まだ完結しそうにないゾ。
静寂。
飛び交っていたテレパシーが完全に途絶えた。
ここからはファミリアが自己判断を下し、エナが尽きる瞬間までインクブスを駆逐し続ける。
一抹の不安はあるが、もう切れる手札はない。
あとは沈むだけ。
敵中に孤立した黒狼たちは上手く脱出できただろうか。
私を守るために身を挺し、左腕を失ったウィッチは無事だろうか。
私の手を掴み、震えていた誰かは立ち上がることができただろうか──
「あず……東さ……」
光のない暗闇の中を深く、どこまでも深く沈み込んでいく感覚。
このまま異界の地で朽ち果てれば、父や芙花に私の最期が伝わることはない。
おそらく、行方不明扱いになるだろう。
母と同じ──同じものかよ。
ただ巻き込まれた被害者である母とは雲泥の差がある。
死地に身を投じたのは、私だ。
自身を全く顧みない馬鹿者に、どうして心配される権利がある。
それを理解していながら、父と芙花は待ってくれているという甘えが根底にあるのが救えない。
「東さん」
パートナーの声が明瞭に聞こえた。
重力が急速に作用し始め、硬い地面に背中を縫い付けられる。
鉛を詰められたように身体が重くなり、倦怠感が強まっていく。
この感覚を私は経験している。
死に損なったか、それとも──ここが終着点か。
眼球に張り付いてると錯覚するほど重い瞼を開き、光を取り入れる。
まず視界に入るのは、折れ曲がった鉄筋に縋り付く鋼板の屋根。
そして、今にも崩れそうな天井の隙間から射し込む月光。
すっかり見慣れた廃工場だ。
「レギ」
すぐ傍にいると確信を持って呼べば、巨大な影が月光を遮る。
光を拒む黒い体毛に覆われ、正確な全体像は掴めない。
ただ、シルエットからアシダカグモに近しい形態であると分かる。
「こんばんは、東さん」
私を見下ろすパートナーは普段通りの穏やかな声色で挨拶を述べた。
動じている様子はない。
インクブス真菌の領域に取り込まれた時、安否確認で跳ね回っていたパートナーとは思えない。
「……地獄の道案内までしてくれるのか」
違和感に眉を顰めながら、重い身体を起こして自身の状態を確認する。
身に纏っている死装束は見慣れたシルバーロータスのもの。
脇腹を撫でても傷跡はなく、出血の痕もない。
これは夢か現か幻か。
「ここが地獄に見えますか?」
不思議そうに頭を傾け、私の顔を覗き込むパートナー。
2列に並んだ8つの単眼が映すシルバーロータスは相変わらず仏頂面だ。
「三途の川を渡った覚えはないが……」
周囲を見回せば、鮮明に思い起こされる苦い記憶。
コンクリートの床面に飛び散った血は、インクブスの腑からぶちまけたものだ。
この時、無力な私と悪辣な世界に対して生じた憎悪は深く根を張っている。
インクブスが絶滅する日まで消えることはないだろう。
「地獄の始まり、という点では正解かもしれん」
「たしかに始まりの地ですね」
パートナーの同意する声が脳内に直接響く。
アシダカグモを模した躰に声帯は備わっておらず、耳に届くのは鋏角を擦り合わせる音のみ。
「東さんと私が出会った場所、そして──」
「シルバーロータスが生まれた場所」
レギと邂逅しなければ、私はゴブリンの苗床として一生を終えていただろう。
インクブスと戦うことも、アズールノヴァやナンバーズと巡り合うこともなかった。
ここは異端が産声を上げた場所──本当にそれだけか?
シルバーロータスが生まれた場所に間違いはない。
この埃臭い廃工場でインクブスを駆逐する力を求め、私はレギの問いに応じた。
ただ、その筋書きには
「あれから3年が経つんですね……」
なぜ、私はゴブリンに連れ去られたのか。
夜間は外出禁止を守っていた以上、自宅で襲撃されたと考えるべきだが、そんな痕跡は一切ない。
なぜ、人質が私一人だけだったのか。
ウィッチを誘い出すにしても、たった1人では効果の望めない時期だ。
そして──あの後、私を救わんとしたウィッチはどうなったのか。
結末が思い出せない。
他人を救うために身を捧げる姿だけが鮮明に記憶されている。
庇護されるべき存在でありながら、誰かのために命を賭す人類の守護者。
これまで見てきたウィッチから、その認識は間違いではないと断言できる。
だが、この廃工場に刻まれた記憶には──
「聞きたいことがある」
作為性を感じる。
「なんでしょう?」
私を見下ろすパートナーに変化はなかった。
だからこそ、違和感が風船のように膨らむ。
今すぐファミリアとテレパシーを再構築し、皆を助けるべきだと私のパートナーなら答えるはずだ。
悠長に話している暇などない。
一拍置く──視線を彷徨わせ、闇に人影を見出す。
錆びついた鉄骨の陰に彼女は佇んでいた。
純銀を溶かしたような髪に、真紅の瞳をもつシルバーロータスと瓜二つの姿。
彼女がシルバーロータスの原型だと考えていた。
「彼女は実在するウィッチなのか?」
おそらくは、否。
「なぜ、そう思われたのですか?」
返答は、肯定でも否定でもなかった。
物知りマスコットを目指していたパートナーがウィッチに関する回答を
「あの頃のウィッチはカゲロウのように短命だ」
当時、インクブスと戦っていたウィッチたちは流星にも喩えられる。
現れてから消えるまで一瞬。
人々を照らす輝きは眩く、過ぎ去った後には空虚な闇を残す。
「再会できるとは思っていない」
彼女の姿を鏡以外で見ることがなくても不思議じゃない。
「ただ──」
鉄骨の陰に隠れる人影が揺らぎ、壊れた液晶画面のようにノイズが走る。
「あの夜の結末を思い出せないのは何故だ?」
記憶は時を経て、変質し、劣化していく。
だが、異端の生まれた夜には
まるで初めから存在していなかったように。
「そもそも結末はあったのか?」
握り締めたコンクリート片は硬い存在感を主張するが、重みを感じない。
今まで私は何を見ていたのか。
いや、
「……やはり、接触の影響が出てきましたか」
聞き慣れた声で寂しげに笑うアシダカグモの似姿。
当然のように夢の中に現れていたが、その正体を私は知らない。
正体について言及するなら、オールドウィッチが遣わしたパートナーも大差ないが、ひとまず脇に置く。
「仮に、あれの存在が偽りだったとしたら……」
「被害者が1人減るだけだ」
この記憶そのものが偽りだったとしても、シルバーロータスの歩みが消えるわけじゃない。
積み上げたインクブスの屍は変わらず、私の無力が招いた失敗の被害者が1人減る。
喜ばしいことだ。
「それよりも重要なのは」
今まで共に歩み、戦ってきた存在が敵か味方か。
「お前が何者であるか、だ」
目の前の異形はレギじゃない。
あの夜、私は何者に力を求めたのか。
月光を吸い込む黒は灰色に溶け込まず、異質な存在感を放っている。
──巨躯が動く。
私を覆う影が引き、白銀が息を吹き返す。
コンクリートの床面を叩く音が崩れ落ちた天井の陰まで下がり、闇が濃度を増す。
「私
得体の知れない影は、己もレギだと称した。
「私も、ということは別個体なのか」
頬を撫でる生温かい風。
鼻腔に満ちる埃と血の臭い。
よく知る感触に包まれながら、私を映す8つの単眼を静かに見据える。
「あちらはウィッチのパートナーとして生み出したレギですね」
「生み出した?」
出自の定かではない異界の存在を?
「あの歪な世界で戦うために」
聞き間違いではない。
レギを自称する異形は、いつもの定型文を唱えなかった。
人々を救うためオールドウィッチに遣わされた、と。
「お前がオールドウィッチか」
「いいえ」
即答。
予想通りの回答、オールドウィッチは表舞台に出てこない。
ただ、脳内に響いた声には隠し切れない嫌悪が滲んでいた。
インクブスの駆逐を推し進めながら、オールドウィッチとも相容れないのか。
「今は貴方の味方とだけ」
「信じろと?」
「判断は、お任せします」
黒曜石のように艶やかな黒い眼から害意は読み取れなかった。
本来、意思疎通できるはずのない形態でありながら理解できてしまう。
似て非なる者のはずだが、よく似ている。
この感覚すら偽りだとすれば、私に信じられる指標はない。
そもそも──もう3年も
敵か味方を問うのも今更か。
無意識のうちに零れた溜息が、やけに大きく聞こえた。
視界の端で漂う埃が月光を反射して瞬く。
「1つ聞きたい」
「どうぞ」
今は、と前置きした以上、正体を語るつもりはないのだろう。
そこに不信感を抱かないかと言えば、嘘になる。
だが、それよりも気に食わないことがある。
「ウィッチのパートナーとして生み出したというのなら……なぜ、相応の力を与えてやらなかった」
オールドウィッチと対面した際、叩きつけてやるつもりだった問い。
私のパートナーは如何なる状況でも最大限の献身で応えてきた。
それでも自身の実力不足に喘ぎ、失敗に打ちのめされる姿を何度も見た。
──行き場のない怒りが腹の底から湧いてくる。
落ちこぼれと短絡的な評を下した部外者に。
慰めの言葉をかけてやることしかできなかった私自身に。
「苦労を強いているのは、承知しています」
絞り出された声色は苦々しく、空気が微かに沈む。
暗闇の奥に潜む巨体が申し訳なさそうに縮こまる気配がした。
「ただ、その……与えられる権能にも限界がありまして」
前脚の先端を彷徨わせた末、所在なげにコンクリートの破片を小突く。
姿形がハエトリグモからアシダカグモに変わろうと、細やかな所作は似通うものらしい。
別個体と言っても私のパートナーなのだと妙な納得を得る。
腹の底で燻っていた感情が弱まっていくのを感じた。
「そうか」
どうにも疑心が持続しない。
無制限に使えるリソースがなければ、配分を工夫するしかないのは自明の理。
よく知っているとも。
「これからも頼りにしてやってください」
「当然だ」
言われるまでもない。
何も乗っていない左肩に右手を添え、虚無を撫でる。
与えられる権能云々が嘘か真か──それがどうした。
たとえ、これまでの歩みが偽りであったとしても私のパートナーは変わらない。
優れた参謀であり、時に人生の相談役も務める。
少しばかり人見知りで、他者のために心を砕くことを厭わない。
善なるウィッチの在り方を信じ、物知りマスコットを夢見ている。
そんなパートナーだ。
「……最初の質問にお答えしましょう」
ゆっくりと暗闇から這い出た漆黒のアシダカグモは、微かに安堵の滲む声で告げる。
最初の質問とは、シルバーロータスの原型と思しきウィッチの実在性。
おおよその見当は付いている。
「彼女は実在しません」
驚きはない。
錆びついた鉄骨の陰を見遣れば、そこに見知った姿はなく、天井から垂れ下がる配線が虚しく揺れていた。
床に散乱するガラス片は輝きを失い、薄く埃を被っている。
「どうしても必要な措置でした」
「偽りの記憶を見せることが、か?」
「はい」
虚像を描いた異形は、迷いなく肯定する。
目的のためなら手段を厭わない──鏡を見ている気分だ。
親近感というより同族嫌悪。
間違いなくレギとは別個体だ。
正当性の追及より他にも編纂した記憶がないか、問い質すべきだろう。
「そうでなければ、貴方は自身の行いを決して許さなかったでしょうから」
開きかけた口を引き結び、浮かんだ言葉を飲み込む。
判断するのは私だ、とは言えなかった。
私は私を許すことができない。
律や金城、ラーズグリーズに諭されなければ、今でも自罰と自戒で雁字搦めになっていたのは想像に難くない。
これまでの行動が正当性を与えてしまっている。
「ここで何があった?」
だからこそ、当然の疑問が口をつく。
キャスティングだけが偽りなのか、それとも月下の廃工場という舞台そのものが幻なのか。
私は一体、何をした?
「本人に聞かれた方が良いかもしれません」
「本人…?」
続けて問いかけようとした瞬間、視界が揺らぐ。
床に手を突いたはずだが、コンクリートの硬い手触りを感じ取れなかった。
異常は触覚だけじゃない。
鼻腔で存在を主張していた血の臭いが消え、微かな風切り音が止んでいる。
「あちらの準備が整ったようです」
耳は音を拾っていない。
頭に響く声だけが明瞭だ。
麻酔を受けたように全身の感覚が鈍い。
重力とも異なる引力が強度を増していく。
「またお会いしましょう」
まだ答えを聞いていないぞ。
その一言を口は出力できず、引力に屈した身体が床面に縫い付けられる。
重い瞼が月光を閉ざしてしまえば、世界は一寸先も見えない闇。
身体の感覚は消え失せ、意識だけが残される。
「お付き合いいただきありがとうございました」
声が遠い。
距離を感じる。
瞼が落ちる瞬間まで私は沈降するのだと無意識に考えていた。
だが、遠ざかっていく声は
「我が主」
意識が浮上する。
◆
夥しい量の血が飛び散ったコンクリートの床面。
虫食いのように小さな穴を穿たれた壁の鋼板から緑の香りを乗せた風が流れ込む。
ここは全てが始まった場所──今は無き旧首都郊外の廃工場。
静寂が満ちている。
抜け落ちた天井から射す月光を遮る者は、8本の脚を持つ漆黒の怪物だけ。
その足元に横たわる少女は目を閉じ、静かな寝息を立てている。
彼らが主従関係にあると知らぬ者が見れば、怪物に捧げられる贄のように映っただろう。
しかし、ここは部外者が立ち入ることを許されない聖域。
彼らだけの空間
「我が主の庭に土足で踏み込むとは、獣にも劣る品性だな」
光を拒む漆黒の体表が波打ち、発された言葉が静寂を破る。
「餌の分際で」
そこに内包された怒気と侮蔑。
シルバーロータスの肩に乗る小さきパートナーとは似ても似つかぬ声色だった。
「ほう、小間使いがよく吠えた」
敵意の注がれる先は廃工場の隅、闇と瓦礫に閉ざされた行き止まり。
闇より深き影が滲み出て、耳にした者を平伏させる厳かな声を響かせた。
「ご苦労だったな」
静かに憤る漆黒の怪物を前にして、影は平然と背を向けてみせる。
「パックル」
揺らめく影の背後に佇む人型は大袈裟に肩を竦めた。
枯木同士を擦り合わせたような音が響き、黒ずんだ外皮が剥がれ落ちる。
背中の翅は枯葉のように見窄らしく、絶えず嘲笑を浮かべていた口は歯茎が露出していた。
数多の人間を榾木に変え、シルバーロータスに種を仕込んだインクブスとは思えぬ姿。
彼はピスキーの長、その残滓だ。
「最期に忠告しておくよ」
パックルは身体の節々を軋ませ、唯一仕えた主に対して忠言を届けんと口を開く。
この聖域に至るための道標に発声機能など不要なはずだった。
影が踏み込んだ時点で抵抗など不可能なのだから。
「そいつは小間使いなんかじゃない」
視覚を持たぬパックルが微かに頭を傾け、影の肩越しに漆黒の怪物を
インセクト・ファミリアと同系の姿を模しているが、その内に秘めたエナは全くの別種。
それを仕える主にすら悟らせず、今まで善良な小間使いに擬態してきた。
「せいぜい足元を掬われないようにね」
擬態を見抜いたピスキーの長は種こそ蒔いたが、本体は物言わぬ傀儡に変えられた。
戻るべき器は
ならば、シルバーロータスの内に主を招き入れることで報復とする。
「健闘を祈るよ、我が王」
歯茎を剥き出しにして、醜悪な笑みを浮かべるパックル。
最後の仕事を終えた枯木は音もなく崩れ出す。
まるで糸が解けるように分解され、醜悪な笑い声だけが廃工場に残される。
今度こそピスキーという種は絶滅した。
「小間使いではない、か……」
残響を聞き届けた黒と黒が月光の下で相対する。
互いに真の姿は晒さず、ただ敵意の刃を突きつけ合う。
「我が支配を跳ね除けていたのは貴様か」
「支配?」
影より投げかけられた問をシルバーロータスの従者は反芻し、凶悪な鋏角を擦り合わせる。
金属とも異なる硬質で鋭い音が廃工場に響く。
「まさか、この庭に踏み込まんとする愚挙の数々か?」
傲慢なインクブスの矜持を刺激する手本のような嘲笑。
しかし、侵入者を映す8つの単眼に感情の類は一切見られない。
「思い上がりも甚だしい」
「ほう……」
影は驚きの声を漏らす。
総てのインクブスを統べる王を前にして気圧されることなく、堂々と侮辱してみせる者が小間使いのはずがない。
より上位の存在と見ていい。
「ここまで辿り着かれた今、愚挙とは言えまい」
インクブスの牙城と比して貧相な聖域を見遣り、淀んだエナの奥底で喉を震わせて笑う。
ここまでの
災厄の根源を掌握すれば、異界を侵す蟲も首を垂れる。
影の首が微かに傾き、視線が血痕の刻まれた床面を這う。
「そこの東蓮──」
「口を慎め」
異形が王の言葉を遮った。
「獣風情が」
主の名を呼ぶに値せず、と吐き捨てる。
ここまで虚仮にされ、沈黙を選ぶインクブスはいない。
反撃せねばなるまい。
空間すら歪めるエナの衣が微かに揺らぎ、影より放たれる圧力が増す。
「無力な主に仕える従者とは悲劇……いや、我にとっては喜劇か」
目を閉じたまま動かぬ
首に添えられた魔手を自ら払うこともせず、従者に命を預けている。
異端のウィッチも所詮はヒトの子に過ぎない。
「無力と嘲笑えば、それに喰われた同胞が泣くぞ?」
嘲笑には嘲笑を。
クモ目の脚が無遠慮に踏みつける血痕は、愚者の餌食となった肉袋の残滓だ。
「無力を認めるか、庭師よ」
返された刃は鋭利だが、影は不明瞭な輪郭すら歪めて口角を上げる。
「我が主は己が無力を認め、牙を研いでいる……今もな」
無力を呪ったからこそシルバーロータスは試行錯誤を繰り返し、多種多様な戦術を生み出した。
それを嘲笑った者が如何なる末路を辿ったか。
影を見下ろす異形は、ただ含みのある笑いで応じた。
「次などあるものか」
なれば、とインクブスの王は宣告する。
災厄に終止符を打つと。
「貴様らがな」
シルバーロータスの従者は宣告する。
害獣の必滅は覆らぬと。
「どうしようというのだ?」
支配を悉く遅滞させてきた障害が、この貧相な聖域には仕掛けられていない。
従者が歩みを遅らせんと稚拙な舌戦を挑んでくるだけ。
抵抗とすら呼べぬ足掻き、毒に侵された虫が地でのたうつようなもの。
影は茶番に付き合っているに過ぎない。
「敗北を悟らせまいと虚勢を張っているようだが、エナの乱れを感じるぞ」
漆黒の体毛に覆われた外骨格が波打ち、禍々しいエナが漏れ出す。
ついにウィッチのパートナーという虚像を取り繕えなくなった様に
インクブスと根幹を同じくする者など恐るるに足らず。
「どうした……返す言葉を持たぬか?」
返答は沈黙。
見下ろす者と見上げる者を月光が平等に照らすが、勝敗は明らかだった。
しかし、インクブスとは弱者を嬲らずにはいられない。
「災厄に仕える庭師よ」
沈黙を続ける庭師の影を踏まんと脚を踏み出す。
濃密なエナに包まれた一歩は音を伴わず、影は悠然と進む。
勝利者の如く、凱旋するように。
「この身体、我が主に言わせれば徘徊性のクモなのだそうだ」
「……何の話だ」
何の前触れもなく愉快げに語り出すシルバーロータスの従者を前に、インクブスの王は落胆の滲む声で応じた。
これでは舌戦を放棄したと判断せざるを得ない。
下らぬ戯言で時を稼ぐならば、早々に幕引きを図るだけ──
「網を張るのは
無造作に脚を踏み出した影を見下ろし、クモ目を模した怪物は確かに嗤った。
「横糸を踏んだな」
影の纏うエナの衣に生じた唯一の綻び。
露出した爪先は偶蹄目を彷彿とさせる2つに割れた蹄だった。
「ふむ……」
「無為に時を稼いでいると思ったか?」
浮かび上がる一筋の線は、高濃度のエナで紡がれたクモの糸。
それは無機質なコンクリートの床面を縦横無尽に走り、誰もが知るデザインを描いていた。
中心から放射状に張られた縦糸と螺旋状に張られた横糸──円網。
本来、空中に構築される死の罠が獲物の脚を捕らえた。
「そうやって悠長に構えるから機を逸する」
シルバーロータスを円網の中心に置き、縦糸を踏むクモ目の怪物は淡々と語る。
庭師に門を閉ざされ続けた失態を忘れ、舌戦に興じるとは学習能力がない。
そもそも、通行を
「我々の歩みが如何に早いか、知らずにな」
時が経てば、学習し、対策し、適応する。
その脅威を夥しい同胞の血肉と引き換えに学んだのではないか、と節足動物を模した怪物は嗤う。
「これが半年前であれば、また違ったやもしれんが……」
夜すら隠してしまうほどのファミリアが動き出す前であれば、インクブスにも勝機は十二分にあった。
この庭は不完全で、客を出迎える準備はできなかっただろう。
「すべては過ぎたこと」
しかし、そんな仮定は無意味だ。
インクブスの血肉を食らい、無数の死を積み上げてきたファミリアの集合知が、ここにいる。
初めから勝敗は明らかだった。
「力の大部分は失ったままだが、貴様の相手ならば事足りる」
「ならば──」
長々と語らせた末、今度こそ落胆を露にした影は怪物を鼻で笑う。
シルバーロータスを掌へ乗せるように右腕を上げ、力強く握り締めた。
影の纏う高濃度のエナが波を打って揺れ動く。
そして、天より射す月光が歪む。
「抗ってみるがいい」
暗転。
まるで照明のスイッチを切るように廃工場に射し込む月光が途絶えた。
影との境界が失われ、世界が暗闇に覆われる。
パックルによる侵食の比ではなかった。
身体を蝕む病、押し寄せる濁流、奈落への落下──そういった過程がない。
分別のない黒が全てを塗り潰し、支配下に置く。
あまりに圧倒的、抵抗など無意味だった。
門を閉ざし続ければいいものを、あえて招き入れるとは愚かにも程がある。
「口ほどにも……」
支配者は落胆の一句を飲み込む。
否、飲み込まざるを得なかった
──声に混じる微細な雑音。
何者も動くことを許さぬ世界で、音が死に絶えていない。
世界の片隅で存在を主張し続けている。
それはコンクリートの硬い床面を叩き、壁の鋼板を突き、大地を削る音。
四方より無秩序に響いていた音は次第に足並みを揃え、明確な意志を持つ。
暗闇の中で彼らは歌う──詞無き行軍歌を。
翅を震わせ、大顎を打ち、脚で地を叩く。
目が見えずとも彼女の下へと集う。
「馬鹿な」
邪なる気配に揺らぎが生じる。
「言ったはずだ」
全てを飲み込む闇の中に浮かび上がる翠の光。
音に続いて、光が主張を始めた。
初めは地平を埋めるように灯る翠の列は、やがて溢れ出して天へと解き放たれる。
星というには奔放に飛び回り、闇を拭い去るほどの下品な光は発さない。
シルバーロータスであれば
「半年前であれば違った、とな」
飛び回る蛍光は翠の尾を引き、複雑な模様を天に描き出す。
規則性などない。
無秩序に見える軌道。
しかし、そこより一歩下がって見上げれば、見事な大輪を描き上げていると知る。
「舐めるなよ」
闇が弾けた。
粉々に砕け散った偽りの黒は、断末魔を上げて消え失せる。
白銀の月が天井の隙間から顔を覗かせ、シルバーロータスの下へと集った者たちを照らす。
鮮やかな色彩を備えた外骨格、敵の姿を映す無数の眼、打ち鳴らされる大顎。
世界を埋め尽くさんばかりの蟲、蟲、蟲──
「抗うか、蟲の分際で」
「それ以下の獣には過ぎた
無数の蟲が犇めく中心より変わらぬ調子で敵意が返される。
しかし、再び月下に晒された影は応じなかった。
「貴様……何者だ」
真名を問う声に動揺はない。
ただ、全身を覆うエナの厚き衣には新たな綻びが生まれていた。
歪んでいた輪郭の一部が像を結び、隠蔽されていたインクブスの正体を晒す。
「名乗る舌を持たん」
エナの内より覗く黄金の眼と相対し、無数の蟲たちは声を揃える。
真名を明かすに値する者は、この悪辣に捻じ曲がった世界に一人だけ。
敵対者に与えるものは、死を措いて他に無し。
「返してもらうぞ、我が権能」
シルバーロータスの従者、レギは厳かに宣告する。
肝心なことは話さなくて委員会…!