蹄物語   作:棚かぼちゃ

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進展

サラブレッド

 

誰もが1度は、なんとは無しに耳にしたことがある言葉ではないだろうか。

 

そう、馬である。

 

17世紀初頭にイギリスで、人の手で管理されることによって生み出された血統、thorough(完璧な)bred(品種)。

 

産まれたサラブレッドは例外なく血統登録がされており、すべて血統書付きである。

 

名家の御曹司や、芸事に秀でた人同士の間に産まれた子をサラブレッドと呼ぶこともあるから、意外にも日常生活に浸透している存在だったりする。

 

この品種が生み出された理由は、実に単純明快。

 

― ただ、速く

 

長い四肢、発達した筋肉。

 

50kgほどの人間を乗せた状態で、数分にわたって時速50~70kmという自動車にも匹敵する速度を維持する強靭な肉体と心肺機能を有し、特殊な条件下では時速80km以上を叩き出す軽種馬で、他の馬に負けたくないという強い闘争心を持つ。

 

そんな走ることに特化した馬同士を、更に連綿と掛け合わせ続け、より強く速い馬を生み出そうとしてきたのである。

 

そして、そんな『ぼくの考えた最強の馬』みたいな存在を作り出したら、実際に競争させたくなるのが人の性というものだ。

 

そう、競馬である。

文字通り、馬の能力を競うと書いて、競馬。

 

その歴史は遡ろうと思えば、それこそ人類が馬に騎乗するようになった頃には ―つまりは西暦が始まるその遥か以前から、大なり小なり人々の間で馬の優秀さを比べる催しが存在していたであろう事は、容易に想像出来る。

 

競馬という言葉が初めて文献に登場するのは、紀元前12世紀の古代ギリシャの時代である。

 と言っても、この頃のそれは現在広く認知されているような、ジョッキーが騎乗してゴール板を駆け抜けるようなものではなく、2頭立ての戦車(チャリオット)での競技であった。競馬が現在の姿になったのは17世紀後半くらいだとされる。

 

まあ、ここで歴史の勉強をしても話が遅々として進まなくなるので割愛するが、割って愛するが、いつの時代も人々は馬を愛し、我が馬こそが最強であるという誇りと自負を持って育み、その走る姿に夢を見てきたことは紛れもない事実であろう。

 

そんな数多の人々によって、丹精込め育て上げられた馬たちが覇を競い合う姿に、人々は物語を見出してきた。

 

輝かしくも、時に数奇な運命を辿る競走馬たちに人は夢を見てきたのである。

 

 

 

 

 

 

そして今、僕の目の前をそんな夢が駆け抜けていた。

 

 

 

 

 

『きたきたきた! 今宵も金色の怪物が最終直線で一気に上がってきた! 1番ゴールデンチョコ! 1番のゴールデンチョコだ!』

 

熱のこもった実況が鼓膜を叩く。

 

『バ群の中央を切り裂いて加速する! 1バ身、いや2バ身! 最後方から他の全てをごぼう抜き! 後続をぐんぐん突き放して、いま1着でゴール!!』

 

そして、夢は結実した。実を結んだ。

 

まあ…夢と呼ぶにはあまりに即物的な夢であるのだが……。

 

「しの…じゃなかった! いいぞー!! ゴールデンチョコ!!」

 

僕が外聞も気にせず、叫びながら振り上げた手には『単勝 ①ゴールデンチョコ 10000円』と書かれた紙切れが握られていた。

 

 

ゾクっとするくらい俗物的な夢であった。

 

 

 

――――――――――――

――――――――――――

 

 

 

 

馬に蹴られたと思ったら、馬の耳と尻尾が生えた人間が当たり前に街を闊歩する異世界に飛ばされたなどという、夢のようで冗談のような状況に僕たちは陥っていた。

夢といっても悪夢的であるし、冗談というには冗長すぎる。

 

今まで散々危険な目に遭ってきたけれど、別種の意味でぶっちぎりにどうすれば良いのか皆目見当もつかない事態であった。

 

しかも、異世界に来たというのに『お待ちしておりました異世界の勇者よ』などと魔法使いが出迎えてくれることは無かった。

 

確かに僕も、漫画やアニメを見ながら『異世界に行ってみたいなー』なんて考えたことはあるけれど、二度とそんなことは思わないようにしようと誓った。

 

そんな良いもんじゃないぞ異世界。

 

だって、きっと僕、この世界では戸籍にも載ってない。

 

今まで、無理して私立の進学校に入学したあげく、案の定勉強についていけずに落ちこぼれるという事は、限りある青春時代の過ごし方としてはとても暗澹として惨憺たるものであると考えていたが、まさか17歳にして住所不定の無職少年になろう等とは夢にも思わなかった。

 

学生であるということ、何もしなくても身分が保証されているということが、どんなに有難く心強いものであるか知ることになろうとは…。

 

住所不定の無職

 

なんだかもう聞くだけで、陰々滅々とした気分になってきて、自分と言う存在を社会から隠滅したくなってくる響きだった。

 

まあ、法治国家たる日本(ここは日本でいいのだろうか?)で戸籍に載ってないっていうのは、もはや存在していないとほぼ同義であるのかもしれないけれど、幽霊みたいなものかもしれないけれど、僕はまがりなりにも生きているのだ。

 

今は忍に血を多く吸わせた影響で、吸血鬼度が引き上げられて、ほとんど飲まず食わずでも平気であるが、ずっとこのままでいられる訳もない。

 

飢餓に追い込まれた吸血鬼がどうなるかなんて、火を見るよりも明らかで、血を見ることが明らかだ。

 

生きていくためには食べなければならないし、食べるためにはお金が必要なのだ。

 

だが、僕は未成年だ。

しかも住所不定の未成年だ。

 

糊口をしのぐために働こうにも、雇ってもらうには履歴書くらいは書かないといけない。

 

そこにくると住所不定は致命的だ。文字通りに。

 家出少年同然の僕を雇ってくれるような職場があったとしても、法に背いていそうな匂いがぷんぷんと香ってきそうである。

 

だからと言って、僕は住所不定のプロである忍野みたいに、何か一芸に秀でているというわけでもない。

所詮は、一介の高校生でしかないのである。

 

僕は忍野のことは、怪異の専門家としては信頼しているし、尊敬してもいたけれど、あの風任せのふらふらとした生き方は正直どうかと思っていた。

見下していたと言っていい。

 しかし、あの小汚いおっさんは、自身の技能をもってしっかりとお金を稼いで生きていたのである。こうして僕自身が根無し草になった今、それがどれ程、人間としてしたたかで強靭であるか知ることになるなんて…。

 

こうして、屋根も壁もない街路で、路上で、露頭に迷って呆然とすることのなんと寒々しいことであろうか。

 

不安に苛まれて、凍えてしまいそうだ。

 

ほら、そんなことを考えていたら息まで白くなってきた。

 

「いやこれ、絶対に夏の気温じゃねえよ…」

 

「ふむ、華氏32度といったところかの」

 

「……」

 

何故わざわざ分かりづらく言う。普通に摂氏で言え摂氏で。

 

摂氏0℃。水が凍り始める気温である。

 

吸血鬼度が上がって、寒暖にもかなり耐性が出来ているであろうが、普通に滅茶苦茶寒かった。

 

確かにあの学校の林で目覚めた時から『なんだか今夜はやたら冷えてるなぁ』とは思っていたのだが、ここにきてハッキリと自覚した。

 

絶対に8月の気温じゃない。

 

しかも、僕が忍のスキルで作ってもらった服も、ついついこちらに来る前の過酷な夏を想定して半袖のアロハシャツであった。

 

忍野が着ていたような、見ただけで卒塔婆が卒倒しそうなサイケデリックで極彩色のあれである。

 

出すにしても、もうちょっとまともなシャツを出してくれても良かろうに、寄りにもよってアロハとは嫌がらせかと勘繰ってしまった。

 

しかし、忍としては忍野と過ごした期間が長くて単純に見慣れていたために、作りやすかっただけなのかもしれない。それに、案外これは忍がアロハが僕に似合うと思ってもわざわざチョイスしてくれたのかもしれないと僕は考えた。

 僕は、自分には似合わないと考えていたけれど、忍は600年も生きた人生の大先輩である。

 長い時間の中でファッションセンスを磨いてきた女性が似合うというならば、きっとそうなのだろう。

 

「しかし、うぬはアロハシャツが、というか半袖が死ぬほど似合わんのう。不死身の吸血鬼のくせして、死ぬ程さっぱり似合わんのう」

 

駄目だしされた……。

 

忍が心底憐れむような顔で、哀れむような声で言った。

 

『筋肉質な割に細身だから半袖が似合わない』とは八九寺の言葉だが、改めて忍にまで言われると正直へこむ。

 

そんなにか? そんなに似合わないか、半袖…。

 

「うむ、前世で半袖職人に恨みを買ったのじゃろうな。残念ながら未来永劫、来世でも似合うことは無いじゃろう」

「誰だよ…半袖職人……」

 

そんな職業あるか。いや、もしかしたら半袖の服以外作らないという奇特な服飾職人がいたのかも知れないが、一体僕がどんな恨みを買ったというのだ。

しかも来世にも期待できないなんて…まるで火の鳥に未来永劫人間に生まれ変わることは出来ないと言われた仏師の絶望が感じられるようであった。

 

かの仏師は、春休みの時に太陽に焼かれた僕みたいに体を火につつまれながらであったが、今の僕は凍死の憂き目に遭っていた。

 

吸血鬼って凍死するんだろうか? 氷漬けにしたり、二度と出られない場所に幽閉するというのは不死身の怪異に対する割りとメジャーな方法ではあるが、死んだ瞬間に復活したとしても、その次の瞬間にはまた凍え死ぬなんて無間地獄を味わうのだとしたら…ゾッとする。

 

「っていうか、本気でどうすんだよ、これ……」

 

「帰る方法…あるのかのう……?」

 

タイムマシンやもしもボックスを使っただとか、自分からなんらかの手段でこの世界にやって来たならば、元の世界に帰る方法もあるかもしれないけれど、僕たちは理不尽にもあの黒い馬の影に蹴り飛ばされただけである。

 

来れたならば帰れるはずだなんて、とてもそんな呑気な希望的観測を持てるほど僕も忍も、前向きな人間では…吸血鬼では無かった。

 

「…………」

「…………」

 

黙り込んだ僕と忍が、体育座りで俯いて途方に暮れていると、不意に誰かがすぐ側に立ち止まった気配がした。

 

「おいおい、このクソ寒い中でアロハとはなかなかヒリついた兄ちゃんじゃねえか。どうしたんだよ? んなとこに座り込んで」

 

顔を上げると、女の子が立っていて、僕に話しかけているようであった。今しがたまで側にいた忍は僕の影に潜ったようで、周囲には僕以外人影はなかったからそれは確かなようである。

 

女の子

 

どこか男勝りな感じの…ちょいワルとでもいうのだろうか。スカジャンを着た、可愛いよりはかっこいい感じの子だった。少しうねりのある、栗色の綺麗な髪が無造作に肩まで伸びていて、ニット帽をかぶっている。

 

そして、そのニット帽に空いた穴から、やっぱり馬の耳がぴょこんと生えていたのであった。

 

馬憑依(うまぴょい) ― 馬娘であった。

 

さすがに僕ももう驚くことはない。

それに、なんだかんだと聞かれたら答えてあげるが世の情けである。

 

「色々あってね。家にも帰れなんだ…お嬢ちゃん僕に近づくと火傷するぜ? 放っておいてくれ」

 

「……」

 

だんまりされちゃった…。まあ、狙い通りである。

 

そのために僕は、何年前の芸風だよって言いたくなるセリフを吐いたのだ。

 

まあ、八九寺の真似である。

 

僕が初めて八九寺に会った時は、あの小学生は僕を遠ざけるために「話しかけないでください。あなたのことが嫌いです」と言ったものだが、そこはそれだ。

 女子が男子に言うならまだしも、男子が女子に言うにはあんまりなのでアレンジしたのだ(僕がチキンだからではない。キチンとした紳士だからである)

 

これで彼女は僕から…怪異から離れてくれるだろう。

 

「あっはっは!」

 

だが予想に反して、ニット帽の馬耳女子は愉快そうな声をあげた。

 

「いいねえ…面白い兄ちゃんじゃねえか。気に入ったぜ。ちょっとこっち来いよ」

 

そう言うと、僕は腕をぐいって引っ張られて(もの凄く力強かった)近くの路地裏に引きずり込まれてしまったのであった。

 

 

 

 

「まあ食えよ。私特製のホルモン鍋だ…あったまるぜ?」

 

「い、頂きます…」

 

寒空の下、僕は何故か同年代くらいの少女と路地裏で鍋をつついていた。

 

ビール瓶ケースをひっくり返したものを机と椅子にして、カセットコンロの火にかけられてぐつぐつと湯気を立てる鍋が、冷え切った身体を内側から温めてくれる。

 

鍋がすっかり綺麗に空になるまで、お互い黙々と食べていたけれど、ニット帽ちゃん(まだ名前も知らない)がふいに口を開いた。

 

「ククッ…家に帰れないって?」

 

映画のマフィアみたいな、ニヤッとした笑顔でそう問いかけてきた。

 

「帰りの電車代まで全部つっこむようなヒリついたヤツ、私は嫌いじゃねえぜ?」

 

どうやら、僕は家に帰る電車代まで何かに使い込んだせいで帰れなくなったマヌケだと思われているようであった。

 

うわ死にてえ…。

 

しかし、やっとまともに腰を落ち着かせて話が出来そうな人物に出会えてたのだから、僕はいろいろ聞こうと思い口を開こうとしたのだが

 

「おっと、もうこんな時間か。門限過ぎちまってるが、なんとか潜り込むか……」

 

見た目はアウトローっぽいのに、門限を気にしているようであった。

あっと言う間もなく鍋を片付けると、ニット帽ちゃんは荷物をまとめて立ち上がってしまった。

 

「あ、あとこいつは餞別だ。あんた『そこ』でもう一勝負してくんだろ? やるよ」

 

そう言うと、彼女はポケットから何かを取り出して押し付けてきた。

 

紙幣が3枚。1000円札であった。

 

「今日はけっこう儲けたから返さなくていいぜ。じゃあな」

 

呆気にとられた僕が断る間もなく、彼女は手をヒラヒラとさせながら振り向くこともなく去ってしまった。

 

かっこいい。惚れちゃいそうだ……

 

「でも、そこってどこだよ…」

 

「お前様よ、もしかしてあれのことじゃろか?」

 

ニット帽ちゃん(結局名前も聞けなかった)が去ると、にゅっと僕の影から現れた。

 

忍が指さした先、そこには学校があった。

 

学校といっても、僕たちが目指していたあのバカみたいに大きい学校ではなく、一般的な規模の公立学校である。

ついさっきまで僕たちが座り込んでいたのは、その学校の校門前であったが、よく見て見ると校門入ってすぐの所に、受付のようなものがあって、けっこうな人がそこに集まっていた。

 

 

先ほどから、そちらのほうから『〇〇1着、××2着』などの実況中継のようなアナウンスが聞こえていたが、こんな遅くまで運動会をしているはずも無いし、運動部にしても随分本格的だなどと不思議に思っていたけれど、ニット帽ちゃんの「一勝負」という言葉と渡されたお金から、恐らくそこに行けばお金を得る手段が有ることが伺えた。

 

なんだか危ない匂いをムンムンと感じるが、背に腹は代えられない。

 

僕たちは校門へと向かった。

 

 

 

「はい、次の方。お兄さん、誰の『投票券』を買うの?」

 

「えっと…」

 

『チャリティー競バ受付』と書かれた看板が立てられた、受付らしき簡易テントの前まで行くと、そう言われた。

 

「なに? もしかして初めて? じゃあ説明すると…」

 

説明されたところによると、こうである。

 

まず、これは馬憑依の子達が数名でグラウンドを走るレースであり、観客は受付で『入場料』を払う。

 その時に『応援』したい子の番号を言う。そうすると支払った『入場料』の金額と『応援』する子の番号と名前が書かれた『投票券』を渡される。

 

その子がレースに勝つと『投票券』と引き換えに、この受付でニンジンの形をした玩具の『景品』が貰えるのだ。

 

そして、学校の外に『何故か』その玩具をいい金額で買い取ってくれる奇特な人がいる。

 

そんなシステムであった。

 

ちなみに、この催しは公立学校が行っている体育施設開放事業に正式に申請をして認可されているものであり、観客は『たまたま道を歩いていたら頑張って走る女の子たちの姿に心打たれて、活動を応援したくなっただけ』なのだと念を押された。

 

「美しいチャリティーレースに違法性は一切ない。イイね?」

 

「アッハイ」

 

物凄い圧に押されて、思わず声が全部カタカナになってしまったくらいだ。

 

「なあ忍…これってさ……」

 

「おもいっきり競馬…っちゅーか博打じゃよな。それも非公認の」

 

確かに、直接的な金銭のやり取りはこの場では発生していないかもしれないが、詭弁もいいところである。

 

……あまり深堀りするとなんだか色々危険な気がするが、そうとしか思えなかった。

 

― パドックは終わっちゃったけどどうする?

 

チンプンカンプンなことを言われて焦った僕は、とりあえず投票券の買い方で一番単純な「単勝」を100円で購入した。

シンプルに一番最初にゴールする子を当てる方式である。

 

今僕の手には『単勝 ⑧ナインテンプル 100円』と手書きされた『投票券』が握られていた。

 

もう完全に、ジャケ買いならぬ名前買いである。

 

投光器に照らされたグラウンドには、長袖ジャージの上からゼッケンを付けた馬娘が8人ほど集まり、思いも思いにストレッチをしていた。

 

選手は女性ばかりで、みな大学生くらいの年齢に見えた。

 

そこだけ見れば、大学陸上部のナイター試合みたいであるが、その周りを僕も含めて、ワンカップ片手に赤ら顔をしたおじさんとかが野次交じりの声援を送っているので、僕のイメージする競馬にどことなく雰囲気が似ていた。

 

『各選手はスタート位置についてください』

 

アナウンスが流れると、競馬みたいにゲートがあるわけでも無く、白いラインが引かれているだけではあるが、ぞろぞろと8人の選手がスタート位置についた。

 

『左回り1600m。グラウンド8周のレースです』

 

選手が深呼吸したりして体制が整うと、パンッと、スターターピストルの音が響いた

 

『スタートしました! ちょっとばらついたスタート』

 

「うおぉっ!?」

 

同時に僕は驚きの声をあげてしまった。

 

とんでもないスピードなのだ。

 

陸上競技100m走の世界記録は、ジャマイカのウサイン・ボルト選手が09年に出した9秒58であるが、これをスピードに換算するとだいたい時速37.6kmである。

 

しかし、僕たちの眼前で走る細身の女性たちは、そんな人類の限界を優に超えているように見えた。

 

『さあ鼻を切って駆け出したのは1番フェザーキャット! 逃げる逃げる。その後ろに2番ゴッドモンキー、8番ナインテンプルが続きます』

 

彼女たちの脚力に、グラウンドの土が抉られるように跳ね上がる。途轍もない力であることが伺えた。

 

僕が投票券…もう面倒くさいので馬券と言うが、馬券を買った8番のナインテンプルさんは、あの女子小学生とは年齢も身長も、似ても似つかない人であったが、長いツインテールが風になびいて、お尻の尻尾と合わせてトリプルテールの様相であった。

 

『早くもレースは残り半分を切りましたが、まだ動かない。このままフェザーキャット逃げ切るか?』

 

あっと言う間にも選手がグラウンド4周、距離にして800mをオリンピック選手でも真っ青なタイムで駆け抜けていく。

 

「おいおい忍、八九寺…じゃなくてナインテンプルさんなかなか先頭に行けないぞ? 大丈夫かな?」

 

「まあ、8番は先行で良い位置に控えとるし大丈夫じゃろ。先頭で逃げとるヤツのスタミナが切れるのを待つ作戦じゃ」

 

「え? 忍お前やたら詳しくないか?」

 

「アホ、儂は600年も生きとるんじゃぞ? 競馬くらい嗜んどるわ。まあ、あんな身体能力しとるのがゴロゴロしとって、しかも普通に人間に受け入れられとるのは驚くがの」

 

そんなことを言っていると、急に観客から一際大きな声援が飛んだ。

 

『さあ、残すところあと2周! 残り400m、一気にレースが動くぞ!』

 

「おお!?」

 

実況の言うとおり、ここにきて後方にいた子やナインテンプルが一斉に足を速め、集団がひとつに固まった。

 

全員、隣の選手にぶつかりそうな…というか実際に肩をがすがすぶつけ合い、髪を振り乱しながら睨みつけるような鋭い眼光をゴールへと向けていた。

 

『さあここで1番フェザーキャット力尽きたか?ズルズルと下がって、ゴッドモンキーが先頭に…! いや一気にナインテンプルが駆け込んできた! かわすか? かわすか!? かわした! 8番ナインテンプル、今1着でゴール!!』  

 

「あちゃ〜っ…」

「やったー!」

 

優勝者が決まると、観客席のあちこちから悲喜こもごもの声が上がった。

 

「…………」

 

しかし、僕は声を出さずなんだかフワフワした気分でボーッしていた。

受付時に見たナインテンプルさんのオッズは5倍。賭けた金額が100円なので、この2分位のレースで500円が返ってくる計算だ。

 彼女が勝ったということは、僕の馬券が的中したということなのであるが、僕は賭けに勝った喜びよりもひとつの感情に支配されていたのだ。

 

「か…カッコいい……」

 

綺麗な女性の、歯を食いしばりながら一心不乱な姿。

そんな鬼気迫る姿は正直に言えば怖いくらいであったが、それ以上に、僕にはカッコ良く感じられたのであった。

 

― 阿良々木さん、なにも競馬はお金を賭けて儲けることが全てではありませんよ?

 

こちらの世界に来る直前、八九寺が言っていた言葉である。

そうか、こういうことだったのか…。

 

八九寺、お前の言った通りだよ。やはりお前は僕に色んなことを教えてくれる人生の先導者…ツインテール師匠だったんだな。

 ならば、僕が次にすることはただ一つだった。

 

「おいお前様、まさか…」

 

僕は受付に走ると、当たった馬券を景品と交換するよりも先に、次のレースの馬券を買うことにした。

 

そう、我が親愛なる師匠の言葉を実践するためである。

 

― 三連単一点買いに全財産を賭ける予定です

 

解説すると、三連単とは3着までの馬の順番を当てる買い方である。

例えば背番号5が1着で、背番号2番が2着、3番が3着だと思えば 5 - 2 - 3 というように購入するのだ。

 

的中すれば、単勝などよりかなり多くの払い戻しが期待できる買い方であるが、当然外れる可能性も高い。

ハイリスクハイリターンである。

 

危険な賭けだと思われるかもしれないが、しかし、これには勝算がしっかりと有るのだ。

競馬には賭け率、つまりオッズがあり、人気が高く強い馬ほどオッズが低くなる。

そして発走前には人気、つまり「こいつは勝ちそうだ」という順位が発表されるのだ。

 

ならば、その人気が高い順に買えばきっと大丈夫なはずなのである。

こんな必勝法を思い付くなんて、僕はもしかしたら競馬の天才かもしれない。

 

そして僕は現在発表されている人気順に従い、ポケットに残っていた2900円をすべて1-3-5の三連単に投入したのであった。

 

 

 

 

そして…

 

 

 

 

『6番が1着でゴールイン! 人気最下位が1着となる大荒れのレースとなった!!』

 

僕は膝から崩れ落ちた。

 

「駄目じゃん!」

 

「ほおれ、言わんこっちゃない。素人に三連単なんぞ当てられる訳なかろうが。ハイリスク・ハイリターンとかかっこつけるからじゃこのたわけが」

 

返す言葉もなかった。

 

「地道にこつこついくしか無いのか…」

 

「うむ、ロリリスク・ロリリターンじゃ」

 

「余計ハイリスクな感じだな…ロリリスク」

 

1文字違うだけでこれほど印象が変わるとは…。ロリリターンはもう字面だけで危険すぎる文字列であった。

 

冷静になると、人気順に買えば勝てるんだったら誰も苦労などしないなんて事はちょっと考えればすぐ分かることであった。なまじ初めて勝った馬券が当たり、ビギナーズラックでハイになっていたせいでこのザマである。

 

「とりあえず、さっきの馬券だけでも換金するか…」

 

幸い、換金せずに持っていた当たり馬券があったので、素寒貧というわけでは無いが、これをどう増やすか考えると気分が重くなる。

 賭け事は胴元が絶対に儲かるようになっているのだから、とんとん拍子で勝てるわけは無いのだ。

 

暗澹たる気持ちで、足を引き摺るように歩きだそうとした時であった。

 

 

― 馬の格好をして吸血鬼パワーでぶっちぎるんです。こう、馬の耳と尻尾を付けてしれっとターフに入れば大丈夫ですよ

 

 

「あ……」

 

脳裏に、またもやツインテール師匠の言葉がよぎったのだ。

 

「なあ、忍」

 

「お前様よ、儂も今たぶん同じこと考えとる」

 

僕と忍は目を合わせると、静かに頷いたのであった。

 

 

 

――――――――――――

――――――――――――

 

 

『1着はまたしてもゴールデンチョコ! 夜のレースに流星のごとく現れた謎のウマ娘が、今夜も圧倒的な強さを見せつけレースを制した!』

 

僕の目線の先で、17歳くらいの金髪金眼のウマ耳少女、ゴールデンチョコが勝ち誇ったように腕を掲げていた。

 

皆さんもうお分かりであろう。

 

忍である。

 

変身 ― 忍が持つ吸血鬼のスキルのひとつで、自分の身体を思った形に変化させることが出来る能力である。

 

あの大きな学校のベンチで、黒髪の少女の耳を触りまくっていたのが幸いしたのか、忍がその頭と尻尾に金色の毛並みの耳と尻尾を生やすことなど朝飯前であった。吸血鬼なので晩飯前かもしれないが。

 

とにかく、この世界に飛ばされてきたあの夜からここ1週間以上の間、忍はあちこちの学校や河原の広場等でで行われる野良レース(違法性は一切ない、イイね?)に出まくって、1着を総なめにしていた。

 

全盛期には遠く及ばないといっても吸血鬼、それも元最強の吸血鬼である忍の身体能力は規格外もいいところである。

 

いかにウマ耳少女たち(1週間以上この世界で過ごして分かったことだが、どうやら彼女たちは『ウマ娘』と呼ばれる種族であるようであった。男性はいないのだろうか?)が、人間離れした…怪異じみた身体能力を誇ろうとも、元怪異の王に勝てるかといえば、分が悪いとしか言いようがなかった。

 

大人げないとも言える。

 

まあ、その忍に所持金の全てを賭けて儲けている僕も共犯者なのではあるが…。

マッチポンプもいいところであった。

 

 

 

「お疲れ、忍」

 

「まあ、あれくらいでは別に疲れてもおらんがの。じゃがお前様よ、約束通りドーナツはきっちり3個買ってもらうからの」

 

「分かってるよ」

 

僕たちはレース場を離れて、ほくほくした気分で河川敷を歩いていた。

 

今日のレース開催地は、初日に僕たちが馬耳少女に蹴り飛ばされてきた多摩川側の河川敷の広場であったので、その帰りである。

 

ちなみに、今の忍の姿は8歳児の幼女形態である。

 

レースに出る時は17歳くらいの姿になるが、普段はこの姿だ。

 

というのも、忍に血を飲ませて吸血鬼度が上がった状態だと、いろいろ支障があったからだ。

 

まず、めちゃくちゃウマ娘に怯えられる。

彼女たちは感覚が非常に鋭敏であるようで、きっと忍に何か本能的な危険を感じ取っているのだろう。

 

それに、僕も吸血鬼度が上がった状態だとまともに太陽の下も歩けないし、あれからクラヤミのような影が現れることも無かったので、僕は今、ニュートラルなほぼ人間状態である。

 

僕たちが最初に放り出された、あの桁外れの規模を誇る学校は、中央トレセン学園と呼ばれているそうで、すぐ見つけることは出来た。

 

しかし、身内が通っているとかでもない限り、学校という施設はなかなかに部外者が入りづらいものである。なので、せめてエコバッグだけでも回収しようと、夜中に外周の壁を飛び越えて林に侵入したのだけれど、結局見つけることは出来なかった。

 

もしかしたら、落とし物としてすでに回収されてしまったのかも知れなかった。

 

「僕が落としたんですと言っても…証明するものも無いしなぁ……」

 

「案外、もう警察に届け出られたりしとったりしてな。ほれ、最近は学校で管理しとったものをうっかり紛失したなんてなったら責任問題になるから、さっさと警察に厄介払いすると言うぞ?」

 

「厄介払いとか言うな。それはコンプライアンスがしっかりしてるって言うんだよ」

 

「ふむ、そんなもんか。ものは言いようじゃな…むっ! 不味いぞお前様」

 

「え?」 

 

何かに気づいたような顔をした忍が、急に僕の影に潜ったのだ。

 

しかし、その理由はすぐにわかった。

 

 

「お兄さん、ちょっといい?」

 

「はい? なんで…しょう」

 

後ろから声をかけられて、振り向いた僕の声は尻すぼみになってしまった。

 

「君、こんな夜中にどうしたの?」

 

警察の人…二人組のお巡りさんが近づいてきたからである。

 

もしかして、僕たちがあのレース場から出てきたのを目撃されたのだろうか?

 

確かに、賭博行為は公営のもの以外は刑法185条から187条において禁止されており、見つかれば刑罰が科される。

 

しかし、臆することはない。

 

僕は受付で貰った玩具を持って歩いていたら、たまたま通りがかったおじさんがそれを買い取ってくれただけなのだ。僕はあの場所で直接的な金銭のやりとりは行っていないのである。

 

例え詭弁であろうと、それは紛れもない真実。

 

理論武装は完璧であった。

 

ならば、変におどおどせずに堂々と、仮にあの場所で何をしていたのか尋ねられてとしても、逆にぐうの音も出ないほどに口先でくぐり抜けて見せよう。

 

舌が回ることにおいては、中々のものであるという自信もある。

 

さあ、どんな質問でも受け切って見せようじゃないか!

 

 

 

 

 

 

「君、未成年でしょ。こんな深夜まで外にいたら家族が心配してるんじゃない? ちょっと同行してもらってもいいかな?」

 

「…………」

 

 

 

 

ぐうの音も出なかった。

 

 

 

 

 

――――――――――――

――――――――――――

 

 

 

 

「その後連行された僕たちは、身元引受人として署に現れた忍野に助けられたって訳だ。ちゃんちゃん」

 

 

以上、回想お終い。

 

 

「異世界…警察……」

 

『ナニヤッテンダ コイツ』

 

長々とした回想に静かに耳を傾けていた黒髪のウマ娘、マンハッタンカフェとそのスタンドが目を白黒させて…忍によく似た金色の目を白黒させて僕を見ていた。

 

「え…? じゃあ、さっき阿良々木さんは……警察署から助け出してくれた忍野さんを、警察に突き出そうとしてたんですか………?」

 

「それとこれとは話が別だぜ? カフェちゃん」

 

「カ…カフェちゃん……」

 

「ああ、悪い。いきなりそんな呼ばれ方されるのは嫌だったか?」

 

「い…いえ……。それで…いいです……」

 

いきなり女の子を下の名前で(下の名前なのか?)呼ぶなんてと思われるかもしれないが、仕方ないのだ。

 

目の前の少女の名前は、マンハッタンカフェ。

 

そう、マンハッタンカフェである。

 

八九寺なら1回言い終わるまでに9回は噛みそうな長さであった。まあ、文字数だけでいえば、僕のアララギコヨミもいい勝負ではあるのだが。

 

僕は女子の名前を呼ぶときは、よほど親しい間柄でもなければ名字呼びにすることにしている。しかし、ウマ娘の名前はなんと、レース時の渾名とかではなくまさに戸籍にもそう登録されている紛れもない本名なのである。

 

マンハッタンちゃんと呼ぶのは長すぎ、マンハったんなどと呼ぶのもいかにも馴れ馴れしい。

ならば、僕は将来的に忍野の血縁と名乗る後輩が現れた時にはなんとなく、区別をつけるために下の名前で呼ぶ気がするので、そうすることにした。

 

どうやら、年齢も僕よりちょっと下みたいだし。

 

「あの…阿良々木さん……」

 

カフェちゃんがおずおずといった様子で話しかけてきた。上目遣いがとても可愛い。ドキドキする。

 

「ん? どうした?」

 

「異世界から来たと言いましたけど…その……帰る方法はあるのですか?」

 

カフェちゃんが口にしたのは、目下僕が抱える最大の問題であった。

 

「それが分かれば、苦労しないんだよなぁ…」

 

「そうじゃのう…」

 

 

衣食住の問題は幸運にもなんとかなったが、帰る方法だけは正直なところ、何の展望も見えていないのが現状であった。

 

しかし

 

「いや、たぶん帰れるよ。阿良々木くん」

 

「ほ、本当か忍野!? …ってかそれって!」

 

「うん、君の忘れ物。拾っといたよ。安心しなよ、中身を物色したりはしてないさ」

 

帰ることが出来ると言う希望の言葉を放った忍野のその手に、僕が失くしたエコバッグが握られていたのだ。

 

 

「たぶんこの中に、阿良々木くんがいた世界に由来するものが入ってるから、それを触媒にすれば帰ること自体は出来ると思うよ。ほらっ」

 

「うおっと」

 

そう言って忍野投げ渡してきたエコバッグを僕は受け止めた。

 

しかし、この中にはスマホと財布くらいしか入っていなかったはずだが。

 

「もしかして『あっち』から持って来たものを触媒に?」

 

「いやいや、それだけじゃ無理だね。阿良々木くんのいた世界、仮に世界Aとしようかな。Aから見て異世界だか平行世界だか、はたまたパラレルワールドかは知らないけれど、スマホや財布じゃあこっちの世界Bに来た時点で、世界Aとのリンクは切れちゃってるよ。それはただの物質だからね」

 

でも、と。 忍野は続けた。

 

「いまだ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()なら話は別さ。それがAとBの世界を繋いでいるんだよ」

 

さながら、迷宮に迷わないために伸ばしたアリアドネの糸みたいにね。

 

忍野は…僕の知る忍野と同じ軽薄な笑顔でそう言った。

 

すぐさま僕はバッグを逆さにひっくり返した。

 

 

しかし、記憶の通りやはりそこにはスマホと財布くらいしか入っておらず、忍野の言う霊的なものなど入っているようには見えなかった。

 

困ったぞ、もしも忍野の思い違いならぬか喜びもいいところだ。

 

 

「霊的なもの…霊的な……幽霊?」

 

 

 

いや…まさか!!

 

 

 

僕がエコバッグをのぞき込むと、有った。

 

 

 

バッグの隅に押し込まれてへばり付くように圧縮されていたが、ある物がまだ中に残っていた。

 

 

「阿良々木さん…?」

 

カフェちゃんが、急に涙ぐんだ僕を気遣うように、心配そうに声をかけてくれた。

 

でも、大丈夫だ。これは感動の涙なんだ。

 

感涙なのだ。

 

 

『それ』は、ハンカチくらいのサイズの布であった。

 

僕はその布を、薄い玻璃細工を扱うかのように丁重に取り出すと、持つ手が震えた。

 

 

 

 

 

 

「八九寺……」

 

 

 

 

 

案内してくれるんだな…

 

迷子だったお前が、今度は時空の迷子になったこの僕を……

 

 

 

『それ』は、元の世界で僕がシラオキ様の影に蹴り飛ばされる前、八九寺と挨拶を交わした時に彼女から貰ったものであった。

 

 

そう、それは小さな布製品

 

 

 

― 阿良々木さん、これを私だと思って持っていてください。お守りです。私はいつも、阿良々木さんのことを想っていますよ

 

 

 

いじらしい言葉と共に八九寺が僕に手渡してくれた、クマさん柄の女児パンツであった。

 

 

 

 

「いや…、僕もそれは流石に予想出来なかったなぁ」

 

『ヤッパリコイツ ケイサツニツキカエソウ』 

 

「…………」

 

「我があるじ様のこととは言え、これは擁護できんわ」

 

 

 

 

記憶が改竄されていた。

 





ラララ木さんのカフェの呼び方、かなり悩みました。
次回から、マンハッタンカフェのストーリーに沿った話に入ろうと思います。
レース描写…難しすぎますね。ほんと。
多分、ウマ娘世界でも一周2000mもあるコースなんて整備されてる学校は稀かなと思った次第。

今回、当初考えていた通りに書くと2万字くらいいきそうなことが発覚したので、最後めっちゃくちゃに駆け足になりました。
小説の書き方分からない…何も……

マンハッタンカフェのコーヒーの飲み方

  • ブラック
  • ミルクのみ
  • 砂糖のみ
  • ミルクと砂糖ありあり
  • お茶請けに合わせて色々
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