私は息を切らして住宅街を駆けていた。
とにかく、我が家へと急ぐ。
西へ傾いた太陽が、遠方で立ち上る黒煙を赤く染めていた。
小さな歩幅と貧弱な体力に苛立つ──いっそウィッチに変身してしまうか?
下らない思考をしている暇はない。
とにかく足を前へ進めろ。
「そこの君、大丈夫か?」
横合から声をかけられ、否応なしに足を止める。
声は曲がり角から──防刃ベストを着込み、ライフルを保持した警察官の2人組がいた。
インクブスを駆逐したとしても残党の警戒と治安維持のため、彼らは市内を巡回している。
1人で突っ走っている制服姿の生徒を見れば、止めもするだろう。
「…大丈夫、です」
「とても、そうは……」
息も絶え絶えな私を見て、痛ましげな表情を浮かべる警察官を相方が肘で突く。
どこか悟った表情で私を見つめ、努めて平静に言葉を述べた。
「家族の人を探しているなら、市の対策本部へ行くといいよ」
心臓を鷲掴みにされたような気分になるが、
大丈夫、大丈夫だ。
でも、背を伝う汗は止まらない。
「ありがとう…ございます…!」
失礼にならないよう一礼して、すぐさま私は駆け出す。
足を止めている暇はない。
一刻も早く、芙花の下へ行かなければならない。
「安全は確認されているけど、注意するんだよ!」
もう警察官の言葉は耳に入らなかった。
今は外出禁止となっているはずだが、野次馬や私と似たような通行人と何度もすれ違う。
「あ、東さん、落ち着いてくださいっ」
人通りが切れ、左肩にしがみつくパートナーが悲鳴に近い声を上げる。
落ち着いていられるか──家族が、あの地獄にいたんだぞ?
電話の先から芙花の泣き声が聞こえ、足元が崩れるような気分だった。
「危機感が、鈍っていた……馬鹿か、私は…!」
肺が痛んでも、吐き出さずにはいられない。
外出の予定はない、という先入観で危うく実妹を失うところだった。
自己嫌悪で今すぐ頭を叩き割りたくなる。
「芙花さんは、無事、なんですよねっ」
「無事なものか…!」
インクブスが暴虐の限りを尽くした場に、芙花は居合わせたのだ。
心に負った傷は深い。
パニックなど顧みず鏖殺すれば──短絡的になるな。
ファミリアは芙花を認識して護衛できない。
住宅街や小学校の一帯を防御する方式に限界があるのは、分かり切っていた。
後悔が胸中で渦を巻く。
「東さんは、最善を、尽くしましたよっ」
風に揉みくちゃにされながら、それでもパートナーは私を肯定しようとする。
いざという時、妹の傍にいてやれない姉が最善なものか。
路地を抜け、変わらぬ我が家が目に入る──
「芙花!」
玄関の前で、父の手を引く妹の姿を見つけ、思わず大声が出た。
振り向いた芙花の大きな瞳が私を映し、じわりと涙が浮かぶ。
お気に入りの私服は汚れているが、五体満足だ。
その隣に立つ父も。
「姉ちゃん!」
安堵か疲労か、足の力が抜けて座り込んだところへ芙花が飛び込んでくる。
しっかりと両腕で受け止め、抱き締めた。
子ども特有の高い体温に、確かな鼓動の音──生きている。
諸々の心配が吹き飛び、安堵だけが胸中に溢れた。
「姉ちゃんぅ…!」
「心配かけて、ごめんね」
顔を押し付けて泣く芙花の背中を撫でようと──その血塗れの手で?
こびりついた恐怖で手が止まり、視界が揺れる。
感情を押し殺すべきか、何度も逡巡する。
「おかえり、蓮花」
そんな私と芙花を逞しい腕が優しく抱き締めた。
父の声と熱が、じわりと体に浸透し、少しだけ気分が和らぐ。
この人には敵わない。
「ただいま」
溢れかけた涙を堪え、尊敬する父へ辛うじて言葉を返す。
出迎えの言葉は父にこそ送られるべきだ。
国防軍において、最も多くの人命を救ってきた九州の防人に。
「おかえり、父さん」
「うん、ただいま!」
頬に傷の増えた父は、家を発つ前と変わらぬ笑みを浮かべた。
それを見た私の奥底で、罪悪感と自己嫌悪が金切り声を上げている。
血塗れの、殺戮者の私が、この安堵を噛み締めてもいいものか?
罪過は償う、だから──今だけは許してほしい。
◆
夕陽が射し込む港湾は赤く染まり、不気味な静寂に包まれている。
インクブスの侵攻によって放棄され、赤錆びた倉庫群や伸びた雑草が時間の経過を感じさせた。
各地に同様の景色が存在する今日の日本国。
そこは国防軍の監視が行き届かない
「なぜウィッチが…!」
1人の少女が夕陽を避けるように倉庫の陰まで駆けた。
纏う装束の色彩は黒ずみ、得物のウィップは元来の輝きを失っている。
忙しなく周囲を睨む鋭い視線から善性は見出せない。
されど、間違いなくウィッチであった。
「まさか……裏切者が?」
息こそ切れていないが、背を伝う汗は止まらない。
その考えを嘲笑うように協力者たちは惨殺された。
ウィッチは襲撃者を探し、倉庫の陰より周囲を窺う。
「残念」
「っ!?」
鈴を転がすような声が響き渡った。
眼前の倉庫、その反対側で膨れ上がるエナの気配。
蒼い燐光が舞い、赤錆びた壁面が爆ぜる。
「かはっ!」
ウィップを振るうより早く、細い腹に突き刺さる刃。
そのまま背後の倉庫まで吹き飛ばされ、ウィッチは壁面に縫い付けられた。
「不正解です」
眼前の倉庫に穿たれた風穴からヒールの奏でる雅な音が響く。
苦痛に歪むウィッチの表情に恐怖が加わる。
腹に突き刺さったソードを抜こうと必死に足掻くが、全ては手遅れだ。
「貴女のお友達は悪くありません」
倉庫2棟を貫通して獲物を射止めた者は、舞踏会にでも行くようなドレスを身に纏っていた。
その口は緩やかな三日月を描く。
「私の視界に入ったことが失敗ですね」
そう言って己の碧眼を指差す襲撃者。
瞳孔の奥底には、すべてを吸い込む闇が滞留していた。
相手の殺害を考えながら笑う狂人に、ウィッチの表情は引き攣る。
「お、お前は……ウィッチなのか…?」
震える声で発された問いに、襲撃者は笑みを深めた。
善性を喪失しているのは、お互い様。
すぐ眼前まで歩み寄り、腹に突き刺さったソードの柄を握る。
「ええ、ウィッチです」
微かに刃を捻り、手応えを確かめながら両手を添えた。
そして、体を密着させるようにソードを深く刺し込む。
「あ、がっ…!」
反撃のため収束していたエナが霧散し、思考を痛みが支配する。
抵抗など無意味だ。
蒼きウィッチに捕捉された時点で、敵対者に生命はない。
「それでは、さようなら」
呼吸が乱れるウィッチの耳元に顔を近づけ、アズールノヴァは囁く。
「まっ──」
燐光が舞い、蒼き刀身より焔が溢れ出した。
穢れた胎内から断末魔までが焼却され、倉庫群を蒼く照らす。
塵すら残らず、壁面には人型に燃ゆる焔だけが残された。
「扇動者か」
アズールノヴァは引き抜いたソードを燐光に変え、揺らぐエナの焔を眺める。
これまでの尖兵と異なり、今回のウィッチは一般人の集団を扇動していた。
インクブスの戦術は変化し続けている。
「レッドクイーン」
痕跡が燐光となって空へ消え去り、蒼き瞳を背後へ向けた。
視線の先には、倉庫の陰に佇む真紅の人影。
「は、はい、なんでしょう…?」
音もなく空間を移動してきたウィッチは、恐る恐るといった体で応じる。
「他の信奉派はどうしましたか?」
「あ、安心してください! 全て
様々な要因の中で最も他愛なかった作業について聞かれ、レッドクイーンは胸を撫で下ろす。
バトルアクスの刃から滴る粘度の高い赤を見れば、おおよその成果は分かる。
その姿を観察するアズールノヴァは何も語らない。
「あ、えっと、もしかして……情報を得るために数匹は残すべきでしたか…?」
アズールノヴァの様子を上目遣いに窺うレッドクイーン。
つい数分前、鏖殺した者たちは信奉派の一部でしかない。
全体像を知るために情報を得る必要があったのではないか、と思考を回す。
「いえ、上出来です。どうせ大した情報を持っていないでしょうから」
至って平常な状態のバディを確認し、アズールノヴァは携帯端末を取り出す。
彼らの表面的な情報は、それだけで把握できた。
「……ふふっ」
「なんですか、急に」
不意に血塗れのウィッチが笑みを浮かべ、怪訝な光を宿した蒼い瞳が向けられる。
「あ、すみません…! 褒めてもらったのが嬉しくて……」
慌てて表情を取り繕い、小さく縮こまるレッドクイーン。
彼女の前身であったウィッチは、一般的な道徳観を持つパートナーと行動を共にしていたはず。
臆病な性格に対して殺人への忌避が薄い──どこで決定的に歪んだのか。
その経緯に興味が無いアズールノヴァは、ただ有用とだけ判断した。
ウィッチへの信奉が玉に瑕だが。
「はぁ……この様子だと、まだいますね」
半眼で画面を睨むアズールノヴァは溜息を漏らす。
コミュニティに所属しているアカウントの数は、とても両手では足りなかった。
一般人を装っているが、節々の発言でインクブスを崇拝する者の判別は容易だ。
「1匹いたら100匹はいるので……でも、いつ増えたんでしょう?」
隣から覗き込むレッドクイーンは、心底不思議そうに首を傾げた。
海風で靡く真紅の髪が夕陽を受けて光り、血生臭さが漂う。
「ここ最近になって活発化しているようです」
「あ、本当ですね……」
それを気にも留めず、アズールノヴァはコミュニティの結成された日付に指を沿わせる。
類似のコミュニティも複数見られたが、どれも最近になって結成されていた。
「真実を隠蔽する国防軍、アメリカ軍の自作自演、ウィッチは非人道的実験の成果……
コミュニティ内の会話に目を通し、レッドクイーンは蔑みの眼差しを落とす。
信奉派であることを隠すためインクブスを話題に出すことはないが、毎日のように体制の陰謀論を繰り返す。
現体制に不信感を抱かせ、同胞を増やそうとしているのだ。
「興味もありません。全て斬るだけです」
己が慕う存在を害する者は、たとえ人間であろうと斬殺する。
否、インクブスを崇拝した時点で、それは人間ではない。
国防軍の
「お、お手伝いします…!」
血を滴らせる赤き女王が同調し、ワインレッドの瞳を輝かせる。
彼女にとってもウィッチを害する者は人間ではない。
一切の躊躇なく叩き潰すことができる。
「では、次のウィッチは任せますね?」
「そ、それは……」
レッドクイーンは目を泳がせ、アズールノヴァは小さく溜息を吐く。
そんな会話を交えつつ、2人の魔女は血で染まった倉庫群を後にする。
ここは無人地帯、目撃者はいない。
◆
「ギルマンは斃れたか」
高濃度のエナによって輪郭を歪めた影は、厳かな声で同胞に問うた。
一面の闇より浮かぶ白磁の円卓を静寂が支配する。
「ラタトスクの報告では、間違いないと」
「そうか」
ゴブリンの総長、グリゴリーの報告を受けて、影は変わらぬ調子で頷いた。
しかし、空席の増えた円卓には消沈した空気が漂う。
あれだけの啖呵を切ったのだから、あるいは──そういう期待があった。
「愚か者め……やはり、長の器ではなかったな」
深紫の戦装束を纏ったインプの総長は、落胆の表情を隠しもしない。
災厄との激戦が続き、疲労の滲む眼には怒りすら浮かぶ。
「然り。短絡的にも程がある」
同意するオークの総長、サンチェスは片耳を失い、纏った鎧には無数の傷が刻まれている。
歴戦の戦士にして指揮官も、この日ばかりは苛立っていた。
大陸での絶望的な撤退戦を生還してから初の会合で、愚者の末路を聞かされたのだ。
当然の反応と言える。
「落ち着け。確かにギルマンは浅慮だったが──」
「よい、グリゴリー」
卓上の険悪な空気を感じ、諫めに入ったグリゴリーを手で制する影。
「ギルマンは拙速に事を運び、独断専行も多かった。特に隷属した国では、な」
ギルマンは大陸の北方を治める国にて暴虐の限りを尽くした。
隷属したヒトは、雌と
それを軟弱だと虐殺し、ウィッチの誕生は見逃すという利敵行為を行っていた。
「ふん……ヒトを飼うなどオーガには無理な話だ」
その所業を知るシリアコは、マジックの才どころか長の才もない低能と見下す。
「戦士としては、優秀だったがな」
戦場を共にしたサンチェスは、そう言って重い溜息を吐いた。
不死身と呼ばれるオーガの長が打倒したウィッチは、難敵と認識されていた手合ばかり。
その実力は認めなければならない。
「優秀であっても過失は覆せん……が、ギルマンは見事に
災厄のウィッチが潜む地へ赴いた戦士を称える──否、影の厳かな声には感情が乗っていない。
「…ほう」
半眼となったシリアコは影の意図を完全に理解し、次の言葉を待つ。
「それでは、ついに仕込みが終わったと?」
「ギルマンの献身も無駄ではなかったか…」
「先のラタトスクと関係が?」
円卓に集った魑魅魍魎は、口々に言葉を交える。
絶望的な防衛戦、大陸からの撤退開始──敗戦続きの戦局に皆が辟易していた。
インクブスとは総じて我慢弱い。
影の策動が実を結ぶまで待てた者も、好転の兆しが見えれば口も軽くなろう。
「ヒトの集団に浸透し、不和を引き起こす任をラタトスクには与えていた」
「あの小物に、そんな迂遠な事をさせておったのか」
何者にも低頭で応じる軟弱なインクブスへの評価は高くない。
巧言を弄して自身を取り繕う様を、多くのインクブスは唾棄していた。
「時間は要したが、成果は得た」
「成果…?」
ラタトスクを信頼しない者からは懐疑的な声が漏れ聞こえた。
その一切を聞き流し、影は厳かに告げる。
「ヒトの交信手段だ」
生命体としてヒトを凌駕するインクブスの多くは、文化や技術に無関心だ。
影とラタトスクはヒトの構築した
「情報収集に有用であり、駒を動かす媒体にもなる」
それは慧眼であったと言わざるを得ない。
彼らは眼と耳、そして腹の痛まぬ駒を手に入れた。
「貧弱なウィッチでも、ラタトスク卿の使用する道具を扱えるのは僥倖でした」
「うむ、思わぬ価値が眠っているものだ」
黒い体毛に覆われたボギーの総長は影の言葉を聞き、感慨深げに頷く。
戦力外のウィッチは洗脳や調教を行わず、苗床として使い潰されていた。
新たな
「災厄の全貌は見えぬが、ウィッチの住まう地は確定できた」
「ついに虫籠を叩くか…」
シリアコの問いに影は重々しく頷き、卓上で手を組む。
「情報収集を行いつつ、
円卓の空気が緊張を帯び、待望の命を聞いた総長たちは口角を上げる。
贄となったギルマン一行を憂い、守勢の終わりを歓迎した。
「おお、いよいよか…!」
「ラザロス殿を呼び戻さねば!」
帰還した同胞は4割に満たないが、狭隘な島国を3度は滅ぼす戦力。
狂乱の濁流となれば、災厄も粉砕できよう。
「準備が整うまでは、ウィッチの漸減を行う」
「…如何に災厄を躱して漸減を?」
生半可な戦力を投じたところで殲滅される現状、漸減など望めない。
それを理解しているサンチェスは、言外に戦力の喪失を避けるべきと眼で語っていた。
当然、影も理解している。
ゆえに──
「ギルマンの献身に乗じ、ラタトスクの下へパックルを送った」
厳かな声で告げられた名に、総長たちは一様に顔を顰めた。
滅多に会合へ現れず、席だけは残しているピスキーの長。
その身勝手な振舞いを嫌うインクブスは多い。
「確かに駒も贄もあれば、彼奴は無類の術士となろう……しかし、良いのか?」
パックルの使うマジックを知るシリアコは、別の意味で眉間に皺を寄せていた。
ピスキーが極少数派となった原因は、そのマジックにあるのだ。
「畑は諦めよ。災厄は確実に滅ぼさねばならん」
己が口にした言葉を返され、シリアコは疲労の残る眼を閉じて沈黙した。
災厄を守護する障壁を崩すためならば、あらゆる手段を用いる。
良質な畑を失う結果になろうとも。
ハッピーエンドには早いゾ(ニチャァ)