かつて東洋でも有数の大都市圏を支えていた交通インフラ、その闇の中で魑魅魍魎どもは蠢いていた。
その目的は、ただ一つ。
数多の同胞の敵たる災厄のウィッチを打ち倒すこと。
「まだ、こんな場所を残しているとは……愚かな連中だ」
寂れた地下鉄道のホームに拠点を築く同志たちを見遣りながらゴブリンの1体は嘆息する。
戦士たちの尊い犠牲によって判明した暫定的な安全地帯。
それは大陸でも有用な拠点となった地下構造物であり、残存しているとは誰も想像していなかった。
「同志グリゴリーは地固めと言ってたが、まどろっこしいな」
「地上にはウィッチと奴らがいる。今は待て」
同志を諫める自身も今すぐ攻撃に移りたいと望んでいる。
しかし、オークの戦士をはじめとする少数精鋭の偵察隊が、ほぼ帰還しなかった事実は重い。
「いつになるやら……」
「ここが機能するまでの辛抱だ」
強力な攻撃に耐え得る地下構造、追撃を困難とする複雑な経路──ここは優れた拠点になる。
破壊されず放棄されていると当初は予想されていなかったが、
これを踏まえ、遠征軍の即時派遣が決定される。
ウィッチやヒトの軍隊が対処する前に基盤を固めるべきという判断だ。
ポータルが常時解除された暁には、大陸で猛威を振るった
「この錚々たる顔触れで負けるとは思えんがな」
それを多くのインクブスは冗長だと考えている。
大陸からも同胞を集めた遠征軍は件のウィッチが相手であろうと圧倒できる、と。
「数多の同志を屠ってきた奴らを侮るなよ」
「…分かっている」
軽く手を振って受け流す同志は、気怠げに作業へ戻っていく。
いかに対策と準備を進めていようと、総勢1000を数える遠征軍であろうと、全滅の危険がある限り慎重に行動する必要があった。
「イーゴリ」
歯痒さを覚えるゴブリンの名を呼ぶのは、屈強な体躯をもつオークの戦士。
纏う格の差は歴然としていたが、両者は対等に肩を並べた。
「周辺の地形を把握するため偵察隊を出すが問題ないか?」
「こっちは大丈夫だ。よろしく頼む」
遠征軍を統率するイーゴリは頷き、首飾りが揺れる。
ウィッチやファミリアの気配はないが、周辺の状況は未確認。
拠点の構築と並行し、情報の収集を行う必要があった。
「そうか、では選抜した戦士たちを出すぞ」
両者に認識の齟齬はなく、能率よく行動する。
既に準備を終えていた偵察隊の各々は、合図を受けて一斉に動き出す。
合戦前のような重装備のオークと軽装のライカンスロープが赤錆びた軌条を踏む。
かつて無数のヒトが行き交った地下鉄道──文明の光が途絶えた道を魑魅魍魎が進んでいく。
「そんなに荷物が必要なのか?」
崩れた壁面から溢れた土塊を跨いだ黒毛のライカンスロープは疑問を口にする。
大陸より呼び出された者には、オークたちの装備が大袈裟に思えてならない。
「虫けらどもはウィッチと違ってタフだ。なるべく距離を保ちたいのさ」
そう言って背負ったシールドを親指で差すオーク。
腰から下げたボウガンを軽く叩いてみせる者もいる。
それらは異界にてファミリアと戦った経験から揃えられた装備であった。
「大陸のファミリア相手じゃ必要ないだろうが……」
奇怪な模様を刻んだローブを羽織るライカンスロープが付け加える。
「奴らに爪と牙だけじゃ手数が足りん。下手をすれば相討ちだ」
群れの知識層に属し、マジックを使う術士は渋面で語る。
異界におけるファミリアの討伐は犠牲なく終わったことがない。
いかに優れた戦士と火力を投じても。
「そんなもんか──止まれ」
最も感覚器官の優れる黒毛のライカンスロープが隊を制止する。
そこはコンクリートの壁面が黒々とした土質へと変化する境界、洞穴の一歩手前。
「これは……」
「奴らか…!」
反射的に得物を構えた各々も遅れて制止の意味を知る。
──暗順応した眼でも見通せない闇の奥底に
この距離でも感知できる濃密なエナの壁。
それが次第に、距離を縮めてくる。
「ボウを構えろ、お前ら」
「おう!」
指示一つで2列横隊を組み、腰に下げていた武骨なボウガンを構える。
ここは
最悪の事態を想定し、オークの戦士は装備を揃えていたのだ。
「カリアスは本隊まで走れ」
振り向くことなくライカンスロープの術士は同族の伝令へ命ずる。
その表情は険しい。
無数の足音が地を伝播し、接近してくる存在の数を嫌でも認識させてくる。
「俺が戻るまでくたばるなよ!」
「言ってろ…さっさと行け!」
無意味な問答はしない。
短く言葉を交え、カリアスは振り返ることなく駆け出す。
逞しい四肢の生み出す加速によって影は瞬く間に小さくなる。
「時間稼ぎ、なんて柄じゃねぇな」
「おうよ」
天井までを覆い尽くす影と相対して、戦士と術士は不敵に笑った。
闇を睨むボウガンに劇物を充填した擲弾が装填される。
「用意よし!」
影が確固たる輪郭を描く。
そこに忌まわしき羽音を出す翅は無く、体色は薄い。
しかし、異様に肥大化した頭部には凶悪な大顎が備わっている。
「来い来い……」
シロアリのソルジャーに酷似したファミリア。
その一群はウォークライ無き突撃を敢行する。
トリガーを引き絞る──直前になってソルジャーの後方より飛来物。
先制攻撃を想定していなかったインクブスの反応は遅い。
「なっ!?」
ボウガンを構えていた前衛は防御もままならず飛来物の直撃を受けた。
「な、なんだこれは…!?」
「ど、毒だっ」
強い悪臭を伴う粘液の直撃を受けた横隊は乱れ、ボウガンを取り落とす者すらいた。
とても斉射を行える状態ではない。
その隙を逃さず突進してくるシロアリのソルジャーたち。
「させるかよ!」
悪臭に耐えながらライカンスロープの術士は、最大火力の行使を決断した。
エナを一点に集約し、爆縮させるマジックだ。
目標は眼前、照準など不要。
「吹き飛べ!!」
強き言葉と共に地下鉄道へ──
「なに…?」
マジックによる破壊が吹き荒れることはなかった。
一切の抵抗を受けずソルジャーの群れは前衛に激突する。
「ぎゃああああ!!」
横隊を崩したインクブスたちに逃れる術はない。
凶悪な大顎が頭を、腕を、脚を挟む。
「何をしているヒエラクス! 早く撃て!」
迫るソルジャーの頭部をクラブで叩き潰した戦士は吠える。
それぞれが得物を手に絶望的な肉弾戦を展開していた。
しかし、多勢に無勢。
闇の奥底へ引きずられていく者の悲鳴が反響し、断末魔が場を満たす。
「どうなってやがる!」
その渦中で爪を振るい、大顎を退ける術士は原因究明のため頭脳を回転させる。
エナの集約は滞りなく行われた。
爆縮だけが正常に行われず、エナが霧散した。
普段と異なる点は、謎の粘液──ヒエラクスの視界に奇妙なファミリアが映り込む。
頭部の肥大化したソルジャーと比して貧相な個体、その頭部には
「まさかっ!?」
角ではなく粘液の発射機構か──ライカンスロープを背面より大顎が襲う。
胴を挟み込むだけでは止まらず、ヒエラクスの全身は宙に浮く。
そして、間髪容れず軌条へ叩きつけられる。
「がぁ、くっそ、がっ」
何度も、何度も、持ち上げては軌条へ叩きつける。
皮膚が裂け、骨が砕け、生命が尽きるまで。
機械的な無機質さでファミリアは、それを遂行する──
「敵襲! 敵襲!」
「や、奴らだ!」
「ぐわぁぁぁ!」
風となって闇を駆けるカリアスは地下鉄道内を反響する戦場音楽に顔を顰めた。
背後に残してきた偵察隊以外も襲撃を受けている。
混沌と恐怖の満ちた地下構造物に、安全地帯など存在しない。
「おい、お前の隊はどうした!」
進行方向より現れるオークの一団、それを率いる戦士が問う。
シールドとボウガンを携えた臨戦態勢、殺気立った視線が全周へ向けて放たれている。
「奴らと戦ってる! そっちは?」
「地上へ通じる入口を警戒していた! 何が起きている!?」
シールドの内へと入ったカリアスは、一団が状況を把握していないと空気で察した。
過剰な警戒心は敵を発見できていない不安ゆえの行動。
しかし、カリアスとて一伝令に過ぎず、推測で物は言えない。
「俺は伝令として走る! お前らはっ」
突如、崩落した壁面の土塊が弾け飛んだ。
ボウガンが一斉に照準した先には──
積層しているように見えて真新しい土、そして触角と太く発達した前脚が覗く。
「虫けらどもだ!」
怒声に呼応し、天井や床面の土塊より開かれる穴、穴、穴。
赤褐色のケラが開けた突入口よりファミリアが溢れ出す。
そこは一瞬にして戦場へと変貌する。
「応戦するぞ!」
「おう!」
戦士たちの反応は迅速かつ的確だった。
すかさずトリガーを絞り、ボウガンから矢弾が発射される。
これに対してシロアリが即応し、角先より粘液を発射。
交錯──着弾。
「くそっ」
「ひでぇ臭いだ!」
「怯むな、次弾を!」
シールドで阻んだ粘液の悪臭にオークは面食らうも辛うじて踏み止まる。
威力は低い。
次弾を手早く装填する戦士たちは、矢弾に貫かれたシロアリを無言で嘲笑う。
「用意よし!」
「くたば、れ……なんだ、あれは」
粘液を発射するシロアリの背後で揺らぐ漆黒の巨影。
オーガに等しい巨躯の存在を前にしたオークの一団に緊張が走る。
隔絶した体格差の相手との正面衝突は避けなければならない。
単純な突進でさえ質量は脅威──
「擲弾を──」
爆発を思わせる音が轟き、衝撃波が狭い空間を駆け抜けた。
無残に粉砕されたシールド、そしてオークの戦士たちが宙を舞う。
「くそが…!」
横隊を粉砕した漆黒の巨影。
その足下、鋭い毛の生えた脚の間より這い出たカリアスは毒づく。
初速が最高速としか思えない突進を回避できたのは運でしかない。
光沢を帯びた漆黒のファミリアは長い触角を揺らし、その無様な姿を見下ろす。
「この化けも」
得物を持ち替えたオークの首が消え、真っ赤な噴水が散る。
それを一身に浴びるオオムカデの脇をゲジが駆け抜け、生存者へ襲いかかった。
「固まれ!」
「や、やめろ! 俺は餌じゃっ」
神経毒を注入され、膝を折ったオークが穴へ引きずられていく。
応戦の姿勢を見せた者には、無機質な殺意を迸らせるオオムカデが相対した。
その光景を傍目に、掘削を終えたケラがエナを補給すべく骸を食む。
「冗談じゃねぇ!」
インクブスを獲物として貪るファミリアから逃れんとライカンスロープは駆け出した。
一度も振り返ることなく、一直線の地下鉄道を疾走する。
追撃者は──小さな肉片を齧るゴキブリに酷似したファミリア。
暗闇の中であっても長い触角と体毛が空気の振動を捉え、物体の位置を正確に把握する。
巨影が、軌条を駆けた。
「く、来るなっ」
黒毛のライカンスロープは迫る死の気配から逃れられない。
漆黒の影は弾丸列車の速度をもって轢殺する──
「そこら中にいるぞ!」
「数が多すぎる!」
全ての偵察隊が地下鉄道の闇へ消えた同時刻、インクブスの拠点にも等しく絶望が殺到していた。
限られた地下空間を覆い尽くす濃密なエナの濁流──否、ファミリアの大群。
それはオークの横隊を容易く圧殺し、準備不足で浮き足立つ有象無象を蹂躙する。
「虫けらがぁっ!?」
スリングショットを構えた緑色の矮躯が宙を舞う。
視界を埋め尽くすファミリアを前に抵抗など無意味。
シロアリのソルジャーは玩具のようにゴブリンを振り回し、何度も地面へ叩きつける。
その傍らでは、神経毒を注入した獲物を引きずるゲジが横穴へと消えていく。
「う、上がぁっ」
天井の闇より現れた長大な影がライカンスロープを捕らえた。
神経毒など不要と言わんばかりに、大顎で頭蓋を粉砕して喰らう。
単行列車ほどもあるオオムカデは胴体だけを咀嚼し、振り落とされた腕や脚が辺りに残される。
そして、ぶちまけられた血肉をゴキブリが懸命に食む。
血臭が闇の中に満ち、咀嚼音と悲鳴が狂気のコーラスを奏でる。
インクブスの血肉をもって彼らの拠点は完成を迎えた。
「なんだこれは!」
目を覆いたくなる惨禍の中、辛うじて地上へ通じる階段へ脱したイーゴリ。
しかし、インクブスを1体も逃さない殺意の塊が階下より追ってくる。
同志の血を浴びた顔に恐怖が滲む。
逃げなければならない。
そして、ここより離れた場所でポータルを解き、情報を持ち帰らなければならない。
「必ず殺してやるぞ…!」
呪詛と麻痺毒の充填された擲弾を階下へ投げ捨て、イーゴリは駆け出す。
忌々しいファミリアの足音を意識から締め出し、必死に階段を駆け登った。
血臭が薄まり、コンクリートジャングルの乾いた臭いが強まってくる。
「同志グリゴリーに…伝えなければっ」
夜空を視界の先に捉えたイーゴリは微かな希望を見出していた。
偵察隊の帰還を許さなかった
そして──出入口の先に人影。
小さく、華奢で、不気味なほど微弱なエナを纏う影。
それは死神の衣のように鼠色のオーバーコートを靡かせ、生命を解体するククリナイフを手にした少女。
「ウィッチ…!」
ただのウィッチではない。
同胞たちの敵であり、災厄のウィッチであると本能的に察した。
全身を駆け抜ける憤怒、憎悪、そして恐怖。
「お前が!」
不倶戴天の敵を前にイーゴリは反射的に動いた。
同志の中でも優れた体躯が生み出す膂力全てを投じ、加速する。
ナイフの鋭利な切先を細い喉元へ──
「な、に…?」
屋根の影より一歩先へ出た瞬間、ひび割れたタイルへ全身を打ちつけられる。
一切の動作は封じられ、視線を動かすことしか叶わない。
そして、己を捕らえた存在にイーゴリは眼を見開く。
──
驚異的な伸縮性と粘着力をもつ網に全身を捕らわれていた。
「これで最後か」
「はい」
鼠色のウィッチとパートナーは、フラットな視線を注ぐだけ。
頭上より網を覆いかぶせたメダマグモの鋏角が迫る。
大きく発達した後中眼に映るインクブスは脱出のため足掻く。
しかし、身動き一つ許されない。
「なんなんだ、お前は」
鋭い口器が皮膚を易々と貫通する。
激痛に顔を顰めながらもイーゴリは、眼前に佇む災厄の元凶へ吠えた。
「お前は…お前がウィッチだと言うのか!?」
恐怖と憎悪の入り混じった叫びが旧首都に虚しく響き渡った。
一陣の風が駆け抜け、姿を現す三日月。
月光を吸い込んで輝く銀の髪、そして宝石のように紅い瞳が妖しく光る。
「そうだ」
その言葉が届くことはなかった。
消化液に溶かされ、臓腑をエナの液状物にされたインクブスには。
──斯くしてインクブスの遠征軍は全滅した。
糸に巻かれて死ぬんだよ!