街灯が光を灯さなくなって久しい市街地で、眩い人工の光が明滅する。
墨汁を垂らしたような闇を切り裂いて走る光線。
それは乾いた銃声を伴い、対象に致命的な破壊を齎す。
「ぐぁっ」
「松本!」
「1名負傷、1名負傷!」
飛び交う怒号、至近を擦過する鋭い風切り音。
無人のコンクリートジャングルに反響する銃声が鳴り止むことはない。
「敵火点は対岸のビル4階っ」
今宵の戦いは怪物退治にあらず。
河川を挟み、
「村田、敵に頭を上げさせるな!」
「了解!」
分間750発のマズルフラッシュが日本国防陸軍の隊員たちを照らす。
前身たる陸上自衛隊から変わらぬ迷彩柄の戦闘服を纏い、銃口の彼方に広がる闇を鋭く睨む。
その足元には倒れ伏した戦友の姿、そして真鍮の鈍い輝き。
剝き出しのコンクリートに散った血痕が銃声と共に赤々と燃える。
「撃て撃て!」
窓枠を銃架とし、火を噴く分隊支援火器。
曳光弾の赤い軌跡が目黒川を横切り、ビルディングの側壁を叩いて激しく踊る。
「くそっ」
しかし、敵火点は沈黙しない。
制圧射撃の間隙を縫うように4階の窓で反撃の銃火が瞬いた。
「密造銃の精度じゃないぞ…!」
「反撃させるな!」
荒れ果てた病室の壁に弾痕が刻まれ、散ったコンクリート片がヘルメットを強かに叩く。
それでも怯むことなく防人たちはライフルのトリガーを引き続けた。
「ドローン…?」
銃撃の応酬が繰り広げられる中、隊員の1人が視界の端に不自然な飛翔体を捉える。
暗視ゴーグル越しに見える闇夜を舞う影――国防軍では採用されていないクアッドロータ。
そして、曳光弾の赤が一筋の銀糸を浮かび上がらせる。
まるでクモの糸のように見える
「
機体下部に固定された物体が迫撃砲弾であると理解した時、敵対者の殺意が形を成す。
「突っ込んでくる!」
「撃ち落とせっ」
ライフルの銃口が迫り来るドローンへと向けられた。
しかし、空中を移動するターゲットの迎撃は困難を極める。
火箭が虚空に吸い込まれ、眩い赤に照らされる灰色のシルエット。
「がっ」
「村田!」
敵の容赦ない銃火が防人を射抜く。
しかし、膝から崩れ落ちる戦友へ駆け寄る時間はない。
不気味な羽音が鼓膜を叩き出す。
脅威は眼前――闇に火花散る。
宙を舞うは、モーターごと粉砕されたカーボン製の黒い羽。
推進力を失ったドローンが慣性に従って1階下へと突進する。
「当たった!」
「よし!」
沸き上がる歓声、響き渡る鈍い爆発音。
床から天井まで振動が駆け上がり、埃と粉塵の入り混じった白が隊員たちへ降り注ぐ。
堪らず咳き込む者もいるが、決して頭は上げない。
「次が来る!」
「装填中!」
空薬莢の絨毯に落ちたマガジンが甲高い金属音を立てる。
対岸から放たれた銃弾が頭上を掠め、壁面に新たな傷跡を刻み込む。
「村田、動けるか!」
「も、問題ない……プレートで止まった」
「おい、松本! 俺が分かるか!? 返事しろ!」
「早く
窓外の死角となる柱の陰では懸命な戦傷救護が行われ、室内の血臭が濃度を増す。
白兵戦が主体となるインクブスとの戦闘では見られない現代火器の応酬は、国防軍に出血を強いている。
――状況は芳しくない。
現在、旧目黒駐屯地と隣接する病院跡地に展開中の小隊は、正体不明の武装勢力と交戦していた。
ラーズグリーズの提言もあって信奉派残党の襲撃は想定していたが、敵は有象無象のテロリストではない。
正規軍、それも実戦経験が豊富な戦闘部隊だ。
「小隊長、中隊本部と繋がりません」
「……分かった」
険しい表情を浮かべる隊員を一瞥し、壮年の小隊長は口を引き結ぶ。
敵が正規軍と推定される要因の1つが一帯に発されている強力な通信妨害だ。
日本国の一般人が入手できる電子機器では、まず不可能な芸当だった。
携帯無線機が5キロの荷物と化したことで部隊間の連携を封じられ、現況を確認することもままならない。
「狙いは陽動か」
「おそらくは」
装備と練度において敵は同等以上だが、1個小隊を殲滅するだけの火力を有していない。
かつて病室だった一室に刻まれた弾痕は、国防軍を足止めするために穿たれている。
ターゲットが会合中のウィッチであることは明白だった。
火器によるウィッチの殺害――可能だが、現実的ではない。
何らかの対抗手段を用意した上で襲撃作戦を画策しているだろう。
敵の攻撃は場当たり的行動とは思えぬ強度があった。
「……馬鹿どもめ」
ささくれた唇から零れる悪態。
子供――力の有無は関係ない――を害するために死力を尽くす大人を愚者と呼ばずになんと言う。
白く煤けたヘルメットの下で輝く瞳に揺るぎない戦意が宿る。
「ハチヨンの斉射で対岸の敵火点を潰す」
国防軍の為すべきことは、敵の思惑を粉砕することだ。
銃声鳴り止まぬ中、小隊長の発する一言一句に意識を集中させる3人の隊員。
情報を伝達する術は無線通信だけではない。
「脅威を排除した後、第2分隊は負傷者を後送」
「了解!」
「第1と第3分隊は陣地を維持、目黒川を渡らせるな」
「了解」
命令を記憶した3人の隊員は武骨なライフルを抱え、一息に駆け出す。
その影が廊下へ滑り込んだ刹那、壁面に弾痕が穿たれる。
照準は精確――しかし、狂気が目を曇らせた。
いかに優れた軍人もインクブスの傀儡となれば真価を発揮できない。
奇襲の効果を使い果たした今、敵は射点を移動すべきだった。
「全員、聞いたな。ハチヨンを援護するぞ」
「了解!」
暗闇に包まれた病室で歴戦の防人たちは頷き合う。
伝令が各分隊の下へ辿り着いたことで、小隊は本来の力を発揮するため動き出す。
「連中に目に物見せてやりましょう」
多目的榴弾を装填した無反動砲を担ぎ、大柄な隊員が窓外へ獰猛な笑みを向けた。
インクブスを正面から粉砕する火力偏重の戦闘部隊を前に、それは自殺行為だ。
人数が少数となれば猶更――敵の銃火が一時的に途絶える。
精確な射撃は希薄な密度を補うため。
火器が残弾の概念から逃れられない以上、必ず
「援護射撃!」
1個小隊の火力が対岸のビルディングを打ち崩さん勢いで放たれる。
眩い閃光が闇を幾度と切り裂き、空薬莢の雨が床に散乱したガラス片を弾く。
反撃の隙など与えない。
「中村!」
「了解」
制圧射撃が捻出した時間に無反動砲の射手は標的を光学照準器に収める。
「後方の安全確認!」
装填手が後方に障害がないことを確認し、トリガーに指が掛かる。
一呼吸――闇を消し去る強烈な閃光。
しかし、それも刹那の輝き。
無反動砲の後方から噴出した燃焼ガスが粉塵を巻き上げ、室内を埃臭い白に染める。
「命中!」
衝撃波が大気を伝播して鼓膜を震わす。
無反動砲の斉射はコンクリートの側壁を完膚なきまで破壊し、古びたビルディングに引導を渡した。
穿たれた大穴から萎むように構造物は崩壊を始め、直下の歩道に瓦礫が降り注ぐ。
当然、敵からの反撃はない。
「敵火点沈黙っ」
報告を受けて重苦しい息を吐き出す防人たち。
勝利の余韻などあるはずもない。
軽くなったマガジンを交換する金属音と負傷者の呻き声が病室を反響する。
「次は負傷者の後送だ。警戒を緩めるな」
「了解」
倒壊したビルディングを睨む小隊長は険しい表情を張り付けたまま。
眼前の脅威は排除したが、いまだ旧目黒駐屯地周辺から銃声が鳴り止む気配がない。
そこから推定される襲撃の規模は大きく、ウィッチの援護はおろか負傷者の後送も危ぶまれる。
「何者だ……」
言い知れぬ焦燥感を誤魔化すように疑問を吐き出す。
瓦礫の隙間から覗くライフルは、アメリカ陸軍が採用しているモデルだった。
本国が主戦場となってから量産体制を維持できず、遅々として配備が進んでいない次世代分隊火器。
現在、協同で作戦に当たっているアメリカ海兵隊には配備されていない。
敵対勢力は信奉派に下ったアメリカ陸軍の
「なんだあれ…?」
ドローンを警戒する隊員が怪訝な声を漏らしたことで小隊長は思考を中断する。
「敵か」
薬室に次弾を送り込む無機質な動作音、そして鋭い呼気の音。
小隊長は隊員が左手で指し示した方角へ視線を走らせる。
緑に彩られた暗視ゴーグル越しの世界には、コンクリートの墓標が連なっている。
「いや、あれは…」
その頂を軽々と飛び越えていく影。
幽鬼のような
外套の下に携えた得物が見えなければ、人類の守護者と判別できなかっただろう。
数にして4。
重力の縛りを受けているが、彼女たちは現実感のない跳躍を繰り返す。
「ウィッチだ…!」
夜空を切り裂く曳光弾の軌跡が照らす灰色の人影。
風を孕んで翻るロングコートには、7の番号が刻まれていた。
◆
血を見るのは慣れている。
インクブスの腹を切り裂き、頭蓋を砕けば容易に飛び出すものだ。
夢の中にまで滲み出すようになって、もう切り離すことはできないのだろうと諦観していた。
だが、頬を伝う生温かい感触はインクブスでもなければ、
「黒狼っ」
名を呼んだ少女の額から滴り落ちる赤。
頭上の尖った犬耳が大きく欠け、血が黒髪に染み込んでいく。
それでもエナの輝きを帯びた黄金の瞳に浮かぶのは安堵の色だった。
「……大丈夫」
今にも壊れてしまいそうな、大人びた笑み。
痛みを誤魔化すために奥歯を噛み、それでも口角を上げようとする。
見ているだけで心臓を鷲掴みにされたような気分になる。
最悪だ。
「次が来るぞ、黒狼!」
「っ!」
華奢な体躯からは想像もできない力でコンクリートに押し付けられる。
同時にエナの奔流が私たちを取り囲むように渦を巻く。
それは不可視の壁――世界が白く明滅する。
光と音と熱。
引き伸ばした光の筋が周囲を飛び交い、強烈な熱量が肌を焦がす。
鼓膜に殴りつける轟音はコンクリートが切削される音か。
まるで花火の中心にいるみたいだ。
「ぐっ…ぅ…!」
剥き出しになった犬歯の隙間から漏れ出す苦悶の声。
黒狼のエナは荒れ狂い、不安定な乱高下を繰り返している。
まずい。
本来、ウィッチナンバー2に名を連ねるウィッチが攻撃を真っ向から受ける必要はない。
「今、動かせるファミリアは?」
周囲のコンクリートが削れ飛ぶ音に気が急く。
曳光弾の眩い光線が走るたび、浮かび上がるパートナーの影へ問う。
「妨害を受けています…! 到着まで2分!」
舌打ちしたくなる衝動を抑え、頭を回す。
私たちに降り注ぐ火力は並大抵のものではない。
国防軍やアメリカ軍がインクブスを撃破する際に投入されるような密度だ。
つまり、敵は正規軍に匹敵する何者か――腹の底から黒い感情が湧き上がる。
インクブスに組したところで未来がないと理解できないのか。
度し難い馬鹿だ。
「ラーズグリーズ!」
「聞こえてるわよ――っと!」
黒狼の叫びに呼応する戦女神の声は頭上から降ってきた。
不意に銃火が途絶え――雷鳴が轟く。
腹の底にまで響く地鳴り。
遅れて暴風が吹き抜け、焦げ臭い灰色の粉塵が肌を撫でる。
視界の端には、闇の底へ崩れ落ちていく摩天楼。
乾き切った唇を噛み締めると口内に鉄の味が広がった。
無意味だ。
全くもって無意味な死だ。
私たちの敵はインクブスだろうに。
「黒狼、大丈夫か?」
溢れ出しそうな呪詛を飲み込んで、荒い呼吸を繰り返す黒狼の頬へ触れる。
手に伝わってくる体温は恐ろしく低い。
「……問題ない」
肩で息をしている状態では説得力がない。
のっそりと体を起こした黒狼は振り子のように揺れている。
私よりも幼く見える彼女は、今にも消え失せてしまいそうな危うさがあった。
1分にも満たないエナの放射で、ここまで衰弱するとは考えにくい。
いや、あの夜から既に
「怪我は、ない…?」
「ああ、助かった。エナの放射は抑えられるか?」
纏っていたロングコートを外し、漆黒の影を覆い隠すように被せる。
こんなものは無意味だと分かっている。
無力な私こそ床に這い、息を殺しているべきだ。
彼女が身体を張ってまで守ろうとした理由を理解しろ。
この行動は合理的じゃない――くそくらえだ。
自己保身のために他者を切り捨てるなんて冗談じゃない。
腰のシースからククリナイフを抜き放ち、テレパシーを全周へ飛ばす。
旧目黒駐屯地を取り囲むように銃撃戦が続いている。
今は状況を把握し、離脱するのが最優先――
「……捉えたぞ」
来たな。
この泥土のように粘りつく悪意、よく知っている感覚だ。
そんなものを垂れ流す存在は、人類の天敵たるインクブス以外にあり得ない。
しかし、闇を見通すファミリアの眼に邪な影は映っていなかった。
「シルバーロータス…?」
「インクブスだ」
無理に立ち上がろうとする黒狼の肩を抱き寄せ、ククリナイフの柄を握り締める。
敵対者がインクブスならばファミリアの枷を外すだけだ。
黒狼が戦う必要はない。
――夜空から一筋の光線が走る。
暗順応した目が辛うじて捉えたのは、空中で砕け散る人工の羽だった。
「お次はドローンってわけ?」
頭上から降ってくる戦女神の嘲笑は普段通り、とは言い難い。
羽の舞い落ちた方角から軽快な破裂音が響き渡る。
ドローン、それも
「レーヴァン!」
パートナーを呼ぶラーズグリーズの声は明らかに苛立っていた。
嫌な予感がする。
「これ以上の介入は許容されまい」
聞き取れた単語の意味が分からない。
この非常事態に許容だと?
「…ったく!」
矢継ぎ早に放たれる光線が夜空を切り裂く。
闇夜に爆ぜた紅蓮の華がコンクリートジャングルを照らす刹那、私たちに向かって伸びる銀糸を捉える。
まるでクモの糸――否、ドローンの通信ケーブルだ。
四方八方、数にして10条以上。
ラーズグリーズの迎撃が確実に数を減じているが、殲滅より先に
一般的なウィッチであれば脅威足り得ないが、並以下の私にとっては天敵と言っていい。
疲弊した黒狼を抱えて逃げられるか?
いや、今は考えるな。
動け――
「シルバーロータス、騎兵隊です!」
「なに?」
左肩のパートナーが前脚を上げ、曳光弾の走る夜空を指し示す。
呼び声に応じるかのように響き渡る重い銃声。
自爆ドローンの1機が空中で炸裂し、ロングコートを翻す人影が浮かび上がる。
「あれは……」
跳躍の高度はウィッチのそれ。
だが、浮遊のマジックは使っていない。
重力に従って本部庁舎の屋上へ一直線に突っ込んでくる。
激突――寸前で減速、影が像を結ぶ。
接地と同時に前転することで衝撃を上手く逃す。
エナの消費を最低限に抑えた見事な着地だった。
「ご無事ですか!」
即座に立ち上がり、こちらへ向かって駆け出す4人のウィッチ。
その先頭から聞こえた声には覚えがある。
「モーガン少尉…!」
アメリカ陸軍危機即応部隊に所属するウィッチであり、かつて黒狼と敵対していた人物だ。
「
「Roger !」
モーガン少尉はチームを先行させ、徐に立ち止まった。
体躯に見合わぬアンチマテリアルライフルを軽々と振り回し、無造作に発砲。
耳を劈く重い銃声が1発、2発と大気を震わす。
暗夜に火花が瞬いたかと思えば、眩い閃光と爆音が撃墜を主張する。
「到着が遅くなり、申し訳ありません」
駆け寄ってきた灰色のウィッチたちは私と黒狼を背に闇と相対する。
銀とも異なる白髪からは硝煙が香り、研ぎ澄まされた刃のような横顔は軍人そのもの。
これでドローンに対処できるか――そうじゃない。
一瞬でも安堵を覚えた己の浅慮に失望する。
己の無力を容認するなよ。
「いや……助かった」
ククリナイフの柄を握り直し、鈍った戦意を研ぎ直す。
この事態を引き起こした元凶は未だ健在だ。
「遅かったわね、即応部隊さん」
鋭い風切り音を伴って天から降る戦女神の声は、幾分か調子を取り戻していた。
いや、
「障害の突破に手間取りました。支援は必要ですか?」
「必要ないわ」
モーガン少尉の問いに淡々と応じたラーズグリーズは無造作に右手を振るう。
傍らに浮かぶ純銀のロングソードが光線となって夜空を駆ける。
失せる星の輝き――紅蓮の火球が一帯を昼同然に照らす。
鈍い爆発音が響き渡り、衝撃波が頬を強かに打った。
攻撃の残滓が炎の雨となって降り注ぐ光景に思わず頬が引き攣る。
あれは自爆型ドローンなんて生易しい代物じゃない。
「
「次から次へと……小降りのうちに早く行きなさい」
ハルバードを乱雑に掴んだラーズグリーズは空色の装束を靡かせ、高度を上げていく。
この規模の攻撃を日本国内で成立させる勢力は限られる。
国防軍か、それともアメリカ軍か――
「いますぐ離脱しましょう」
異邦人とは思えない流暢な日本語が耳に届く。
私を見つめる淡い青の瞳は切迫した状況であっても理知的で、誠実だ。
「分かった」
だからこそ、喉元まで上がってきた軽率な問いかけを飲み込む。
アメリカ軍の思惑はどうであれ、こうして戦場に身を投じた彼女たちを疑いたくはない。
今も降り注ぐ人間の悪意に目を曇らせ、駆逐すべき敵を見誤るな。
「動けるか」
ロングコートを被ったまま動けない黒狼の顔を覗き込む。
強まる血臭に口を引き結ぶ。
黒狼の額からは脂汗が流れ落ち、肌は血色を失っている。
「……うん」
それでも体毛に覆われた右腕で体を支え、屈した膝の代わりに立ち上がろうとする。
突き立てられた鋭利な爪がコンクリートに傷跡を刻む。
「よせ、黒狼! まだ止血が不完全だ!」
パートナーの警告と右腕から血が噴き出すのは同時だった。
まるで
銃創による出血とは思えない。
どうなっている?
「足手纏いには…!」
「待て。肩を貸す」
肩を貸した瞬間、想定していた加重が全く感じられず、言い知れぬ焦燥感に襲われる。
あまりに軽い。
異常だ。
鼠色のロングコートにも赤が滲み、歪な斑模様を描き出している。
このままでは離脱に成功しても失血死しかねない。
「レイラ、応急手当を」
銃声を引き連れて曳光弾が夜空を駆ける中、モーガン少尉の声は明瞭に聞こえた。
聞き間違いじゃない。
チームの誰もが次の言葉を紡げず、確認のために視線を交える。
当然の反応――彼女たちにとって黒狼は敵だったのだ。
銃声と爆発音が絶え間なく響き、ウィッチたちが睨み合う光景に既視感を覚える。
私の助力を求めて2つの陣営が激突した
国防軍によって幕引きが図られたが、当事者の感情は置き去りにされたままだ。
理屈の話じゃない。
「Roger」
だが、沈黙を破ったのは了承だった。
短い応答には様々な感情が入り混じっていたように思う。
それでも黒狼の隣で膝を突き、静かに手を翳すウィッチの目に躊躇はなかった。
仄かに温かさを感じるエナの光が黒毛に染み込んでいく。
「いいのか?」
無粋な問いが口から零れ落ちる。
彼女たちが決して見捨てないと理解していながら。
「
私の待ち望んだ回答だ。
だが、背を向けたモーガン少尉の声には絞り出したような響きがあった。
「そうでしょう?」
自身に言い聞かせるように言葉を続ける。
インクブスを絶対的な悪と定められた私とは違う。
この世界は善悪で分けられるほど単純な構造をしていない。
モーガン少尉たちは軍属ゆえに望まざる戦いを強いられたこともあるだろう。
「そうだな」
肯定はする。
インクブスは絶滅させなければならない不俱戴天の敵だ。
ただ、この肯定が否定に繋がらないことを願う。
「応急手当が完了次第、移動します」
「…感謝する」
黒狼の前髪を留める髪飾りが星のように瞬いた。
殊勝な態度を取るパートナーを一瞥し、治癒のマジックを施すウィッチ――レイラだったか――は鼻を鳴らす。
そう簡単に両者の溝が埋まるとは思っていない。
ひとまず、黒狼は任せても――裾を引かれ、身動きを止める。
私を映す黄金の瞳が不安に揺れていた。
縋るような眼差しが驚きと後悔で崩れていき、それが無意識の行動だったと分かる。
「あ……ごめん、なさい」
控え目に裾を掴んでいた左手が離れる前に、しっかりと握る。
あの長大なシミターを握っていたとは思えない、柔く、細い手だった。
「心配するな」
恐る恐る握り返してくる感触に頷きで応じる。
黒狼の迅速な行動がなければ、面制圧で挽肉にされていたのは私だ。
その行いには報いなければなるまい。
「斯くして舞台は整った」
この悪意を根絶やしにすることで。