赤坂美兎は自身のことを平凡な人間だと考えている。
ごく普通の家庭に生まれ、ごく普通の──友達は少ないが──学校生活を送っている。
少しばかり臆病な自覚はあるが、個性というには凡庸だ。
父方の仕事の影響を受け、人形の蒐集という趣味を持ったが、それも人並みの範疇。
人類の天敵たるインクブスが現れ、己がウィッチとなった今でも自認は変わっていない。
だからこそ──この状況を覆す術など思い付くはずもない。
生命の息吹を感じない荒野に横たわる2人のウィッチ。
一方は脇腹から禍々しいエナの塊が生え、もう一方は左腕が無い。
血色を失った肌は病的なまでに白く、呼気の音は風音に負けるほど弱々しい。
生きていることが奇跡と言える状態だった。
「終幕だ」
高濃度のエナに身を隠す影が声を発するだけで、レッドクイーンの身体は小さく縮こまる。
反撃どころか逃げ出すこともできず、バトルアクスの重みに両手が屈しそうになる。
ウィッチの武器──マジックを封じられているのだ。
影の放った一槍はシルバーロータスとアメリカ軍のウィッチを苦もなく貫いた。
レッドクイーンの虚無と置換するマジックは発動せず、引き起こされる惨劇を眺めることしかできなかった。
次の一手で無力なウィッチたちは容易く討ち取られるだろう。
インクブスの首魁が繰り出す攻撃は防御不能──
「残余は好きにせよ」
しかし、追撃はなかった。
シルバーロータスを仕留めた今、残されたウィッチに興味などないと。
そのまま影は悠然と遠ざかっていき、砂塵のヴェールより奥へと消えた。
「
アンチマテリアルライフルの勇ましい銃声が鼓膜を叩く。
しかし、弾丸は何者も捉えることはなく、紅い砂塵に空虚な穴を穿つだけ。
その穴を埋めるように見慣れた影が滲み出し、レッドクイーンたちを四方から取り囲む。
「
「Damn !」
早口の英語をレッドクイーンは聞き取れなかったが、もはや言葉は不要。
視覚が絶望を出力する。
完全武装のインクブスが隊伍を組み、油断なく着実に歩みを寄せてくる。
たとえ、マジックが問題なく使用できたとしても勝機は薄い。
逃走も不可能となれば、後は無惨に嬲られる運命。
「まだ動くかもしれん。十分に気をつけろ」
「動きやしねぇよ……とっととやっちまおうぜ」
幸か不幸か、包囲の輪が縮まる速度は鈍い。
シルバーロータスが倒れたことで7体の重量級ファミリアは活動を完全に停止した。
忙しなく動いていた触角も脚も微動だにせず、まるで石像のようだった。
しかし、その巨躯が放つ威圧感はインクブスの前進を躊躇させている。
「どうせ雌どもは逃げらねぇんだ。焦るなよ」
「黒いウィッチは俺様が貰う!」
「早い者勝ちだぞ!」
それも程なく終わりを迎えるだろうが。
ファミリアは恐怖の対象ではなく、単なる障害物と見做されていた。
獲物を前にしたインクブスたちは獣欲を隠さない。
長らく抑圧されてきた反動から彼らの眼は興奮で血走っている。
「ああ……終わりなんだ」
言葉にした瞬間、レッドクイーンは悟った。
地球ではない異界の地で、悍ましい怪物の群れに囲まれ、抵抗の手段はない。
これまで絶望を打破してきた蟲の姫君は眠ってしまった。
ありふれた最悪の結末が、これから訪れる。
「いやだなぁ……」
足元に視線を落とせば、赤茶けた砂の地に降る雫。
現実から目を背けたところで逃れることはできない。
恐怖で笑う足は抵抗を諦め、一度は立ち上がった地面に座り込む。
「嘘だ……どうして……」
その傍らで倒れたシルバーロータスの右手を握り、無為な言葉を出力する黒狼。
以前、レッドクイーンが初めて顔を合わせた時の姿とは似ても似つかない。
黄金の瞳に意志の輝きを宿し、アズールノヴァと対等に言葉を交えていた幼くも強いウィッチ。
「私は何を……」
今は黒い毛並みの耳も尻尾も重力に引かれ、シルバーロータスの影に沈み込んでいる。
「武器を取れ、黒狼! まだ終わっていないぞ!」
髪飾りに扮したパートナーが漆黒の中で星のように瞬く。
絶体絶命の窮地にあろうとウィッチの導は強制力を持たない。
されど、仕える主が惨い運命に晒されることを見過ごすわけにはいかぬ。
「何も守れない、この手に……何の意味がある?」
黒狼は声を震わせ、握った手に額を押し当てる。
絶望に飲まれているレッドクイーンよりも小さく弱々しい後ろ姿だった。
「あるに決まっているだろう! 無意味なものか!」
必死に呼びかけるパートナーの声は届かない。
頭上の耳は垂れたまま、鈍い輝きを放つシミターは砂に埋もれていく。
どれだけ絶望的な戦況であっても大陸最高戦力と呼ばれた少女は戦場に立ち続けた。
両の手が届く人々だけでも取り零すまいと。
しかし、その決意は否定されたのだ──彼女の眼前で。
身体を変質させ、記憶を奪い、揺るぎない存在意義を与えていた絶大な力。
それは決して取り零してはならぬ時、黒狼を裏切った。
伸ばした異形の右手は虚無を掴み、目の前で救世主は地に伏せた。
「……もう疲れた」
ひび割れた水瓶が限界を迎える。
己の力を疑ってしまったが最後、二度と立ち上がることはできない。
四方より迫る粗野な足音が次第に存在感を増していく。
「
響き渡る明瞭な英語にレッドクイーンは思わず顔を上げた。
赤い月光を帯びて揺蕩う白い髪。
砂混じりの乾いた風を受け、戦旗の如く揺らめく灰色のロングコート。
そこに描かれた数字の7──彼女はアメリカ陸軍危機即応部隊第7分遣隊のウィッチ。
チームのリーダーを務めるモーガン・リーヴィスは、この状況にあって抵抗の意志を失っていなかった。
前衛の1人が戦闘不能、1人は治療のため戦線離脱、護衛対象は重傷、友軍からの支援はない。
希望の欠片すら見出せない戦況。
それでも起死回生の一手を探し求め、異界の荒野を見渡す。
「
「
シルビアに応急処置を施すレイラに対し、
周囲の敵影を睨みつけ、腰のポーチからマガジンを取り出す。
ブルパップ式のアンチマテリアルライフルの装弾数は10発、予備のマガジンを含めても火力が不足している。
「……
レイラは静かに首を振る。
重傷のシルバーロータスに対して治癒のマジックを使用せず、回復させるなど不可能だ。
インクブスの先頭集団が重量級ファミリアの影を踏み始めている今、そんな時間も残されていない。
「
もはや応急処置など無意味と理解していながら、相方を見捨てられない己を自嘲する。
「
チームメイトの弱音を聞いて尚、モーガンは徹底抗戦を宣う。
その声が微かに震えていることを察し、レイラは開きかけた口を引き結ぶ。
ゴースト7を生み出したウィッチナンバー3──ヘカテイアならば可能だったかもしれない夢想。
しかし、この場にいる灰色のウィッチは彼女の影に過ぎない。
全員の生還など夢物語だとモーガン自身も理解している。
「
だが、それは膝を屈する理由にはならない。
奪われた家族、連れ去られた友、二度と戻らぬ故郷。
何も守れぬ無力を呪ったからこそ
ゴースト7が結成された時から呪いと願いは彼女たちの根底に在る。
最期の瞬間まで無力を許容してはならない。
「……
レイラは苦渋に満ちた声を絞り出し、血塗れの指先でシルビアの前髪を軽く梳いてやる。
自決ではなく自衛のためにロングソードを握り締め、シルバーロータスの下へと駆ける。
「
レイラの後ろ姿を見送ったリーダーの隣に並び立つクレア。
努めて普段通りに、フラットな表情でセミオートマチックのショットガンにシェルを装填していく。
多くは語らず、最後まで共に戦う意志を示す。
モーガンは微かに口元を緩め、戦意に満ちた視線を反対方向へ走らせた。
視線が交錯する──淡い青に映り込む真紅。
見下ろす者と見上げる者。
モーガンは躊躇うことなく歩み寄り、手を差し出す。
「あなたの力を借りたい」
「え……」
レッドクイーンは言葉の意味が理解できず、モーガンを見上げて硬直する。
戦力として期待できるとすれば、傍らで蹲るウィッチナンバー2だろう。
しかし、淡い青の瞳には
「お願いします」
真摯な眼差しには不純物がなかった。
不確定要素に縋りつくわけでも、臆病者と侮っているわけでもない。
ウィッチの──レッドクイーンの善性に期待している。
無駄な足搔きだと振り払えば、苦痛の時間が延長されることはない。
ただ、その眼差しから目を逸らすことがレッドクイーンにはできなかった。
「わ、わかりました……わっ」
承諾と同時に強く手を引かれ、視野が一気に広がる。
全身を舐めるように注がれる獣欲に満ちた眼光。
不快感を想起させる涎を滴らせた口元。
そして、剣呑な輝きを放つ刃の列──
「感謝します」
それらを霞ませてしまうほど、晴れやかな笑みを浮かべる異邦のウィッチ。
醜悪な怪物たちは汚らわしい手で、この気高く美しいウィッチを蹂躙するのだろう。
──度し難い。
レッドクイーンの内で恐怖を凌ぐ激情が膨らみ、バトルアクスを握る手に力が入る。
しかし、平凡な己に何が出来ると言うのか。
アリスドールの名を授かった時から問題に背を向け、落ちた穴から歩き出そうとしなかった。
赤坂美兎は無力を許容している。
「──っ!」
狭まった視野の端で明滅する蒼。
反射的に振り向いた先──インプの掲げたスピアの矛先にて、紫電が迸る。
あの程度の光量、アズールノヴァには遠く及ばない。
絶望から目を背けるあまり生み出した幻影だ。
「あの人なら……」
レッドクイーンは独り言ちる。
監視者であり、協力者であり、目が離せない少女の横顔は瞼の裏に焼き付いている。
この場に立つウィッチが彼女であったなら、守るべき存在を前にして膝を折るか。
「諦めない」
否である。
刀折れ矢尽きようと敵の喉笛に喰らいつく様は想像に難くない。
引き攣った笑みを浮かべ、レッドクイーンは胸元に手を伸ばす。
握り込んだ懐中時計は冷ややかで、持ち主を拒んでいるかのようだった。
置換のマジックを発動することは叶わない。
だが──
「ここは任せてもらえますか?」
「分かりました」
具体性のない提案にモーガンは頷きで応える。
彼女たちが構えた武骨な得物は、既に先頭集団のライカンスロープを照準していた。
──深呼吸。
成功の確証はない。
失敗すれば、蹂躙が待つ。
それでも止まった針を進めることさえできれば、状況は回天する。
迫り来る足音、荒々しい呼気の音、全てを締め出して意識を闇の奥底へと沈める。
「権能──」
信奉派の首を刎ねた時、感覚は掴んでいる。
限界を超えたエナの放射、思い描くは真紅の万華鏡。
一縷の望みを掛け、言の葉を紡ぐ。
「解放!」
限定解放ではない。
真紅の瞳が輝きを帯び、足下より渦巻く高濃度のエナ。
しかし、それは瞬く間に霧散して砂塵の紅に飲み込まれてしまう。
マジックの発動を阻む不可視の力は強大。
「まだ…!」
バウンダリを失ったレッドクイーンは出力を上げ続ける。
溢れ出たエナの奔流が砂を巻き上げ、大きな渦を描き出す。
堰にも限度はある。
「おい、様子が変だぞ!」
異変を察したインクブスたちが駆け出した刹那、銃声が風切り音の間隙を縫う。
「ぐげっ!?」
「なにっ」
エナの防壁でも守れぬ眼球に直撃弾を受け、先頭のライカンスロープが頭から地面へ突っ込む。
そこに後続が躓くことでインクブスの先頭集団は脚が止まる。
「
頼もしい銃声を遠くに感じながら、レッドクイーンは全身の血管が煮えるような感覚に耐える。
明滅する視界が赤く染まり、世界が歪む。
針の止まった懐中時計から異音が漏れ聞こえ、歯車が回り出す。
そして、荒れ狂う砂塵の中で不明瞭な影が揺らめいた。
「貴様──」
邪悪な声を振り切って、世界の全てが置換される。
暗転は一瞬。
再び幕が上がった時、眼前より一切合切の破滅は消え去っていた。
「一体何が……」
呆気に取られた表情で周囲を見回し、顔を見合わせるモーガンとクレア。
銃口より立ち上る硝煙を乾いた風が連れ去っていく。
すべては悪い夢のように消え去り、不毛な大地だけが変わらず広がっていた。
「や、やり…ました、か?」
バトルアクスの刃が大地に突き刺さり、鈍い金属音を響かせる。
浅い呼吸を繰り返すレッドクイーンは成し遂げた偉業を確認する余裕もない。
糸が切れた人形のように少女の身体から力が失われる。
「しっかりしてください!」
崩れ落ちる寸前で抱き留めたモーガンは、あまりの軽さに形容し難い悪寒を覚える。
その身長と体躯からは結びつかない体重だった。
まるで重要な臓器が抜け落ちたような──
「よく頑張ったわね」
耳を撫でる第三者の声。
荒野には似つかわしくない穏やかな声音だった。
「
スローイングダガーを抜いたクレアが全員を背に隠す形で来訪者と相対する。
異界の地にいる人間が味方とは限らない。
「あれは……」
レッドクイーンは霞む視界の彼方、岩と砂に覆われた紅い荒野に1人のウィッチを見た。
生命力を感じさせる翠を基調とした装束に身を包み、左腕に通した円盤状の刃が月光を反射する。
柔らかな微笑みを浮かべ、一行を映す瞳はアズールノヴァを彷彿とさせる蒼。
──その容姿には見覚えがあった。
ウィッチの情報を熱心に収集している者であれば、誰でも知っているウィッチ。
初代ウィッチナンバー4であり、3年前に起きたストーカー事件の被害者──
「アムルタート…?」
歯車の噛み合う音がした。
◆
静寂。
風切り音が止み、砂塵の幕が落とされる。
そこを踏み荒らす無粋な足音の主たちは嘆息を漏らす。
灰青色の下で身を寄せ合っていた獲物たちの姿はなく、わずかなエナの残滓だけが漂っていた。
「……逃したか」
驚愕というより感心。
影の表情は変わらず不明瞭だが、本来取るに足らない残余に対して興味を示していた。
任意の領域からエナの支配権を奪う権能は、ウィッチを無力な雌へと変える。
それに抗える者は一握りだ。
「ちっ……あと少しだったってのによ」
再生した眼から血を拭い、黒毛のライカンスロープはウィッチの残り香を追って鼻を動かす。
目前で蹂躙を阻んだ白毛のウィッチを二度と忘れぬために。
「あそこから逃げ出す余力があるとはな」
「ああ、大したものだ」
武骨なクラブを肩に担ぎ、首を横に振るオークの戦士。
獲物を逃したことで僅かばかりの落胆を見せるインクブスたち。
抑圧から解放され、久々の蹂躙に心躍らせていた彼らにとって残念な結果となった。
しかし、歯軋りするほどの後悔を抱いているわけでもない。
「だが……」
一同は顔を見合わせ、口角を上げる。
「災厄は斃れた!」
誰が叫んだか、それは定かではない。
その宣言は包囲を形作るインクブスたちの間を駆け抜けていき、皆が拳を固く握り締める。
彼らが最も待ち望んでいたもの。
ついにシルバーロータスという恐るべき脅威が去ったのだ。
「俺たちの勝利だ!」
咆哮が異界の大気を揺るがす。
己の得物、あるいは拳を突き上げ、腹の底から勝鬨を上げるインクブスたち。
決着は影の無慈悲な一槍、苦闘死闘は生じ得なかった。
しかし、個々の貢献など些事に過ぎない。
同胞の勝利とは己が勝利なのだ。
「何を喜んでおるか。まだ終わっておらんわ」
その光景を頭上より見下ろす矮躯の影。
インプを統べる総長、シリアコの一声によって歓声は中断される。
「シリアコ殿……」
如何に総長であれど水を差すな、という抗議の眼差しが返されるもシリアコは一切動じない。
それどころか、直情的な者たちを鼻で笑ってみせる。
「逃れた雌どもを組み伏せ、シルバーロータスの眼前で辱めるまではな」
この程度で満足して良いものか、と。
邪悪な笑みを口元に浮かべたインプの言葉を聞き、呆気に取られる同胞たち。
「はっ……違いねぇ!」
ライカンスロープの若き長は捻くれ者のインプを見遣り、愉快そうに灰色の肩を揺らす。
これまでの鬱憤を緒戦で発散してしまうのも勿体ないというもの。
同胞を
そう納得する者も現れる中、後衛を固めていた戦士団より巨躯のオークが歩み出る。
「しかし、久方ぶりの勝利だ」
オークの総長であるサンチェスは周囲の戦士たちを見回し、未だ興奮から覚めない眼差しを受け止める。
この旺盛な士気を落とす必要もあるまい。
シリアコと向き合ったサンチェスは傷跡の残る己が右眼を指す。
「少しばかりは目を瞑れ、シリアコよ」
「ふん」
インプの長は退屈そうに鼻を鳴らし、軽く手を振って包囲の輪より外へ飛び去った。
進んで憎まれ役を買って出る古参の戦友に、サンチェスは溜息を漏らしつつも心中では謝意を示す。
今度こそ万に届く歓声が満ち、荒れ果てた大地が震える。
「主よ」
その歓声より離れていく影が2つ。
「グレゴリーか」
一方はインクブスを統べる者、もう一方はゴブリンを統べる者。
「納得しておらぬようだな」
シルバーロータスを討ち取った最も称えられるべきインクブスは、歓喜の中心にはいない。
凱旋の道を開けた包囲軍は、主を称える言葉を降らせる。
しかし、高濃度のエナによって姿を隠す影の歩みは間違いなく重かった。
「災厄を皆の前で討ち取ったことで、我々の士気は天を衝く勢い」
それを察しているグレゴリーもまた険しさの残る表情で主の戦果を称える。
「
グレゴリーの口から語られるインクブスの未来は皆が望む素晴らしき絵図だ。
ヒトの地に再び降り立ち、思うがままに殺し、犯し、喰らう。
被食者ではなく、略奪者として君臨する──
「しかし」
一拍。
ゴブリンの総長は言葉を探すように同志たちの姿を流し見る。
赤き月に拳を突き出し、大声で勝鬨を上げる様は切望した光景であった。
「なにゆえ、このような迂遠な策を?」
それは包囲軍を結成する前より抱いていた疑問。
グレゴリーが列挙した戦果は、この戦いによって得られると影が提示した戦果。
しかし、これほどの陣容を整える必要があったとは、とても思えなかったのだ。
如何に災厄のウィッチといえど不死ではない。
「主自らが手を下さずとも、転移によって災厄を地の底、あるいは海の底へ放逐すれば──」
「我が見極める必要があったのだ」
聡い総長の言葉を遮り、影は放つ語気を強める。
身に纏ったエナが微かに揺らぎ、紅い砂に刻まれる蹄跡の溝。
包囲の輪より出た影は、周囲を見渡せる小丘へと脚を向けた。
「ラタトスクの命を擲ってでも」
ラタトスクは命を賭し、見事役目を果たした。
実力で総長の座を得たグレゴリーは、かの軟弱なインクブスを好ましく思わない。
しかし、ラタトスクが無能ではなかったと知っている。
右腕と呼べる者を失う結果になろうとも、影はシルバーロータスの何を
「……シルバーロータスはヒトの雌でありながら我々と根源を同じくする異端」
同胞たちの止まぬ歓声を背に受けながら、影は事実を確かめるように語り出す。
「ゆえに主の支配から逃れることはできない」
グレゴリーが言葉を継ぐ。
屈強な戦士も、優秀な術士も、狡猾な策略家も、影の前では等しく被支配者だ。
インクブスの
シルバーロータスを貫いた一槍とは、あらゆる城門を開く鍵であり、隷属させる枷なのだ。
「あれは今も抗っている」
影は微かな怒気を言葉の裏に潜ませ、包囲軍を一望できる丘の頂へと立つ。
「なんと…!」
その背後に控えるグレゴリーは信じ難い事実に言葉を失う。
インクブスの首魁とはウィッチの力を封じ込め、インクブスを従える絶対的支配者なのだ。
シルバーロータスの特性上、抵抗は不可能なはずだった。
「しかし、エナの流れに杭を打った。ファミリアは虚無へと還る……はずだ」
それは
ウィッチからエナを注がれなくなった器は自己同一性を維持できなくなり、やがて崩壊を迎える。
外部から得たエナだけでは、全てを代替できない。
仕えるため生み出された疑似生命の限界にして安全装置だ。
「何か問題が…?」
しかし、安堵の息を漏らすには早い。
グレゴリーに備わる知識とは、これまでインクブスが積み上げてきた知識だ。
災厄に通じるとは限らない。
「ファミリアとの繋がり」
影は丘の頂より同胞たちを見下ろす。
肩を組み合い、共に勝利を祝う姿はインセクト・ファミリアには真似できまい。
「無数の線を束ね、太く見せている。だが、あまりに希薄だった」
グレゴリーに語りかける影は右腕を上げ、天に浮かぶ赤き月を掌に乗せる。
手中に収めずともシルバーロータスの内を覗き込むだけで異常性を理解した。
否、理解せざるを得なかった。
「あれらは
月を握り潰すように、漆黒の掌が閉ざされる。
まだ確信ではなかった。
されど、影が恐れる
「まさか、そんなことが……」
悪夢を振り払うように首を横に振る。
ヒトは抵抗と称して、様々なウィッチをインクブスに
その中には稀有なマジックを扱う者もいたが、個の範疇を逸脱する者はいなかった。
しかし、シルバーロータスは個が扱える領域を遥かに超えている。
敵を捕食し、増殖、進化するファミリアの時点で埒外だ。
「それはもう神の……いや、違う」
これが独立した存在となれば、それは疑似生命とは呼べぬ代物。
ピラミッドの下層にインクブスを置く新たなシステム──生態系の創造だ。
一方的に下層を消費し続け、いずれ崩壊を迎える破綻したシステムである。
しかし、重要な点は
「仮にそうだとすれば、災厄は消滅しない…?」
最悪の仮定。
グレゴリーの口から紡がれた言葉を荒野の乾いた風が攫っていく。
活動を停止した重量級ファミリアを見遣り、両者の間に重い沈黙が訪れる。
「お前ら、消える前に挨拶しておけ!」
「世話になったからなぁ!」
何も知らぬインクブスたちはファミリアへ群がり、重厚な外骨格に足を掛けた。
侮蔑の笑みを浮かべて唾を吐きかけ、得物を打ちつけて勝利の凱歌を響かせる。
勝者は敗者を辱め、嬲る権利があるのだ。
「この! 虫けらが! 好き放題しやがって!」
「お前らは踏みつけられるのがお似合いだ!」
ヘラクレスオオカブトの折れた頭角に跨り、雑多な得物を叩きつけるゴブリンたち。
刃が欠けようと知ったことではない。
あらん限りの憎悪と侮蔑を浴びせ、これまでの屈辱を発散すべく暴力を振るう。
「分厚い殻だな」
「ああ、こいつの殻で1本仕立てたいものだ」
パラワンオオヒラタクワガタの威容を見上げ、オークの戦士は我が物のように手を添えた。
怨敵も優れた武具となれば、これまで死んだ同胞も報われよう。
「1本だけでいいのか?」
その傍らで意地の悪い笑みを浮かべるライカンスロープに、オークは肩を叩いて応えた。
眼前の巨体からは戦士団に行き渡るほどの武具が削り出せる。
格別の戦利品を振るい、シルバーロータスが守護してきたヒトを狩れば、さぞ痛快だろう。
「無理だ。ファミリアはエナに還る……そういう定めだ」
そんな夢を無粋にも切り捨て、溜息を漏らす矮躯のインクブス。
インプは鼻白む戦士たちを見下ろし、ダイオウサソリの尾節へと降り立つ。
「そりゃ残念だ」
「今宵の勝利で我慢するのだな」
かつてマジックを扱えぬ者を蔑んでいたと思えぬ気安げな態度。
古き思想に固執する者は、外界からの脅威に打ち勝つことはできない。
災厄が彼らに団結を促したのだ。
異なる種族のインクブスたちが共に勝利を祝い、これからの未来を見据えて口角を上げる。
忌々しい天敵が消えたことで彼らは忍耐から解放された。
次は蹂躙する番だと獣欲を漲らせ、獲物の柔肌に思いを馳せる。
「ん…?」
誰も彼もが勝利に酔う中、ゴブリンの戦士が怪訝な声を漏らす。
欠けたナイフの刀身に落ちる赤い月が僅かに陰っていたのだ。
影の正体は、すぐ至近で静止しているコーカサスオオカブトの長大な胸角だった。
──違和感。
漆黒の眼に映り込んだ己を見遣り、ゴブリンは顎先の髭を撫でた。
無数の個眼に分割された自身の姿が心なしか大きく見え、異様な圧迫感を覚える。
「どうしたぁ?」
「いや……こいつ、動いてないよな?」
緩み切った顔で問いかける相方に対し、神妙な面持ちで応えるゴブリン。
それが事実であれば、勝利に酔うインクブスたちを悲劇が襲う。
しかし、シルバーロータスが斃れる瞬間を見届けた相方は最悪の仮定を鼻で笑った。
「上の奴らが揺らしてるだけだろ」
じきに巨躯を構成するエナが剥離し、異形は砂の如く崩れ去るだろう。
微かに震える外骨格は、その前兆なのだと多くのインクブスは深く追究しなかった。
「こいつらが生きてるなら、俺たちは挽肉になってるはずだぜ?」
「それもそうか」
だからこそ、聞き逃した。
エナで構築された筋繊維が駆動し、外骨格が擦れる音を。
再始動──巨影が動く。
重々しい風切り音、そして風船の爆ぜるような音。
巻き上げられる砂塵が悲鳴を飲み込んで、世界を紅で閉ざす。
斯くして舞台の幕は上がった。
「に、にげぇ!?」
「ぎゃぁぁ!」
「げがっ」
紅い闇の中で稼働する
そこからは肉の潰れる音、同胞の断末魔が絶え間なく響く。
時折、荒れ狂う砂塵から弾き出されるオークの右腕、インプの左耳、ゴブリンの眼球。
その壮絶な破壊の痕跡に周囲のインクブスたちは動けない。
刹那、巨大な影が大地に沈み──嵐は止む。
砂の重みに従って紅いカーテンが落ちていき、異形たちが悠然と姿を現す。
「馬鹿な……」
荒野に咲き誇る華。
一面に撒き散らされた生命の臭い。
それらを踏みつけるインセクト・ファミリアの戦闘集団──総勢7体。
砂塵の流れ落ちた漆黒の外骨格は艶を帯び、鋭利な顎肢から鮮血を滴らせている。
その眼に宿る紅き輝きは、彼女を彷彿とさせた。
「なぜ動ける!?」
主を失った今、動くはずがなかった。
これまでウィッチのファミリアとは
その常識がシルバーロータスに幾度敗れてきたか、忘れたわけではなかろうに。
「来るぞぉぉ!」
災厄の終わりという希望的観測に縋ったインクブスへ現実が突進を開始する。
「陣を組み直せ!」
「間に合わん!」
陣容の崩れたインクブスを見逃す重量級ファミリアではない。
彼らは思考する殺戮兵器であり、無慈悲な捕食者だ。
たかが脚、たかが翅、たかが頭角──失ったところで止まる者はいない。
先鋒を務めるオオムカデの地鳴りに等しい足音、そしてオオツチグモの鋏角を擦り合わせる威嚇音。
聞こえるはずのない喚声が形成され、視界を覆わんばかりの巨躯が迫る。
「う、撃てぇぇ!」
「おい、待て!」
恐怖が瞬く間に伝染し、インクブスたちは無秩序にボウガンを構える。
その切先に見えた単眼は、無感情だった。
憎悪も悪意もなく、無機質な敵意だけがあった。
「うわぁっがぁ!?」
「ぐがっ」
「ぎゅげぇ」
オオムカデは矢弾の小雨を物ともせず、ゴブリンの射手たちを轢殺した。
玩具のようにボウガンが宙を舞い、荒々しい大地に肉片と臓物が撒き散らされる。
殺戮兵器のエントリーだ。
「や、やめぇぶべぁ」
混戦。
バードイーターの異名を持つオオツチグモの巨大な鋏角が、掲げられたシールドごとオークの戦士を貫通する。
しかし、体外消化の時間はない。
全身を覆う体毛は周囲の獲物が発する空気振動を捉えていた。
「こいつの殻は薄い!」
「囲んで叩け!」
武骨な得物を握り締め、屈強なオークたちは一斉に駆け出す。
彼らの観察眼に誤りはなかった。
オオツチグモは7体の中で強固な外骨格を持たない。
ただし──自衛手段を持たぬわけではない。
母より殿を命じられるはずだった重量級ファミリアが真価を発揮する。
後脚を毛深い腹部に当て、高速で擦り合わせる。
「なっ」
肉薄を図った戦士たちの視界を覆い隠す赤褐色。
赤き月光を纏うことで、それがオオツチグモの体毛だと敵対者は知る。
極めて細く、その毛先は銛の如く鋭い。
「止まっぎゃぁぁ!?」
「目がぁぁ!」
散布された凶器の渦に飛び込んだオークたちを激痛が襲う。
刺激毛と呼ばれる自衛手段は敵対者の眼や肺を潰し、戦闘能力を削ぎ落す。
「戦士を下がらせろ! 術士が撃てん!」
「構わず撃っげがっ!?」
忘れるなと言わんばかりに長大な体躯がインクブスの隊列を切断する。
あらゆる障害を踏破する21対の脚は、エナの防壁に胡坐をかいた脆弱な皮膚に足跡を刻みつけた。
中途半端に組まれた戦列が射線と機動を制限し、ファミリアの一方的な戦闘を可能にしている。
「お前たち、構えろ!」
「応!」
一刻の猶予もないと判断したケットシーの術士は、即座に持てるエナを前面へと集中させた。
「焼き殺せ!」
荒野を走る火箭の前へと躍り出た灰青色の影。
刹那、爆ぜる紅蓮の焔がケットシーたちの顔に勝利の色を焼きつけた。
そして──絶望によって黒く焦がす。
赤々と燃える焔を突き破り、姿を現した灰青色の節足動物は山の如く揺るがない。
積層構造の外殻はマジックの直撃を受けて、表層を焦がすのみ。
自慢の左鋏脚を失おうともヤシガニは盾としての機能を喪失していなかった。
「奴は手負いだ! 怯むな!」
「鋏から火を通してやれ!」
火力不足を手数で補う。
知性ある振舞いを捨て、ケットシーたちはエナの焔を速射する砲台と化した。
爆ぜる荒野、浮かび上がる異形の影。
インクブスの屍が燃え上がり、悍ましい悪臭と黒煙が渦を巻く。
そんな煮立った戦場へ突入する漆黒の砲弾。
着弾──術士の一団は叫ぶ間もなく血煙へと変わる。
舞い上がった砂煙を高速振動する翅が吹き散らし、その威容を異界に知らしめる。
ヒラタクワガタ亜属の中でも最大種、パラワンオオヒラタクワガタを模倣した重量級ファミリアは大顎を静かに開く。
「叩き切ってくれるわ」
それへ挑む戦士は同胞の血を吸った荒野を蹄で力強く踏み締めた。
彼の眼に宿る憤怒の炎が消えることはないだろう。
「この虫けらがぁぁぁ!」
腹の底からウォークライを響かせ、大きく躍動するミノタウロス。
全身に数多の傷を刻んだ歴戦の戦士であり、手には重厚な
彼我の体格差は2倍。
されど、ミノタウロスの戦士は恐れることなく大上段から挑む。
膂力にアックスの重量を加えた最大威力が鈍重なファミリアの頭部を──
「なっ!?」
捉えない。
その巨体からは想像もつかないほど軽やかな後退だった。
完全に間合を読み切ったパラワンオオヒラタクワガタは、致命的な隙を晒す牛頭へ一つの教えを授ける。
戦士とは蛮勇であってはならない。
「あ、がぁがっがぁぁぁ!」
長い大顎がミノタウロスの首を挟み、無様な二足歩行を大地より引き剥がす。
生粋のパワーファイターは力加減を誤って首を刎ねる愚など犯さない。
彼の複眼は必死に隊列を組み直すインクブスを捉えていた。
「おい、あれ…!」
「狙われてるぞ! 散れ!」
時すでに遅し。
脊椎を粉砕されたミノタウロスが天高く放り投げられ、絶句するゴブリンたちの頭上へと降る。
「うわぁぁぁ──ぶげっ」
無慈悲な圧潰音が響き渡り、乾いた砂地に鮮血の押し花が咲く。
それを見届けることなく、パラワンオオヒラタクワガタは新たな敵へ矛先を向ける。
たかが脚の1本を失った程度では、彼の機動性も闘志も損ねることは叶わない。
「トリフォン、ヤニス、回り込むぞ!」
「おう!」
「これ以上やらせるかよ!」
混沌極める戦列を脱したライカンスロープたちが黒毛を靡かせ、荒野を疾駆する。
彼らの本懐とは機動戦。
敵の死角を縫い、重装甲の間隙へ鋭利な爪と牙を滑り込ませるのだ。
赤い砂塵のカーテンを突き破れば、重量級ファミリアの背面が視界に飛び込んでくる。
「ちぃ!」
その道を
遊撃隊の進行方向より振り抜かれる雄大な胸角は音を置き去りにした。
「突っ切る!」
「おう!」
大気を捲る轟音を頭上で聞きながら、ライカンスロープたちは影を潜る。
否、潜ってしまった。
ライカンスロープの遊撃手が最期に見たのは、荒野の砂を削り取るコーカサスオオカブトの長大な前脚だった。
「くそがぁぁぁ!」
骨が砕け、血飛沫が舞う。
頑強な外骨格と鋭利な爪は衝突した毛玉を無残な雑巾に変える。
翅に風穴を穿たれたコーカサスオオカブトは飛翔を封じられたが、主力武器は全て健在であった。
前衛と後衛──パラワンオオヒラタクワガタとコーカサスオオカブト。
原種が凶暴なことで知られる2種が並び、相反することなく眼前の敵だけを粉砕していく。
大型トラックに匹敵する巨躯は旋回だけで雑兵を撥ね、脚の振り下ろしで挽肉を生み出す。
「角が折れてる奴を狙え!」
「ぐぁぁぁ!」
後続のダイオウサソリと頭角を失ったヘラクレスオオカブトが合流し、戦場が質量を増す。
矮躯のインクブスであれば重量級同士の
ファミリアは絶大な破壊力と巧みな連携を駆使し、10000を超える包囲軍の一翼を崩しつつあった。
「なんなんだ、こいつらは…!」
「退くな! 崩れたところから潰される!」
「む、群れても同じだろうがっ」
その苛烈な攻撃を前にインクブスは圧倒され、無意識のうちに後退る。
しかし、インセクト・ファミリアは激昂しているわけではない。
──眼前の敵を貫き、砕き、潰す。
そうあれかしと望まれた。
ゆえに全力で応えているに過ぎない。
重量級ファミリアは足元に散らばる肉塊を啜り、大気に満ちたエナで消耗を回復する。
彼らの戦意が衰えることは未来永劫ないだろう。
「確信した」
戦場に響き渡る声が恐慌の伝染に楔を打つ。
恐るべき敵を前にして、インクブスたちは後退る脚を止めざるを得なかった。
包囲の輪より外──丘上に佇む影より放たれる圧。
その不明瞭な顔に表情が浮かんでいたとすれば、それは落胆と憎悪であったに違いない。
支配者の敵意が向かう先は、たった7体のファミリアでも、それに後れを取る配下でもなかった。
「災厄を、ただ殺してはならぬ」
「力を悉く奪い去り、初めて
影の告げる言葉に首を傾げる愚者はいなかった。
もし災厄が終焉を迎えたならば、同胞を叩き潰す眼前の怪物は一体何か。
肉体の死だけでは、シルバーロータスを滅ぼすことはできないと皆が悟っていた。
「くそっ」
「化け物め…!」
偽りの勝利を忘却し、再び絶望へ立ち向かう。
同胞の血を吸った砂に脚が深く沈み、まるで前へ踏み出すことを拒むかのようだった。
しかし、逃れることはできぬ。
各々が得物を握り締め、赤き月を背負う巨躯と相対する。
「ラザロスは配下を率い、ただちにシルバーロータスの追跡に移れ」
影より勅命が下り、ライカンスロープの若き長は微かに硬直する。
同胞の仇を忌々しげに睨みつけながら、剥き出しにした牙を口唇で覆い隠す。
逆立っていた灰色の毛並みが凪のように静まり、ラザロスは大きく息を吸った。
「承知!」
己を奮い立たせるために吠え、並び立つ族長たちの隣より去る。
両者の間に言葉は無用だった。
ラザロスは振り返ることなく、ライカンスロープの遊撃隊が待つ丘の麓まで下っていく。
不測の事態に備えた予備戦力に出番があるなど思ってもいなかった。
しかし、今やインクブスの命運は彼らに掛かっていると言っても過言ではない。
「お前ら、雌どもの残り香を追うぞ!」
「応!」
意気軒昂。
遊撃隊は瞬く間に一陣の風となって荒野の方々へと散った。
「では、我らは」
「あれを叩き潰す」
影が命を下すより先に、ゴブリンの長とオークの長が肩を並べて敵を見据える。
多種族で構成されるインクブスにおいて、最も集団戦に長けた者たち。
彼らの的確な指揮は牙城を襲った菌糸の惨禍すら退けている。
戦士たちの顔は変わらず険しいが、その手腕を疑う者はいない。
「早々に片付け、青二才の手伝いをしてやらねばな」
砂を払うように深紫の戦装束を翻し、尊大な態度で笑ってみせるインプの長。
地平線に消える戦友たちを見送った後、スピアの石突で地を強かに叩く。
大きく伸ばされた羽より後ろには、既にインプの精兵たちが整列を終えていた。
「先鋒は任せよ」
シリアコもまた振り返ることなく告げる。
蟲によって綻んだ輪をグレゴリーたちが縫い合わせるための時を稼ぐ。
個とは群で圧し潰すもの、それが解。
「任せたぞ、シリアコ」
解を知る者の行動は迅速だ。
完全武装のインプたちは音もなく軽やかに舞い上がり、砂塵と断末魔に満ちた戦場へと向かう。
小休止を終えた重量級ファミリアは乱戦を展開することで、数の優位性を相殺している。
爆ぜる大地、立ち上る砂煙──天を突き刺す漆黒の尾節。
突如、進路上に現れたダイオウサソリの巨躯は城壁の如く。
迫る質量との衝突は死と同義。
しかし、インプの梯団は怯むことなく外骨格の至近を掠め飛び、怪物の頭上へと逃れた。
「ここはトリスターノの戦士団が受け持つ!」
「サンチェス総長が来るまで耐えろ!」
「ぐぁぁぁ!」
地表では振り下ろされた巨大な鋏によってオークの戦士団が潰され、砂と礫を赤く染め上げる。
空に逃れる術を持たぬインクブスは耐え忍ぶしかない。
圧倒的質量の前では紙細工に等しいシールドだけを頼りに。
「総長、全ての蟲どもを捉えました!」
「よし」
持たざる者たちの生命が雨の如く降る中、梯団は重量級ファミリア7体全てを視界に収める。
ウィッチに匹敵する高密度のエナとなれば、地中に逃れようと隠蔽は不可能。
「構え!」
一斉に眼下へ向けられるスピアの矛先は100を数える。
スピアの矛先とは、砲口だ。
ファミリアを一撃で葬り去る紫電を迸らせ、発射の瞬間を今か今かと待っている。
触角が立つ──脅威を察知した重量級ファミリアの対応は迅速だった。
一方的な殺戮を躊躇なく放棄し、有象無象を撥ね飛ばしながら集結する。
象徴たる頭角を失ったヘラクレスオオカブトの下へ。
「……ふん」
戦力価値の低い個体から切り捨てる判断をシリアコは鼻で笑う。
1体を犠牲にしたところで、インプの梯団は安全圏から第2射を放つだけ。
無意味な努力、時間の浪費だ。
「放て!」
シリアコの号令が飛び、雲一つない異界の空で星が瞬く。
地上を眩い閃光が照らし、戦士たちは思わず頭上を見上げる。
精兵たちによる斉射は見事に同期していた。
放たれた紫電のマジックは絡み合い、増長し、威力を増す。
重量級ファミリアとて致命傷は免れない一撃。
その射線上に身を晒す手負いのヘラクレスオオカブトは──
「なん…だと…」
総てを
紫電は流水のように外骨格の表層を撫で、失われた頭角の頂へと駆け上っていく。
彼は切り捨てられたのではない。
初めから狙っていたのだ。
「我らの技が効かぬだと…!?」
「馬鹿な!」
敵対者がエナの扱いに長けたウィッチであれば動揺はなかった。
極上の獲物を嬲れると喜ぶ余裕さえあっただろう。
しかし、インプより遥かに劣る知性の疑似生命が、マジックの斉射を完全に無力化してみせた。
広がる動揺、戦慄──弾ける紫電の旋律が耳を刺す。
膨大な熱量によって微かに表層を焦がし、紫電を纏ったヘラクレスオオカブトは頭上の害獣たちと相対する。
これまで蓄積された情報を身に宿す完全体。
度重なるマジックによる損失が、全く新しい重量級ファミリアを顕現させた。
「狼狽えるでない。第2射用意!」
変異種に今更動じぬシリアコは同胞を一喝し、即座に再攻撃へ移る。
スピアの矛先を眼下の怪物へ突きつけ、猛るエナの紫電を纏わせた。
それに精兵たちも倣う。
「総長、あれを──」
されど、無慈悲にも
第2射の隙など与えぬ。
ヘラクレスオオカブトの失われた頭角を形成した紫電が揺らぎ、周囲から闇を薙ぎ払う。
膨張する閃光は月光すら霞ませた。
それは眩い雷光でありながら、枝分かれする樹のように異界の空に拡散する。
照準などありはしない。
攻撃性の高いエナの紫電を束ねて放った、一種の暴発。
しかし、インクブスの群れを迎撃するには十二分だった。
「なっ」
見開かれた眼に映る雷光は、音より速い。
「ぷげぇっ」
「ぎゃぁっ」
直撃、四散。
鮮烈なる赤は一瞬にして黒へと変わる。
風船のように爆ぜたインプは、焼け焦げた四肢を空へと散らす。
辛うじて不可視の防壁を展開できた者だけが同胞の焼ける臭いを知る。
「小賢しい真似を…!」
木の葉のように舞う戦装束の破片を見遣り、シリアコは紫電の傘下で忌々しげに吐き捨てる。
たった一撃で梯団の3割が蒸発し、無価値な肉片となった。
ここまで付き従ってきた精兵を
屈辱だ。
災厄との戦いはインプの矜持に何度、泥を塗るのか。
「お前たちは防御に集中せよ」
しかし、シリアコは激情を驚異的な精神力で抑え込み、あくまで冷静に振る舞う。
上に立つ者が感情的であってはならない。
「承知っ」
総長に鍛えられた精兵たちは
雷鳴轟き、天が割れる。
無秩序な軌道で走る雷が防壁を滑り、光と熱で大気を焦がす。
道筋を阻まれ、なおも止まらぬ破壊の矛先は大地へ向かう──
「時を与えてはならぬぞ、シリアコ」
紅き砂塵の壁と共に吹き散らされる雷。
7体のファミリアは一様に動きを止め、
いとも容易くエナの反跳を制してみせた邪悪。
荒野に伸びる影は実在性を主張するが、ファミリアの感覚器官を以てして実体を掴めないインクブスの核。
「総力で当たるのだ」
その背後には無傷のインクブスたちが戦意を漲らせ、得物を高く掲げていた。
「かかれ!」
号令と共に包囲の輪より打ち上がる無数の火箭。
放物線を描くエナの輝きを天に据え、前進する戦士団は万に迫る。
されど、7体のインセクト・ファミリアは一歩も退かぬ。
己の死は確定事項。
取るに足らない些事──刻んだ足跡を無数の脚が辿り、やがて踏み越えるだろう。
滅ぼすべき敵が、母の敵が眼前にいる。
ならば、為すべきは前進。
血のように紅い砂塵を切り開き、重量級ファミリアは突進する。
これがサムライ7ですか(錯乱)