古代中国では俑と呼ばれる冥器を死者の墓に副葬していた。
最も著名な俑とは、始皇帝が建設した陵墓の兵馬俑であろう。
8000体近くの兵士や馬を模した俑が並ぶ光景は壮観だ。
現在のモンゴル高原には、それを彷彿とさせる景色が広がっていた。
ただし──俑は、全て消炭色のトノサマバッタだったが。
刺々しい外骨格、斑模様の翅、長く強靭な後脚、それらが地平線まで連なっている。
彼彼女らは侵略者を絶滅させた
『休眠じゃない?』
猛禽類の目を思わせる金色の瞳が、路肩から先に広がる異界を映す。
紡いだ疑問の言葉は、ガソリンエンジンの唸り声に掻き消される。
『ああ、休息を取っているわけではないようだ』
しかし、彼女のパートナーは言葉が無くとも意思疎通が可能だ。
水色の流麗な装束を纏い、艶やかな黒髪を靡かせる少女は、ただの子どもではない。
モンゴル高原の魔女と呼ばれた一騎当千のウィッチだ。
『ここで停止しているファミリアは、内包するエナの減少が見られる』
『じゃあ、ただ活動限界ってだけじゃないの?』
背負うアサルトライフルのベルトによって強調された胸元。
そこに乗る鏃のペンダントから淡々とした言葉が紡がれる。
『それにしては速度が劇的だ。これは別の活動に消費していると見るべきだろう』
『別の活動、ね──っと』
腰を預けるソビエト連邦製の装甲車が小さく跳ねた。
その振動を難なく受け流し、少女は未舗装路の先へ視線を投げる。
唯一、消炭色に侵食されていない道の路肩には、侵略者の走狗が屍を晒していた。
『…ったく、後片付けしていきなさいよね』
『ああ、礼儀のなってない連中だ』
『礼儀を学ぶ前に土に還ったみたいだがな』
装甲車に便乗する兵士たちは、勝利の女神たるウィッチの言葉に頷く。
路肩で擱座した主力戦車や自走砲は、かつてロシア連邦と呼ばれた国家の誇る最新鋭兵器だ。
今は焔に焼かれて、赤錆びた鉄塊となっている。
優れた兵器を有していようと崩壊した傀儡政権の軍に扱い切れるはずもなかった。
『村まであと何kmなの?』
『2kmほど、もう見えてくる頃だ』
何度目かになるウィッチの問いに、ヘルメットを被った壮年の兵士が答える。
少女は小さく溜息を漏らし、膝を抱えて消炭色の草原へ視線を戻す。
それまでは、この異界の景色が続くのだ。
大地を覆う体長3m強の節足動物たちは、救世主というには禍々しい。
『退屈か?』
『さすがに飽きた。これじゃスラムと変わらないわ』
モンゴル高原の魔女と呼ばれる前、少女を取り巻く世界の色は貧しかった。
薄汚れたゲル──遊牧民が使用する伝統的な住居だ──と粗末な小屋が連なり、調理と暖房に使用した石炭の煙が空を灰色に染める。
インクブスが現れてからは、そこに鮮やかな血の色が混じった。
その陰鬱とした世界を穿ち、少女は
『ウランバートルより空は青いだろう?』
『こいつらが飛んだら同じよ』
路肩の自走砲を踏みつけるトノサマバッタへ胡乱げな視線を投げ、鼻を鳴らす。
蒼穹を覆い、豪雨の如き羽音を降らせる異形たちは、インクブスにとって滅びの象徴だ。
その光景を見て神の御使いと崇める者もいるが、多くの者は外見から存在を忌避する。
感謝はしている──しかし、理解できない。
意思の疎通は一切できず、ただインクブスだけを抹殺する存在。
救世主というより天災だ。
『スカビオサ、先程の話だが……』
『その名前で呼ぶなって言ってるでしょ』
形の良い眉を顰め、胸元のペンダントへ視線を落とす。
オールドウィッチから授けられた名を少女は嫌っていた。
その理由を知るパートナーは無意味と知りながらも形だけのフォローに入る。
『…ツェレン、スカビオサは国花じゃないか』
『いやよ。未亡人なんてごめんだわ』
そう言って口を尖らせるツェレンに、車上の兵士たちは忍び笑いを漏らす。
雪の結晶を彷彿とさせる花姿のスカビオサは、不幸な恋や未亡人といった花言葉が託されている。
スカビオサの咲く高原に屍の山を築いてきた魔女も年頃の少女だ。
今のところ想い人は未定だが、それでも好んで使いたくはない。
『花言葉など迷信──』
ツェレンの胸元で揺れるペンダントは、途中まで紡いだ禁句を止める。
兵士たちも口元から笑みを消し、ガソリンエンジンの唸り声だけが鳴り響く。
車上に座る者の視線は、消炭色の草原へ向いていた。
無風の草原が波打つ──金属を引き裂くような異音が響き渡る。
身動ぎ一つしなかったトノサマバッタの背面に亀裂が入っていた。
その異変は次々と伝播していき、異形たちの影が揺らぐ。
『なんだ…こりゃ……』
『な、何が始まるんだ?』
初めて遭遇する事態を前に、車上の兵士たちは手元のライフルを握る。
敵ではないが、味方でもないファミリアは謎多き存在だ。
心の隅に置いていた警戒心を呼び起こす。
『全隊、止まれ!』
壮年の兵士は無線で指示を飛ばし、車列を停止させる。
その間にも周囲の景色は変貌していく。
消炭色の外骨格より徐々に迫り出す半透明な翅、そして──
『これは、脱皮か…!』
古き衣を大地へ脱ぎ捨て、白銀の姿を蒼穹の下に晒す。
草原は一斉に銀世界へ変わり、陽光を反射して輝く。
頭部が外気に触れ、触角が草葉の如く揺れる。
銀に真紅が混じる──それは眼だ。
無機質な輝きを宿し、まるで宝石のような真紅の複眼が外界を映す。
『そう…みたいね』
眼前に広がる非現実的な景色に、ツェレンは思わず見入っていた。
彼女だけではない。
屈強な兵士たちも言葉を忘れ、ただ茫然と銀世界を見渡す。
忌避すべき外見の異形が、その時だけは純銀の細工物に見えた。
『不完全変態……まさか、成長するファミリアとはな』
脱皮を終えたファミリアの群体を前にして、パートナーは微かに驚愕を滲ませる。
一夜で消滅する儚き存在が、インクブスを捕食して成長するなど前代未聞だ。
脱ぎ捨てられた古い外骨格が崩れ出し、エナへと還る。
その煌めきは夏風に吹かれて蒼穹へと舞い上がった。
『すげぇ……こんなの初めて見た』
『誰か、カメラ持ってないか!』
まるで流星が空へ戻っていくような光景に、誰もが歓声を上げる。
歓声を聞く異形たちの外骨格は急速に硬化し、表面の金属光沢が消えていく。
そして、銀色は鉛色へ──否、暗い灰色に変質する。
半透明の翅が大きく広げられ、見慣れた斑模様が浮かび出す。
より強く、より硬く、より遠くで戦うために彼彼女らは進化する。
『おい、飛ぶぞ!』
トノサマバッタたちは翅を震わせ、一斉に大地を蹴る。
飛び立つ異形の風圧が土と草を巻き上げ、エナの輝きを吹き散らす。
異形の影が太陽どころか蒼穹すら覆い隠し、昼の世界を夜へと変える。
『悪くないと思ったけど……』
銀世界を前に輝いていた金色の瞳は曇り、消炭色の闇を無為に映す。
豪雨の渦中にいるような羽音が降り注ぐ中、ツェレンは溜息交じりに呟く。
『やっぱり好きになれないわ』
『そうか』
その呟きはパートナー以外に届くことはなく、無数の羽音に掻き消される。
夜は、車列が村に到着するまで続いた。
◆
ツェレンに与えられた任務は、傀儡政権の部隊を追撃することだった。
インクブスという支配者から解放された走狗たちは、本国へ逃れるために手段を選ばない。
秩序を失った軍隊など盗賊と相違なかった。
だからこそ、徹底的に叩く必要がある。
『物に、人に……奪えるなら何でもって感じね』
猛禽類を思わせる金色の瞳を鋭く細め、ツェレンは吐き捨てるように言う。
馬上の少女は草原よりも蒼穹に少し近い場所から敵の動向を窺っていた。
山谷風に吹かれて黒髪が靡く──ここはモンゴル高原とシベリアの地を隔てるサヤン山脈の一角だ。
夏季であっても周囲の気温は低く、澄んだ空気は遠くまで見通せる。
『まさしく盗賊だな』
ツェレンの首から下がる鏃のペンダントは、眼下の敵を端的に評した。
谷底の川に沿って造成された山道を、主力戦車を殿とする車列が進んでいた。
兵士を車上に乗せた装甲車の他に、
『何がしたいのかしらね、あいつら』
『人質を取れば追撃はないと考えているのだろう』
『はぁ……最悪』
そう言って背後を振り返り、山の麓近くへ視線を落とす。
視線の先には、針葉樹と岩々に囲まれた小さな村が見える。
傀儡政権に占領され、魑魅魍魎の暴虐が吹き荒れた──ありふれた悲劇の村。
無力な村人に抵抗などできるはずもない。
『インクブスの狗ども……逃がすわけないじゃない』
山谷風を受けても冷めぬ闘志を宿す少女は、エナで形成されたコンパウンドボウを強く握る。
『ああ、拉致された人々を必ず取り戻そう』
パートナーの言葉には頷かず、麓より彼方へ視線を向ける。
青々とした緑が波打つ草原に消炭色の影は一つも見当たらない。
異形の救世主たちは、異界からの侵略者を滅ぼすべく飛び立った。
『ねぇ、サハル』
『どうした?』
その光景を思い起こしながら、ウィッチはパートナーに問う。
『あのファミリアは、どうして悪人を殺してくれないのかしら?』
希望と嫉妬と怨嗟の入り混じった複雑な声色で紡がれた問い。
あれほどの圧倒的な戦力があれば、傀儡政権を滅ぼすことは容易いだろう。
しかし、インセクト・ファミリアは人間に一切の興味を示さない。
『…ファミリアは善人と悪人を区別できない』
『ウィッチが決めればいいじゃない』
『それが現実的でないと分かっているだろう』
パートナーの指摘に対し、ツェレンは口を噤んで押し黙る。
彼女が跨る美しい青鹿毛の軍馬もファミリアだ。
細かな指示も聞く良き戦友だが、テレパシーによる意思の疎通は未だに慣れない。
だからこそ理解できる──あれほどの大群を操れば、どれほどの負荷に襲われるか。
インクブス
『……はいはい、悪人を殺すのは魔女の仕事ですよ~』
それを理解しているツェレンは自嘲気味に笑い、コンパウンドボウの機械仕掛けを撫でる。
インクブスという外敵が取り除かれた今、この地に生きるウィッチが為すべきことは
『私にはお似合いか』
年端もいかない少女の顔から笑みが消え、暗い影だけが残る。
高山植物が疎らに生える山肌を、寒々しい山谷風が撫でた。
それは華奢な体躯に宿る闘志以外の感情を削ぎ落していく。
『君がやっている事は人助けだ』
『どうだか』
猛禽類の如き鋭い眼差しが眼下の敵へと向く。
右手でコンパウンドボウを構え、左手は無為に空を掴む。
指先より流れ出すエナが収束──刹那、漆黒の矢弾が虚空より現れる。
金色の瞳がエナの輝きを纏い、傀儡政権の兵器を照準する。
『…始めるよ』
そして、モンゴル高原の魔女──ウィッチナンバー7、スカビオサは矢を番えた。
『ああ、始めよう』
小さく息を吸い、止め、矢を放つ。
風切り音が鳴り響き、蒼穹に放物線を描く漆黒の影。
その影は12の矢弾に分裂し──音速にまで加速、車両の天板へ突き立つ。
鋼鉄の装甲を穿ち、内部で熱量が弾けた。
インクブスを打ち滅ぼすマジックは、人間の生命を容易く蒸発させる。
自身の最期を知覚することなく乗員は焼死した。
『全弾命中を確認』
大気が衝撃波で震え、焔を纏った主力戦車の砲塔が宙に舞う。
次いで爆発、爆発、爆発──戦果が黒煙となって立ち上る。
山道は焔と黒煙に覆われ、停止した車列を隠す。
しかし、金色の瞳は人質を乗せたトラック2両と護衛の装甲車を捕捉している。
『派手に燃えたわね』
『拉致された人々に危険が及ぶかもしれない。急ごう』
細い左手で手綱を引けば馬蹄が岩肌を蹴り、水色の装束が風で靡く。
蒼穹が遠ざかっていき、谷底に向かって青鹿毛の軍馬が駆ける。
黒煙の中で動く人影──装甲車から降車した傀儡政権の兵士だ。
ライフルを構えながら、恐怖と憎悪に染まった怒声を響かせている。
その無様な姿を視界に収めながら、スカビオサは手綱から左手を離す。
『BMPが出てくるぞ』
青鹿毛の軍馬は針葉樹の影を縫い、張り出した岩の先端を蹴って飛ぶ。
景色が背後へと飛び去る中、ウィッチの左手には新たな矢弾。
それを番えたコンパウンドボウの滑車が回転し、弦が引かれる。
『無駄よ』
幽鬼を思わせる冷酷な声は、風切り音に掻き消された。
大気を引き裂く悲鳴が鳴り響き──金属を穿つ異音が山を震わす。
燻る黒煙を突き破り、山道から川へ落とされる鉄屑。
低平なデザインの装甲車、その残骸だ。
「
「
山道で銃火が疎らに瞬き、至近を銃弾が擦過する。
しかし、ウィッチの駆るファミリアは恐れることなく斜面に着地し、再び地を蹴る。
軽々と巨体が跳び、不埒な賊を眼下に置く。
「
馬蹄が断末魔ごと人体を破砕し、山道に鮮烈な赤を散らす。
着地の足跡を刻みながら、青鹿毛の馬は背後へ視線を走らせる。
そこには後退る不埒な賊。
「
圧殺されなかった不運な兵士が最期に見たのは、残像を纏う後脚だった。
水風船の弾けるような快音が響き渡る。
『あと何人?』
『4人だ』
鉄と油、そして血で染められた山道にスカビオサは降り立つ。
燃え盛る車両から吐き出される黒煙で、周囲の視界は劣悪だ。
それでもモンゴル高原の魔女は迷いなく2両のトラックへ向かう。
咳き込む声、泣き声、母親を呼ぶ声──人質となった子どもの声だ。
コンパウンドボウが燐光となって消え、背負っていたアサルトライフルを手に取る。
安全装置を解除し、視線をトラックの陰へ向ける。
『こ、降伏する…!』
『許して、くれ!』
モンゴル高原の魔女に睨まれ、トラックの陰から両手を上げた兵士が現れる。
拙いモンゴル語で話す兵士たちは恐怖に駆られ、手足が小刻みに震えていた。
『攫った子どもは?』
『う、後ろだ……』
銃口を向けるウィッチの瞳には冷徹な光が宿っていた。
トラックの荷台へ視線を向け、それから兵士の人数を確認する。
『そう』
人数の確認を終えた瞬間、躊躇なくトリガーを引く。
乾いた銃声が響き渡る──物言わぬ屍が4体、増えた。
かつて傀儡政権の兵士たちが行ってきた
罪なき人々を一方的に嬲ってきた者へ最大限の返礼だ。
『スカビオサ──』
『その名前で呼ばないで』
スカビオサは苛立ちを滲ませる声でパートナーの言葉を遮った。
雪の結晶を彷彿とさせる花には似つかわしくない己を、少女は心の底から嫌悪している。
硝煙を燻らす銃口を下げ、肺から濁った空気を吐き出す。
熱せられた鉄の弾ける音だけが虚しく響いていた。
『……拉致された人々が待っている』
『ええ』
道徳を説くよりも優先すべきは、拉致された子どもの生命だ。
青鹿毛の軍馬が主人に寄り添い、少女の横顔を澄んだ瞳に映す。
スカビオサは顔を寄せるファミリアの鼻先を撫で、再び歩みを進める──
「残念だったなぁ」
それを嘲る者がトラックの荷台に姿を現す。
アサルトライフルの銃口が指向する先で、薄汚れた黒い外衣が風に靡く。
『た、たすけて……』
黒衣の内より伸びる鋭利な爪が、恐怖に歪む少女の首筋に食い込む。
人質を前面に押し出す異形は邪悪な笑みを浮かべていた。
『ボガート、隠れていたか』
『しぶといわね』
舌打ちするスカビオサはアサルトライフルの銃口を下ろし、傍らに投げ捨てる。
勝利を確信するボガートは笑みを強めた。
足下の影に潜み、少女を拐すインクブスは正面からウィッチに挑まない。
「まったく役に立たねぇ屑どもだ。時間稼ぎも出来やしない」
ボガートは鉤鼻の醜悪な顔を歪め、周囲の鉄屑と亡骸を嘲った。
インクブスにとって傀儡とは家畜であり、道具だ。
決して労うことはない。
「だが、この雌どもを見繕ったことは褒めてやる」
そう言って少女の首筋から頬までを爪で撫で、下卑た笑みを浮かべる。
黒煙が空を覆い、黎明のように薄暗い世界。
恐怖で泣く子どもの声が響き、熱せられた鉄が弾ける。
背後から迫る新手の気配を捉え、スカビオサは小さく溜息を吐く。
「後は、お前も手土産に──」
『いちいち話が長いのよ、鉤鼻野郎』
モンゴル高原の魔女は、そう言って嗤った。
刹那、美しい青鹿毛の馬は強烈なキックを背後へ放つ。
影より這い出たボガートの頭部が吹き飛び、エナの飛沫を散らした。
そして、世界の色が反転──背後へ伸ばしたスカビオサの左手が握るは鎖。
遠心力で張った鎖の先端には、六角錐の錘があった。
それを全力で、前方へ振り抜く。
「このっ!?」
少女の首を裂くよりも速く、錘がボガートの顔面を打ち抜いた。
快音が鳴り響き、黒い外衣を纏った影が荷台から弾き飛ばされる。
「おのれぇぇ!」
ボガートは悍ましい叫び声を上げながら、山道を外れて川へと落下していく。
致命傷は与えたが、生命まで砕くことはできなかった。
この期に及んで生き残っている時点で、並のインクブスではない。
『ちっ…まだ生きてる』
水面を叩く音の軽さに、スカビオサは思わず舌打ちした。
引き戻した鎖をエナへ還し、コンパウンドボウを再形成。
エナの燐光を纏いながらトラックの荷台へ乗り、怯える少女たちを見下ろす。
『頭を下げて、なるべく煙を吸わないようにしなさい!』
声を張り上げて指示し、荷台を蹴って路肩へ降り立つ。
眼下を流れる川は幅も深度もない。
ゆえに落水したインクブスの黒い影は、すぐ捕捉できた。
「くそっ…ウィッチめ!」
叩き折られた鉤鼻を押さえ、ボガートは呪詛の言葉を吐き出す。
黒い外衣が水面で揺蕩っているが、脚は川底に届いている。
『追撃の必要はないかもしれないな』
『…そうみたいね』
矢を番えようとした左手を止め、半眼のスカビオサはパートナーの言葉に同意する。
金色の瞳は、醜悪な顔を歪めて吠えるボガートを映していない。
彼女が見ているのは、水面だった。
「よくもやってくれたな!」
濁った水面に現れる楕円形の影、その全長は4mに匹敵する。
大魚ではない。
インクブスの足元へ近づく巨影には、死神の如き鎌があった。
「お前は袋に詰めてから嬲って辱め──がぁは!?」
白い水飛沫が舞い、黒い外衣を挟み込む2本の大鎌。
ウィッチの追撃を警戒し、己の影へ逃げ込む準備は整えていた。
しかし、ボガートは水中からの奇襲を想定していなかった。
骨格を砕かんばかりの拘束──灰褐色の太い捕獲脚は、驚異的な膂力を誇る。
捕獲脚の先端にある爪が両肩を貫き、ボガートの逃走は絶望的だ。
それでも足掻く獲物へ捕食者は口吻を突き立てる。
「ぎゃぁぁがばっぐぼぁ……」
水中に引き摺り込まれ、その断末魔は無意味な泡へと変換された。
タガメ亜科に属する水生昆虫は、黙々と消化液を注入する。
獲物の抵抗は弱まり、やがて水流に揺られるだけとなった。
『インクブスの体組織をエナに分解して吸引しているのか』
『うわぁ……』
パートナーの冷静な分析を聞き、ウィッチは顔を引き攣らせた。
体内を消化され、液状化したエナを吸引されるボガートが徐々に萎びていく。
『趣味が悪い』
『否定はしない』
インクブスの死を見届けたスカビオサは、踵を返して路肩より立ち去る。
微かに疲労の滲む足取りでトラックへ向かう。
今は生態観察より人命救助だ。
指示を守らず、顔を覗かせる子どもたちを連れ帰らねばならない。
『まったく……どんなウィッチが呼び出したのかしら』
去り際に呟いた言葉は、黒煙と共に風で流されて消えた。
水生カメムシ類が出したかっただけ(真顔)