で揺れながら落としどころを見つけていくしかないんじゃないかって思うよ。君のお父さんが受けた罰は、そういう意味で妥当だったと思う」
これで答えになっているか、と彼女の顔を見ると、どこかすっきりした表情をしていた。そして、ありがとうございます、と深く頭を下げられる。
「自分でも、……もっと考えてみます。もっと勉強して、きっと何度でも」
「いい心掛けだと思うよ。この手の問題に正答なんてないからね」
正答がないからこそ、考えることに意義がある。考えることを放棄したときに、ひとの成長は終わってしまうのだから。
毛利さんの顔を見て、新一君もまた安堵した顔をしていた。俺の容赦のなさを知っているからこその顔だと思うと、少々苦笑してしまう。
と、そのとき、ポアロのベルが来店を告げた。
「あれ、毛利さんいらっしゃいませ」
「おう梓ちゃん、珈琲頼む……って何だ蘭、お前も来てたのか。探偵坊主に、……そちらは?」
「お父さん!」
何というタイミングか。焦った顔の毛利さんにもっと焦った顔の新一君。二人が何か言おうとする前に、俺はソファから立ち上がった。懐から黒い手帳を取り出す。
「毛利小五郎さんですね、ご高名はかねがね伺っております。警視庁警務部人事第一課所属の監察官、柊木と申します」
「けい、……監察官?」
警察手帳に印刷された警視の文字を見て敬礼しかけたその手が、止まった。しかし、一瞬の硬直のあと、改めて綺麗な敬礼がこちらに向けられる。
「警視の方とは知らず、大変失礼いたしました」
「お気になさらず。敬礼も結構ですよ、毛利さんほどの方に畏まられては私も恐縮してしまいます」
「恐れ入ります。……娘と、その友人が、何か?」
硬い表情で敬礼を解いた彼に、にこりと仕事用の笑みを向ける。
「新一君とは個人的に知り合いで、娘さんとも彼を通して知り合いました。大学進学を前に進路を悩んでいらっしゃるとのことで、少し話を聞かせてほしいと頼まれたんです。それで大学のことや仕事の話を、簡単にですがさせて頂いておりました。……しかし、未成年のお嬢さんとお話しする以上、まず保護者の方にご挨拶させて頂くべきでしたね。配慮がたりず申し訳ありません」
誓って申し上げますが、娘さんとふたりで会ったことは一度たりともありません、と付け加えると、新一君と毛利さんもこくこくと頷いた。
毛利探偵は特に疑う様子もなく、そうでしたか、と頷いた。
「お忙しいところを娘のためにお時間を割いて頂いて申し訳ない」
「とんでもないですよ。私のような若輩の言葉でも、何かの参考になれば幸いです」
「その若さで監察官を務められる方が何を。……柊木監察官」
「何でしょう」
唐突で申し訳ありませんが、と一呼吸置いて、目の前の彼は真剣な表情のまま続けた。
「大河内春樹さんという方をご存知でしょうか」
かつて監察官を務めていらした方なのですが、と言葉を添えられる。俺は、表情を変えなかった。彼の口からその名前が出るとは思っていなかったが、その因縁は知ってる。
「ええ、今は主席監察官を務めておられます。私の直属の上司にあたりますね」
当時毛利探偵の査問を担当したのは、大河内さんだった。情け容赦のかけらもなく事実という事実をすべてあぶり出し、依願退職の処分を言い渡した、当の本人である。
俺の言葉を聞いて毛利探偵は、そうでしたか、と小さく言葉を漏らし、そして続けた。
「ご無礼は承知のうえですが、大河内監察官にご伝言をお願いできないでしょうか」
ほう、と意外そうな声が漏れそうになるのを、すんでのところで堪えた。構いませんよ、と言葉を返すと、毛利探偵はひとつ呼吸をおき、口を開く。
「……いえ。やはりやめておきます」
「よろしいんですか?」
「はい。申し訳ない、こちらから言っておきながら」
「お気になさらず」
残念、などと思ってしまうのは下世話な好奇心だろうか。恨み言だったのか、はたまた感謝の言葉だったのか、それともまた別の言葉だったのか。さすがに突っ込んで聞くのは失礼というものだろう。
「お時間をとらせまして失礼いたしました。私はこれで失礼します。蘭、新一、失礼のないようにな」
それだけ言葉を残して、毛利探偵は俺たちに背を向けた。珈琲はまたにする、と榎本さんに一言断ってポアロを後にする。
妙に緊張していたらしいふたりは、心底安堵したように息をついた。
「何だよ大袈裟だな」
「あんまりおっちゃんと関わりたくないって言ったの柊木さんでしょ」
「んなこと言ってないよ。毛利探偵が気を悪くするかもしれないって言ったんだ」
「父はそういうの態度に出ちゃう人なので……あの、大河内さんと言うのは?」
「うん、俺の上司。そんで毛利探偵の査問を担当した監察官だよ」
ぴたり、とふたりが動きを止める。
「何を伝えたかったんだろうな、大河内さんに」
当時の話を、大河内さんに聞いたことがある。記録からわかるレベルのことはあっさりと教えてくれたが、それ以上のことはあまり教えてくれなかった。妙に話したがらない大河内さんの態度が気になって、それとなく当時を知っているひとから話を聞いたところ、わかったことがある。
人質の足を撃ったことについて、毛利探偵は言い訳をしようとはしなかった。潔くないとでも思ったのだろうか、何故撃ったのか、わざと当てたのか、そのあたりの説明をあまりしようとはしなかったらしい。そのまま当人が口を閉ざしたままであれば、おそらく本当に毛利探偵は懲戒処分を受けていただろう。その重い口を割らせ真実を吐かせたひとこそ、当時の担当監察官、つまり大河内さんだったらしい。
どんな取り調べを行ったのかは知らないが、それなりの攻防があったことだろう。是非とも見て勉強したかったものだ。
「まあ、見た感じ恨み言ではなさそうだ」
あらゆる情報を集め、適正な処罰を与える。きっと大河内さんも当時、それだけのために尽力をしたのだろう。私情を挟まず、理屈と感情の双方からその罪の重さを見極め、依願退職を申し渡したのだ。
苦笑した新一くんが、言う。
「……おっちゃんは逆恨みするタイプじゃないですよ」
「そうみたいだな。変に勘ぐって申し訳なかった、反省するよ」
「……柊木さん」
「うん?」
改めて、毛利さんの方に顔を向けた。
父親の態度を見て、また何か思うことがあったのだろうか。先ほどまでとはまたどこか違う笑顔を浮かべている。その瞳には、いくらかの誇らしげな色が見えた。
「今日はお話を聞かせて頂いてありがとうございました」
「いえいえ」
「いつか、……いつか、父とも話をして頂けませんか」
え、とひとつ瞬きをする。
毛利さんはそんな俺にまた笑って、続けた。
「いつか、機会があれば」
「……そうだね。いつか、機会があれば」
本当にそんな日が来るのだろうか、とは思うが、とりあえず頷いておいた。
査問を受けた元刑事と監察官が個人的に話すなんてとんでもない話だなと思いつつも、もしそんなことが実現するのなら、と脳裏にあの仏頂面が浮かぶ。それはきっと、担当の監察官が徹底的にその案件に向き合った結果なのだろう。
俺は良い上司に恵まれたものだ、と改めて思った。
柊木さんとおっちゃんが絡むとしたらこの案件だろうなとずっと思っていました。
二元論で語ることができないからこそ難しい。