バタバタと喫茶店を出た私は、帰路を急ぎました。
タキオンさんへ届けるべきドーナツを持っているので全力のダッシュは出来ず、渾身の競歩です。
ウマ娘たる私の脚でも、さすがに走るのに比べればその速度はたかが知れています。
門限に遅れるのがほぼ確実であるという焦燥に、ジットリと滲み出てきた汗で服が身体に張り付く不快感も合わさって、せっかくの美味しいコーヒーとケーキを頂いた余韻も台無しです……。
― つかつかと、歩道を険しい顔をして速歩きをする私に、通行人がぎょっとした顔をしていきます。
通常、先を急ぐウマ娘は車道に設けられた専用の道を利用するからです。
自転車専用道みたいなものですね。
この近辺は流石と言うべきか、中央トレセンのお膝元ということもあり、しっかりとウマ娘専用レーンが整備されています。
ウマ娘専用レーン―通称バ道
近年、全国的に整備が進むこのバ道ですが、この公共工事が推し進められているのには割とのっぴきならない理由があります。
まあ、当然と言えばそうなのですが、自家用車ほどの速度で駆け抜けるウマ娘は、はっきり言って危険物以外のナニモノでもなく、例え金属塊のような重量はなくとも、一般人に衝突などした暁には人もウマ娘もただでは済まないためです。
この専用レーン、人とウマ娘の長い歴史を鑑みるにさぞかし昔からあったのかといえば、実はせいぜいこの50年程度の歴史しかありません。
もっとも、歴史書を紐解けばこの日本が大名ごとの国に分かれていた頃にも、そのような道路が整備されていた記録は存在します。
有名なところでは江戸時代、浮世絵の東海道五十三次に道を急ぐウマ娘飛脚の姿が描かれていますが、よく見れば、申し訳程度ではあるものの一般道と分けて薄い木片…今風に言えばウッドチップが敷き詰められたウマ娘専用の道があることが見て取れます。
クッション性が良く、脚が資本のウマ娘飛脚の脚部に掛かる負荷を減らす効果もありました。
しかし、そんな事例は稀です。
何故なら、バ道の維持管理には大変な労力とお金が必要だったからです。
しかも、現代ほど道路が整備されていないこの時代では、どうせ専用道を作ったとしても市井の人々は気にしないのです。道は道だと言わんばかりに、お構いなしにバ道の上を闊歩します。
ウマ娘が土煙を上げて走ってきた時だけ、ひょいと横に避けるものの、その数瞬後には何食わぬ顔でバ道を歩きはじめるのです。
なので、当然の帰結として通行人がウマ娘に撥ね飛ばされる事故がしょっちゅう発生していました。怪我くらいで済めば「ウマ娘に撥ねられるようなすっトロイやつが悪い」「別嬪さんの乳房に突き飛ばされたのでむしろご褒美」程度の交通リテラシーでしたので、一向に事故は減りませんでした。
頑として道を譲らなかった塩鯖売りが引く牛と、ウマ娘が取っ組み合いになったなんて話は枚挙にいとまがない程です。
それに、当のウマ娘すら「私は走りづらい」などと言って一般道を走る始末でした…。
しかし、だからと言って行政側としては何も対策をせず放置するわけにはいきません。
せっかく労力とお金をかけてバ道を整備しても誰も守らないので、当時有名だったお奉行が言った言葉が、全国の高札に掲げられました。
「牛車や人力車、飛脚、走るウマ娘は左側通行、歩行者は右側通行とすべし。心せよ、ウマ娘は急には止まれない」
何気に、今日の車輌左側通行の起源だったりします。
車両の左側通行が明文として規定されたのは、これよりずっと後の明治に入ってからですが、大元となったのはこれであるとする学説が有力なのだとか。
世界に目を向けてみても、多くの国で似たような経緯を辿っているのは文化人類学的にもなかなか面白いです。
話が横道に逸れました…道の話なだけに……。
『ウマクナイゾ』
お友だちの無慈悲なツッコミを華麗に無視して、私は歩き続けます。
…まあ、何にせよ今は21世紀です。
「ウマ娘に撥ねらるようなトロいやつが悪い」なんて言っていられる時代は終わってしまったのです。
そのため、道幅に余裕のある道路では、時速50キロ程度の制限速度を定めて(ここを走る際、道路交通法上ウマ娘は軽車両として扱われます)舗装され、全国的に少しずつではありますが整備が進んでいます。
とは言えども、時速なんて走ってる本人はわかるのかと思われるかもしれませんね。はっきり言って、私も正確に自身がどれだけのスピードで走っているのかなんて分かりません。
しかし、大体のウマ娘はなんとなく、これくらいの速度出てるだろうなぁというのは感覚的に把握しています。
何故なら、私達ウマ娘は幼少の頃…それこそ小学校にあがった頃くらいからことあるごとに、体育や交通安全授業で速度メーターを持って走り、自分がどれくらいのスピードを出せるのかを、定期的に体で覚えるのです。
そして今、競歩で先を急ぐ私はだいたい時速20kmくらいで進んでいます。
なるべく歩道の端を進むようにして歩行者に気をつけてはいますが、普通に自転車くらいの速度は出ています。
危険と言われれば反論出来ませんが、この程度の速度でバ道を歩くとかえって危険なため仕方がありません。高速道路で自動車が時速30kmで走るようなものです。
私は、ゴリゴリとお気に入りのお出かけ用ブーツの靴裏が削れていく音を聞きながら懸命に歩き続けました。
その甲斐あって、地平線の上でなんとか踏ん張っていた夕陽の残光もついに力尽き、代わりにまん丸な月が世界を優しく照らし出した頃…門限ジャストに私はトレセン学園の正門に辿り着きました。
――――――――――――――――――――――――
「…?」
息を切らしてなんとか校門に滑りこもうとしたところで、私は違和感を覚えました。
人の姿がないのです。
いくら休日の門限前であると言っても、校門前は誰かしら居るものだったと思います。
むしろ、私のように時間を忘れて街で過ごしたウマ娘たちが、慌てて駆け込んでくるため門限ギリギリであればある程、人がごった返すのです。
なのに、今ここには人っ子一人見当たりませんでした。
いつも穏やかな笑みを浮かべ、校門で生徒を出迎えてくれる緑色の制服を着た理事長秘書のたづなさんも、竹刀を持って「遅いっす! 反省文書いて風紀委員に提出っすよー!」と叫ぶバンブーメモリーさんの姿もありません……。
不自然な―不気味なほどの静寂
しかし、私は少し不審に思いながらも、足を止めることなく校門へ向かいました。
門限は校門を通った時点ではなく、各自の寮に辿り着いた時点でチェックされるので、迷っている暇はありませんでした。
むしろ、校門で呼び止められて余計な時間を浪費せずに済んでラッキーくらいに思っていました。
そう、思っていたのです。
そして私は、トレセン学園とその外界を隔てる境界線を越えようとした時
『イケナイ』
「…え?」
とても珍しく、焦ったような彼女の声。
いつも私の前を行くはずの『お友だち』の声に、私は振り返りました…。
しかし、そこに『お友だち』の姿はありませんでした。
「なに…?」
私は立ち止まると、周囲をぐるりと見回しました。
ですが、やはり『お友だち』の姿はありません。
そして、別の事にも私は気づきました…。
校門から校舎へ続くこの道は、こんなにも暗かっただろうかと。
見れば、夜間には自動で点灯するはずの電灯は沈黙したまま闇を照らしてはいませんでした。
そして、やはり人の姿どころか、この時間ならそこかしこから聞こえてくるであろう生徒や職員の声も聞こえませんでした。
明らかな…異常でした……。
「これは…」
― 閉ざされている
理屈ではなく、本能的な部分がそう言っていました。
これは、方法は様々ですが、他者を寄せ付けない結界の中に入り込んだ感覚に似ていました。
または、怪異が現れた際にも、同じような現象が観測されます。
よく、ホラー映画などで怨霊に対峙した主人公が、携帯電話をかけようとしても圏外になっていたり、民家に助けを求めても誰もいなかったりする描写がありますが、あれは非常に的を射ています。
強力な怪異は、故意であると無いとに関わらずそこにいるだけで一種の異界を周囲に生み出すからです。
不運にもそこに入り込んでしまうと、外界との接触を絶たれ、仮に目の前に人が歩いていたとしても気づけなくなるのです。
私の経験的に、これは後者であるように思われました。
そうであれば、頼りになる『お友だち』と分断されたのは痛手でした。
怪異のテリトリーに踏み入ってしまうと、それだけでこちらは不利です。なにせ相手は自分の庭に獲物を引き込んだようなものなのですから…。
早急に出口を見つけるか、この現象を引き起こしている元凶を見つけ出さなければなりません。
そんなふうに思考を巡らせていると
ズッ…ズッ……
背後から、なにかを引きずるような音がしました。
ズルズルと、無理矢理に身体を地面に擦りつけながら這いずっているような音と共に、声が…聞こえました……。
「ついてく…ついてく……」
これは…例の噂の元凶でしょうか。
『ついてくさん』
先刻の、ドーナツショップでのウマ娘たちが話していた内容が思い出されます。
失意のうちに、首を吊ったウマ娘
顔がないのっぺら坊
下半身が無く、腕だけでウマ娘に負けぬ速度で這いずる
どれも、その姿さえはっきりとしない、非常に曖昧な噂話です。
足音がするという話もあれば、そもそも足がないという話もありました。
しかし、共通する部分もあります。
振り返ってはならない
追いつかれてはならない
『あちら』へ…連れて行かれる……。
典型的な、姿を見られないことによって…人々に恐れられることによって、その力を保っているタイプの怪異でしょう。
姿かたちさえはっきりしない、正体不明。
未知は、人に恐怖を与えます。
そしてその恐怖こそが、怪異を怪異たらしめ、その力を強大にさせるのです。
ならば、その正体を暴けばこの手の怪異は、その力を大きく削がれます。
未知を、暴く。
幽霊の 正体見たり 枯れ尾花
私の取れる選択肢はそう多くありません。
ひとつは無視を決め込んで、相手が立ち去るのを待つ…消極的対処。
もうひとつは、こちらから相手を認識し、対峙して払いのける…積極的対処。
普段は、あまりことを荒立てることを私は好みません。しかし、明らかに異常なこの現状において、消極的先延ばしは良い結果を引き寄せるとは思えません。
ならば早々にケリを付け、私の『お友だち』を探しに行かねばなりません。
そうと決まれば、私のやることはひとつです。
振り返って、相手の目を見てメンチの切り合いです。そうなれば、目をそらした方の負けです。
やってやりましょう。
私は立ち止まると、今この瞬間にも背後に近づく音源へとゆっくりと振り返りました。
恐怖はありません。ここでわずかにでも畏れれば、相手に力を与えてしまいます。
さあ…あなたの正体は、噂話のどれなのでしょうね?
「…………えっ?」
振り返った私の目線の先に、彼女はいました。
しかし…その姿は……噂話のどれでもありませんでした。
首がないわけでも、のっぺら坊でも、足がないわけでもありません…。
その全てでした
それがついてくさんの姿でした。
まるで、数ある噂話を無理やりその姿にまとめた不格好なツギハギ人形のような…。
『■■■■▪■▪■■■!!』
うめき声とも、啜り泣きとも聞こえる声にならぬ声を上げて、ついてくさんが飛びかかってきました。
腕の力のみで、とんでもない速さで。
「くっ…!」
咄嗟に身を捩って回避しましたが、その怪異は器用にも両腕で着地して素早くこちらに向き直ると、再び飛びかかってきました。
通常、その姿を見られないことによって力を保つ怪異は、恐怖心を持たない者と対峙すれば、大きく力を失います。
人の恐怖によって存在している怪異にとって、恐れられないという事象は自身の存在力そのものを傷つけられるからです。
しかし、ついてくさんはその例に当てはまらず、とてつもなく活動的でした。
セオリーに反する相手を前にして、さすがに焦りを覚えました。
しかし、『お友だち』の力を借りることは出来ませんが、私も伊達に子供の頃から怪異に接してきたわけではありません。
対処法も、いくつか心得ています。
私は息を深く吸うと、口を開きました。
「― ― ――、――!」
『■▪■▪■▪■■■!!』
私の言葉に、顔のない彼女が怯えたように顔を上げました。
「――― ―… ――――!!!!」
『■▪■ッ■●▪■…ギヒぃ!!』
目を見て、話す…彼女に目はありませんが、姿形は大きな問題ではありません。相手をそれとして認識し、捉え、対峙する。その後は根気比べです。
恐れてはなりません
怖れてはなりません
畏れてはなりません
怪異との対峙で、僅かでも相手に飲まれれば、それはすなわち敗北を意味するのです。
人は見えず触れられぬ未知をこそ恐れ、怪異はそんな感情から力を得ています。
ですが、私には幼少の頃からこの世ならざる存在に、当たり前に見て、触れてきた経験があります。
確かに、眼前の彼女に僅かにも恐怖がないと言えば嘘になりますが、彼女に覚える恐怖は…彼女に力を与えてしまう量の多寡には、私と一般人では天と地ほどの差がありました。
『■▪■■●▪■……?!▲▼…ッ!』
一向に自身の力が増えず、むしろ目減りしていることを感じ取ったのでしょう。ついてくさんから戸惑いの感情が溢れ出ていました。
あと一押しです。
「―――、――…――――――!!」
『■■▪■…ギャッ!!!』
私が、どれほど振りに出したか分からない程大きな声を発すると、ついてくさんが踵を返して…彼女には足はありませんが私に背を向け、文字通り這々の体で逃げ出しました。
私は急いで、後を追いました。
手に持っている紙箱の中身がシェイクされますが、今は気にしていられません。
彼女はまだ力を失ってはいないのです。
大きく力を減じてはいますが、存在を保てなくなってもいませんし、いまだに私が走っても距離が縮まらないほどの速度で這っています。
もしここで逃せば…彼女が対処法を持たぬ生徒やトレーナーに危害を加えようとしたならば、きっと恐ろしいことになります。
あれ程の力を持つ怪異は、早々居るものではないのです。
ならば少々乱暴ですが、ここで完全に退治することは出来ずとも、せめて現世に干渉出来なくなる程度には存在を削ぎ落とさなければなりません。
私はついてくさんを追い、学園に設けられた不気味に暗い林の中へと踏み込みました。
足を踏み入れると、一瞬なにも見えなくなりました。
茂る木々の葉が、僅かな月光すらも遮っているからです。
私は立ち止まるとまぶたを閉じ、目が闇に慣れるのを待つ間に、常人より優れたウマ娘の耳をそば立てました。
ガサガサと、木々をかき分ける音でついてくさんが居る方向を測ります。
「あっちですね…」
数秒で暗闇に順応した私の目は、はっきりと闇を見通し、茂る樹木の間を縫うように進むことが出来ました。
なおも僅かに聞こえる音を追っていましたが、突如、世界が無音に包まれました。
「音が…消えた?」
立ち止まり、周囲に再び聞き耳を立てましたが、鳥の声ひとつ、蟲の声ひとつありませんでした。
もしや、逃げる途中で全ての力を使い果たし、彼女は消えてしまったのかもしれないと…
そんなことを考えた時でした。
『ギャー■▪■ッ■●▪■ァッ!!』
「っ…!」
すぐ近くの背の高い茂みの向こうから、断末魔のような恐ろし気な絶叫が響きわたったのです。
「なに…が……っ!?」
同時に私は、頭のてっぺんからつま先までを貫くような悪寒に襲われました…。
全身から冷たい嫌な汗が吹き出し、胸が早鐘のように脈打ちます。
本能が、早くここから逃げろと叫んでいました。
しかし、私はどうしても今の声が気になってしまいました。
一刻も早くここから離れろと叫ぶ本能の声に逆らって、私は茂みの向こうへと歩を進めました。
進めて、しまったのです。
人には人の、怪異には怪異の道があり、昔のバ道のように軽々しく踏み超えてはいけないものだと、知っていたはずなのに。
多少、他人が見えないモノが見えるからといって
多少、それらに対処する方法を知っているからといって
越えてはならないラインというものがあることを、私は知っていたはずなのに…。
茂みをかき分けたその向こうに『それ』は居ました。
ナ二…アレハ……?
『それ』は、人の形をしていました。
確かに、ヒトの形をとるこの世ならざるモノたちを、私は何度も見たことがあります。
いつからかすら、思い出せないほど幼少の頃から。
私は見てきました。良くないモノたちが暗がりから私たちを見ているのを。
数え切れぬほどに…。
多くの場合、それらはただ見ているだけで、現世を生きる私たちに干渉してくることはありません。
いえ、出来ないと言った方がいいでしょう。
現世に干渉出来るほどの力を持つものは、極限られた一部の存在なのです。
しかし、時にその極一部が現れます。
現世に干渉できる程に力あるそれらは、とても危険です。
水辺に、踏切に、断崖に、暗闇に、生者をそちら側へ引き込もうと、干渉してきます。
けれど、私はそれらに対処し、遠ざける術を身に付けていました。
頼りになるお友だちも、私を守ってくれていました。
だから
私なら大丈夫だと
私なら、他の人たちが出来ないことでも、出来るのだと
得意になっていたのかもしれません。
驕って、いたのかもしれません。
しかし、古来から驕れる者には三女神がその天狗鼻をへし折るため天誅を下します。
きっとそれは、必要な事なのでしょう。
でも、三女神様
『あれ』はあんまりです
冗談じゃない
あんな…
あんな恐ろしいものが
あんな怖いものが
私たちと同じ、人であるものか
そのバケモノは…
バリバリと
ぐちゃぐちゃと
まるで、りんごでも
「ぁ…あぁっ……」
私は愚かにも、自身の口から声が漏れるのを抑えることが出来ませんでした。
それは、この状況において最悪の行為に他なりませんでした…。
私の声に反応して
ぐるりと
『それ』の首がこちらを向いたのです…。
「ほぉっ…」
20メートルほどの距離があるにも関わらず、その喜色のこもった声は、嫌にはっきりと私の耳に届きました。
そして、闇夜においてこそ、より遠くを見通すことのできる私の目は、その同年代ほどの女の子の姿をとった怪異の口が、弧を描いたのを見ました。
そして、その口から発せられた声が、恐怖に霞む意識の中で確かに聞こえたのです。
「デザートまであるとは気が利くのう」
私は、全身の血液が逆流したかのような酷い目眩を覚えました。
身体がガタガタと、私のものでないかのように、震えだして…。
次は私の番なのだと、理解しました。
理解して…しまいました。
あれは、捕食者です。
魂の深いところ、本能がそう告げています。
私はウマ娘です。普通の人々よりも力があって、身体能力も優れていますし、付け加えて、多くの超常現象に対する知識と経験も持ち合わせています。
陸の上でなら、どんな獣にだって負けない自信もあります。
しかし
それが何だと言うのでしょう…。
絶対的な捕食者を前にした、非力な被食者でしかない私は、蛇に睨まれたカエルのように身動き一つ出来なくなっていました。
走りたいのに、今すぐ踵を返してあの恐ろしいものから脱兎のように逃げ出したいのに、私の脚は地面に縫い付けられたように動きませんでした。
ぶるぶると
振るえるばかりで、私のいう事を聞かないのです。
もはや、完全に私の意志から離れて震える手から、タキオンさんに持っていくつもりだった包みが滑り落ちました。
それを合図にするように
この暗闇にあってなお輝く、その金色の化け物が、猛禽のように跳びました。
飛ぶように、跳んだ。
人よりはるかに優れる、ウマ娘の視力をもってしても消えたようにしか見えないほどの跳躍。
コンマ1秒にも満たない刹那
私は、よせばいいのに
全てを諦めて目をつぶってしまえば、何もわからず終われるかもしれないのに
目がこぼれ落ちるのではないかというほど見開いて、見てしまいました。
その美しい怪物が、私を食べるため開いた口のなかに並ぶ
およそヒトにあるはずの無い、不気味に光る2本の鋭い牙を……。
「ひっ……、!!」
今度こそ私は目をキツく閉じました。
死の間際に加速した脳細胞が、数多の思考を溢れさせます。
部屋で育てているコーヒーチェリーの木は、誰か引き継いでくれるだろうかとか、私のコレクションは出来れば処分しないで欲しいだとか。
情けない。
もっと思うべきことがあるはずなのに…。
両親には私の体質のせいで随分苦労をかけてしまいましたし、ついに私の人生の目標である『お友達』に追いつくことも叶いませんでした…。
心残りは無数にあります。
飲んでみたいコーヒーも、登ってみたい山も数え切れないほどあって、毎週楽しみにしていた雑誌の連載漫画は、来週が最終回でした。
しかし、こんな時友人がいなくて良かったと、そんな風にも思ってしまいます。
悲しませてしまう人が、少なく済んで良かったと。
友人なんていたらきっと、未練が残ってしまうから…。
――カフェ
それなのに、どうして私の脳裏にあの人が浮かぶなのでしょう?
あのズボラで、胡散臭くて、迷惑極まりないマッドサイエンティストが思い出されるのでしょうか。
――帰ってきておくれよ
気づけば、涙がとめどなくあふれ出していました。
嫌だ
まだ生きていたい
なんで出かける前に、せめてもっとにこやかに別れられなかったのか……!
他の人が不気味がって近づきすらしない私の側に、寄り添ってくれていたあの人に、どうしてもっと優しく出来なかったのかっ!
未練が、胸を締め付けました。
だけれど、私は……もう…………
バリバリ
ムシャムシャ
「……?」
まだ、来ない
痛みが、来ない
もしかして、私はもう、死んでしまったのでしょうか。
あの恐ろしい怪異に、痛みすら感じることなく、食べられてしまったのでしょうか……。
確かに、直前になにかを咀嚼するような音が聴こえたような気がしました…まさかあれは、私の身体が噛み砕かれている音だったのでしょうか…。
5秒経っても、10秒経っても、一向に痛みは訪れません。
私は恐る恐る、まぶたを上げました。
すると
月が、私を見ていました。
ふたつの金色に輝く、黒点を持つ満月が、私を見ていたのです。
「あっ…………」
人形のように恐ろしく整った…現実味が無いほどに整った顔
闇夜にあってなお輝く、私のそれによく似た、黄金の瞳。
夕焼けに燃える雲を吸って育つ薔薇のような、薄紅色の唇……。
なんて…美しい……
(目が、離せない…)
不意に、私はその美しい女性の姿をした怪異に、腰に手を回されて引き寄せられました。
私よりも頭二つも大きなその美しい化け物に、小柄な私は万力のような力で抱きすくめられ、身動き一つとれません。
私は体が弱いながらも、ウマ娘です。成人男性の優に数倍の力があります。
それでも、その拘束を解ける自信は、微塵もありませんでした。
魂を抜かれたように、その顔を見上げていると、その美しい怪物の指が、私の顎に添えられました。
そして、目と鼻の先にあったその顔が、更に近づいて…
目とまつ毛の先くらいに、近づいて
「んっ…あっんんっ!」
私の口が、塞がれました。
「ん……っ……ふ、ぁ……んっ……!!」
その、美しい怪異の、薔薇の露を含んだような、熟れた唇は…
甘い…密のような味がして……。
「ん……っ…ぁ、…っ…ぁぁっ……」
突如、身体から全ての力を吸い取られるような虚脱感に襲われ……私の意識は、電源を落としたかのようにぷつりと途絶えたのです。
ストーリーの描写を見るに、カフェはかなりのレベルの怪異にも対応する術を持っていそうですよね…
正直たづなさん(偽)への対応見るとちょっとのそっとの怪異なら平然と対処できそうでもあります。
まあ、今の忍は全盛期の1/10程度の力しか出ないと言えども、全盛期には1回のジャンプで南極から日本まで来れるよう方なのでこんな感じになりました。