作者「えぇ…(困惑)」
逐鹿
どんな優れた軍隊も餓えと渇きには勝てない。
腹が減っては戦はできぬ、当然のことだ。
それは私のファミリアも例外ではない。
エナの供給が尽きた時──インクブスが出現しなくなった時──ファミリアは消滅する。
先日の殲滅戦以来、めっきり出現数が減少したことで、それは現実的な問題となった。
大陸側で供給を確保できるインクブスとの我慢比べは不利だ。
今はファミリアを休眠させ、消費を抑えさせているが、それでは即応できない。
「見ないインクブスだな」
「ケットシーですね……日本では目撃されていないはずです」
そういった事態を防ぐため、私は滅多に活動しない住宅街の一角まで足を運んでいた。
今宵の獲物は、街灯の下で少女に覆いかぶさろうとしている直立歩行の猫。
見慣れないインクブスだが、エナを含んでいるなら何でもいい。
「ライカンスロープの亜種か?」
「に、似てますけど、マジックを使用する点で異なりますね」
マジックは厄介だが、私に見逃すという選択肢は存在しない。
左肩のパートナーと視線を交え、再確認。
「周辺にウィッチはいないな?」
「はい、間違いありません」
「よし」
追い詰められたウィッチと思しき少女の救出のため。
そして、ファミリアの貴重なエナ供給源を得るため──
「やるぞ」
インクブスを狩る。
電柱の陰から一歩踏み出し、シースからククリナイフを抜く。
それが合図──背後の路地裏からアスファルトを引っ掻く鋭い音。
その音を拾って猫耳が立つ。
ほぼ同時に私は街灯の下へ駆け出した。
少女の胸元へ伸ばす手を止め、インクブスが振り向く。
「誰だよ、お楽しみの邪魔する奴はぁ…」
微塵も可愛くない猫面は苛立ちを隠さない。
そして、黄の双眸は、私を追い越す軽自動車ほどの影へと向く。
「おっと!」
首が存在した空間を切断する濃紺の大顎。
肝心の獲物は、ひらりと宙を舞う。
ハンミョウやゴキブリほどではないが、あの速度に反応するか。
街灯の下へ現れたファミリア──長大な6脚をもつベッコウバチは大顎を打ち鳴らす。
その足下に座り込む少女の顔色が青ざめていく。
無理もない。
しかし、今は構っていられない。
宙返りを披露しながら下がるケットシーの追撃が最優先だ。
「虫けらぁ? お前っ」
ベッコウバチに遅れて街灯の下を駆け抜ける。
そんな私を見たインクブスの反応は見慣れたもの。
着地点へ濃紺の影が迫り──金属を金属で引っ掻いたような音。
紙一重のところで大顎と爪で斬り結び、自身の軌道を逸らすケットシー。
その勢いを殺さず距離を離してからアスファルトに爪を立て、制動を図る。
ベッコウバチは左から、私は右から、それを追う。
猫目が左右に泳ぐ。
「小賢しいんだよっ──弾けろ!」
両手を頭上へ掲げ、ケットシーは吠える。
鈍感な私でも感じ取れるエナの流動。
マジックを使い、左右の脅威へ同時に対処する腹なのだろうが。
「馬鹿め」
それは対策済だ。
インクブスの頭上に収束したエナが、ぱっと泡が弾けるように霧散する。
「なに!?」
久々に得物を振るう。
貧相な体躯ゆえ全身を使い、遠心力を最大限利用。
動揺を隠せない猫面目掛けてククリナイフを叩き込む。
「ちぃ!」
私のへっぽこな攻撃を避けるためケットシーは飛ぶ──それに追従する濃紺の影。
驚愕のあまり見開かれる猫目。
カウンターを繰り出すには姿勢が悪い。
鋭利な爪を振るうより先に、大顎がインクブスの首元を捕らえる。
「がっ…!?」
絶妙な力加減で締め上げ、しかし切断はしない。
獲物は必死に大顎から逃れようと足掻く。
だから、
「ぐ、がぇっ…かっは…やめ──」
視線を送るだけで意図を解したファミリアは、獲物を電柱へ打ちつけ、アスファルトに雑巾がけし、淡々と痛めつける。
だが、生命までは砕かない。
「これで8体目」
抵抗が弱まり次第、毒で昏倒させて運搬する。
本来は苗床にするためだが、今回は保存食とするため。
同じ保存食である肉団子は加工の過程で微量のエナを損失してしまう。
今は、それすら惜しい。
「……やはり、危険だと思うのです」
見慣れた作業風景を横目にパートナーは、歯切れが悪そうに告げる。
ウィッチとしての能力が低い私にインファイトは危険だと。
その通りだ。
しかし、それは切れる手札がある時に限る。
「手札が限られる以上、やるしかない」
「むぅ……あと一つマジックが使えれば」
「無い袖は振れん」
「私が未熟なばかりに申し訳ありません」
卑下することなど一つもない。
ファミリアは単独でインクブスを屠れるほど強力な存在へ成長している。
「私たちは進歩している。囮をできるようになったのも、その一つだ」
久々に振るったククリナイフをシースへ差し込み、肩に乗るパートナーの鋏角を軽くつまむ。
「安心しろ。無茶をするつもりはない」
「ふぁい」
敗北とは即ち死を意味する。
無茶も無謀も良い結果は引き寄せない。
分かっている──つもりだ。
鈍い打撃音を背に街灯の下へ視線を向ければ、恐怖に染まった視線とかち合う。
暗闇にいる私を見ているわけではない。
音源の方角を見ているだけだろう。
小刻みに震える相手へ慎重に、ゆっくりと歩み寄る。
「ウィッチではないようですね。しかし、こんな時間に何を…」
パートナーの疑問は尤もだった。
変身前のウィッチという可能性もあるが、だとすれば徒歩で逃走する理由が分からない。
紺のジーンズに白いシャツというラフな格好は一般人そのもの。
しかし、近隣の住民であれば外出禁止を知らないはずが──
「いや、避難民という線もあるか」
少女は、異邦人だった。
明らかにコーカソイドと分かる顔立ち、染髪ではない金髪、そして大きな碧眼。
今日常識となっている夜間の外出禁止を守らない者はウィッチか、
「そういえば……アメリカからの避難民を受け入れたニュースを見ましたね」
「ああ」
地図上から消滅する国やインクブスの傀儡と化す国は後を絶たない。
しかし、他国の玄関口まで辿り着ける難民は少ない。
多くは逃避行の道中でインクブスどもの餌食になるからだ。
そんな情勢下でも比較的安全に国外へ国民を避難させているのが、かの国だった。
──足音一つ一つに震える少女を見て、溜息を噛み殺す。
アスファルトを円形に照らす光の下へは踏み込まない。
「……日本語は分かるか?」
闇から声を投げかければ頷きが返ってくる。
もっと取り乱すものと身構えていたが、少女は破かれたシャツの胸元を押さえ、恐怖に耐えていた。
胸中に燻る苛立ちが溜息として小さく漏れ出す。
「奴は倒した」
場違いなロリータボイスをできるだけ、聞き取りやすく、ゆっくりと発する。
その間にフードを取り払い、羽織っていたコートを外す。
「今すぐ」
光の下へと入り、鼠色のコートを少女の足元へ投げる。
大きく見開かれた碧眼には、飾り気のない白一色のウィッチが映っているのだろう。
「ここから立ち去れ」
視線でコートを拾うよう促し、ロングスカートが翻らない程度の速さで踵を返す。
すぐにもアスファルトを引っ搔く音、そして肉袋を引きずる音が追従してくる。
月光すら覆い隠す雲のおかげで、面倒事が増えずに済んだ。
私の隣に並ぶベッコウバチの作業風景を見てしまった暁には──
「は、はいっ」
恐怖で震える声が、背後から聞こえた。
よく返事をする気になったな。
ぴくりとパートナーが反応する気配を闇の中で感じる。
「周辺にインクブスはいませんが、大丈夫でしょうか?」
「私は保護者でも、警察でもない」
突き放すように、言い聞かせるように、私は宣う。
インクブスが現れればファミリアをけしかけて駆逐する。
だが、それ以外の面倒は見れない。
「…そうですね」
そうとも。
私は誰かのために自身を投げ出す献身的なウィッチではない。
インクブスを屠る、それだけだ。
今、意識を向けるべきは──矛であり盾であるファミリアへ如何にエナを供給するか。
こういった事態は想定していた。
次の段階に移るべきか、自問自答する。
準備はできているが、それの及ぼす影響は未知数。
一度始めてしまえば後戻りできない──
「む……73番目の巣を落したようですよ」
不意に受信したテレパシーに反応するパートナー。
2000ほどのゴブリンが生息する
淡々と、しかし事細かに戦果を告げる様はテストの点数を自慢する子どもみたいだ。
最近は聞く頻度が低下していた。
「6度目の攻勢だったか」
「はい」
6度の攻勢で失われたコマユバチは200に及ぶ。
インクブスを駆逐し、その生存圏を脅かす作戦の雲行きは怪しい。
「日に日に防衛戦力が強化されています」
「必ず対策してくる。分かっていたことだ」
インクブスどもは馬鹿じゃない。
私たちが対策をするように連中も必ず手を打ってくる。
確実に取ってくるであろう対策は一つ。
「マジックですね」
「ああ」
異界の技術で生み出されるファミリアたちは、不思議なことに見慣れた節足動物の姿をしている。
そのため、飛び道具の相手は苦手だ。
射程と火力のあるマジックは特に。
「インクブスは集中的に運用しているようです」
「単純だが、強力だ」
「はい」
おのずと指揮を執る私の役目は、いかにインファイトへ持ち込むかが焦点となるが、あちら側に私はいない。
「群れごとに対策は打っていますが…芳しくありません」
だから、ある程度の裁量権をファミリアに与えた。
現地を一切知らない私の指揮で混乱させないために。
その結果、私の教えた戦術を基礎に独自の対抗策を編み出しているが──全滅した群れも少なくない。
それを仕方のないことだと理解はしているが、私の中で消化しきれない感情がある。
もっと上手くできなかったのか、と。
「…どうした」
昏倒中の獲物を引きずるベッコウバチが不意に頭を寄せてくる。
手柄を見せたがる猫みたいに。
──いや、違う。
その大きな複眼には、ひどい仏頂面の私が映っていた。
どうやら顔に出ていたらしい。
「大丈夫」
言葉が話せなくともファミリアの思考は分かる。
深淵のように暗く、しかし温かさを秘めた複眼へ小さく笑みを返す。
「対抗策を纏めて全体で共有してみるのは、どうでしょう?」
ベッコウバチが離れるのを待ってパートナーは切り出す。
「ああ」
マジックへの対策で効果的なものを全体へ伝達し、生存性を高める。
嘆く暇があったら考え続けろ。
「そうだな」
強かに生きるファミリアたちに甘えていた。
まったく、母親失格だな。
静寂に包まれた住宅街を歩きながら、無数のテレパシーへ耳を傾ける。
「…頭一つ抜けて大きな群れがあるな」
「この群れは……最も交戦数が多い群れですね」
私の意識が向いた群れをパートナーも認識し、即座に他の群れと異なる点を抽出する。
ほぼ毎日、インクブスへ襲撃を仕掛けていた好戦的な群れか。
私が教えた戦術を改良し続けていたようだが、最近は伸び悩んでいたはず。
だが──
「なるほど」
生物は、捕食対象を効率よく狩るため進化する。
進化には、
交戦数の増加はストレスの増加を意味し、淘汰される個体が増えれば、進化のサイクルはより早まる。
この群れは、このコマユバチは、もう本来の姿を留めていないだろう。
「目には目を、か」
◆
弱々しい街灯の明かりを浴びる少女は、灰色のオーバーコートを纏ったまま闇を見つめていた。
その瞳に恐怖の色はなく、強い意志の輝きが宿っている。
『少尉、ご無事ですか?』
流暢な
目と鼻の先へ来るまで複数だと判別できないほど抑制された足音。
それが少女の眼前で静止する。
『ええ、問題ありません』
灰色の装具で全身を固めたサイボーグのような兵士へ少女──少尉は言葉を返す。
インクブスとファミリアに震えていたティーンエイジャーは仮初の姿。
差し出された手を制して立ち上がり、兵士たちと相対する姿は紛れもなく軍人の一人であった。
『心臓に悪かったっすよ……少尉』
『ああ、まったくだ』
『クソ猫野郎のケツにジャベリンを突っ込む秒読みしてましたよ』
暗視ゴーグル越しの視線が住宅街を見下ろすマンションへ向く。
インクブスの強靭な肉体を破壊できる火器が、その屋上には展開されている。
『真に迫る演技だったでしょう?』
『迫真でしたよ』
ウィンクしてみせる年下の少尉に兵士たちは苦笑するしかない。
それは戦場で見られるニヒルなものではなく、安堵が多分に混じった人間的なもの。
彼らが
『やはり、ここまで危険を冒す必要があったとは……』
作戦とは言え、年端もいかない少女を
安堵したからこそ漏れてしまった苦言だった。
『ブリーフィングでも言いましたが、
身を案じる声に少尉は気安げな態度を改め、軍人然とした声で応じる。
現代の技術では探知できないエナ、その流動を視認できる目は微かに光を帯びていた。
『十二分のバックアップを受けられる上、私の実力であれば単独の離脱も可能です。危険は最小限に抑えられています』
言葉の節々に自信を滲ませる少尉は、言うまでもなくウィッチである。
それが失われるような作戦を許可するHQではない。
『それに──』
不満こそ漏らさないが納得はしていない兵士たちへ少尉は畳みかける。
『この作戦、失敗するわけにはいきません。打てる手は打つべきです』
小さな大人であっても大人の庇護を受けるべき年齢の少女に、返す言葉を兵士たちは持たない。
ウィッチとなった少女
だからこそ、返すべき言葉を持ち合わせていなかった。
『俺たち野郎じゃ、あのクソッタレを釣ることはできないからな。モーガン少尉の協力に感謝だ』
兵士たちに代わって気安げに声をかけたのは、チームを統率するリーダー。
暗視ゴーグルを跳ね上げ、色素の薄い目で兵士と少女を見遣る。
『大尉、作戦はどうなっていますか?』
『パッケージ13はデルタチームが追跡している』
真率な声で問いかける少尉に、壮年の大尉はサムズアップと共に答える。
『順調だよ』
少女が灰色のオーバーコート越しに胸を撫で下ろす。
それを横目に、大尉は渋面を浮かべる兵士の肩を軽く叩き、無言で頷く。
『我々の任務は完了だ。日本政府の気が変わる前に撤収するとしよう』
『了解』
マルチカムの戦闘服に身を包んだ兵士たちは、静寂の支配する深夜の住宅街へ駆ける。
狭い路地を抜け、街灯の隙間を縫い、迷いなく目的地へ進む。
この島国では未だ非日常とされる光景の目撃者はいない。
大尉が停止のハンドサインを出す──チームはプログラムされた機械のように停止する。
『こちらアルファ6』
即座にHQからの通信へ応答する大尉。
通信中も銃口と視線が周囲へ向けられ、物音一つ聞き逃すまいと兵士たちは耳をそばだてる。
『…ドローンを撃墜された?』
だからこそ、聞き漏らさなかった。
大尉の漏らした言葉──それは嫌な重みを伴って場に満ちる。
ドローンの捕捉、撃墜は並のウィッチでも容易だが、それを行動へ移す者は少ない。
民生ドローンの存在が許されている島国は、不思議とドローンに疎い。
だが、今ここにはドローンを脅威と認識し、問答無用で撃墜する存在がいる。
『パッケージ13が? しかし、それでは…』
ウィッチか、ウィッチ以外の何者か。
脅威に即応すべく構える少尉を大尉は手で制止する。
『…了解』
淡々と通信を終え、大尉は重々しい溜息を吐いた。
しかし、それも一瞬のこと。
待機している兵士たちへHQからの命令を厳かに告げる。
『作戦中止だ』
不穏な気配は察していたが、まさかの命令に兵士たちは思わず硬直する。
作戦中止を告げ、口を閉ざす大尉は言葉を探しているように見えた。
無為に消費できる時間はない。
いち早く硬直から立ち直った少尉が感情を抑えて問う。
『どういうことですか?』
『…何者かにドローンが撃墜され、その残骸を発見したパッケージ13のユニットが臨戦態勢へ移った』
平静を装っているが、大尉の放つ緊迫感は一瞬でチーム内を伝播する。
『くそっ』
『冗談だろ…!』
焦燥の色を隠せない兵士たち。
推定大隊規模のインクブスを殲滅したインセクト・ファミリアの矛先を向けられたのだ。
それは死と同義。
街灯の光届かぬ暗闇の中、周囲へ油断なく視線が配られる。
『パッケージ13との交戦は絶対に回避する。ユニットと遭遇する前に離脱するぞ』
大尉は努めて平静にブリーフィングの内容を反芻する。
交戦すれば全滅は必至だが、それ以上に交戦してはならない理由があった。
パッケージ13──シルバーロータスは、本国の現状を打破し得る
少尉の握り締めるオーバーコートの輪郭が崩れ出し、徐々に大気へ溶けていく。
そのエナの残滓は間違いなく希望の香りがした。
『ルートAは放棄、ルートCから離脱だ。急げ』
『了解』
迅速に、しかし静粛性を保ちながら、
その右腕には、
ダンゴムシ…(苦悶の声)