彼女に拘束は不要だった。
ウィッチの身体能力を発揮すれば、生半可な拘束具は破断する。
堅牢なコンクリート構造物も彼女の権能を前にすれば、
「…死神」
犬歯を覗かせて唸る姿は、頭上の尖った耳も相まって手負いの狼を思わせた。
大陸最高戦力にしてウィッチナンバー2、黒狼の名で知られるウィッチ。
本名不詳の相手を前にして、制服姿の少女は笑う。
「あら、改めて自己紹介する必要はなさそうね」
人を小馬鹿にした声が、ホテルのスイートルームに響く。
「何の用だ」
変身前の姿であってもウィッチナンバー1のニヒルな笑みを忘れるはずがない。
理性の首輪で己を板座椅子に縛る黒狼は、睨むように少女を見上げる。
「私たちの処分が決まったか?」
「違うわよ。悲観的ね」
髪飾りに扮したパートナーの言葉を鼻で笑い、黒狼の前に立つ。
そして、携えていた封筒を差し出す。
「…何?」
「救世主、もといシルバーロータスの戦果…その
さも退屈そうにナンバー1は告げた。
それを聞いて黒い耳は立ち、無意識のうちに尻尾まで揺れる。
しかし、人肌の残る手は受け取ることを躊躇した。
「安心しなさい、ちゃんと中国語──北京語だったかしら? ほら」
ナンバー1は投げやりに、まるで押し付けるように渡す。
強引に渡された封筒を胸に抱き、黒狼は思わず問う。
「なぜ、これを…?」
「大人しくしてた
胡乱げに手を振りながら背を向ける少女。
大窓から射し込む陽光が届かぬ場所まで歩き、思い出したように振り向く。
「ああ、感謝はいらないわ」
「よく機密文書の開示が許されたな」
今日まで国家を守護してきた軍事組織が、そう易々と隙を見せるはずがない。
その猜疑心を黒狼たちは隠さなかった。
「大戦果で気を良くしたんじゃない?」
冗談が通じない相手に溜息を漏らしながら、少女は投げやりな回答を返す。
「制海権の奪還、資源国への圧力も大幅に減って、文句をつける方が難しいわよね」
東南アジア諸国から水生のインクブスは姿を消し、人類の生命線である資源国を圧迫するインクブスは別方面へ
激変する世界情勢を雑談の要領で聞かされ、喜びと困惑の境で揺れるナンバー2。
その姿を尻目にナンバー1は笑う。
ニヒルな笑みではなく、微かに憂いを含んだ笑み。
「まぁ、詳しくは知らないけど」
真意を問う前に、それは消え失せた。
少女の足は、陽光から最も遠いドアへと向かう。
「……私に何を
その背中に純粋な疑問が投げかけられた。
捕虜と思えぬ待遇は、何かしらの対価を求めて為されている。
善意ではない。
「その時が来たら──」
不敵に笑うナンバー1は、振り向かなかった。
ホテルの廊下へ一歩踏み出し、後ろ手にドアを閉める。
「教えてあげるわ」
黄金の瞳が遮られる瞬間まで、不敵な笑みを貼り付けたまま。
ドアが閉じられ、廊下に静寂が満ちていく。
胸元で揺れる携帯端末──少女の表情が抜け落ちる。
スイートルームの前に立つ2人の守衛へ会釈し、少女はヘリポートを目指して歩き出す。
足早に、されど余裕をもって。
「もしもし」
≪本田です。NORADから緊急電が入りました≫
黒い携帯端末を手にした少女は、眉一つ動かさない。
現在も本来の任務を果たす
「
≪今回は本腰を入れてきたようです。旧南部戦区より弾道弾が複数発射されたと≫
「そう…それは、大変ね」
屋上に出た少女は蒼穹を見上げ、胡乱げに溜息を吐く。
その瞳は黒から青に染まり、長い黒髪は輝く金色となる。
制服の上を空色のエナが撫で、音もなく戦装束を編み上げていく。
「分かったわ。全部叩き落しておくから、そっちは勘定お願い」
≪ありがとうございます……では、ご武運を≫
感情を殺した激励の言葉を鼻で笑い、ヘリポートに至る階段を上る。
「傀儡軍閥も必死ねぇ……」
支給品の携帯端末をヘリポートの脇へ投げ、ラーズグリーズは口角を上げた。
ヘリポート上を風が吹き抜け、戦女神の頬を撫でる。
その頭上で黒き翼が舞い、携帯端末の近くに降り立つ。
「衆愚は大局を見極められない、ゆえに衆愚」
戦女神に仕える漆黒のカラスは、嘲りも憤りもなく淡々と語る。
「私も衆愚の1人かもしれないわよ」
「汝は格外であろう」
「あっそ」
空を映す碧眼が、人間には視認できない成層圏の目標を
エナで形成された流麗なスピアがヘリポートに突き立つ。
数にして41本。
「よく隠してたものね……発射台から潰そうかしら」
インクブスの支配下で生存を許される傀儡軍閥は、主人と自己保身のため切札を切った。
蝗災の根源ごと一国家を滅却する。
これまでの威嚇と異なり、飽和攻撃も辞さないだろう。
ならば、こちらも根源を破壊すべきか──
「汝の力は
「はいはい、分かってるわよ」
パートナーの忠告を聞き流し、最強のウィッチは1本目のスピアを掴む。
その切先が天を衝き、空色の戦装束が風に靡く。
「まず、1つ──」
その日、旧南部戦区を前身とする傀儡軍閥の熱核兵器は、全て迎撃された。
◆
どこを歩いているのか。
誰と話しているのか。
意識しなければ、情報の海に埋もれてしまう。
私は芙花の登校を見送ったか、弁当を用意したか、朝食を食べたか?
「──東さん!」
意識が現実に戻ってくる。
心配そうに私の顔を覗き込む政木が、いた。
いつも眠そうな目が開かれ、不安の色を浮かべている。
「…大丈夫」
「そうは見えませんよ……保健室で休みませんか?」
隣に立つ金城も同様の眼差しで私を見ていた。
コンディションが最悪なのは自覚している。
海外派遣のファミリアが本格活動を開始し、負荷は過去最大。
しかし、今の私から
「立眩みがしただけ…行こう」
教室へ向かう廊下が、微かに歪んで見える。
それでも活気に満ちた学校生活の中に身を置けば、気が紛れる。
療養に努めたとして──今の私に静寂はなかった。
インクブスが毎秒駆逐され、その情報は事細かに報告される。
そこに戦闘の問題点や戦術の効果など膨大な情報が加わり、記憶を行うミツバチたちも飽和寸前だった。
「辛かったら、いつでも言ってね?」
のんびりとした口調は鳴りを潜め、政木は真剣な表情で言う。
頷きだけを返し、ようやく足を前へ出す。
「せめて、鞄は持たせてください」
「いや、それは……」
金城に鞄を軽々と取り上げられ、空いた手を政木が握る。
まるで、子どもみたいな──子どもか。
中国大陸に展開するファミリアの対応はパートナーへ一任した。
つまり、負担は軽減されている。
この膨大なテレパシーは一過性、グンタイアリが残党を殲滅するまでの辛抱だ。
もし、インクブスの反攻戦力をアメリカ軍の爆撃が漸減していなければ──考えたくない。
ナンバーズの
ファミリアに与える裁量を増やすべきか。
「あれ、金城さん……東さん、どうかしたの?」
「少し体調が優れないようなんです」
「え、大丈夫? 保健室、行ったほうがよくない?」
教室前にいたクラスメイトの1人が、興味津々といった様子で覗き込んでくる。
名前が思い出せない。
名簿が思い出せない。
「…大丈夫」
微かな恐怖を気恥ずかしさで覆って、私は短く言葉を返した。
それから政木の手を離し、教室に入る。
視線を感じた──神経が過敏になっているからだ。
「鞄、ありがとう」
すぐ後ろに立つ金城へ手を差し出し、鞄を返してもらう。
至れり尽くせりだった。
クラスメイトにさせることじゃない。
「どういたしまして……くれぐれも無理は──」
最後まで言葉を紡ぐことなく、大和撫子の目に困惑が浮かぶ。
彼女が指し示す先を目で追えば、そこには私の机があった。
「東さん、それは…?」
机の上に、虫がいた。
昆虫だ。
大きな複眼、3対の脚、2対の長い翅、細長い腹部。
もう生命のない
その骸を掌に乗せ──教室の誰かが声を潜めて笑う。
悪意を秘めた女子の笑いだ。
これは
「これは…! 誰ですか、これを置いたのは!」
怒気を孕んだ声、誰かに似ている。
そう、ゴルトブルームだ──怒る必要はない。
1対の翅は折れ、脚も1本欠けているが、彼は悪意に殺されたわけではない。
外傷がなかった。
力尽きたところを拾ってきたのだろう。
可愛らしい。
所詮は子どもの悪戯だ。
「大丈夫、東さん?」
この私を心配する優しげな声は、誰だったか。
世界の色が、反転する。
ファミリアから届くテレパシーの量が倍に膨れ上がった。
薄ら寒くなるほどの敵意。
「っ!? しっかりしてください、東さん──」
それを誰に向ける?
敵はインクブスであって
足下が揺れた。
違う、私自身が揺れている。
「聞こえ──顔色が──」
掌に留まる彼の複眼に、無数の私が映っている。
赤い瞳に、銀の髪?
そんなはずがない。
ここにいるのは、東蓮花であってシルバーロータスではない。
本当にそうか?
「あずま──」
世界が、暗転した。
次回、東パッパ再登場(ニッコリ)