紅い砂煙の流れる地平線から滲み出すインクブスどもの黒い影。
私たちを囲む戦列は分厚く、今まで遭遇した中で最も重武装だ。
まさか四面楚歌を体験する機会があるとは思わなかった。
荒野の乾き切った空気も相まって失笑も枯れ果てそうだ。
「最悪だな」
吐き出した言葉は重力を伴っているかのように体を重くする。
ファミリアとインクブスが激突している最前線は遥か彼方にあり、この包囲を逆包囲する戦力は今すぐ招集できない。
ここは文字通りの異世界で、都合の良い救援が現れることは決してない。
芙花や父さん、律たちにも会えない。
おそらくは二度と――開きかけた唇を強く噛む。
仄暗い思考を凍結させ、荒地に滴り落ちた赤を睨みつける。
ただでさえ絶望的な状況で、心理的な負荷を増やすな。
絶望はインクブスどもを利するだけだ。
呆けている場合じゃない。
状況打破、それだけに集中しろ。
「完全に包囲されました」
モーガン少尉の切迫した声に顔を上げる。
「
「holy shit」
上手く聞き取れずとも苦々しい声色で意味は分かる。
アメリカ陸軍危機即応部隊の4人は得物こそ手放していないが、その横顔に差す絶望の色は濃い。
敵地で孤立無援、完成した敵包囲――あまりに生還の見込みが低い。
取り乱していないことが奇跡だった。
それは彼女たちが訓練された軍属ゆえか、それとも歩んできた戦場の過酷さを表すのか。
「
「あの厚みを食い破る前に燃え尽きるぞ」
「構わない。綻びを作れば十分」
傍らでは黒狼がパートナーと不穏な問答を交わす。
頭上の耳が忙しなく向きを変え、黄金の瞳は地平線を鋭く睨んでいる。
出血こそ止まっているが、激しい戦闘に耐えられる状態ではない。
ひび割れた壺だ。
いつ割れても不思議じゃない。
「あんな数、どうしたら……」
レッドクイーンは地面に座り込んだまま、迫り来る現実に圧倒されていた。
避けられない絶望を前にして、バトルアクスを握る手が小刻みに震えている。
本来、これが正常な反応なのだ。
膝を屈すれば死より悍ましい結末が待っているとしても、恐怖に立ち向かい続けることは難しい。
それでも世界は年端もいかない少女たちに戦うことを強いてきた。
唾棄すべき歪みだ。
こんな場所に彼女は――彼女たちはいるべきじゃない。
インクブスの狙いが私である以上、私が巻き込んだようなものだ。
逡巡している時間などない。
胸中に渦巻く淀みを吐き捨て、意識を絞っていく。
戦力不足、手札が不完全――知ったことか。
己の無力を理由にするな。
レッドクイーンたちを1人も欠けることなく生還させる、それが最低条件だ。
そして、インクブスどもは鏖殺する。
「来る…!」
犬歯を剝き出しにした黒狼が唸るように告げる。
インクブスの戦列は距離を保ったまま得物を構え、整然と動きを止める。
あれは突撃じゃない。
「
四方から鳴り響く鋭い風切り音、そして黒い雨が赤い砂塵のカーテンを貫く。
横殴りの暴雨を構成するのは幾万の矢弾。
ボウガンの斉射による面制圧――
「全員集まれ!」
奇襲でなければ私にも切れる手札はある。
黒狼が右腕を突き出すより早く一歩前へ踏み出す。
全ての雑音を意識から追い出し、ただ集中する。
脳裏に浮かぶ膨大な情報から選別――盾となるファミリアの輪郭を形成。
支援無しではエナの必要量が不足することは百も承知。
だが、やる。
「
反転する世界の色。
白は黒に、黒は白に。
吹雪を思わせる銀色のエナが踊り、私たちの影を巨大な影が覆い隠す。
「召喚成功です!」
パートナーの呼び声に応じ、打ち鳴らされる灰青色の重厚な鋏。
長大な第一触角が砂塵のカーテンを切り開けば、迫り来る黒い死の雨。
それを重量級ファミリアたるヤシガニは悠然と待ち構える。
――着弾。
そして、夜が訪れる。
分厚い弾幕は月光を遮り、暴雨が屋根を叩くような音に聴覚を支配される。
だが、高い強度を誇る積層構造の外殻は貫通できない。
鏃の砕けた矢が外殻を滑り落ち、荒野を埋め尽していく。
「……どういうことだ」
安堵より先に違和感が口から零れた。
微量のエナしか残されていない私が重量級ファミリアを召喚できた。
これまで蓄積した情報から外殻強度や耐性を向上させた
それどころか、エナの消耗が極端に少ない――否、ほぼ消耗していない。
まるで霞から生み出されたかのようだった。
しかし、矢弾の雨を弾き返したヤシガニの堅固な外骨格は紛れもない本物だ。
どうやって不足するエナを補填した?
「どうかしましたか…?」
「なんでもない」
追究は後回しだ。
もし召喚に制限がないとすれば、包囲を真正面から粉砕することも不可能ではない。
その代償が何であろうと今は最大限利用するだけだ。
「黒狼、モーガン少尉」
ヤシガニの頭胸部を見上げたまま固まっている2人を現実に引き戻す。
主力戦車の装甲に匹敵する堅牢な外骨格とて無敵じゃない。
捻出できた時間は有限だ。
「これからファミリアの突撃で活路を開く」
ファミリアを1体召喚した程度では正気を疑われる提案だったが、2人の瞳には力強い光が宿る。
絶望の中で希望を見出した、そういう光だ。
まだ状況は何も好転していないが、絶望に薪を焼べるより余程良い。
「交戦は避け、全力で走れ」
「殿は?」
黒狼はシミターの刃を肩に担ぎ、じっと私の目を見返してくる。
命を擲てと言えば、この少女は何の躊躇いもなく殿を務めるだろう。
そういう確信があった。
「こちらでやる」
冗談じゃない。
ウィッチナンバー2とは比べるまでもないが、遅滞戦闘ならファミリアでも十分だ。
重量級ファミリアが徒党を組めば、ネームドであっても突破させるものか。
「……分かった」
大人しく引き下がる黒狼。
その隣でモーガン少尉は開きかけた口を閉じ、何事もなかったように頷きで応えた。
誰一人置いていくつもりはない。
「レッドクイーン、動けるか」
「は、ひゃいっ」
差し出した手をレッドクイーンは恐る恐る掴んだ。
その震える細い手を握り返し、一息に引き起こす。
真紅の瞳が大きく見開かれ、相変わらず仏頂面の私が映り込む。
「も、もう大丈夫です! ありがとうございました!」
そう言って手を離すレッドクイーンは、幾分か生気を取り戻したように見える。
この程度で恐怖が和らぐとは思っていないが、少しは効果があったらしい。
空いた手を左肩のパートナーに寄せ、小さな前脚と触れ合う。
「花道を作ってみせます!」
突破戦だ。
一切合切の躊躇なく、あらゆる手段を用いて、眼前の包囲を食い破る。
「ああ、やるぞ」
目を閉じ、矢弾の跳ね返される音は雨音程度に聞き流す。
求められるファミリアの陣容は、突破および殿を担う機甲戦力と遊撃を担う機動戦力。
一切の支援もなく、ファミリアの連続同時召喚など未知の領域だ。
だが、不思議と困難は感じない。
ここは海だ――荒野に立ちながら、生命の流れを感じる。
ファミリアの輪郭を形作っていく過程で
この異界にはエナが十二分に存在していると。
大気に満ち溢れているエナの裁量権は――
「やはり、こちら側であったか」
脳裏に響く異形の声。
思い描いていたファミリアの像を乱す耳鳴りに襲われ、重い瞼を上げる。
広がる視野に映る影――そう、影だ。
たしかに存在しているが、不気味に揺らぐ輪郭が正体を悟らせない。
影でなければ陽炎、違和感の塊。
「シルバーロータスよ」
それが言葉を発するたび、大気が澱む。
喉を締め付けるような息苦しさに呼吸が浅くなる。
「何、あいつ……」
黒い毛並みを逆立て、黒狼は低い唸り声を上げる。
これまでのインクブスとは一線を画す存在感、そして威圧感。
「この凄まじいエナの放射量は…!」
「間違いない」
不確かな輪郭の奥底に、滅ぼすべき邪悪の気配が充満している。
それだけで理解は事足りる。
「あれがインクブスの首魁です!」
あれこそ不俱戴天の敵だ。
「
「Roger !」
視界の端で大きく翻されるロングコート。
先制攻撃は、灰色のウィッチから放たれた6本のナイフだった。
両腕を交差させるように水平方向に振り抜き、その全てが正確に目標へ着弾した。
眩い閃光と熱量が――広がらない。
刀身から砂のように崩れていき、弱々しい火花となって消失する。
それは小火とすら呼べぬ威力。
当然、影は揺らぎもしない。
「
「苗床に用はない」
厳かな声には嘲りも憐れみもなく、ただ無関心が巣食っていた。
眼前のインクブスは
酷似した能力を有するファミリアがいる以上、連中が有していても何ら不思議ではない。
ならば、直接攻撃で叩き潰す。
「さて……パックルの言葉通りだな、シルバーロータス」
脳裏に響く雑音の一切を無視し、大気中のエナを型枠に注ぎ込んでいく。
その間にモーガン少尉たちへ突破する方角を視線で示す。
「右翼を突破する」
「アレはどうしますか?」
「こちらで潰す」
「了解」
重量級ファミリアたちが銀のヴェールを脱ぎ去り、荒野に巨大な影を落とす。
その強固な鋏角で、その鋭利な爪で、インクブスどもを肉塊に変える。
燃費を度外視した巨躯と攻撃性は、生物とは思えぬ鋭さがあった。
「ウィッチに擬態した悍ましき化け物め」
言われるまでもない。
ウィッチらしからぬ在り方など百も承知だ。
だからこそ、お前たちを駆逐できる。
「知ったことか」
ククリナイフの切先を突きつけ、大気に満ちるは外骨格が擦れ合う音。
対する不明瞭な影は人型となって右腕で虚空を撫でた。
毒々しい赤が棒状に伸びていき――歪な三叉槍を形作る。
未知の敵とは脅威そのもの。
先手を打たせる前に叩くが定石。
「ならば、死ぬがよい」
オオムカデの疾駆と三叉槍の投擲は同時だった。
音もなく放たれた一投はウィッチの一撃と比して遅い。
甲虫類の艶やかな漆黒が連なれば、不吉な赤は視界から消え失せる――
「なに…!?」
はずだった。
三叉槍は豆腐でも突き崩すように外骨格を貫き、強固な鋏角を叩き折った。
無敵を誇った機甲戦力に風穴が開く。
「
黒狼が異形の右腕を翳すも天変地異は
堅牢なヤシガニの左鋏脚すら貫き通し、エナの残滓を纏った赤は禍々しく膨張する。
「この攻撃は…!?」
あの一撃は絶対に躱せない。
ククリナイフの腹を盾にして、三叉槍の軌跡を最後まで追う。
「
あらゆる障害を突破した凶槍の射線上に立ち塞がったのは、異邦のウィッチだった。
制止する間もなく、赤が爆ぜる。
人体が壊れるには、あまりに軽々しい――風船の割れるような音を聞く。
厚みも傾斜も全ては無意味。
装甲板を思わせるシールドに大穴が穿たれ、未来ある少女の腕が宙を舞った。
鮮やかな血飛沫が視界一杯に散る。
「が、はっ……」
そして、私の脇腹には悪趣味なモニュメントが生えていた。
今度こそ失敗した。
とうとう
神経が焼き切れそうな熱を感じながら、奥歯を噛み締めて踏み止まる。
まだ眠るな。
「シルバーロータス!」
「
目の前で崩れ落ちる少女を右腕で抱き留め、そのまま重力に負けて座り込む。
支え切れない身長差が憎い。
「
駆け寄ってくる人影が幾重にも重なって見えた。
おそらくはモーガン少尉たちだろう。
手持ち無沙汰な左手で三叉槍を握れば、驚くほど簡単に引き抜けた。
偶然か必然か、インクブス真菌の一撃を食らった位置だ。
「
「
もう痛みは消え失せているが、まともに呼吸できない。
じわりと装束に広がる血の感触は想像よりも遅かった。
甲虫類の外骨格を貫通する威力が、この程度で済むか?
思考の回転が鈍い。
「自己治癒が……いや、マジックそのものを阻害されている!?」
左肩に乗っているはずのパートナーの声が遠ざかっていく。
世界の色が薄れ、白黒のスノーノイズが視界を侵食してくる。
全身から失われていく熱を注ぎ足そうと誰かが手を握った。
この肌を撫でる柔らかな感触は黒狼の右手だろうか?
「ど…して、力…使えな…?」
「黒狼……敵が……しっかり…ろ!」
「シ…バーロータス……意識を…!」
私の手を握るのが誰なのか、私を呼ぶ声は誰なのか、もう判別できない。
音が遠ざかり、酷い耳鳴りに支配される。
いとも簡単に人は死ぬものだな。
思考が止まる。
全てが暗転する刹那――眼前に佇む影が明瞭な像を結ぶ。
なるほど、
下劣な怪物を率いる王は、余裕に満ちた声で勝利を告げる。
「永遠に眠れ、災厄よ」
私の声がファミリアに届くことは二度とないだろう。
だが、その程度で止まると思っているなら――
「嘗めるなよ」
◆
夜空の闇へ溶けていく黒煙。
それは鉄と人の焼ける臭いを纏う。
戦闘の痕跡が刻まれた地は、河川敷に設けられた多目的広場。
闇の中で赤々と燃える炎が惨状を余すことなく照らす。
散乱した金属片、雑草を踏み潰す無限軌道の残骸、そして自走式の多連装ロケット砲が横たわる。
破壊された車両群の周囲には人であった
「……さすがは最強のウィッチ、か」
焦げ付いた装甲に背を預け、唯一の生存者が夜空を見上げる。
そこには闇夜にあって煌々と輝く光があった。
「やってくれたわね」
何者にも汚すこと叶わぬ空色の戦装束が眼下より熱風を受けて靡く。
彼女の名を知らぬ防人はいない。
絶対国防圏の守護者にして敵対者へ死を告げる戦女神。
自他共に認める最強のウィッチ――ラーズグリーズ。
少女たちの前で見せるニヒルな笑みはなく、人形のような無表情で裏切者を見下ろしている。
この惨状を生み出したのは他でもない彼女だ。
「はぁ……まだ毒を出し切れてなかったなんて」
小さく開かれた口から漏れる陰鬱な溜息。
ラーズグリーズの碧眼に映る男は、国防陸軍で正式採用されている戦闘服を纏っていた。
河川敷の多目的広場から長距離攻撃を行った敵対勢力は、日本国の防人。
先日の駆除作戦にて国防軍も身を切ったが、それでも毒が残留していたのだ。
「これで打ち止めさ」
左半身が炭化した男は固着しかけた唇を無理やり開き、血と諦観の言葉を吐き出す。
その真偽は定かではない。
ただ、夜に沈む旧首都は静寂を取り戻し、夏虫の合唱が辺りに響いている。
無粋な音といえば、装甲を焦がして爆ぜる火花の音だけ。
「所詮……寄せ集めだ」
それが事実であることはラーズグリーズも
シルバーロータスの狙撃および旧目黒区一帯の電波妨害を行った部隊は、本国にて行方不明となっていたアメリカ陸軍の特殊部隊。
自爆型ドローンのオペレーターは汎スラブ色の国旗こそ外していたが、ロシア陸軍の兵士だった。
帰るべき場所を捨てた、あるいは失った者たち。
その規模と練度には面食らったが、蓋を開けてみれば傀儡軍閥の同類だ。
「貴方たちは何がしたかったのかしら?」
だが、ここで骸を晒す者たちは違う。
蟲との共同戦線に身を置いていた彼らは、インクブスの嘯く甘言が
ここでインクブスの傘下へ加わる理由がない。
ゆえに、ラーズグリーズは問うた。
「ただ、家族に……娘に会いたかった」
徐々に首が傾いていく男の口から零れ落ちた言葉。
それは人として、親として、切実な願いだった。
大きな音を立てて弾けた火花が両者の間で舞い上がる。
「そう」
ラーズグリーズは烈火の映り込む碧眼を閉じ、静かに理解を示す。
鋼鉄のように屈強な国防軍の軍人も血の通った人だ。
彼らが先の見えない過酷な戦いを続けられる理由は、ひとえに守るべき者を持つ生者ゆえ。
希望無くして人は戦えない。
「インクブスが聞き届けてくれると思う?」
しかし、現実は突きつける。
これより死にゆく者には残酷な仕打ちだが、過ちは正さなければならない。
己の行動が望む結果に結びつくことは決してないのだと――
「奴は、違った」
炭化した皮膚が剝がれることも厭わず、男は首を横に振った。
「奴?」
わずかに眉を上げ、ラーズグリーズは言葉を反芻する。
インクブスが人語を解するゆえに対話が可能だと誤解する者は後を絶たない。
だが、あれらは人類を家畜か玩具と認識している怪物であり、対話など不可能だ。
「娘の声を……聞くことができた」
男は焼けた喉を震わせ、受け取った希望を絞り出す。
妻に、娘に、恋人に会わせてやろうと嘯くインクブスが実際に報いた例は存在しない。
彼らは略奪者――その常識を覆す
一朝一夕の懐柔ではあるまい。
されど、国防軍の一部隊を掌握するなど前代未聞。
それを周囲に悟らせず、隠匿してきたインクブスは
「たしかに、娘は……」
乾き切った空気の漏れる音。
濁った瞳から光が失われ、瞳孔の闇が広がっていく。
「生きて――」
最後まで言葉が紡がれることはなかった。
眩い白が溢れ、闇を消し去る。
弾薬車より噴き出した炎が人影を飲み込んで雷鳴の如き爆発音を轟かせる。
生存者は、もういない。
裏切者の最期を見届けた戦女神は追われるように夜空へと舞い上がる。
「洗脳か、幻影か……肉声ではあるまいよ」
濛々と立ち込める黒煙の渦を見下ろし、無感情に告げる戦女神のパートナー。
「愚か、と断ずるは容易いが」
「愚かよ」
漆黒の翼を一瞥し、ラーズグリーズは続く言葉を遮った。
眼下を流れる河川が線となり、赤々と燃える火葬場が掌ほどに見える高度に達する。
そこで初めて戦女神は口元を苦々しげに歪めた。
「死んだら意味ないでしょ」
ラーズグリーズとの交戦は絶対的な死を意味する。
男は娘との再会を望みながら、生還を全く想定していなかった。
インクブスの甘言を信じるのであれば、地獄の底からでも生還して娘を迎えてやるのが親の責務だろうに。
軍人としても、父親としても失格だった。
「……手間取ったわね」
行き場のない苛立ちに蓋をして、ラーズグリーズは己のエナに働きかける。
飛翔のマジックが不可視の推進力を生み出し、瞬く間に加速する世界。
空色の戦装束を靡かせて戦女神は夜空を駆ける。
「まったく最強が聞いて呆れるわ」
誰しも想定外には弱いものだ。
しかし、多少の番狂わせで空回りする
いつになく苛立っている。
「語弊はあるまい」
毒づく主の傍らで羽ばたくワタリガラスは淡々と応じた。
「汝は一度たりとも敗北していない」
ラーズグリーズに敗北はない。
その衣を何者も穢すこと叶わず、その矛を何者も阻むこと叶わぬ。
敵対者の全てを超越し、敗北という概念の存在を許さない。
一には二を、百には千を――それが彼女の備える理。
ウィッチナンバー1とは憧れの到達点ではなく、誰も辿り着けない記号の代名詞である。
「敗北していないですって? はっ……見解の相違ね」
ラーズグリーズが敗北する未来は、これからも訪れないだろう。
彼女を取り巻く者たちに如何なる惨禍が訪れようとも。
「最強を謳うなら世界平和ぐらい実現してみなさいよ」
戦女神はニヒルな笑みを浮かべ、従者を真っ向から嘲る。
これまで幾度と力を振るい、ウィッチたちの踊る表舞台から無粋な役者を取り除いてきた。
しかし、世界を根本的に救うことはない。
今も犠牲は増え続け、死神は墓に名を刻み続けている。
それは敗北よりも質が悪い。
「汝の力は
苛立つ主の横顔をガラス玉のような眼に映すレーヴァンは定型の言葉で応じ――
「それ以上を望めば、人ではなくなるぞ」
忠告を付け加えた。
「今更でしょ」
ラーズグリーズはパートナーの言葉を鼻で笑う。
人ならざる超常の存在に仕立て上げておきながら、その忠告は馬鹿げている。
幾万の人類を片手間に葬り去った者が人と呼べるものか。
「……忌々しい」
望んだ力は人並みだった。
己の周囲に降り注ぐ不幸を振り払うだけの力があれば十分だった。
しかし、秘めたる才能が埒外ゆえに告げられた役は舞台装置。
過度な干渉は許されず、かと言って無私になることもできぬ。
その在り方を呪わずにはいられない。
碧い瞳が闇に沈む街を睨み――超新星爆発もかくやという蒼が爆ぜた。
夜を昼へと変える一撃、爆心地は旧目黒駐屯地。
そこで荒れ狂う蒼きエナは推し量るまでもなくアズールノヴァだ。
今宵は招待していなかったが、シルバーロータスあるところに彼女あり。
「相変わらず派手ねぇ」
呆れの滲む苦笑を漏らしながら微かに肩の力を抜く。
想定外の連続だったが、最後の乱入者については心配する必要はあるまい。
飼い主の前では猫を被る大型犬のことをラーズグリーズは理解していた。
無用な問題は起こさないだろう。
「行き着く先はウィッチナンバー2だ。自制させるべきではないか」
一際大きな羽音を響かせ、無機質な言葉を投じるパートナー。
「何か変なものでも啄んだ?」
歪みかけた口元を笑みで取り繕い、胡乱な視線を返すラーズグリーズ。
「他人の心配なんてらしくないわね」
「汝の憂い、理解できぬほど愚鈍ではないぞ」
今度こそ笑みは消え、眼光が鋭さを増す。
バウンダリを外したウィッチの末路は
しかし、自己のエナを食い潰していく過程で生じる症状は判明している。
身体変化や精神変質――最も重度な事例が黒狼だ。
そもそもの対象者が少ないため報告例は限られるが、いずれは彼女と同様の状態に至ると推測されている。
当然、
「今は問題あるまい。だが、いずれ限界が訪れる」
そんなことは言われるまでもなく理解している。
理解していながら、彼女たちの力を利用しなければ表舞台への干渉もままならない。
すべてはウィッチナンバー1に課せられた制約へ帰結する。
「使い潰すつもりはないのだろう?」
並べられた単語に悪意は微塵もない。
ただ事実を陳列しただけ。
ラーズグリーズは制約の許容内で線引きを行い、生かす者を選別してきた。
その対象者を記憶しているレーヴァンは主の意思を汲んだに過ぎない。
「誰が好き好んで……」
普段の彼女であれば、お喋りなパートナーの小言だと一蹴していただろう。
しかし、お節介なワーカーホリックの一言が、親しげに笑う異形少女の横顔が、心に僅かな綻びを生んだ。
ラーズグリーズは溢れ出した感情に任せて口を開く――
「…っ!」
続く言葉は虚空へと消えた。
不意に空中で静止したラーズグリーズは、夜に沈む旧目黒区を隅々まで見渡す。
微かに強張った横顔を生温い夜風が撫でる。
「レーヴァン」
碧き瞳が入り乱れたエナの色彩を見分け、根源まで辿っていく。
そして、あるべきはずのモノがないと悟る。
「確認した」
肩に降り立った漆黒のパートナーが観測結果を共有する。
「ポータルだ」
入り乱れたエナの根源――つまりはウィッチ――がインクブスの用いる移動手段と共に消失した。
それはウィッチが敗北するたびに観測されてきた拉致の痕跡だ。
彼女たちに敗北は有り得ない、と断ずるほどラーズグリーズは楽観主義者ではない。
最悪の事態も想定しなければならなかった。
「急ぐわよ」
瞬時に再加速、音が失せる。
白光が闇夜を切り裂き、静寂の訪れたコンクリートジャングルを鋭く照らす。
流星あるいは雷光――エナの消費を一切考慮しない最高速だ。
禍々しい黒煙の柱を貫き、変わり果てた旧目黒駐屯地を視界に収める。
人工物の灰色を覆い隠す黒は、荒々しい自然の産物でありながら作為的な形状をしていた。
超新星爆発に等しい斬撃がなければ、大樹の鳥籠と形容すべき構造物だったのだろう。
間違いなくマジックの産物だ。
「あれは……」
ラーズグリーズは爆心地である庁舎屋上に影を捉えた。
灰混じりの風にドレスの裾だけが揺れ、華奢な身体は微動だにしない。
その傍には身の丈ほどもある刃が打ち捨てられ、主人を足下から見上げている。
戦意を喪失しているように見えるが、舞い踊るエナの燐光は感情の昂りを制御できていない証左。
「ったく」
舌打ちしたくなる衝動を抑え、ラーズグリーズは庁舎屋上に降下する。
高度を下げるにつれ、人肉の焦げる臭いが強まっていく。
悪臭の根源は、視界の端で崩れ落ちる外法の大樹。
「…祭壇の関連物か」
旧首都近郊で確認されていた悪趣味な祭壇とエナの気配が酷似している。
無力化の判断は早計だったと結果で示され、戦女神の眉間に皺が寄る。
苛立ちは煤けたコンクリートの床面で硬質な足音となって消化される。
「アズールノヴァ」
名前を呼ばれた少女は反応を示さない。
魂を抜かれたような生気のない横顔は人形を思わせる。
円形状に抉れた床面を見つめたまま時だけが無為に過ぎていく。
「状況を説明しなさい」
時間が惜しいラーズグリーズは無造作に歩み寄り――
「失敗した失敗した失敗した。違う。そんなはずない。これも予期されていたに違いない。そうよ、そうに違いない」
耳に飛び込んでくる支離滅裂な言葉の羅列。
分別のつかない幼子の独り言にも、人の精神を蝕む呪詛のようにも聞こえる。
それを紡ぎ続けるアズールノヴァは、とても正気と呼べる状態ではなかった。
「こっちを見なさい。愛しの飼い主様はどうしたの?」
引き攣りそうな口元を引き結び、ラーズグリーズは努めて普段通りの調子で問う。
しかし、蒼い瞳は何も映さない。
夜すら飲み込む闇が滞留し、深淵を覗き込んでいるようだった。
「シルバーロータス様なら……違う、違う違う違う。私が付いていながら、そう、今度こそ失敗しないはずだった。でも、失敗した。間に合わなかった」
ここまで酷く取り乱した姿を見せるのは、ラーズグリーズが知る限り
一度目はウィッチナンバー4の席が空白となった日。
姉を最後の寄る辺としていた妹は致命的に壊れ、彼女を慕っていた後輩たちは道標となる光を失った。
「何も……何もできなかった」
二度と聞くまいと誓った独白を耳にして、鎮めたはずの感情が波立つ。
傲慢不遜な
「そう」
指の隙間から覗く瞳が足元に転がる枝を見下ろし、鋭く細められる。
黒く炭化した表層の奥で、爆跳の音と共に燃える赤。
それを爪先で一息に踏み砕き、舞い上がった火花を無感情に見送った。
「……馬鹿ね」
一時の感情に流され、短絡的な決断をしてはならない。
今は正確な判断を下すためにも情報が必要だった。
「天峯」
ゆえに捨てたはずの仮面を被り、舞台を回すために演じる。
かつて肩を並べて戦った時のウィッチナンバー1を。
「ラーズグリーズ…?」
姉が失踪してから聞くことのなかった真摯な声にアズールノヴァは初めて反応を示した。
虚ろな瞳が空色の戦女神を捉え、辛うじて理性の光が戻る。
国防軍の窓口ではなく、姉の友人に未だ信頼を置いているのだ。
「ここで何があったのか、説明できるわね」
都合の良い時だけ過去に頼る己を心中で嘲りながら、ラーズグリーズは変わり果てた庁舎屋上を見回す。
おおよその状況は推察できるが、インクブスのマジックとは未知であり、これまでの情報が常に有効とは限らない。
「シルバーロータス様が……」
促されるまま口を開き、再び閉ざすアズールノヴァ。
恐怖に囚われた視線を彷徨わせ、霧散していくエナの残滓を必死に追いかける。
藁にも縋る思いで事実否定の言葉を探すも絶望が色を増しただけ。
ついに目を閉ざした蒼きウィッチは喉を震わす。
「消失しました……この世界から」
その瞳はシルバーロータスから世界中のファミリアへと伸びる無数の銀糸を見ていた。
しかし、今は一切が観測できない。
アズールノヴァが世界の救済を信じて疑わなかった景色は、何の変哲もない空へと戻った。
なるほど、最悪だ――ラーズグリーズは底が抜けたことを悟る。
ポータルとはインクブスのエナを通す門であり、ウィッチが通るには
それは尊厳の死を意味するが、生命の喪失を意味しない。
まだ生還の可能性が、シルバーロータスならば逆襲の可能性すら考えられた。
しかし、そんな希望的観測は無慈悲にも――
「消失って……どういうこと?」
まったく予期していなかった人物の声が響く。
最も居合わせてはならない第三者だった。
痛恨の極みと言わんばかりに戦女神は表情を歪め、決して仰ぐまいと決めていた夜空を睨む。
「ああ、もう……」
そこにはクラシカルな魔女の衣装を纏い、箒の代わりに長大なライフルを携えたウィッチの姿があった。
この場にいるはずがない関係者、招かれざるウィッチナンバー6。
「最悪ね」
ダリアノワールと視線を交え、ラーズグリーズは今宵の番狂わせを心の底から呪った。