バベル――ヘブライ語で混乱を意味し、創世記に登場する巨大な塔を指す。
砂と石に覆われた不毛な地に突き立つ塔。
赤き月を衝かんばかりの巨大構造物を目にすれば、誰もがバベルの塔を想起することだろう。
塔を作り上げた蟲たちが同じ言の葉を介するとなれば猶更だ。
「…まるで蟻塚ね」
遠方に聳えるインセクト・ファミリアの巣を蒼い瞳に映し、少女は独り言ちた。
平和であった日々に見た異国の景色と荒野の塔が重なる。
無論、300m超の巨大構造体ではなく、上層に禍々しい斑模様はなかったが。
「え?」
「なんでもありません」
目を瞬かせる同行者に、翠のウィッチは柔和な笑みで応える。
金の刺繍が施された装束を風に靡かせ、無人の荒野を堂々と進んでいく。
「皆と待っていても良かったんですよ?」
翠のウィッチは同行者である少女を肩越しに見遣る。
かつて純白であった灰色の装束を纏い、震える手を胸元で組む。
彼女はインクブスに敗北し、苗床となった被害者だ。
心身共に疲弊していることは間違いない。
「ただ待ってるだけなのは落ち着かなくて……」
真紅の髪から覗くネコ科の耳を動かし、手を強く握り締める。
その瞳に宿る光は弱々しいものだった。
しかし、インクブスへの恐怖に塗り潰されてはいない。
「強いのね」
「…そんなことないです」
慈悲を湛えた眼差しから逃げるように同行者は目を逸らす。
強さの意味は人によって大きく変わるものだ。
決して力だけが全てではない。
足音が止まる――大地に刻まれた峡谷を前に。
吹き抜ける風が寒々しい音を立てる。
切り立った岩壁は風に侵され、随所に崩れ落ちた痕が見られる。
全ては眼下を走る赤茶けた砂の川に飲み込まれたのだろう。
「何を探してるんですか?」
エナの輝きを帯びる蒼い瞳に、赤毛のウィッチは思わず問いかけていた。
救出した人々を置いてまで峡谷に訪れた理由を。
「インクブスの群れを」
翠のウィッチは特に隠すこともなく打ち明けた。
黒ずんだ岩肌に膝を突き、峡谷の底を覗き込む。
「こんなところを通るんですか…?」
「あの子たちが見張っている以上、道は限られますからね」
荒野に聳える巨大構造物を一瞥し、口元に微笑を浮かべる。
この地の支配者はインクブスではなくなった。
蟻塚の上層より飛び立つスズメバチの編隊が彼らの生存を許さない。
「捕らわれている人たちを解放します」
蒼い瞳は砂の川を辿っていき、影の深まる峡谷の奥を見据えた。
インクブスが峡谷を通ることは確定事項として言葉を続ける。
それが予定調和と言わんばかりで、彼女に緊張している様子はない。
「2人じゃ無理ですよ!」
事実であれば、あまりに無謀な行動。
インセクト・ファミリアの本格的な侵攻が始まってから、インクブスは集団戦のノウハウを蓄積している。
群れの規模によっては返り討ちに遭う可能性が高い。
「大丈夫、2人じゃないわ」
翠のウィッチは穏やかに微笑むだけだった。
この場にいるウィッチ以外に協力者がいるようには見えない。
得体の知れないインセクト・ファミリアを頭数に含めているのか、判断に窮する。
「それに……今を逃すと一緒に連れていけないから」
柔和な雰囲気は残したまま、蒼い瞳に力強い輝きが宿る。
捕らわれた人々を救い出す瞬間に見せた、未来を信じる眼差しだ。
「あの…」
「どうかしましたか?」
多くを救わんとする意志は尊重されるべきだ。
しかし、己の身を護ることが手一杯な今、他者を受け入れている余裕はない。
自己保身の醜さに唇を噛むが、赤毛のウィッチは辛うじて言葉を絞り出す。
「これ以上、連れていく人数を増やすべきじゃないと思います」
翠のウィッチは人々を救出しながら、インクブスの支配地域に向かって移動している。
逃避行の人数が増えれば被発見の危険性が増す。
彼女の行動は自殺行為としか思えなかった。
「そういうわけにもいかないの」
同行者からの提言に対する回答は、困ったような笑みだった。
インセクト・ファミリアの支配地域に留まれば、最低限の安全は保障されるだろう。
「お迎えが来るから」
だが、最善策ではないと確信している。
鋭く細められる蒼い瞳は、これから起こる未来を捉えていた。
峡谷の奥に人影――否、それは魑魅魍魎の影。
風が引いてきた砂の川に無粋な足跡が刻まれる。
緑の肌をもつ矮躯の略奪者、布を雑多に巻いた蛮族の戦士、人類を家畜として扱う魑魅魍魎ども。
「インクブス…!」
彼らを一目見れば、嬲られた身体が恐怖で竦む。
浅い呼吸を繰り返す赤毛のウィッチは、悍ましい記憶を振り払わんと目を閉じる。
――震える肩に置かれる細い手。
翠のウィッチは何も語らず、インクブスの隊列が進む先を静かに指差す。
彼女には見えていた。
「地面が……泡立ってる?」
ウィッチの優れた視力が不気味に蠢く砂の川を捉える。
峡谷の風に吹き上げられたわけではない。
意思を持ったように盛り上がり、インクブスの群れへ這い寄っていく――
「ぐぁっ!?」
突如、先頭を歩くゴブリンが転倒した。
ここは躓く物など何もない砂地。
異変を察したインクブスの隊列に緊張が走る。
「おい、どうした!」
素早く駆け寄った隻眼のゴブリンは、既にボウガンに矢弾を番えている。
険しい表情は最悪の事態を想定していた。
「あ、脚に何かが噛みついた!」
情けない声を上げる矮躯の同志。
その脚は砂に沈み込み、禍々しい赤を辺りに吸わせていく。
血臭――それは捕食者を集める狼煙。
彼らは無機物の海を掻き分け、手負いのゴブリンへ殺到する。
獲物の外皮へ大顎を突き立てんと。
「なっ!?」
緑色の肌を灰褐色の影が覆い隠す。
「ぎゃあぁぁぁ!」
薄暗い峡谷に響き渡るインクブスの悲鳴。
窮屈そうに押し合う
しかし、ナイフ状の大顎は容易く肉を断ち、命を齧り取る。
「やめ、たすけっ、あが!」
溢れ出した血が砂地に飛び散る。
激痛から逃れんと四肢を振り回すも群がる数は増すばかり。
柔らかな眼球を噛み千切り、口腔に頭を突っ込んで内より肉を食む。
「て、敵襲!」
動揺を抑え込み、隻眼のゴブリンはボウガンの切先を襲撃者へ向けた。
細長い触角が立ち――灰褐色の小山が蠢く。
波が引くように獲物から離れ、一斉に砂の川へ潜り込む。
目にも留まらぬ潜行。
矢弾は虚しく砂を穿ち、皮と背骨を残した亡骸だけが残された。
「ここにファミリアはいないんじゃなかったのか!?」
「狼狽えるな!」
インクブスの戦士たちは支配の象徴たる鎖を投げ捨て、背中合わせに立つ。
引き連れたヒトの雌など眼中にない。
生温かい風が吹き抜け、薄暗い峡谷に血臭を広げていく。
「どこにでも湧くな、虫けらどもめ!」
「来やがれ!」
足元にボウガンを突きつけ、恐怖に抗わんと大声を発するインクブスたち。
ファミリアの回答は一つ――獲物に慈悲なし。
赤茶けた砂が泡立ち、等脚目特有の丸みを帯びた外骨格が現れる。
獲物の脚は目と鼻の先。
射程の優位など与えず、一方的に集り、喰らう。
「ボウガンじゃ駄目だ!」
ボウガンを振り回すゴブリンを灰褐色の影が脚から飲み込んでいく。
兄弟姉妹を乗り越え、7対の脚で獲物の外皮を掴む。
その重みに屈して転倒したが最後、生きたまま捕食される。
「くそっくそ!」
ゆえにインクブスたちは砂上で無様に踊る。
本来、このスナホリムシを模倣したファミリアは上陸阻止を目的とし、日本国の沿岸地域に配置されていた。
発達した胸脚と尾肢によって遊泳と砂地への潜行を得意とする本種は、浅瀬での活躍を期待されたのだ。
しかし、戦艦の如き水棲ファミリアの出現により上陸阻止の機会が訪れることはなかった。
「あぁぁぁ!」
久方ぶりに母の命を受け、小さき捕食者たちは奮って獲物を喰らう。
転がったインクブスへ群がり、砂の川に鮮血の流れを生み出す。
原種に付けられたサンドピラニアの異名を体現するように。
「雌どもを盾にしろ!」
オークの戦士は左腕に噛みつくスナホリムシを引き剥がし、野太い声で吠える。
血走った眼が睨む先には、隊列後方で一塊になって震える雌たち。
「貴重な胎だぞ!?」
押し寄せる絶望の波をアックスで切り払う同格の戦士が怒鳴り返す。
娯楽と称してヒトの雌を嬲り、消費できた日々は過去となった。
今やインクブスという種の存続に欠かせぬ存在なのだ。
「生きたまま食われてぇのか!」
しかし、それも自己の生存が大前提である。
ここでファミリアの餌食になれば、肉体はエナに分解され、戦士の足跡は消し去られる。
彼らに残されるものは苦痛と恐怖のみ。
悍ましき最期だ。
「来るな来るな来るなぁ!」
しかし、無情にも脚が力を失い、オークの戦士は灰褐色の地獄へ沈む。
両腕を振り回して抵抗を続けるが、スナホリムシの群れは怯まない。
俊敏ゆえに消費も激しく、エナを得るため貪欲に食らいつく。
「この虫けら――」
インクブスの罵詈雑言は誰にも届かない。
黒曜石の如き複眼に感情はなく、間抜けに開かれた口へ体を捻じ込むだけだった。
喧しい獲物が沈黙すれば、あとは咀嚼音だけが響くようになる。
「ほら、2人じゃなかったでしょ?」
その光景を見下ろすウィッチは変わらぬ調子で告げた。
誰もが忌避するであろう凄惨な殺戮を目にしながら、彼女の瞳に感情の起伏はない。
インクブスの全滅を喜ぶわけでもなく、ただ情報として処理している。
「あなたは一体……」
戦慄を隠せない少女の口からは当然の疑問が零れ落ちる。
同年代とは思えぬ精神性、そして異界の地を熟知しているような足取り。
眼前のウィッチはインセクト・ファミリアよりも得体が知れない存在だった。
「そういえば、まだ自己紹介してなかったわね」
謎多きウィッチは困ったように笑い、血のように赤い月を仰ぎ見る。
すぐには答えず、しばし言葉を探して視線を彷徨わせた。
言葉を継ぐ者がいない。
「私の名前は――」
改めて口を開いた時、空より降る羽音が言の葉を吹き散らす。
仮初の名など不要と言わんばかりに。
◆
「間に合いましたね」
「ああ」
闇に沈んだ旧首都に夏虫たちの歌声だけが響く。
コンクリート擁壁もアスファルト舗装も等しく緑に侵され、小さな合唱団の会場となっている。
その頭上を通り過ぎる重々しい羽音。
私を運んできたヤママユガが天を衝かんばかりの煙突を躱し、優雅に飛び去っていく。
清掃工場と隣接する旧目黒駐屯地――その本部庁舎屋上から敷地内を見渡す。
かつて国防軍の高等教育機関が置かれていたと聞くが、その面影は残っていない。
雑草の絨毯を阻むように、土嚢と机を組み合わせた防塁が幾つも築かれていた。
それは人々を護るために誰かが抗った痕跡だ。
「時間通りね」
左肩にいたパートナーがフードの後ろへ潜り込む。
聞き覚えのある声に振り返れば、穿たれた大穴を迂回して歩く人影が2つ。
ブーツの足音は軽やかで、コンクリートを引っ掻く爪の音が際立って聞こえる。
「無論だ」
際立つ、と言えば彼女たちほど相反する存在もない。
暗夜にあって輝く金髪碧眼の戦女神と影に潜む漆黒の異形少女。
人類の最高戦力であるウィッチナンバーの首席と次席は陰陽のようだった。
「お互い、暇じゃないだろう」
「あなたは
「それはそれだ」
先日のインクブス真菌を駆逐して以来、こちら側で大きな動きはないとはいえ、貴重な時間を捻出して集まっている。
無駄にするわけにはいかない。
「ほんと真面目ね」
私の返答を聞いたラーズグリーズは、つける薬はないと言わんばかりに肩を竦めた。
そんな何気ない所作に成熟したものを感じ、つい同年代であることを忘れそうになる。
「まぁ、不真面目なあなたも想像できないけど」
だが、ニヒルな笑みを崩す時、本当に一瞬だけ年相応の幼さが顔を覗かせる。
そこに言い知れぬ歪みを覚えてしまう。
同年代の友人や慕ってくれる後輩の前では自然に笑うことができたのだろうか。
いつから彼女は、ごく普通のウィッチ――少女をやめてしまったのか。
初めて会った夜からラーズグリーズというウィッチは完成されていて隙が無かった。
あまりに超然的だった。
如何にしてウィッチナンバー1へ至ったか、考えることもないほどに。
「それじゃ、ごゆっくり~」
ラーズグリーズが戦装束を軽やかに翻し、背を向けようとする。
いつもなら何の疑問も抱かず行かせていた。
だが、今日はどうしてか暗夜へ消える後ろ姿を見過ごせなかった。
「ラーズグリーズ」
足音が止まる。
名前を呼ばれた戦女神が肩越しに怪訝な眼差しを寄越す。
声に出して後悔する――何を宣うつもりだ?
暇じゃないと言ったばかりの口で、何を吐き出そうとしている?
少しばかり周りを見られるようになったから増長しているだけだ。
本来、軽々しく触れていいものではない。
吐いた唾を呑めず、ひび割れたコンクリートの床面を視線が無為に彷徨う。
「言っておくけど、黒狼の処遇は私に言っても良くはならないわよ?」
言葉を探す私にラーズグリーズは人を小馬鹿にしたような声で告げる。
「国防軍のお遣いでしかないもの」
傍らで沈黙を貫いていた黒狼が微かに身動ぎする。
黄金の瞳が仄かにエナの光を帯び、私を真っすぐ見据えた。
約束を交わした夜、絶望と無力感に苛まれていた瞳ではない。
それだけでも判断材料としては十分だ。
「だが、悪くさせるつもりもないだろう?」
決して真意を表に出さないが、人の道を外れることはない。
私が見てきたラーズグリーズとは、そういうウィッチだった。
「……お小言を頂戴すると思ったのだけど」
背を向けたまま、細い肩を揺らす戦女神。
過程は乱暴かもしれないが、彼女なりに最善を尽くしていたのだと私は思っている。
「責を問うとすれば個人ではなく組織だ」
「英雄様に直談判されたら聞くしかないでしょうね」
ブーツの足音が響き、暗夜の中で瞬く青い瞳。
「それなら、私個人に何の用かしら?」
小言と言えば小言なのかもしれない。
喉元まで達した言葉は、ただの自己満足だ。
交流を持っただけの部外者が恩着せがましく口出ししようとしている。
「余計なお世話だとは思うが……」
無意識のうちに一呼吸置いていた。
自己嫌悪で胸焼けしそうだが、言わなければ後悔する。
そんな不確かな予感に従って一思いに吐き出す。
「後輩は、大事にした方がいい」
空白。
夏虫の鳴き声が途絶え、呼気の音だけが大きく聞こえる。
言葉にしてみれば、なんとも陳腐な響き。
なんてことはない――日常会話でも聞くようなアドバイスだ。
だが、
目を瞑りたくなる衝動を堪え、ラーズグリーズと相対する。
「明日は雨でも降るのかしら」
呆れでも怒りでもない。
それは初めて聞く声色だった。
ラーズグリーズの口から漏れ出した言葉に鋭さはなく、ただただ寂しげだった。
細められた碧眼に浮かぶ感情が、私には読み解けない。
「急にどうしたの?」
わずかに背を曲げ、上目遣いで私を見上げてくるラーズグリーズ。
いつも通りの、人を小馬鹿にした声に戻っていた。
本心を隠してしまうのは大人だけでいい、と傍観者の言葉が脳裏を過る。
それを言えるほど私は人生を歩んじゃいない。
「誰かに言われた?」
「いや……ただ」
まさか白石たちの名前を出すわけにもいかない。
何も考えずに先走った結果、答えに窮している。
馬鹿か、私は。
「はぁ……やっぱりいいわ」
大袈裟な溜息を吐き、ラーズグリーズは煙たがるように手を振って身を翻す。
「貴女に心配される日が来るなんてね」
本当に、その通りだ。
言い訳を並べ立て、他者との交流を避けてきたのが私だ。
だからこそ、もう見過ごしたくない。
罪過の在処を示してくれたラーズグリーズに、たしかに救われたのだ。
「世話になっているからな」
今になって思うが、私は私を救ったことがない。
いつも歩み寄ってきてくれた誰かに救われている。
それでいて返せるものは、有難迷惑な助言くらいだ。
「ようやく自分を顧みるようになったかと思えば……ほんとに」
肩越しに半眼で睨まれるが、普段ほどの切れはない。
腰に手を当て、しばし夜天を仰ぐラーズグリーズ。
伝えるべきことは伝えた。
ならば、あとは彼女次第――
「いい、シルバーロータス」
さして間を置かず、戦女神は口を開いた。
「一緒にいるだけが全てじゃないわ」
ぶっきらぼうな声で告げられた物言いは、一方的で乱暴だった。
当事者の少女たちが聞けば自分勝手だと怒るに違いない。
そして、部外者が互いのためにならないと代替案も無しに囀ることも容易い。
それこそ馬鹿でも出来る。
「そうか」
だが、そんな上辺だけの提案は無意味だ。
ラーズグリーズが嫌われ者を演じてまで後輩を遠ざけた理由は、よく分かる。
この悪辣な世界で国防の第一線に立てば、人命を奪う覚悟を否応なしに求められる。
あの善なる少女たちに、それを強いることは看過できない。
なるほど、同類か。
「なに笑ってるのよ」
「そうか?」
「そうよ」
恨みがましい眼差しを受けて、初めて口元が緩んでいたことに気づく。
ラーズグリーズが孤高であることに変わりはなく、ナンバーズとの関係も改善していないのだ。
親近感を覚えている場合ではない。
ないのだが――少しばかり安心した。
今でこそ彼女たちは険悪な関係だが、まだ歩み寄る余地は残されている。
それだけでも収穫はあったように思う。
「今度、相談に乗ってもらおうかしら」
「力になれるかは分らんが努力しよう」
相談する相手として私は頼りないと思うが、一般人にはできない相談もある。
理解の頷きを返すとラーズグリーズは肩を落として溜息を吐く。
なぜだ?
「冗談よ」
「そうなのか」
冗談のつもりはなかったのだが。
休憩を終えた夏虫たちも合唱を再開し、心地よい音色が屋上に届き始める。
それに紛れて遠くから聞こえる重々しいブレードスラップ音は、国防軍のものか。
「すまん。手間を取らせた」
そろそろ、今宵集まった目的を果たすべきだろう。
「まぁ、感謝はしておくわ」
そう言って戦女神は金の髪を靡かせ、星明りのない暗夜へ消える。
庁舎屋上の隅まで規則正しい間隔で刻まれる足音。
私たちの会話が辛うじて聞き取れる距離だ。
やはり、監視の役割を担っているか。
「待たせた」
「問題ない」
黄金の瞳が茫と光り、黒い毛並みの犬耳が夜空を衝く。
待たされたにもかかわらず、ウィッチナンバー2は穏やかな表情をしていた。
とはいえ、まずは謝罪すべきだろう――視界の端で大きく揺れる影。
尻尾だ。
ベニヒメほどではないが、黒狼も立派な尻尾を備えている。
人類にはない器官だが、どういう原理で動いているのだろう。
「ラーズグリーズの珍しい顔も見れた」
黒狼は背後を見遣り、勝ち誇ったような笑みを見せる。
あまりに自然な感情の発露だった。
ラーズグリーズを死神と罵り、蛇蝎の如く嫌っていたとは思えない。
「見世物じゃないわよ」
すかさず抗議の声を上げる戦女神。
かつて敵対していた2人だが、今の関係性は悪くないらしい。
両者の間に何があったのか、定かではないが――
「……安心した」
「シルバーロータス?」
小さく首を傾げる黒狼はウィッチである前に、年端もいかない少女だ。
「ずっと気掛かりだった」
いかに国防軍が理性的な軍隊であっても捕虜を賓客のようには扱わないだろう。
そこで心身ともに健常でいられる、というのは楽観が過ぎると思っていた。
「あの夜の判断は間違っていなかったのか」
国防軍の対応は的確だったと理解している。
それでも、まだ交渉のしようがあったのではないか、手に負えないと目を背けただけではないか。
そんな思考が脳裏の片隅で耳障りな音を立てていた。
「だが、今の状態を見る限り、ラーズグリーズに任せて正解だったように思う」
退屈そうに鼻を鳴らす音が夏虫の歌声に混じって聞こえた。
ウィッチナンバー1の言葉を借りるなら適材適所。
あの時の私にはインクブスを駆逐する手札はあっても、黒狼を直接的に救う手段は無かった。
今を直視して、ようやく解答が得られた。
「たしかにラーズグリーズは……」
途中まで言葉を紡ぎ、押し黙る黒狼。
引き結ばれた小さな唇に、嫌な違和感を覚える。
「死神は、約束を守ってる」
絞り出すように死神と口にした瞬間、少女の表情が歪む。
あの夜、ゴースト7やラーズグリーズに向けた敵意とは違う。
苦痛――いや、恐怖に近しい。
不用意だった。
浅慮にも程がある。
彼女の内で鎮まっていた感情の湖面に、私は深く考えず石を投げた。
増長した結果が目も当てられない。
「でも、私を救ったのは――」
必死に喉を震わす黒狼が目を見開く。
尖った犬耳が横を向き、膨れ上がるエナの放射量。
瞬時に空気が変質する。
「伏せて!」
衝撃。
視界が飛ぶ。
声に反応する間もなくコンクリートの床面に背を打ちつけられ、肺から強制的に空気が吐き出される。
耳元で聞こえる静かな息遣い、芙花よりも軽い身体から伝わる鼓動。
遅れて届く銃声は複数――襲撃者は人間だ。