強襲
シーレーンの防衛とは、海洋国家にとって死活問題である。
しかし、神出鬼没の敵から防衛できるほどの戦力は捻出できず、水生のインクブスに艦艇は脆弱だった。
積極的な襲撃が行われていないのは、インクブスの目的が
彼らは、家畜を餓死させない。
≪1班から現場指揮へ、船長の身柄を拘束した≫
蛍光灯の白い光が照らす通路を複数の人影が進む。
顔まで隠す黒一色の装具を纏った一団。
微かに揺動する世界で、姿勢を一定に保ち、整然とライフルを構えている。
≪現場指揮、了解≫
≪3班から現場指揮へ、船員への聴取の結果、カエルは3体と判明≫
時に無線へ耳を傾けつつ、天井や背後を警戒して前進する。
彼らの任務はケミカルタンカーに潜伏するインクブスの排除であった。
薄氷の上にある生命線は──インクブスの侵入経路となる。
既に船橋で1体、船長室で1体を排除している。
拘束した船員の供述に偽りがなければ、残りは1体だ。
「2班より関空981へ、位置に変わりないか」
隊列中央に位置する班長が胸元のスイッチユニットを操作し、外部の目へ通信を繋げる。
≪関空981より2班へ、左舷後方から変化なし。ぴったりです≫
停船させたケミカルタンカーの周囲を旋回する汎用ヘリコプターは、停船の
左舷後方の海面下に見える巨大な影──インクブスを捕食する巨大海洋生物だ。
ウィッチが召喚した新種の生命体と推測されているが、詳細は不明。
船上に潜むインクブスを驚異的な精度で探知し、臨検部隊より早く船舶を取り囲んでいる。
「2班、了解」
インクブスの存在を喧伝するアラーム兼
人類の味方ではないとしても、彼らの貢献は大きい。
この奇妙な共同戦線によって日本国防軍の負担は大幅に軽減されているのだ。
≪現場指揮から1班へ──≫
「音量を下げろ」
無線の音量を絞る隊員たちの視線は、無機質な床面を睨む。
靴を履く文化のない怪物は、黒い足跡を残していた。
おそらくは、機械油。
それは奥まで一直線に続く──先頭の隊員が右手を上げ、制止のハンドサイン。
暗視スコープを跳ね上げ、前方の天井を一瞥してから後方へ振り向く。
それに対して頷く班長はハンドサインで、
先頭より二番目の隊員がポーチよりハンドボールほどの球体を取り出し、巻かれた導線を外す。
容疑船舶を着色する警告弾──すかさず前方へ投擲し、身構える。
乾いた音を立てて炸裂した警告弾は、通路の床から天井までを鮮烈なピンクで彩った。
「やってくれたなぁぁ…!」
悍ましい声を響かせ、天井から降り立つ者。
ピンク一色に染め上げられた二足歩行のカエルをライフルの銃口が睨む。
「覚悟はいいかぁ、おい?」
眼まで着色され、視覚を失おうとインクブスは獲物を捕捉できる。
しかし、格下と侮っているヒトの小細工を真正面から受けた。
奇襲に失敗した挙句、無様な醜態を晒した事実にフロッグマンは激昂する。
突撃のため、膂力を蓄える刹那──銃声と弾丸が殺到した。
すかさず両腕を交差させ、これを防御。
肉を殴打する鈍い音が響き、潰れた弾体が転がる。
「…無駄だっ」
生物とは思えぬ強度、柔軟性に富むフロッグマンの外皮は弾丸の貫通を許さない。
表面上のエナが剥離するまでは。
「撃ち続けろ」
それを心得ている元特殊警備隊の隊員たちは、跳弾を恐れず弾丸を叩き込む。
エナによる防護が弱い頭部を重点的に狙う。
銃声が通路を満たし、銃火の瞬きは絶えることがない。
「弱ぇヒトがよぉ…!」
貫通は許さずとも直撃のエネルギーは逃せず、脚が止まる。
加えて、跳ね回るには狭い通路で機動力を生かせない。
ゆえに、フロッグマンは待つ。
銃火の間隙を。
「調子にぃ──っ!?」
先頭の隊員が姿勢を下げた瞬間、膂力を蓄えていたフロッグマンの右太股が爆ぜる。
床面に倒れ伏す怪物が顔を上げた先には、硝煙を燻らすショットガンの銃口。
装甲車を破壊できる特殊弾頭の一撃が、表面のエナを完全に剥離させたのだ。
「がっごぁっくぞがぁ」
怪物を指向する銃口の全てが火を噴く。
カエルを模した頭部を引き裂き、関節を砕き、生命活動を止める。
「撃ち方やめ」
銃声が止み、静寂の戻る通路。
人間であれば原形をとどめない破壊力を行使して、ようやく1体を排除できる現実。
隊員の生命を護るために弾薬の消費量は許容されているが、その現実は防人たちに暗い影を落とす。
「移送用意」
「了解」
床面に散らばる薬莢を足で払い、フロッグマンに接近。
硬いブーツの爪先を一度叩き込み、死骸であることを確認。
それから隊員の1人が手際よくワイヤーを掛け、
「用意よし」
「行け」
2人の隊員がワイヤーを引き、物言わぬフロッグマンを引き摺る。
残る隊員は周辺へ視線を走らせながら追従。
生命活動を停止したインクブスは、20分ほどで人体に有害なガスを放出し始める。
迅速に処理する必要があった。
「2班より現場指揮へ、カエルの排除完了。これより処理に移る」
≪現場指揮、了解≫
段差や階段へ死骸を打ち付けるが、欠損しなければ構いもしない。
長い通路を息も切らさず駆け、船外へ達する。
早朝の空、見渡す限りの大海原──リノリウムの甲板を踏み、一直線に海へ向かう。
波の砕ける音を汎用ヘリコプターの羽音が打ち消す中、死骸からワイヤーを外す。
引き摺られてきたフロッグマンはピンクに着色された雑巾のようだった。
「よし、行くぞ…3、2、1」
そんな死骸を二人掛で持ち上げ、躊躇なく海へ投げ落とす。
鈍い着水音──広がる白い波紋へ灰色の闇が集う。
ピンクの影は、瞬きの後には消えている。
海洋投棄が迅速かつ確実な処理方法となってから、幾度と見てきた光景だった。
「……あれで最後か」
「ああ、任務完了だ」
それを無感動に見届けた隊員の呟きに、班長もまた無感動に頷く。
残る密入国者の捜索という任務は、後続部隊が行う手筈となっている。
東の水平線から顔を見せる朝日がリノリウムの甲板を照らす。
「班長……海を見てください」
不意に、大海原へ視線を向けていた隊員が声を上げる。
その険しい声色に隊員たちはライフルのトリガーへ指を伸ばす。
「どうした──」
眼前の光景に、班長を含む隊員たちは硬直し、目出し帽の裏側で驚愕の表情を浮かべるしかなかった。
「これは一体…?」
ケミカルタンカーの船底を潜って西を目指す影は、確かな輪郭を描く。
水生昆虫あるいは甲殻類──それが1体、また1体と数を増やし、群れを成す。
仄かな闇が波間に見られる朝の大海原を、巨大海洋生物が侵食する。
前例を見ない規模の群れに、誰もが圧倒され、言葉を失う。
≪1班より現場──おい、船長を黙らせろ!≫
≪3班より現場指揮へ、後続部隊の接近は危険と思われ──≫
≪うわっ──くそっ!≫
ケミカルタンカーの長大な船体を、衝撃が襲った。
宙に浮くような錯覚の後、船上の者は等しく床や壁に打ち付けられる。
しかし、衝突した巨大海洋生物は、それらに微塵の興味もない。
ただ、西へ針路を取る。
≪関空981より船隊指揮へ、接近中の雲海──いや、違うぞ…これは≫
≪船隊指揮より関空981へ、退避せよ。繰り返す──≫
飛び交う無線の混沌が最高潮に達した時、曙光に染まる空を羽音が覆った。
◆
黒煙が立ち上る港湾の一角。
連なる赤褐色の山々の間を、1人の少女が駆けていた。
酸化した鉄鉱石の欠片へ汗が滴り落ち、荒い息遣いは砲声と爆発音に掻き消される。
『
死臭を運ぶ風で青い髪が靡く。
背後に視線を投げる少女の両手には、血塗れの刃と灰色のライフル。
刺繍の美しい翡翠の装束は迷彩柄のベストで隠れ、血と煤で見る影もない。
その腰からは竜を彷彿とさせる長い尾──ウィッチだ。
『少尉より自分の心配をしろ! まだ、エナは制御できるか?』
『なんとか、ね…!』
紅玉の耳飾りに扮したパートナーの鋭い一声。
ウィッチは険しい表情で右腹のポーチに滲む赤を睨んだ。
人間離れした身体能力は、矢弾による銃創を塞いでいる。
しかし、体内に侵入した劇物は解毒できていない。
『──後ろから来るぞ!』
積み上げられた鉄鉱石の山、その陰から現れる矮躯の影。
下卑た笑いを浮かべたインクブスの雑兵を捉え、ウィッチは口を引き結ぶ。
左脇にライフルのストックを挟み、振り向き様に射撃を浴びせる。
「おっと危ねぇ」
高初速の弾丸が数発直撃するも、インクブスは難なくダンプトラックの陰へ走り込む。
一瞬でマガジンの弾丸を撃ち尽くし、手負いのウィッチは再び逃走に移る。
「そんな玩具で何をするんだぁ?」
その背中を嘲笑う矮躯のインクブス。
あえて、ボウガンを使わず、脚を使って追ってくる。
『追い込まれてるっ』
赤褐色の山を通り過ぎるたび、インクブスの獣欲に満ちた目と目が合う。
己は獲物だと嫌でも理解させられる。
理解していながらインクブスに制圧された港湾地区を走るしかない。
「元気なウィッチだなぁ…へっへっへっ」
女性らしさの出てきたウィッチの肢体を嘗め回すような視線が追う。
インクブスの魔手に捕まれば、死より凄惨な末路が待つ。
半月に及ぶ防衛戦の末、蹂躙を許した市街地では、その地獄が繰り広げられている。
『どうすれば…!』
『マジックさえ使えればな!』
劇物に侵され、マジックの使えないウィッチに包囲を破る力はない。
背後から迫る絶望から、ただ逃れるため駆ける。
次第に鉄鉱石の山が姿を消し始め、破壊されたガントリークレーンやコンテナが姿を現す。
黒煙が空を覆う岸壁──そこが終点だった。
「網に掛かった」
鮮やかな色彩の鱗と装飾品を纏う人型の魚が跋扈する岸壁。
その内の8体がトライデントの鋭い切先を向けて、ウィッチを取り囲む。
「フェドセイ、感謝する」
「後で俺たちにも使わせてくれよ?」
追い込み猟に成功したインクブスは、緊張感のない会話を交える。
ウィッチに包囲を脱する力がないと理解しているからだ。
エナが鎮静化する気配はない──あるのは、絶望。
全身を蝕む恐怖で刀身が震え、思わず取り落としそうになる。
しかし、それでも、少女は膝を折らない。
『……まだ、負けてない』
残弾の切れたライフルを捨て、深いスリットの入ったスカートを捲る。
口笛を吹く下劣な怪物は無視。
太股のホルスターよりサイドアームを抜き、抗戦の意志を示す。
『ああ、そうだ!』
少女の気高い意志を、パートナーは最期まで鼓舞し、見届けるものだ。
弱々しいエナを振り絞り、ウィッチは敵と相対する。
『お前たちの好きにはさせない!』
「はははっ! こりゃ傑作だ!」
醜悪な笑みを浮かべ、手負いのウィッチを嘲るゴブリン。
「もう好き放題させてもらってるんだけどなぁ!」
矮躯の略奪者は奪い、犯し、貪る。
そのサイクルが永遠に続くと信じて疑わない。
「愚かなウィッチだ」
「これで6匹」
「苗床になるがよい」
表情の読めない眼でウィッチを観察するマーマン。
眼前の雌は、同胞を増やす道具としか見ていない。
冒涜的な怪物は蹂躙への一歩を──重々しい
それは黒煙が立ち込める港湾を超え、黒々とした海の底より轟く。
「こいつは何の音だ?」
「不明だ」
聞き慣れない異音にゴブリンが眉を顰め、機敏な動作でマーマンは振り向く。
海を、インクブスたちは睨む。
奇妙な沈黙に包まれる包囲下、ウィッチもまた視線を海へ向ける。
『これは…?』
そこには、白濁に染まった海面。
港湾内を汚す白濁の正体は、微細な気泡だった。
まるで沸騰したような海面には、身動ぎ一つしない無数の影が浮かぶ。
それは白い腹を見せる大小の魚であり、白目を剥いたマーマンだ。
「敵襲…!」
絶命した同胞の亡骸を目視し、マーマンはトライデントの切先を海へと向ける。
弛緩した空気は消え去り、瞬時に臨戦態勢へ移行。
「おいおい、新手か?」
インクブスの興味が港湾内へ注がれている。
その千載一遇の好機を見逃すわけにはいかなかった。
ウィッチは細い足に膂力を蓄え、手薄な面へ視線を走らせる。
『左が手薄だな……』
『うん、左なら──っ!』
パートナーの助言に小さく頷いた瞬間、ボウガンの弦が空気を切った。
飛来する矢弾は9本──回避の困難な十字砲火。
右手が振り抜かれ、刃に付着した血ごと脅威を斬り払う。
背面から飛来した矢弾は硬質な鱗に覆われた尾で叩き折った。
それでも2本が迎撃を抜け、右肩と頬に擦過傷を残す。
「動くんじゃねぇ」
『くっ…!』
あくまでゴブリンの対処は的確だった。
獲物を嬲っている余裕がある、つまり頭が回っているのだ。
「こっちは任せて行ってくれ」
「言われずとも」
ウィッチをボウガンで牽制しつつ、海面を油断なく監視するゴブリンたち。
それらを一瞥もせず、マーマンは格の高い者を先頭に海へ駆ける。
「吶喊──っ!?」
岸壁より飛び出した刹那、海中より伸びた影がマーマンを
「な、に……!?」
カマキリの鎌に鋭利な棘を生やしたような捕脚。
それに貫かれたマーマンは、血の泡を吹きながら海中へ引き込まれる。
インクブスの反射神経を上回る早業に同胞は動けない。
「おのれ!」
「襲撃者に死をっ」
「殺せ!」
硬直から回復したマーマンは激昂し、威勢のいい言葉で自己を奮い立たす。
トライデントを低く構え、
「待て!」
更なる異変をマーマンは察知した。
気泡が四散し、黒を取り戻した港湾内に侵入者。
海水を押し退けて進む
ウィッチに匹敵するが、少女の体躯に大波を引き起こす大質量などあるはずがない。
「迎撃する」
「応!」
同胞ではない。
ならば、敵であることは明白。
襲撃者を警戒し、海面から距離を取って得物を一斉に構えるマーマン。
港湾地区の異変を察知した同胞が続々と戦列へ加わる。
手負いのウィッチなど眼中にない。
マジックによって大気が流動し、トライデントの切先より風が吹く。
「投擲!!」
最も近い大質量に対し、必殺のトライデントが放たれる。
その弾道は直線軌道に近い。
切先に真空を形成し、殺人的な速度を以て獲物へ飛翔する。
海中で真価を発揮するが、大気中でも十二分な威力。
それらは海水を貫き、外殻へ──甲高い音と共に
「何!?」
ほとんどが粉砕され、幾本かは入射角の甘さゆえ跳弾。
一撃必殺を信条とするマーマンは、その事実に驚愕する。
ウィッチやヒトの駆る軍船とは比にならない異次元の強度。
「次弾急げ!」
「ケットシーの術士がいたはずだ! 呼び戻せ!」
「間に合わん!」
浮足立つインクブスの眼前に、海面を引き裂いて現れる巨影。
押し寄せる海水が岸壁上を洗う中、4対の巨大な脚がコンクリートに突き立つ。
その巨躯は進路上にあったガントリークレーンを倒壊させ、粉塵を舞い上がらせる。
『え…?』
天を遮る灰色の甲殻より海水が滴り、呆然と見上げるウィッチの青髪を濡らす。
されど、岸壁を睥睨する漆黒の眼には映っていない。
映っているのは──
「う、撃てぇ!」
「うわぁぁぁ!!」
獲物のみ。
恐慌に陥ったゴブリンたちは、闇雲にボウガンの矢弾を浴びせた。
そして、全てを無慈悲に跳ね返された。
脆弱なはずの関節部すら貫徹を許されず、完全に戦意は砕け散る。
「逃げ──」
その頭上へ巨人のハンマーを思わせる鋏脚が振り下ろされ、コンクリートへ悪趣味な染みが生み出される。
飛び散ったエナの飛沫がウィッチの白い頬を汚す。
「状況は!」
「不めえぁぁぁ!?」
粉塵に巻かれ、視界を失っていたマーマンの一群を鋏脚が薙ぎ払い、魚肉のペーストに変えた。
その巨躯は動作一つが凶器足り得る。
しかし、己の陰に座り込む少女を潰す愚鈍さはない。
細やかに動く2本の触角は、大気中でも獲物を正確に嗅ぎ分ける。
「敵襲!」
「ぎゃぁあぁぁ!」
続々と岸壁へ上陸した巨影が至近のインクブスを轢殺していく。
暗赤色、青紫色、灰色と統一性のない体色だが、それはロブスターの似姿をしていた。
『まさか、ファミリアなのか?』
最初の衝撃から回復したパートナーは認識する。
インクブスを血煙へ変える存在は、ウィッチのエナで形成されていると。
そして、その正体に思い至る。
『そうか…これが、蝶の眷属か』
人類の活動領域より外、海面下にて活動するため、これまで捕捉されなかった未知。
侵略者を鏖殺し、捕食し、際限なく肥大化してきた。
唯一、休眠を命じる
「だめだ! ポータルを解くぞ!」
「ここを捨てるのか!?」
「勝算があるように見えるかよ!」
毛を逆立てたケットシーたちが鬼気迫る形相で怒鳴り合う。
敵前逃亡は許されない──海より天を衝くように飛び出す紅の鋏脚。
ガントリークレーンを超える長大な影は、遠方の市街地から目視できた。
それが黒煙を切り裂き、円陣を組むケットシーへ振り下ろされる。
重力加速度を加えた質量が衝突し、粉塵を巻き上げた。
「なんなんだよ、これは!?」
「黙ってエナを注げ! 死にたいのか!!」
陽炎のように揺らめくエナの防壁が、辛うじて破滅を退ける。
しかし、コンクリートを抉る巨大な鋏の圧力は強まり──
「くそがぁぁぁ!」
人間の歯を思わせる鋏は、いとも容易く不可視の防壁を磨り潰した。
防壁の内にいたケットシーも含めて。
「化け物っがぁは!?」
防壁の外へ逃れた者は、手足より太い棘に腹を貫通される。
マジックに思考を割く時間すら与えない。
刺撃型の捕脚が収納された先で、己の血に溺れるケットシーは一生を終えるのだ。
エナの塊を丸齧りし、虎縞模様のファミリアは細長い複眼で次なる獲物を探す。
『……うっ、おぇ…ぁぇ』
見渡す限りの地獄に打ちのめされ、ウィッチは胃からの逆流物と対面していた。
ファミリアが肉片を器用に集め、咀嚼する音からは逃れられない。
『大丈夫、じゃないよな……』
鮮烈な色が、強烈な悪臭が、咀嚼音が精神を苛む。
不倶戴天の敵を襲う死は、あまりにグロテスクだった。
『…耐えてくれ』
パートナーの言葉に頷く余裕もない。
そんなウィッチの傍へ異様に発達した鋏脚を備えるテッポウエビが上陸する。
港湾内に浮かぶ
「に、逃げろ!」
「おい、置いていくな!」
港湾地区が失陥する原因となった鉱石運搬船──傀儡軍閥の工作船──へフロッグマンたちが逃げ込んでいく。
その無様な姿をファミリアは無視し、ただ咀嚼を続ける。
工作船の至近に姿を現した玉虫色の甲殻が天光を受けて輝く。
「く、くそっ化け物しかいねぇ!」
海水のシャワーが注ぐ船橋のインクブスを観察する水晶のような眼。
眼前に浮かぶ構造物の内で震える獲物を叩き出す。
そのために、
殴打だ。
腹部より捕脚を発射──衝撃波が大気を駆け抜ける。
二発目は不要。
鋼構造物を破断させ、竜骨を破壊し、船を
マジックによる物理法則の超越ではなく、純粋な質量と強度、機構によって真正面から破壊したのだ。
船内から生じた火災が、漏れ出した重油を糧に大火と化す。
「あ、あぢぃいぃぃ」
「たすげぇてくでぇぇ」
魔女の鍋のように煮える黒い海面で断末魔が木霊する。
『あなたは……蝶の眷属なの?』
肌を焼く熱量を受けながら、憔悴したウィッチは問う。
絶対強者は、焔に照らされる触角鱗片を静かに揺らすだけ。
見上げる者無き空を漆黒の天蓋が覆い、風雨の如く
この日、大陸を跋扈する人類の天敵は──捕食者と遭遇した。
ASMR(咀嚼音)