六花、欠けることなく   作:ふみどり

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柊木さんのお父さんの話です。


のこされたもの

 ひとりぶんしか気配のないこの家にも、すっかり慣れてしまった。ひとつ晩酌でもと適当なグラスと酒瓶を取り出す。つまみはまあいいだろう、そんなに飲むつもりもない。少しだけ、浸りたいだけだ。

 食卓のテーブルに写真立てをそっと置いて、椅子を引いた。見慣れた彼女の笑顔に、少し口角を上げる。

 

「……来月で旭の奴、成人だよ。あっという間だなぁ」

 

 なあ、汐里(しおり)。語りかけた笑顔は動かず、言葉も発しない。写真なのだから当たり前なのだが、そんな当たり前がちくりと胸を刺した。

 俺たちの息子は来月、二十歳の誕生日を迎える。つまりそれは、彼女がこの世を去ってから二十年という月日が流れることを意味していた。

 汐里は、もともと身体の強い方ではなかった。出産に堪え切れるかは五分五分だと医者からも言われていた。だから俺は子どもをつくることにも躊躇があったが、彼女自身が強く望んだ。

 

『貴方と私の血が混ざった子を、この腕に抱きたいの』

 

 身体は弱くても決して意志は弱くなかった彼女は、繰り返しそう言った。もちろん子どもが欲しかったのは俺も同じ。何度も話し合って、健康には気を遣っていこうと二人で決めて、そうして授かったのが旭だった。

 しかし努力の甲斐なく、汐里は旭をその腕に抱き、微笑みを遺してこの世を去った。私のお願いごとを叶えてくれてありがとうと、いつも通りの優しい笑顔だった。その笑顔もその声も、俺の脳に深く深く刻み込まれている。人の記憶は声から薄れていくと言うが、20年たった今でもはっきりと思い出せた。

 グラスに酒を注ぎ、軽く呷った。

 彼女を喪ってからは随分と目まぐるしかった。初めての子育ては失敗ばかりで、働きながらの育児には随分と頭を悩まされた。自分で言葉を話せるようになってからは旭の賢さに助けられたが、今度は別の問題で悩まされる。あのクソガキときたら俺と汐里の顔を完璧にいいとこどりしてくれたものだから、それはそれは見事なほどに美少年だったのだ。

 

 ──何度思い出しても、情けなさで死にたくなる。

 

 あの事件のこと、俺の無力さ、そして、旭に残ってしまったトラウマ。旭の前で涙なんぞ流してしまったのはあの時だけだ。自分の身に起きたこと、その顛末を理解していない旭はただ目を丸くしているだけだったが、それもまた俺の心を抉った。まだ幼い、何もわからない旭のことは、俺が守らなくてはならなかったのに。

 

「……俺が死んでそっちに行ったら、まずその説教から始まるんだろうな」

 

 いや、その前に旭の心の傷を思って泣くのだろうか。傍にいられなかった自分を責めるのだろうか。一通り自分を責め終えたら、あの女に全力で呪いでもかけるかもしれない。いや、もうかけている可能性の方が高い。汐里はそういう奴だった。大人しい顔をして内心では結構に過激なことも考える、決して温厚とは言えない強い女性だった。その辺り、どこか旭にも受け継がれているようで頭が痛い。

 

「血っていうのは恐ろしいよなぁ……旭の奴、やっぱりお前に似てるぞ」

 

 顔立ちだけの話ではない。普段は隠れているその苛烈さ、自分の意志を貫き通す強さ。そしてその、笑い方。見え隠れする汐里の面影に、嬉しさと切なさを覚える。

 

「……二十年、か」

 

 長いような、短いような。

 旭はすくすくと大きくなって、小学校中学校高校、そして関西の大学へ通うために家を出ていった。立派に育ってくれていると思う。成績は驚くほど優秀だし、台所にひとりで立てるようになってからは家事の類も覚え、今や料理の腕など敵わない。性格も……まあひねくれた生意気なガキではあるが、性根までひねているわけではない。何を思ったが警察官になるなどとほざいていていることを除けば、胸を張って自慢の息子だと言えるだろう。そんな旭が成人して、本当に俺の手を離れていく。

 嬉しいかって? そりゃ嬉しいさ。我が子の成長を喜ばない親がどこにいる。

 寂しいかって? そうだな、そうかもしれない。たったひとりの我が子、彼女の最期の贈り物。唯一残った「家族」だ。寂しさくらいはある。

 

 ──どこか、安心したんじゃないかって?

 

 グラスの酒をまたひとくち呷った。

 

「……心配すんな、馬鹿は考えちゃいねえよ」

 

 彼女の笑顔に、改めて語りかける。

 この二十年、再婚なんて一度も考えなかった。言い寄ってきた相手もいないわけではなかったのだろうが、俺の眼中には入っていなかった。

 俺の唯一は今も昔も、これからもずっと。

 

「……汐里」

 

 彼女を喪ったときの苦しみは、哀しみは、とても言葉で表現できるものではなかった。それだけ愛していた。それだけ愛されていた。俺にとって、本当に唯一の存在。旭がいてくれなかったら俺は生きることをやめていたかもしれない。

 

「……旭が俺の手を離れるからって、俺のやることが終わったわけじゃねえからな」

 

 あのクソガキが本当に警察官にならないように見張らなきゃならねえし、女性恐怖症もまだ治ってねえ。随分と狭い世界で生きてきた分、まだまだ世間というものもわかっちゃいない。教えることはたくさんある。まだまだ導き手が必要だ。

 

「……当分、面倒見てやるさ」

 

 成人したくらいで投げ出すような真似は、しねえよ。

 グラスに残った酒をいっきに呷る。空になったグラスをテーブルに置くと、かたりと軽い音を立てた。

 

「俺と、お前の、大事な息子だ」

 

 俺はお前を、その笑顔、声、思い出、喪失の苦しみも、哀しみも、寂しささえも全てひっくるめて、愛してる。あんまり口に出しては言ってやれなかったけど、本当に、それだけ愛している。

 そんなお前と俺の息子なんだ、何よりも愛おしくて当然だろう? たかが成人したくらいでほっぽり出して、自分だけ楽になる道を選ぶわけがないだろう?

 

「お前が遺してくれた俺たちの『旭』だ。出来るだけ面倒見て、……いつか本当にもう大丈夫だと確信できる日が来たら、」

 

 あのどこか危なっかしいクソガキだ、きっと俺が寿命を迎えるその時までそんな日は来ないだろうけど。

 

「……その時は、」

 

 続きを言葉にしようとして、やめた。どうせ何十年か後の話だ、口にするほどのことでもない。

 晩酌はここまでにしようと、グラスを持って立ち上がった。

 

「片づけて寝るわ。付き合ってくれてありがとな。アイツに誕生日は帰ってくるように連絡したから、今度は三人で飲もう」

 

 旭の酒癖はどっちに似ているのか、確かめるのが楽しみだ。

 




酒癖を確かめることはできませんでした。
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