豊かさとは何でしょうか。
私にとってそれは、こうして心穏やかにコーヒー豆を挽く時間。
そしてゆっくりと、蜘蛛の糸の様に細くお湯を注ぎながら立ち昇る芳ばしい香りに包まれる事です。
「……」
え…? それだけか…ですか?
いえ…私も曲がりなりにとはいえども…ちょっと他人には見えない存在を見て触れる以外なんの特徴もない平凡なウマ女子学生なので、流石にそれだけあれば人生全てが満たされるとまでは……。
そういうことではない?
豊かさについての考察をつらつらと、具体的には原稿用紙5枚分くらい使って語らないのか…ですか……?
何故そんなことをしないといけないのでしょう。
豊かさの尺度なんて、当人の気持ちの持ちようひとつで変わる曖昧で不確かなものでしょうに…。
そんな概念について考察しても、結局は自分の考えを補強するだけの結果になるとしか思えません。
そんなことをする人はきっと、自分の何か後ろめたい気持ちに言い訳を付与するため、一見もっともらしいことを長々と並べ立てて誤魔化そうとしているに違いありません。
何故か、そんな気がします……。
そうで無いにしても、たまの日曜日にそんなことに時間を費やすような人は、哲学者かもしくは変人でしょう。
まあ…哲学者と変人が髪一重であると言われれば否定は出来ませんが……。
かの紀元前300年頃の哲学者、「私は地球市民である」という言葉で有名なディオゲネスも浮浪者みたいな生活をしていたといいますし。
人が豊かさを追い求めて発展してきたのならば、哲学者という人々は時に、頭が良すぎるが故その反対を求めたりしますね。
彼もそんな哲学者の一人で、貨幣の鋳造という当時の社会階級でいえばかなり裕福な職業を生業とする家に産まれながら、物質的な快楽や物欲を否定し、
髪一重どころでもなんでもなく変人ですね…。
そうそう、豊かさと言えば、ディオゲネスと同じ時代を生きた人物に富の権化みたいな人がいます。
アレクサンドロス3世
アレクサンドロス大王、ドイツ語風に言えばアレキサンダー大王ですね。
アラビア語では征服王イスカンダル。
様々な呼び方がありますが、ゲームや歴史好きな方ならばどれかひとつは聞いたことがあるのではないでしょうか。
ギリシャからインド北西に及ぶ大帝国を築き、ギリシャ全土の盟主・エジプトのファラオ・ペルシャの王を兼任するという、まさに当時の常識においては「世界」そのものを手にしていた大王の名に恥じない英傑でした。
ある日、そんな大王がディオゲネスの元を訪れて尋ねます。
「何か求めるものはあるか」
ディオゲネスは答えました。
「そこに立たれますと、日陰になって私が寒いです。どいてください」
その無欲に感銘を受けた大王は、自分がもしアレクサンドロスでなかったならば、ディオゲネスに成りたいものだと話したと言われます。
王と
物質的欲求からの解放を説く話として、例に挙げられることのある逸話ですが…私はこれは結局、大王が多くの富を得て豊かさを欲しいままにしてきた経験があるからこその余裕の表れでしか無いと思うんです。
言うなれば、都内在住の大企業の社長が「田舎暮らしもいいよね~」と言うようなもので、ぶっちゃけ上から目線バリバリだったと思います…。
ともあれ、無欲は美徳ではありますが私は豊かな暮らしと清貧な暮らしどちらか選べと言われたら、やっぱり豊かに暮らしたいです。
せめて、好きなタイミングで心静かに1杯のコーヒーを楽しむ時間を持てる程度には。ついでにコーヒーのお供に美味しいクッキーでもあれば小躍りしたいくらい嬉しいですね。
ダンシングカフェです。
いえ…なんの話だったでしょうか……。そう、コーヒー。
私はコーヒーを淹れなければならないのです。
危うく
コーヒーミルで豆を挽くのは、面倒で掃除も大変だとよく言われますがそんな事は、まあ…有りますね……。
でも、私はこの手間をかけている時間がけっこう好きなのです…。
すり鉢で胡麻を擦る修行僧のように無心になれるので。
挽き終わった粉を紙フィルターに敷き詰めて、お湯を少量かけて30秒ほど蒸らします。
ふわりと芳しい香りが立ち上り、もう既に淹れ終わった魅惑の黒い液体を味わうことで頭がいっぱいになって、思わずすぐにお湯を注いでしまいそうになりますがグッと我慢です。
この工程を経ないと、お湯を注いでも豆の成分が溶け出さず、香りもコクも十分に引き出せないのです。
急がず焦らず、雲海を泳ぐクジラのような気持ちで臨みましょう。
いよいよお湯をゆっくりと注ぐと、ポタリポタリと赤褐色の雫がしたたり始めます。お湯の注ぎ方は…いろいろあるため、正解は無いと言って良いでしょう。インターネットや本で調べて自分がこれと思った淹れ方をすれば良いと思います。
さあ、そんなことを考えている間にもコーヒーポッドが満たされ、芳醇な香りが部屋いっぱい広がり始めました。
今日の豆はブラジルブルボン。
なんだか、学園のみなさんから実はロボットなのではないかという疑惑をかけられている、坂路の申し子みたいなウマ娘を想起する名前ですよね。
ブルボン種はコーヒーの大生産国であるブラジルでも、ごく僅かな畑でしか栽培されていない品種です。
酸味と苦味は控えめで、その代わりとても豊かなコクと香りが楽しめるため、コーヒー好きにも初心者にもオススメできる品種です。
これなら、彼女にも楽しんで頂けるでしょうか?
「カフェさん、お邪魔いたしますぅ」
噂をすれば、お客様のお越しです。
控えめに扉をノックする音と共に、東北地方のイントネーションで、聞くだけで心がほっこりするような声が聞こえてきました。
「どうぞ…ユキノさん」
「失礼するでがんすぅ。すんません、お招き頂いた上にコーヒーをご馳走して貰ってばかりじゃ申し訳ないと思って、クッキー焼いてきました。ご迷惑でなければ…」
扉がカラカラと音を立てて開かれると、ユキノビジンさんがクッキーの入った可愛らしい包みを持っておずおずという様子で立っていました。
「迷惑だなんて…嬉しいです。ユキノさんの作られるクッキーは…とても美味しいので……」
私の寮でのルームメイトであるユキノビジンさんは、東北出身のとても純朴なウマ娘さんです。
気立てが良くて、優しく、気持ちを真っ直ぐに伝えてくれる方で、私のような周囲から距離を置かれているような人間にも分け隔てなく接してくれる方。
「えへへ。そう言っでもらえると、ほにほに嬉しいです。私もカフェさんにコーヒーをご馳走してもらえるのが楽しみで楽しみでェ」
彼女を見ていると、言いしれぬ暖かな気持ちになれます。
運命的なナニか、そんなものすら感じてしまうほどに。
そして、ユキノさんともう一人。
「なんかすみません、アタシまでお呼ばれしちゃって」
ユキノさんの後に続いて、有名人が多いこのトレセン学園でも、特に注目を浴びている人物が入ってきました。
「ッ……いらっしゃい、ゴールドシチーさん」
なんとか、持ち上げたコーヒーポットの中身をこぼさずに済みました。
尾花栗毛と呼ばれるブロンドの髪色。その姿が視界に入った瞬間、その美しい
ここは、タキオンさんと私が共用で利用している旧理科室。
タキオンさんは気を遣ってくれたのか「突如として1時間くらいかかる用事を思い出したから外出してくるよ」と言って今は不在です。
「お二人ともようこそ…。今日はとても飲みやすい豆が手に入ったので、口に合えばいいのですが」
来客2名がソファーに座ると、私は自分の分も含めてテーブルにカップを並べて席につきました。
「いただきますぅ」
「頂きます」
手でどうぞとサインすると、お二人が口をつけました。
「ふわぁ! とってもいい香りだぁ! それになんがとっても味わい深い気がします!」
「ほんとだ、やっぱ豆から挽きたてだからかな? 仕事の撮影とかの時に出してもらうのよりよっぽど美味しい」
手間をかけて準備した甲斐もあるというもの。普段から良いコーヒーを嗜んでいそうなシチーさんにも好評のようで嬉しく思います。
「ふふふ…ありがとうございます。それに…ユキノさんのクッキー、とっても美味しいです」
「あたしの手作りなんで、シチーガールのお二人にお出しするのはちょっとお恥ずかしいです」
「ユキノなに言ってるのさ。本当に美味しいよ」
「…えへへ、シチーさんにまでそう言って貰エるど、ほにほに嬉しいです」
照れくさそうに微笑むユキノさんを見ていると、自然と私も頬が緩んでしまいますが、見逃しません。
クッキーの甘さでコーヒーの苦味を中和しているようですが、ユキノさんの目線が先程からチラチラと机上のシュガーポットに向けられているのを!
以前、ユキノさんが売店でエスプレッソを頼んでしまった時、コーヒーの本場イタリアでは砂糖を入れるのが都会派と教えて差し上げたことがありましたが今ここでそれを我慢している理由はただひとつ。
彼女の中では、ユキノさんいわく「シチーガール」であるところの私とゴールドシチーさんが二人も側いるからでしょう。
苦いコーヒーも飲める一人前のレディーになりたいという、なんともいじらしい気概が伝わってきます。
なんて可愛いい人…
いつまででも眺めていたい光景ですが、気づいてしまったからには放置する訳にはいきません。
ゲストに気持ちよく過ごして頂くのが、茶会の主催者の努めですから。
名残惜しいですが、仕方ありません。
「ユキノさん、よろしければどうぞ」
「あ…ありがとうございます。えへへ、では遠慮なく」
私がシュガーポットを差し出すと、明らかにユキノさんの目が輝きました…かわいいですね……。
タキオンさんのように飽和するほどではありませんが、たっぷりと砂糖を入れると、とても美味しいそうにコクコクと飲まれています。
その姿に…思わず口角が上がってしまいます……。
「ふふふっ」
「フフフ…」
はたと、顔を上げるとゴールドシチーさんと目が合いました。
彼女も少し驚いたように目を見開いていました。
シチーさんと視線が絡み合い、なにかが…口に出さずとも繋がった気がして……シチーさんが短く語りかけてきました。
「雪、いいよね」
ああ、あなたも同志なのですね…。
「いい…」
プロ同士、多くは語りません。
ふたりしてゆっくりと、されど深く頷きます。
私達の間にはそれだけで十分でした。
その後、使用したカップ等はお客さんに手を煩わせるわけにはいかないと一度は断ったのですが、ユキノさんもシチーさんも洗い物を手伝ってくれましたので後片付けはすぐに終わりました。
「ごちそうさまでしたぁ。今日はほんとにありがとうございました」
「またいつでもいらしてくださいね…。ユキノさんに飲んでいただきたいコーヒーがまだまだありますから……」
「ええ! 是非!!」
花が咲いたような笑顔に、私も笑顔で返します。
「アタシからもお礼を言わせてください。コーヒーとても美味しかったです。それに…同好の士に出会えたのは得難い幸運でしたし……」
「ええ…私もです……」
私はシチーさんとガッシリ固い握手を交わし、名残惜しいですが別れを告げてと自室へ帰っていくお二人を見送ったのでした。
その後ろ姿も見えなくなると、私は理科室の扉を開きました。
しかし、そこに広がっていたのは先ほどまでお茶会をしていた理科室の風景ではありません。
壁一面に備え付けた本棚、紅い革張りの椅子、豪奢なシャンデリアの優しい光が照らすまるで喫茶店のような光景でした。
ここは、私の空間。
一種の結界のようなもので外界と隔絶された、私だけのパーソナルスペース。
誰にも干渉されない、私の小さな城。
年に一度、学園のファン感謝祭の時にだけは「波長が合う」人には見つけやすくなるようにしていますが、いまだかつて他者が訪れたことはない、マンハッタンカフェのカフェです。
頭痛が痛いみたいな語感になってしまいました…。店名募集中です。
私は独りになりたい時によくここへやって来ます。
なにしろ私が招き入れたりしない限り、ここには誰もやって来れないのですから。
「ふう…」
私はソファーに倒れ込むようにして寝転がると一息ついて、去り際にユキノさんとシチーさんに言われた言葉が思い出されました。
― 貧血で倒れたんですから、身体に気をつけてくださいね
そう、あの夜…。
2週間
私が恐るべき女性の怪異に襲われた時から、すでにそれだけの時間が流れていました。
私の身に起きた事を、ありのまま話しても仕方がないので私は貧血で倒れているところをタキオンさんに保健室に運ばれたということになったようでした。
同室のユキノさんからとても心配されたのは辛かったですね…。
彼女の悲しそうな顔は見たくありませんし、彼女に嘘をつくのは心苦しかったです…。
ともあれ、その後は身体にダルさはありましたが特にこれといった後遺症は無く、授業にも問題なく出られましたし怪異に出くわすということもありませんでした。
(もしかしたら、あれは私が見た夢だったのでは?)
そんなことも考えましたが、『お友だち』もばっちり覚えていたので現実でした。
『フタリ イタ』
『オソロシイ ヤツ ダッタ』
『ヨルノヤミ』
「お友だち」の言葉は、けっこう抽象的なのであまり詳しくは分かりませんでしたが、どうやらあの金髪の女性と同じくらいの力を持った存在が、もう一人いたというのです…。
なんて…恐ろしい……。
私はちらりと、ソファーのすぐそばに置かれたテーブルに目を向けました。
そこには布切れが置かれていました。
いえ…穴だらけでもはや衣服の体裁をほぼ留めていませんが、それは服でした。
哲学者ディオゲネスはきっと、こんな服を着ていたのだろうとすら思えるくらいボロボロの半袖パーカー。
もちろん、私のものではありません。
それはタキオンさんが私を見つけた時には、私のお腹の上にかかっていたものだったといいます。
きっと、あの夜に遭遇した怪異と関係のある遺留物です。本来こういうものは所持するだけで縁が出来てしまうため、早急に破棄すべきであるのはよく理解しているのですが、何故か私は捨てる気にはなれずこうしてこの空間に放置しているのでした。
「それに…」
私はその横に置かれた、先日発売されたばかりの雑誌を寝転がったまま手に取りました。
月刊ム〇ー
オカルトやUMAなどの専門誌。この世ならざるモノを見ることが出来る私には、普段から目にしていることが並ぶ誌面にはあまり惹かれないのですが、今月号は違いました。
その表紙に踊る見出しに私は目を奪われたからです。
「夜闇に現れる謎の美しきウマ娘、その名はゴールデンチョコ!!」
私がなにもせずとも、近いうちに再び巡り合う。
そんな予感がしたのです…。
「……夕食の準備でもしましょうか」
いつまでも寝転がっているわけにもいかないと、身を起こそうとした時でした。
「あ、じゃあ僕の分も頼むよ」
誰もいないはずのこの空間で、返事が返ってきました。
「誰…ですか……?」
あり得ないことでした。
ここは私の場所。外界と隔てられた結界の中。
だというのに、視線の先に椅子に腰かけた人物がいたのです。
そこに居たのは、年のころ30代半ばといったところの、金色に染めた髪が軽薄な印象を醸しだす男性でした。
サンダル履きで無精ひげを生やし、火の点いていない煙草をくわえたアロハシャツを着た男性。
― 端的に言えば、チャラいおじさんが私のパーソナルスペースに堂々と居座っていました
「いやはや、おっさんと言わない所に君の育ちの良さがにじみ出ているよ。どこかのお人よしの男子高校生にも見習ってもらいたいものだね」
人の心を読まないでください。
「ごめんごめん、君がマンハッタンカフェちゃんだね?」
「質問に…答えてください……。あなたは、誰ですか」
「あれ? あのロリっ子理事長ちゃんに聞いてない? 来るのが早すぎたかな」
ごめんね、などとまるで緊張感の欠片も無い調子で話しかけてきます。
『お友だち』がいつもより興奮した様子でそわそわしています。
『コイツ ヤバイ』
私は身構えました。
私はウマ娘の中では身体が弱い方ではありますが、それでもベンチプレスなら200kgくらいなら持ち上げる力があります。
1対1の現状では分が悪いのは眼前の男性であるはずなのですが、私が明らかに警戒の意思を示しても怯む様子も無く、男性は軽薄な笑みを浮かべたまま口を開きました。
― 随分と元気いいねえ。何かいいことでもあったのかい?
「ある時は謎の吟遊詩人、ある時は謎の風来坊、しかしてその正体は…」
言葉を一度切って続けたのです。
「ただの謎の怪異の専門家さ。よろしくね♪」
全部謎でした。
果たしてこの人物はあの人なのか、そうでないのか。