目が覚めると、白い天井が視界にひろがっていました。
硬いベッド、鼻につく様々な薬品臭…。
「知らない天井ですね…」
いえ、めちゃくちゃ知っています。
保健室の天井ですね。
私は足の爪が弱く、よく割れるのでしょっちゅう利用するので馴染みのある光景でした。
お決まりの台詞を口にして、私は緩慢な動きで身を起こします。
「全身が…鉛になったよう……」
毛布をめくり上半身を起こす…ただそれだけの行為にたっぷり数分の時を要しました。
体のあちこちが、まるで富士山を半日で弾丸登山したのではないかという程の疲労を訴えています。
まあ、富士山を登ったことはないのですが…。
登山好きを公言する私ですが、かの蓬莱の薬を燃やした煙たなびく霊峰を弾丸登山する疲労がどんなものかは知りません。
しかし、きっと今の私の体は…そう例えてしまいたくなるほどボロボロでした……。
元気や体力を全部吸い取られて、絞りカスになったような気分です。
シボラレカフェです。
ボンヤリとした頭で周囲を見回すと、窓の外はすでに真っ暗でした。
僅かながらも意識がはっきりしてくると、漂う薬品臭がより強く感じられるようになり、軽い目眩を覚えました。
トレセン学園の保健室で扱う薬品は、鋭敏な嗅覚をもつウマ娘に配慮された、匂いの少ないものが揃えられているはずなのですが…。
(それと…)
同時に、どこか嗅いだことのある優しい香りもしました。
数瞬、記憶を探るとすぐに思い当たりました。
「シャンプーの香り…あっ……」
そして、やっぱり、刺激的な薬品臭。
保健室にある消毒液等のものとは違う、化学の実験で使うような、試薬の香り。
「やあ、お目覚めかな? カフェ」
なぜ今の今まで気が付かなかったのか。
私が横になっているベッドのすぐそば、丸いパイプ椅子にタキオンさんが座っていました。
「タキオン…さん……?」
私が出かけた時よりも、どこか疲れた…いえ、もはや憔悴していると言えるほどの顔色に見えました。
まるで、強制的に走り続けるようになる薬を飲んで、休まず走り回ったあとのように…。
私が、狐につままれたように呆けていると、タキオンさんはやはり大げさに腕を広げると話し始めました。
「まったく! 待てど暮らせど、門限を過ぎても一向に帰って来ないからどうしたのかと思って部屋を出て探し回ってみれば! なんと寮近くのベンチの上で、眠り姫のように君が倒れていたもんだから保健室に担ぎ込んだというわけさ!」
「えっ…? あっ……」
いまだはっきりしない頭に、彼女の声が上滑りしていきます。
どうやら、私をここに運んでくれたのはタキオンさんのようでした。
それにしても、私がベンチで寝ていた?
そんな記憶はないのですが…いえそれよりも……。
部屋を…出て?
―ちょっとでも目を離して気温や湿度が変わってしまうとここ1週間くらいのデータが全部無駄になってしまうんだよぉ ―
「タキオンさんッ…実験がッ……!」
「カフェ」
私は、タキオンさんから発せられた今までに無く低く重い声に、言葉を続けることが出来ませんでした。
「確かに、私は世間一般的な価値観や倫理観からは少々逸脱しているという自覚はあるけれど、さすがにその先を喋られるのは心外だよ」
「ごめんなさい…」
無神経な自分の発言に、嫌悪を覚え手をぎゅっと握り込んでしまいます。
すると、その手にタキオンさんがそっと手を重ねてくれました。
「とにかく、無事でよかったよ」
その手は、とても暖かくて
「はい…っ」
私は目頭が熱くなって、わけもなく涙が溢れそうになってしまいました。
どうしてでしょう…?
それにしても、私がベンチで眠っていた?
まったく身に覚えがないことを言われ、私は記憶を堀り起こしました。
雨の降る、日曜日の昼下がりにドーナツのセール情報をタキオンさんから受けてからの問答。
タキオンさんとの取引、ドーナツショップへ出かけたこと。
そこで聞いた、怪異の噂。
帰りに立ち寄ったカフェで、なにか不思議なものを見たこと
そして…
「――ッ!!!!」
ついてくさんとの対峙
暗い林
絶叫
迫る牙
見上げた月の瞳
一気に、記憶が蘇ってきました。
パズルに最後のピースがはまったかのように、ぼんやりとしていた記憶が鮮明に、その時感じた感情と共にすべてが…。
私は…金色の、美しい怪異に襲われて……
「あっ…あぁっ……!」
「カフェッ!?」
記憶が大挙して戻ってくると、私は両の腕で自分をかき抱いていました。
体中が、あの時に感じた恐怖を思い出して震え出し、止めることが出来ません。
「どっ、どうしたんだい一体?」
「タキオンさんッ…私の、私の他に誰か……誰かいませんでしたか? 金色の髪をした女性はっ!?」
「い、いや…。君しかいなかったよ」
私の剣幕にタキオンさんが気圧されて、普段はあまり見せない顔をしていますが今はそんなことは気にしていられませんでした。
「うっ…うぅ……ッ」
もう駄目かと思った
終わったかと思った
もう二度と、私を心配そうに見つめるこの迷惑で胡散臭い同居人の顔を見ることも出来ないと、そう思っていたのに。
生きている。
私はまだ、この世界に存在していました。
「ひっく…ああ……っ」
「ふぅン…」
泣き出した私を、タキオンさんがおずおずと、おっかなびっくりといった様子ながらも、私を安心させるように抱きしめてくれました。
ぽんぽんと、背中を叩く手つきはどこまでも優しくて、私は確かにまだ生きていることを実感したのでした。
タキオンさんの白衣もセーターも、すでに私の涙と鼻水でじっとりとしています。
申し訳ないと思いながらも、私は身体の奥底から湧き上がる情動を止めることは出来ないのでした。
「すみません、もう少し…このままで……」
「ん、むぅ…」
私は静かに、タキオンさんの胸に顔を埋めながら涙の溢れるに任せて、泣き続けました。
薬品臭のする彼女の胸。
普段はコーヒーの香りを邪魔する、鬱陶しいとしか感じられなかったその匂いが…
今はただ、私に安心感を与えてくれていました。