暗黒の影を大陸に落とす蝗災は、インクブスを殲滅せんと前進を続けている。
しかし、その速度は鈍化し、顎から逃れる者が増えていた。
情報の集積が途絶え、情報の共有は遅延し、最適化は望めない。
数の暴力は健在──されど効果的とは言い難い。
ただ、顎に捕らえられた者たちは、地獄の渦中にいる。
「総長! このままでは最後列が全滅します!」
屈強な肉体を持つオークの戦士が叫ぶ。
その足元に転がるトノサマバッタの頭がエナへ還っていく。
「ここは任せるぞ、お前たち!」
オークの戦士を束ねる長、サンチェスは背後で死闘を続ける同胞たちへ吠える。
真昼の世界は、闇に覆われつつあった。
しかし、彼らは抗うしかない。
「任されました!」
「行ってください、総長!」
戦意に満ちた応答を受け、サンチェスは口角を上げる。
鉛色の鎧を全身に纏いながら、軽々と身を翻す。
「行くぞ、アマデオ!」
「了解!」
大振りのソードを右手に握り直し、同胞と共に荒野へ飛び出した。
断続的にマジックの輝きが空を走って爆ぜるが、闇は晴れない。
行先は闇が一層深い地──撤退中のインクブスたち、その最後列。
行手を阻むように突進してきた消炭色の壁。
止まない羽音、大顎を打ち鳴らすファミリア。
「甘い!」
それを一振りで打ち砕けば、周囲に翅や脚が四散する。
エナの輝きを踏み締め、サンチェスはトノサマバッタを次々と両断する。
同胞の屍はあっても、憎き敵の屍は残らない。
「アマデオ、後ろだ!」
背後に迫る消炭色の巨影。
総長の警告を疑うことなく、アマデオはアックスを振り抜く。
「はぁぁぁ!」
肉厚の刀身が大顎を砕き、巨体を引き裂いた。
死骸が大地を転がっていき、すぐさまエナヘ還る。
災厄のファミリアは初めて目撃された時より大型化していた。
大顎は鋭利さを増し、外骨格は堅牢となり、原種の面影は薄い。
「助かりました、総長!」
「よい、行くぞ」
頷く同胞を連れ、死地を駆ける。
断末魔を羽音が打ち消し、エナと血臭が漂う。
撤退中のインクブスは長い列となり、防衛は困難を極める。
瞬きする間に同胞が異形に喰われていく。
絶望的な戦況下、サンチェスは闇へと肉薄し──閃光が走った。
それはインクブスには無い兵器。
ヒトの操る自走対空砲の砲火が闇を切り裂く。
「近いぞ…!」
ソードで翅を斬り飛ばし、なおも迫る大顎を左の拳で砕く。
エナの残滓を浴びるサンチェスは、曳光弾の光を眼で追う。
玩具と嘲笑っていた自走対空砲も今や貴重な戦力だ。
その至近まで接近した刹那──22tの鉄塊が宙に浮く。
オークの戦士は咄嗟に姿勢を落とし、これを潜る。
その速度を殺さず、元凶に向かって得物を振り抜いた。
「ぬぉぉぉ!!」
渾身の一撃が堅牢な外骨格を打ち砕く。
消炭色の巨体が倒れ伏し、戦士たちの背後で自走対空砲が大地に激突する。
「くっ…化け物め!」
眼前の死骸を前にアマデオは吐き捨てるように言う。
頭部を喪失したファミリアは、最早トノサマバッタの姿をしていなかった。
最適解を見出せないならば、大型化を続け、ただ質量と攻撃性を増す。
単純であり、最も凶悪な進化であった。
「急ぐぞ!」
脚を止めれば、ファミリアに包囲される。
四方から襲い来る影を斬り捨て、背中を合わせるオークの戦士。
「了解!」
脇目も振らずに駆け出し、得物を持たないゴブリンの一団と交差。
そして、一団を追う巨躯のトノサマバッタを上段から斬って捨てる。
散らばる肉片を踏み越え、消炭色の闇へ飛び込む。
「ぎゃぁぁぁ!!」
「や、やめ──」
上半身を噛み千切られ、鮮やかな血の噴水を散らすゴブリン。
倒れた者に無数のファミリアが群がり、エナの血肉を貪る。
「ぐぁぁぁぁ!」
消炭色で覆われた巨大な人影は、ファミリアに全身を食まれるオーガ。
咀嚼音と羽音が響き、断末魔が絶えず鼓膜を叩く。
絶望的な戦況であった。
「くっ…遅かったか!」
災厄から逃れんとするインクブスが、次々と喰われていく。
血飛沫が散り、一面は赤く染まる。
そして、新たな獲物を発見した消炭色の闇は膨張する。
「これ以上は──」
世界を覆わんとする闇に、サンチェスは下段より得物を振り抜く。
その速度は音速に至る。
「させん!!」
エナを纏った斬撃は空間を歪め──ファミリアの一群を爆砕する。
弾け飛んだ破片が周囲に降り注ぎ、エナが舞う。
それでも世界は闇の只中にある。
油断なく視線を走らせ、サンチェスの視線は擱座した主力戦車で止まる。
「フィリベルト!」
主力戦車を背にシールドを構え、陣を組む同胞たちの姿を捉えたからだ。
「総長…!」
名を呼ばれたオークの戦士は険しい表情を微かに緩めた。
それは一瞬、すぐ口元は引き結ばれ、迫り来る災厄と相対する。
「付いてこい、アマデオ!」
「了解!」
頭上より降る巨影を一振りで両断、次いで横合から迫るトノサマバッタの頭部を裏拳で砕く。
舞い散るエナの中、同胞たちの下へ駆け込む。
その背中に迫るファミリアは矢弾が射抜く。
「生き残っている者は?」
シールドの内に飛び込んだサンチェスは、フィリベルトと彼の率いる戦士たちを見る。
「我々以外は分かりません…」
苦々しい報告を受けても、総長は表情を崩さなかった。
上に立つ者まで絶望に囚われてはならない。
むしろ、サンチェスは同胞たちが
「いや、よくやったぞ」
戦士たちが陣を組み、護っていたのは、小柄なヒトの雌3匹。
淀んだ色彩の装束を身に纏う者──ウィッチだ。
エナを消耗し、意識を喪失している。
ファミリアが敵対的なウィッチを捕食の対象とした今、一方的な攻撃は行えなくなった。
しかし、強力なマジックは災厄の迎撃に必要不可欠。
戦士たちはエナの回復まで時を稼いでいたのだ。
「よし……出来得る限り同胞を救出し、ここを脱出する」
サンチェスは微かな希望を拾い、一面に広がる消炭色の闇を見渡す。
「総長、それでは全滅します!」
総長の言葉に眼を見開くオークの戦士。
その間にもボウガンが矢弾を放ち、突進してくるトノサマバッタを射抜いた。
突進の衝撃を受け止め、軋むシールド。
しかし、意思を失った質量は一瞬でエナへ還り、眼前に新たな闇が現れる。
「見捨てるわけにはいかん……下された命は全うする」
消炭色の闇に抗う者たちを視界に捉え、ソードを肩に担ぐサンチェス。
影より下された命は、インクブスを1体でも多く連れ帰ることであった。
「敗残兵に何ができましょう! 連中など見捨ててしまえばいい!」
オークの戦士はボウガンに矢弾を番えながら、荒々しい言葉を吐き出す。
我が身可愛さで言っているわけではない。
同胞の眼には、無数の傷を刻まれた長の鎧が映っている。
戦意を失った敗残兵よりもオークの総長こそ必要な存在と言外に語っていた。
「命あれば再起もできよう。絶望は災厄を利するだけだ」
サンチェスは首を横へ振り、同胞たちを静かに見遣る。
戦士の頂にあるオークは戦況を悲観せず、力強く言い聞かせた。
「決して諦めるな」
その言葉は戦士たちの眼に、再び戦意を宿す。
シールドの内より堂々と歩み出たサンチェスの背中は、何者よりも大きい。
両脚を肩幅ほどに開き、得物を斜め上段に構える。
「俺が活路を開こう…!」
漲るエナの気配に、消炭色の闇が無機質な敵意を放つ。
羽音が豪雨の如く降り注ぎ、両者は激突する──
中国大陸におけるインクブスの版図は失われ、ポータルまでの撤退戦は膨大な犠牲を強いた。
しかし、遣わされた総長たちの奮戦は、確実に災厄の暴威を削いでいた。
◆
堤防敷の階段に腰かけ、茫然と鉛色の空を見上げる。
今にも泣き出しそうな空模様だった。
私は何をしている──なぜ、ここにいる?
特に問題もなく退院した私は、翌日には通学の準備を整えていた。
心配する芙花や近所の人へ大丈夫だと笑って。
「はぁ……」
その気遣いを裏切り、私は人通りのない堤防敷で黄昏ていた。
学業は疎かにできない、などと宣っていた口から溜息が漏れる。
「東さん、帰りませんか?」
「どこへ?」
「どこって……ここだと雨に降られますよ」
「……そうだな」
パートナーの提案は尤もだ。
わざわざ制服を濡らす必要もない。
ここで曇天を見上げていても、状況は変わらないのだ。
「東さん」
「どうした」
膝上に飛び乗ったパートナーが、私を見上げる。
次の言葉は予想できた。
言い聞かせるように、何度も繰り返されてきた。
「ご自身を責めないでください」
ファミリアを生み出した者は私だ。
そこに私の意思が介在しなくとも殺人の責は負わねばならない。
どれだけ成果を積み上げようと罪は残る。
今、為すべきは──
「責めている暇はない」
ファミリアの統制を取り戻すことだ。
テレパシーが聞こえない日々は、空恐ろしくなるほどの平穏だった。
のうのうと息をしている間も誰かの命を奪っているというのに。
「新たなミンストレルの群体を形成するまでは……」
「テレパシーの選別くらいはできる」
「……今の東さんは、体を顧みる気がないでしょう…?」
心配そうに見上げるパートナーから視線を外し、水量の増してきた川を見下ろす。
これ以上、他人に迷惑をかけるわけにはいかない。
次こそは失敗しないよう上手く処理する。
「ファミリアの運用に集中する。それで問題ないはずだ」
「学校は……どうされる気ですか?」
私を日常へ戻してくれる場所に、存在してはならない非日常。
それは私自身だ。
ウィッチを──子どもを手にかけた身で何を学ぶ気だ?
教育とは、ただ知識を与えることではない。
倫理観や道徳観、そして人間性を育むことだと私は思う。
私は、その倫理や道徳の埒外に立っている。
「もう、必要ない」
それを口にした瞬間、芙花や父さんの悲しむ表情を幻視した。
胸に走る痛みを無視し、漂う雨の香りに空を見上げた。
享受する資格などない──芙花に触れることも本来は許されない。
正体を知られていないからこそ、存在を許されている。
「私は、インクブスを駆逐する。それだけだ」
そのためにウィッチになった。
しかし、全てを捧げたわけではない。
私は、罪悪感と憎悪を醜いエゴで偽装しただけの半端者だ。
だから、殺戮などを引き起こす。
「東さんは、機械じゃないんですよ…!」
私の膝上で小さな体を揺らして怒るパートナー。
すぐ横に雨粒が落ちて、ぱっと弾ける。
雨が降ってきた──それでもパートナーは左肩へ飛び移らない。
じっと黒曜石みたいな眼で、私を見つめていた。
「機械に徹しなかった…それが私の失敗だ」
歯軋りしたくなる衝動を押し殺し、私は返答する。
インクブス
頬を掠め、肩を打つ雨粒。
初夏から中夏に差し掛かる時期でも雨は冷たい。
「どうして……東さんは、多くの人を救ってきたじゃないですか!」
「多くの人を殺してきた」
決定的な殺人は、今回が初めてだろう。
だが、私は今まで多くの人を見殺しにしてきた。
殺すしか能がない私に救済など不可能だ。
その発想自体が自惚れと分かっている。
「東さんは、神様じゃないんです……」
知っているとも。
それを理解していながら、今回の失態だ。
己を捨てる覚悟が足りない。
「全てを背負う必要なんて──」
「レギ」
久しぶりにパートナーの名前を、はっきりと口に出した。
明確な意志を伝えるために。
硬直する小さな影──アダンソンハエトリの似姿。
オールドウィッチの与えし名というのが、どうにも私は好きになれなかった。
だから、滅多に呼ぶことはない。
「私の願いは、インクブスの駆逐だ」
願いなどと卑怯な言葉を用い、パートナーの口を噤ませた。
助言する、諫めもする、相談にも乗る──判断はウィッチに委ねる。
オールドウィッチから遣わされた人類、いや主人を最終的に肯定する者。
それがパートナーという存在だった。
「…分かりました、シルバーロータス」
左手にパートナーが飛び乗ったことを確認し、ゆっくりと立ち上がる。
そうとも──これでいい。
制服は雨で濡れ、長い黒髪は背中に張り付いていた。
全身を包む冷たさで意識が冴えていく。
「障害の排除に関する判断だけを私に送れるか?」
増水した川と雨の音が響く堤防敷で、私はパートナーへ尋ねた。
まずは、懸案事項を第一に潰す。
「可能ですが……」
「よし」
歯切れが悪い理由は分かっている。
ファミリアが判断を仰ぐ時、そこには悲惨な状態の人々が必ずいる。
だから、見慣れたと言ってもパートナーは常に難色を示してきた。
「情報の取捨選択は、まだ保留でいい」
「…分かりました」
「ネームドの情報について、ミンストレルを経由せずに共有できるか?」
左手から肩に飛び移ったパートナーへ矢継ぎ早に指示を出す。
気遣いは不要だ。
「可能です。各個撃破に切り替えるのですか?」
「篩に残った礫は砕くに限る」
連中の領域を大々的に脅かしている。
インクブスもネームドを投入し、対抗するはずだ。
ここで可能な限り潰しておきたい。
「それと……アメリカ軍とコンタクトを取れるか?」
前髪から滴る雨を払い、来た道を引き返す。
「東さん、彼らは…!」
「利用関係だとしても、説明責任はある」
ファミリアは誰も助けない。
結果的に助かるだけで、そこに能動的なものはない。
それは、私だけに通用する方便だ。
こちらの不手際で無用な犠牲者が出た以上、説明する責任がある。
「それに…抗議じゃないんだろ?」
左肩のパートナーを見れば、前脚を宙に彷徨わせていた。
「どうして……そう思われたんですか?」
「ただ救世主を待つ軍隊じゃない、そう思っただけだ」
苦々しい声色で問うパートナーへ率直な感想を述べる。
被害に対する賠償や追及ではなく、抗議という言葉に違和感があった。
そんな非生産的な行動を大国の軍隊が安直に実行するだろうか、と。
「その様子なら正解か」
「……はい」
落ち込んだ様子のハエトリグモを指先で撫でる。
全ては私が背負い込まないための行動だ。
分かっている。
己の不甲斐なさが、ただ腹立たしい。
「使われてやるつもりはない。心配するな」
指先に触れる小さな脚。
その感触は、体を打つ雨よりも鮮明に感じられた。
「…分かりました。後でコンタクトを取ります」
渋々といった体で前脚を離し、パートナーは小さく頭を下げた。
周囲を覆う雨のベールは灰色で、世界は薄暗い。
だが、道筋は見えている。
「よし、テレパシーの再接続──」
「待って!」
明瞭な声が、耳に届く。
まったく足音に気が付かなかった。
「待ってください…!」
警戒しつつ振り向いた先には、傘を差した2人の少女。
金城静華と政木律だ。
見知ったクラスメイトが息を切らし、立っていた。
「……探しましたよ」
普段からは想像もつかない険しい表情の金城。
この雨中を走ってきたらしく私と大差ない格好だった。
「東さん…ううん──」
そして、
「シルバーロータス」
雨脚が強まり、世界は灰色に霞む。
覚悟が足りない(当社比)