皇城の北端、限られた人間しか出入りを許されていない領域である内裏の、天帝と婚姻を結んだ皇妃たちが住む四つの殿舎のうちのひとつ。東方地域から参じて嫁いだ若き姫君とその部下、召使いが暮らしている。
「――琥珀様が……流行り病だってェ!?」
翌朝、帝都の小路を徒歩で皇城に向かっていた水柿は、『条』と呼ばれる帝都を東西に横断する二十四の舗装路のうちのひとつ、五条大路と、『坊』と呼ばれる南北の舗装路のひとつ、商業街として名を馳せる東酉大路の交差点に掲げられていた、巨大空中掲示板に表示された報道に、目を丸くしていた。
「確かに琥珀様は外遊がお好きだし、あり得……いやないでしょ、琥珀様がって言うより、侍女長の鶯さんが許さないよ……流行り病が主に蔓延してるのなんて、貧民溪谷以外にないんだぜ?」
「よう、独り言が絶えんね。」
ぶつくさと考察を纏め続ける水柿の視界の隅から、ぬっとひとりの男が現れる。水柿はその男の顔を視認すると、今までの悩み事はどこへやら、ぱっと顔を輝かせて、その男に全力で抱き着いた。
「鴇柄さぁーん!!」
「おわっ、やめろよコラ! お天道さんも町娘も
「うへへ、いいじゃんかぁ! もっと見せつけてこーぜ!」
水柿は、自身の配偶者である『
「……で、そのまんま来たってのかぃ。」
「悪い、鶴喰さん。」
皇城東端、主鷹司本殿。事務室で薄型の木版端末を手にしながら文机の前にに坐する鶴喰の前に、一組の夫婦が現れる。勿論、水柿と鴇柄であった。
「鴇柄さんが謝る事は何もないさね。おい水柿! いい加減離れや!」
接触認識型の電子端末を片手に弄りながら、鶴喰は作業時のみ着用する眼鏡を押し上げつつ水柿を一喝するが、水柿がその体勢をやめる気配はない。蕩けた表情のまま、鴇柄の腰にぶら下がっている。
「……良いのかィ、鴇柄さん。お仕事、あるんだろう?」
「いいや、今日は講義資料の作成程度しかないさ。」
「何にせよ、図書舎に行かにゃならんじゃないか。オイ水柿! 旦那の仕事の邪魔して食う飯はうめェか!?」
「うまい!」
「ブン殴るぞお前。」
鴇柄に凄まれ、水柿はようやく彼の身体から手を離した。その表情は実に不満げなそれではあったが、特に文句を口にすることは無く、無理に引き摺られた事で乱れてしまった襟元の皺を整え、鴇柄の手を取る。
「それじゃ、お仕事頑張ってね、旦那様?」
先程までとはまるで別人のように凛々しい面持ちで、片目を瞑る西洋式の
「あんまり鶴喰さんに迷惑掛けんなよ?」
「だいじょぶだよぉ、伊達に幼馴染やってないって!」
「鶴喰さん、下手な事しでかしたらいつでも
「まぁ、きちっと線引きはできるヤツだってのは知ってらァよ。」
「ネ!」
「ネ、じゃねぇんだよ。……行ってきます。」
そうして、鴇柄が主鷹司正門を抜け、東申大路を南の方角へと曲がっていくのを、終始手を振ってにこやかに見守り、やがておもむろに、水柿は真剣な語り口で鶴喰に問うた。
「……そろそろ産休とか申請すべきだと思う?」
「阿呆も極まったかお前さん。」
鶴喰は、そんな水柿の妄言を、手にした帳面に何かをすらすらと記述しながら、至極面倒臭そうに回答する。そんな親友の姿勢に、水柿は鼻息荒く反論した。
「だって! そろそろ欲しいじゃん! あたいらもう結婚して四年だよ!? そろそろ――じゃないですかねぇ!」
「知るか。お前さんのおっかさんは幾つでお前さんを産んだのさ。」
「それがですね鶴喰サン……十六の時なんですよ。」
「なに、お前さん。おっかさんがお前さんを産んだ歳になってもまだ孕む気配すら無いのかい。」
「いっ、営みはしてるんだよ!?」
「典薬寮とか行けよ。」
「本気で悩んでる!」
はあ、と鶴喰は帳面を閉じ、正装の羽織を肩に掛けると、薄灰色の頭冠を手に、水柿が立っていた主鷹司本殿庭園へと移動し、水柿の肩を叩いた。
「そら、行くぞ。琥珀様に会うんだろ。」
「えっ、でも……?」
水柿は言い淀む。鶴喰はそんな水柿の意図を汲むと、珍しく微笑を浮かべて見せた。
「なに、構うもんかね。
「えぇ?」
困惑する水柿を放置し、鶴喰は主鷹司の敷地から足を踏み出す。水柿もそれに続き、慌てて鶴喰の後を追った。
内裏後宮、紅彩殿に入城するためには、いくつかの重要な門扉を通過しなければならない。まずは皇城の中でも特に警備が厳重な内裏大門。等身大の神鷹を鎧のように装着した二人の衛士に身分証の提示を求められるが、傍に立つ水柿が
次に、後宮への入り口、通称『冥月門』。ここから先は一部の皇族や宦官を除いて男子禁制であるため、ここに立つ門番は二人共に女性である。ここでは鶴喰がひとつ頭を下げると、門番たちは互いに顔を見合わせ、『後宮内の情報は他言無用、違えば即実刑』との厳重注意を与えながら、その施錠を解除してくれる。
兎に角、『鶴喰丹子真昼鳥』と『水柿栞火雷屋』という名前と顔は、それぞれがそれぞれの立場において特殊な効力を持っているのだ。それは、二人が辿り着いた漆塗りの宮殿、『紅彩殿』で最たる効果を発揮する。
「鶴喰!? あ、あのね……あなた、報道紙面とか購読してないわけ!?」
「してますよ。だから様子を伺いに馳せ参じたのではありませんか。」
「この……口から出任せばっかり!」
「心外ですね。それに、そう言う割には追い出そうとはしませんな、
「ハァ……。鶯侍女頭に何てお伝えしたら良いのか……!」
大溜息を吐きながら、紅彩殿の廊下を早足で奥へと去っていく
「なあ、采女と侍女って何が違うのかね。」
「へ? ん~、采女は紅彩殿に仕えてるお手伝いさんみたいなものなんだよね。歴代の紅彩殿皇妃に仕えた事がある人もいるってこと。侍女は、各地の国から天帝陛下が娶ったお妃様に、元々付き従ってた従者の皆さんなんだ。どっちが偉いってことはないんだけど、まぁ何となくどっちも不可侵みたいな立場みたいね。」
「ほお。」
「ってゆか、そんなことも知らないで今まで鶯さんたちとも付き合ってたの?」
「……所詮、おれは琥珀様の友人であって、それ以外の事に口出せるような権限は無いさね。」
「えー、もしかしたら鶴喰だって、世が世なら皇妃にもなれた立場じゃん?」
「莫迦言うなぃ。こんなド田舎の芋臭いタヌキ姫連れてどこに入城できる皇城があるってんだ。」
「タヌキって言うよりキツネじゃない?」
「しばくぞ。」
軽口を叩きあいながら、しばらくその場で鶴喰と水柿の二人が待機していると、やがて先程鶴喰に紅梅と呼ばれた采女長が、誰かと言い争いながらこちらへと近付いてくるのが声でわかった。慌てふためく紅梅とは対照的に、その会話の相手は冷静に事態を捉えているようだ。紅梅の発言は聞こえても、話し相手の声は聞こえてこない。
「……ですから! これは紅彩殿――もとい、後宮全体の信を失うに帰結し得る状況下なのですよ! あのようなどこの馬の骨とも知れない下級官職を神聖な後宮に引き入れるだなんて……普段ならば、まだ辛うじて看過致しますが……今は事が事なのですよ、鶯侍女頭!」
しかし、やがて紅梅の声が大きく、鮮明に聞こえてくるにつれ、彼女が何とか説得しようとしている女官の発言もまた、明瞭に認識できるようになる。
「大丈夫ですよ、鶴喰はそんな輩ではありません。……ねえ?」
そして、その声の主は、鶴喰たちの前に姿を現した。
日の出邦の東方地域に存在している、湿地帯の国。その地を代々治める武家の関係者を表す、鷹の尾羽を用いた髪飾りを身に着けたその侍女たちの長は、にっこりと鶴喰に微笑みかける。
「……鶯様に置かれましても、ご機嫌麗しく。」
「水柿火雷屋小仁特務衛士、此度は焔翼の姫君の芳しくない市井の風聞を耳にし、その実態を確かめに馳せ参じた次第に御座います。」
「あらー、やめてよ二人とも。いくら紅梅さんの前だからって、かしこまりすぎよー?」
くすくすと笑い、鶯という名の侍女長は二人を廊下の奥へと案内した。
「ちょ、ちょっと鶯侍女頭!」
それを制止する紅梅に、鶯は冗談っぽく笑い、澄ました顔でそれを流して見せた。
「もし本当にこの二人がここへ立つに相応しくなければ、この場に有る時点で既に二人の命はありませんから。」
「……おっかね。」
その発言に、鶴喰はひょいと肩をすくめるのだった。
紅彩殿の奥に存在する、宮殿の内部でも一際孤立した個室こそが、二人が会おうとしている人物の私室となっている。
――部屋の奥で開け放たれた円形の窓から吹き抜けてくる、涼やかな風と、眩い木漏れ日に、思わず目を瞑る。ゆっくりと瞼を持ち上げれば、その窓辺に据えられた高座敷で楽な姿勢を取り、愁いを帯びた瞳で窓の外の庭園をぼんやりと見つめる幼女の姿を目にする。
「――あ。」
深紅の髪を丁寧に結い、豪奢ながらも簡素な衣服に身を包んだその姫君は、自らの腹心を背に立つ数少ない友人二人を見た瞬間、それまでのどこか物悲しそうな表情を嬉しさと希望に満ちたそれへと変えると、弾む毬のように座敷から飛び降りた。
「鶴喰、水柿――っ!」
そして、その足りない身長の分を跳躍で補い、二人の首に勢いよく腕を回すと、涙の滲む声で二人へと語り掛ける。
「会いたかった、会いたかった! わたくし、もう……二度と貴女達に会えないんじゃないかって……!」
「ご、ご機嫌麗しく……琥珀紅彩殿中宮様。」
「ええ、ええ! 久しぶり!」
史上最年少、わずか八歳で天帝に嫁いだ東方地域最大の行政区、『陣中鷹尾家』の末娘、『
「それであの……何があったのですか? 見たところ、琥珀様はその……民衆が騒ぎ立てるような事態には……。」
なんとか言葉を選びながら状況把握を試みる水柿に、琥珀は二人の首から手を離し、二人の助けを借りながら床に足を着けると、先程無気力にしなだれていた窓とは別の窓、山地の崖壁に造られた皇城から遥か下界に広がる帝都の街並みを、窓は開けずに見下ろしながら、ぽつりと呟くように言う。
「……まず真っ先に、貴方達にも話さなくちゃいけない、とは……思ってたの。でも、事態が事態で……。流行り病という名目の下、わたくしはここに隔離されてしまった。」
胸元でぎゅっと拳を握り締め、琥珀姫は真剣な眼差しを目元に湛え、鶴喰と水柿の方を振り向くと、その真実を口にした。
「――わたくしの母、赤墨長楽宮殿下が、毒殺されました。」