これが夢だと、私は認識している。
眼前の光景は見覚えがあった。
心地の良い陽光が射す我が家のリビングだ。
少し椅子や机が高く見えるが、今と配置は変わらない。
ただ──椅子に座る1人の女性を除いて。
今世の母だ。
私と幼い芙花を残して二度と帰ってこなかった母。
その顔も、声も、今は思い出せない。
確かな輪郭すらも。
ただ、優しい人だったとは思う。
それだけしか覚えていない薄情さに嫌悪を通り越して殺意を覚える。
これは夢だ──私の無力を糾弾するための。
見上げる私の頬を撫でる手の温もりは、虚しさを増長するだけ。
平穏が不変と信じて疑わなかった愚鈍な私が、失ったもの。
視界が暗転──父の書斎をドアの隙間から覗いている。
微かな明かりが照らす父の背中は、小さく震えていた。
押し殺した嗚咽が聞こえる。
いつも優しく、そして強かった今世の父。
その弱々しい後ろ姿に、私は声をかけることができない。
森で迷子になったような気分。
母が必ず帰ってくると力強く笑った父の横顔。
それを否定することが怖かった。
本当は分かっていた──母が戻らないと。
それでも、父の前では分からない子どもを演じた。
いや、演じ続けている。
そして、気付かれてはいないと言い聞かせている。
芙花の泣き声が聞こえた──リビングへ戻る視界。
今よりも幼い芙花が膝を抱えて泣いていた。
歩み寄って背中を撫でても泣き止む気配はない。
母が戻らない理由を私と父に求め、納得できず、泣くしかない今世の妹。
奪われた日常を受け入れろ、など言えるはずがない。
しかし、芙花は賢い子だった。
無意識に母の話題を避けるようになり、我儘も滅多に言わなくなった。
純粋さの中に垣間見える歪み。
この歪みは誰のせいだ──ぐるりと視界が回転。
コンクリートの床面から視線を上げる。
そこは月光の射し込む廃工場。
月下に佇む少女が私を見ている。
その紅の目には、深い絶望が浮かぶ。
銀の髪に月光を蓄える少女は、善良で心優しいウィッチだった。
浅緑の肌をもつゴブリンに囲まれても逃げない。
人質を取られた彼女は、たった今から無抵抗で凌辱されるのだ。
人質とは誰か──私しかいない。
首元に押し付けられたナイフの輝きが、私の無力を嘲笑う。
げらげらと下卑た笑いを響かせるインクブス、ゴブリン、肉袋。
不快な雑音だ。
冒涜的で、存在する価値など欠片もない。
なぜ、命を奪う?
なぜ、虐げる?
なぜ、嗤っている?
なぜ、生きている?
死ね。
「死ね」
父に使ってはならないと言い聞かされてきた言葉。
それを私の細い喉が奏でた。
刹那──頭上から降る黒い影。
少女を囲う肉袋どもが8本の脚に圧し潰され、世界を赤で彩る。
私の足元にナイフが転がり、去っていく足音。
「殺せ」
黒い風が吹き抜け、私の黒髪を弄ぶ。
逃げる矮躯の背中へ鋏角を突き刺し、引き裂く。
肉袋の断末魔は聞こえず、床面を覆わんばかりの血が飛び散る。
インクブスは屠った──
赤い足跡をコンクリートへ刻む8本の脚が、月下に現れた。
私を見下ろす黒曜石のような眼に正面から相対する。
「東さん、まだ続けますか?」
聞き慣れたパートナーの声だった。
音源は眼前になく、廃工場内を反響している。
「当然だ。インクブスどもが生きている」
やはり、これは夢だ。
「もう体は限界です。これ以上は──」
「インクブスどもは駆逐する……そう言ったはずだ」
「ここまでの負荷と分かっていれば、止めていました」
微塵の感情も感じさせない複眼。
しかし、そこには私を心配そうに見守る色があった。
「ファミリアの進化速度は日進月歩などではありません。秒速です」
「情報の集積が増えれば、還元も早まるか」
「……もう全てを任せても良いのではないでしょうか?」
「それは駄目だ」
インクブスどもを1体残らず駆逐する。
世界のため、人々のため、ウィッチのため、などと語る気はない。
私は──それを語っていい人間じゃない。
己の無力と愚鈍を棚に上げ、母の仇を滅ぼすという厚顔無恥。
それを低俗なエゴで隠蔽して、罪悪感から逃れる臆病者。
ここでファミリアに全て明け渡せば、今度こそ私は私を殺す。
「インクブスも進歩する。次の手を打ち続ける必要がある」
「だから……情報の海に身を置き続けると?」
「それだけじゃない」
心中は決して明かさず、別の言葉で取り繕う。
「ファミリアは
途中まで言葉を紡ぎ、テレパシーが聞こえないことに思い至る。
違和感、そして恐怖。
ファミリアはインクブスの駆逐という命令を絶対順守する。
それは
だからこそ、海外派遣に際しては救出の可能性を考慮し、逐一判断を仰がせていた。
しかし、今は違う。
「守れるものには限りがありますよ、東さん……」
痛ましげな声が闇に溶け、視界を焔が覆い尽くす。
火花の散った後には、まったく別の景色があった。
燃え落ちる紅の国旗、荒廃した市街地──そして、無様に喚き散らすインクブス。
それを守るように立ち塞がる人影。
恐怖と絶望に染まった表情で私を見る者たち。
濁ったエナの矛先を向けるウィッチ、あるいはライフルを構えた兵士だ。
敵意に反応し、翅を震わせ、大顎を打ち鳴らすファミリア。
トノサマバッタの群体が人影を呑み込み、その生命を噛み砕いた。
絶望に染まった少女の臓物を貪る──そんなはずがない。
微量のエナを求めて人体を食む──あってはならない。
私のファミリアが人間を
これは夢だ。
本当に──これは夢か?
◆
最悪の夢から目が覚める。
まず、見覚えのない天井が目に入った。
窓から射し込む夕陽で、白がベージュ色に染まっている。
ここは保健室ではない。
左腕に異物が突き刺さっている感触。
視線を向ければ、点滴針が見えた。
「姉ちゃん……行かないで……」
そして──私の左手を握り締めて眠る芙花の姿も。
その頬を涙が伝い、胸が締め付けられる。
病室のベッドに寝ていたということは、ずいぶん長く眠っていたのだろう。
心配をかけまいと普段通りに振舞っても、結局これでは本末転倒だ。
「…大丈夫」
実姉である私が倒れたら、芙花は一人になってしまう。
それを理解していて、限界を見誤った。
自嘲を噛み殺し、芙花の頭に右手を伸ばす──
「どこにも行かない、から…?」
それは途中で止めざるを得なかった。
芙花のためだけに思考できる──
濁流の如く押し寄せていたテレパシーが聞こえない。
夢の中で覚えた恐怖が蘇る。
患者衣の下を冷たい汗が伝う。
視線を病室内に走らせ、パートナーの小さな影を見つけた。
「あ、東さん……やっと起きられましたね…!」
天井に張り付いていたハエトリグモが、ぽすりと私の腹上に降り立つ。
感極まった様子だが、私の心中は全く逆だった。
「心配をかけた。状況は?」
「え、いや、芙花さんを起こされては…?」
上げていた前脚を下げ、おずおずとパートナーは問いかけてくる。
芙花のことになると私は強く出られない。
しかし、今は家族よりも優先しなければならないことがある。
罪悪感を押し殺し、言葉を返す。
「……今は、寝かせておく」
「分かりました」
廊下では忙しなく行き交う人の気配があった。
人を呼び寄せないように、芙花を起こさないように、声量を絞る。
「ファミリアの状態は?」
「異常はありません。現在は独自判断で行動させていますが、順調にインクブスを駆逐しています」
「独自判断、か」
「私だけでは処理できなかったので……申し訳ありません」
「いや、それでいい。情報の集積は?」
「ミンストレルの個体数が増加するまで、各自が取捨選択しています」
ミンストレルとは、ファミリアの記憶装置を担うミツバチの名前だ。
やはり、飽和してしまったか。
「痛いな」
情報は、私たちの武器だ。
情報伝達の速度と精度でインクブスに対して絶対的な優位性を得ている。
それが滞っているのは、痛手だった。
「今後は情報を選別すべきかと」
「ああ」
改善点は多い。
すぐ取り掛かりたいところではある。
だが、目下の問題は──独自判断だ。
私の負荷が減って万々歳ではない。
ファミリアの敵味方識別、正確にはインクブスかの可否を問う単純なルーチン。
あれには
私の意識が存在している時は、障害の排除について判断を仰ぐ。
しかし、独自判断となった場合、ファミリアは解釈次第で障害を排除できてしまう。
全ての裁量を与えなかった最大の理由が、それだった。
「インクブス以外の被害は、どうなっている?」
私の問いに対し、初めて沈黙が返ってきた。
震える右手を握り締め、言葉を待つ。
「…被害はありません」
長い沈黙を破ったパートナーの言葉には、葛藤が感じ取れた。
それで私が納得するはずがないことも分かっている。
「何人、殺した」
言葉を取り繕う気はない。
途中経過は聞かずとも最終的な報告は受けているはず。
「ご自身を救世主ではない、そう言われましたよね?」
「そうだ」
パートナーの確認に是と返す。
「なら……敵対的な人間なんて捨て置けばいいんです」
絞り出すように、言い聞かせるように、その言葉を吐き出した。
人類の守護者たるウィッチに憧れてきたパートナーの言葉とは、とても思えない。
いや、思いたくなかった。
致命的な人数を手にかけた──その瞬間を、見たのだろう。
夕陽が照らす私の手は赤い。
どうしようもないほど、この手は血に塗れている。
「それでいいのか?」
平静を装って口から出た問いは、パートナーには残酷なものだった。
縮こまった小さな影が、より一層小さく見える。
「確かにウィッチの所業ではないでしょう……でも、それでも…」
言わせてしまったことを後悔した。
私のパートナーとなった以上、憧れのウィッチからは遠ざかる。
だが、インクブスを駆逐する者として最低限の矜持はあった。
それすら失った今の私たちは分別のない殺戮者だ。
「東さんの心身が第一優先です。背負う必要のないものは──」
「分かった…もういい」
全てはコントロールできなかった私の責任だ。
奥歯を噛み締め、遠のく意識を痛みで繋ぐ。
「酷なことを聞いた」
「いえ…」
パートナーから天井へ視線を移し、深く息を吐き出す。
苗床の状態で救出され、回復できた人を、私は知っている。
薬物中毒から復帰を試みている人を、私は知っている。
インクブスが駆逐された世界で、社会復帰できたかもしれない人を、
「浅慮でした…ここまでの負荷と分かっていれば……」
未来が分かれば苦労はない。
今は、被害の拡大を阻止すること、そして体制の改善が最優先だ。
「いずれは通る道だった。それより再接続を──」
「テレパシーの使用は控えてください」
確固たる意志で否定され、思わず硬直する。
しかし、現在もファミリアが殺人を実行している可能性がある。
それだけは阻止しなければならない。
「だが」
「今度こそ起き上がれなくなります」
有無を言わせぬ圧力を放つパートナーを前に口を閉じる。
ここで再び昏倒すれば、それこそ収拾がつかない。
限界を見極められなかった──反論する資格はない。
ならば、せめてマジックを使用しない方面の問題に対処する。
そうしなければ、静寂に耐えられない。
「ナンバー3のパートナーからテレパシーはあったか?」
「苦情を受けましたが、突き返しました」
耳を疑う言葉が飛び出し、私は思わず目を瞬かせる。
ここまで強気に振舞っているパートナーは初めて見た。
「本来、一方通行の利用関係です。苦情を言われる筋合はありません」
私を思っての行動とは理解できる。
だが、アメリカ軍は個人的な事情で蔑ろにしていい相手ではない。
まだ状況は分かっていないが、最低限の説明は──
「芙花ちゃん、そろそろお迎えの人が……」
病室のドアが開き、入ってきた看護師の女性と目が合う。
見覚えのある人だ。
何度かお世話になったことがある。
「蓮花さん、目を覚ましたんですね…!」
看護師の女性が安堵の表情を浮かべ、歩み寄ってくる。
その胸元には、名前と階級の書かれた名札。
軍属あるいは軍人──ここは国防軍病院だ。
つまり、社会復帰した人々が傷を癒していた場所。
表情が引き攣らないよう愛想笑いを浮かべ、私は感情に蓋をする。
「はい、ご迷惑を──」
「うぅ……姉ちゃん…?」
人の話し声で目を覚ました芙花。
赤くなった目元を擦りながら、ゆっくりと私の姿を捉える。
愛おしい家族のはずだ。
だが、今は無性に怖い。
「姉ちゃん!」
私の胸元へ一直線に飛び込んでくる芙花。
看護師の女性は困り顔だが、それでも止めようとはしない。
患者衣の上から伝わる温もり──罪悪感と安堵が渦巻く。
私に抱き着く芙花の頭へ手を伸ばしかけ、止める。
夕陽の照らす手は赤い。
その穢れた手は、この純粋無垢なものを壊してしまわないか?
「心配、したんだよっ」
頭を押し付け、涙声で訴える芙花の肩に、右手を恐る恐る置く。
大丈夫、誰も気が付いていない。
「ごめんね…もう、大丈夫だから」
芙花の肩に添えた右手の震えを抑え込み、努めて穏やかな声を絞り出す。
私が殺戮者と悟られないように。
作者はハッピーエンドが好きだゾ(曇りなき眼)