変移
新緑の生える草原に真夏の日差しが降り注いでいる。
風が吹くたびに背の低い草が揺れ、息遣いのように一面が波打つ。
そこへ落ちる黒い影は、空を流れる雲か──否、それは重々しい羽音を纏っている。
雲一つない蒼穹を侵食する暗黒。
消炭色の外骨格は戦車の装甲に匹敵し、斑模様の翅は旅客機と同等の速度を生み出す。
群生相のトノサマバッタを模した姿は過去となり、凶暴性を増したデザインは殺意を迸らせている。
『信じられん』
デジタルフローラ迷彩の戦闘服に身を包んだ兵士たちは、暗黒に染まる空を見上げた。
対空ミサイルの描く白い軌跡が幾本も伸び、眩い閃光が走る。
かつてNATOと相対した防空システムは果敢に迎撃を試みているが、その効果は薄い。
『まるで黙示録だ』
草原を見渡せる高地に陣地を築き、敵を待ち構える彼らは傀儡政権の走狗だ。
人類の天敵へ平伏した家畜、あるいは奴隷。
『偵察班から報告!』
通信兵の報告に耳を傾けつつ、塹壕内から草原を睨む。
彼らは妻や子を贄としないために最前線に立っている。
『敵はT-72を有する機械化部隊、先頭には魔女を確認したと…!』
敵は堂々と草原を前進し、土煙を巻き上げて高地へ迫る。
旧式の主力戦車など脅威ではないが、魔女は違う。
あれは人知を越えた存在──文字通り一騎当千の怪物なのだ。
頭上を覆う異形の軍勢と併せ、戦力差は絶望的であった。
太陽が姿を隠し、塹壕内の影が強まる。
『くそっ…魔女め! 配置に就け!』
『大隊に砲撃を要請しろ!』
指示を受けた兵士たちが塹壕内を行き交い、配置に就いていく。
空では絶えず対空ミサイルが炸裂し、焔に包まれた異形が地へと墜ちる。
『534号車と537号車のエンジンを始動、迎撃するぞ!』
『了解!』
ガスタービンエンジンが唸り声を上げ、掩体壕より覗く長大な砲身が草原を睨む。
瓦のような反応装甲で砲塔を覆う主力戦車は、魔女を相手取るには非力だ。
不死身を誇る巨躯のインクブスが去った今、戦局は逆転する。
『勝てるはずがない……お終いだ』
精神を蝕む羽音を聞きながら、兵士の1人が本心を吐露した。
それは塹壕内に潜む全員が抱く絶望だ。
暴虐の限りを尽くした傀儡政権、その走狗の降伏を
『黙れ。聞かれるぞ』
そう言って壮年の兵士が背後へ視線を走らせる。
彼らが配置に就く陣地の後方には、督戦を行う魑魅魍魎がいるのだ。
『戦うなら連中とだろ』
逃亡する兵士がいれば、物理法則を無視した焔で焼殺する。
領土の簒奪を良しとせず、徹底抗戦を選んだインクブスこそ真の敵だった。
『今更、遅えんだよ──っ!』
豪雨の如き羽音が増大する。
頭上より迫り来る圧力に、兵士たちは思わず息を呑む。
それは壁だ──死という概念だ。
空を暗黒に染めていた消炭色の闇が降ってくる。
聴覚と視覚は、覆せない絶望を出力していた。
『撃て!』
『近づけるな!』
頭上へ向けられる火器の全てが火を噴いた。
対空ミサイルの白い軌跡も、鮮やかな曳光弾も、際限なく闇へ吸い込まれていく。
まるで痛痒を感じていない節足動物は一直線に降下を続ける。
『くそっ化け物め!』
外骨格は小口径の弾丸を弾き、細かな穴を穿っても翅は揚力を失わない。
陣地の後方より紅蓮の焔が放たれ、一際大きな爆炎が闇を照らす。
インクブスがマジックを使用したのだ。
『撃ち続けろ!』
『弾切れだ!』
『に、逃げろ!』
しかし、事態は好転しない。
兵士たちは複眼に映った己の姿を認識し、開かれた大顎に恐怖した。
それは焔を放つ魑魅魍魎へ殺到──消炭色の小山が出来上がる。
断末魔まで噛み砕き、色鮮やかな赤が視界の端に映る。
督戦を担っていたインクブスは残らず咀嚼された。
『ひっ…ひぃ!』
『黙れ…!』
3対の脚に備わる爪が至近を擦過し、兵士たちは息を殺して縮こまる。
最早、誰も抵抗を試みようとはしなかった。
捕食者と被食者──決して覆せない世の理だ。
異形は主力戦車の砲塔や塹壕の上を歩き回り、それから悠々と飛び立つ。
人類など眼中になかった。
『た、助かったのか…?』
踏み荒らされた塹壕から頭を出し、消炭色の異形を見送る。
己が被食者でなかったことに安堵しながら。
ここが戦場であると忘れてはならない──金属を穿つ硬質な音が響く。
次の瞬間、掩体壕に身を隠す主力戦車が爆発した。
砲塔が天高く舞い、周囲の空気を衝撃波が一掃する。
『くっ……な、なんだ!?』
残された車体から炎と黒煙が上り、砲塔が大地に突き刺さった。
弾薬が誘爆しなければ起こり得ない爆発。
土や破片が降り注ぐ中、状況を把握せんと兵士たちは周囲を見渡す。
『これは…!』
そして、彼らは
陣地を防御する兵器の全てが鉄屑となり、黒煙を上げていた。
多目標同時攻撃──魔女の仕業だ。
鋼鉄の獣たちを従え、草原を疾駆する青鹿毛の軍馬。
その馬上にて、細身の少女が鮮やかな水色の装束を靡かせる。
エナで形成されたコンパウンドボウを持ち、華奢な背中には武骨なアサルトライフルを背負う。
『ま、魔女だ!』
その姿を視認し、瞬く間に恐怖が伝播していく。
インクブスと傀儡政権の攻勢を撃退し続け、草原に数多の亡骸を積み上げたモンゴル高原の魔女。
彼女は守護者にして殺戮者だ。
『おい、降伏し──』
無慈悲な砲声が轟き、塹壕ごと兵士の命を吹き飛ばす。
旧式の主力戦車とは言え、その主砲が放つ榴弾の威力は絶大だ。
白い砲煙を背景に、魔女が矢を番えた。
その瞳に宿るは、烈火の如き敵意。
『くそっ』
『攻撃、来るぞ!』
馬上より放たれた漆黒の矢弾は、音の壁を貫通する。
その放物線が描く先には、最後方に展開している自走榴弾砲大隊。
しかし、彼らの末路を塹壕の兵士が知ることはない。
『魔女め…!』
横隊で進む主力戦車の砲口が火を噴き、呆気なく人命は砕け散った。
人類の反撃が開始された──それは犠牲を伴うものだ。
中国大陸のインクブスを絶滅させた捕食者は、獲物を求めて多方へと散った。
北はモンゴル高原を抜けてシベリアへ、南はヒマラヤ山脈を越えてガンジス川に至る。
悪辣な支配者を失い、残されたのは哀れな傀儡たち。
人類の反撃とは、彼らとの戦いを意味した。
◆
インクブスの襲撃事件から1週間が過ぎた。
市街地の至る所に戦闘の傷痕が残り、今も行方不明者の捜索が続いている。
瓦礫の下に埋もれているか、それとも異界に連れ去られたか。
今回に限っては前者だと私は見ている。
インクブスの目的は略奪ではない──殺戮だ。
老若男女に関係なく無差別な攻撃が行われ、夥しい数の死傷者が出ていた。
かつて首都圏を襲った惨禍とは毛色が違う。
「東さん、パセリを忘れていますよっ」
その理由に考えを巡らせた結果、留守になった手元でパートナーが小さく跳ねる。
このままだと夕食であるボロネーゼ風パスタが冷めてしまう。
「ああ」
香辛料を入れるパントリーからパセリの瓶を抜き取る。
フリーズドライの安物だが、香りと色が良い。
それを皿に盛ったパスタへ振りかけていく。
2皿目にも同じように──あれだけの惨劇があっても日常生活は続いている。
決して他人事じゃない。
父も芙花も運が悪ければ犠牲者の名簿に名を連ねていた。
それに安堵を覚えながら、言い知れぬ罪悪感が胸中を渦巻く。
「やはり、彩りは大事ですね……」
前脚を揺らし、感慨深そうに宣うハエトリグモ。
あくまで普段通りに振舞うパートナーに、私は救われている。
自責も自粛も、犠牲となった人々の慰めにはならない。
そんな自己満足よりも生産的な事柄に頭を使うべきだ。
「少し多かったか…?」
皿に盛ったパスタの分量を見て、静かに首を捻る。
1週間は経つが、私は3人分を作っていた時の勘を取り戻せずにいた。
「いえ! 明日から学校ですし、しっかり英気を養ってください」
襲撃事件の影響で、近隣の教育機関は臨時休業となっていた。
児童生徒や教員の犠牲者もいた中、よく再開を決断したものだと思う。
戦時下であっても社会は回り、日常を取り戻していく。
「…そうだな」
鬱屈とした溜息を噛み殺し、皿に盛ったパスタの小山を見下ろす。
そこまで私の胃は大きくないが、いけるか?
木製のトレイに2皿を載せ、リビングへ足を向ける。
≪未曾有の犠牲者を出しながら──損失は軽微であったことから──≫
リビングから聞こえる音声は、国防軍の防衛体制を追及するデモのニュースだった。
≪──何のための国防軍なんですか!≫
≪ウィッチがいれば不要な──ですよね≫
薄氷の上にあった日常を崩され、憤りを露にした人々。
喉元過ぎれば熱さを忘れる、随分と都合の良い記憶力だ。
海を隔てた先には、地獄が広がっていると忘れたか?
≪これに対し国防省は──≫
「手伝うよ、蓮花」
「私も手伝う!」
夕食を待つ父と芙花がリビングからキッチンを覗き込んでくる。
心配させてしまったらしい。
考え事も大概にすべきだ。
「お願いしてもいい?」
捻くれた思考を胸中に押し込め、父へトレイを差し出す。
大丈夫、自然に笑えているはずだ。
「もちろん」
それを受け取った父は穏やかな笑みを浮かべる。
戦傷を負ったと聞いて心配したが、日常生活に支障は無いらしい。
「姉ちゃん、私は?」
「これを並べてくれる?」
上目遣いで見上げ、ぎゅっとエプロンを握ってくる芙花には、3本のフォークを手渡す。
大事な仕事だ。
「分かった!」
ぱっと目を輝かせる姿が微笑ましい。
その笑顔が無理をしていないか、よく注意して見守る。
芙花はPTSDを発症しても不思議ではない場所にいたのだ。
最後の1皿を取って、リビングへ向かう小さな背中を追う。
リビングからは不快な雑音と化したニュースが──不意に途絶えた。
テレビの画面が暗転し、静寂が戻ってくる。
ダイニングテーブルに2皿を並べ終えた父が、画面へリモコンを向けていた。
「…いいの?」
「蓮花が作ってくれた料理を美味しく食べたいからね」
振り返った父はソファにリモコンを置き、困ったように笑う。
微かな苛立ちを覚える。
命を賭して戦った防人が、なぜ糾弾されなければならない?
諸悪の根源を間違えるなよ。
「父ちゃん、あの人たちは何をしてたの?」
ニュースの内容を理解していない芙花の素朴な疑問。
父に言わせたくなかったが、大丈夫だと視線で制される。
「
父は最大限の好意的な解釈を行い、優しい言葉で並べ替えた。
己の無力を棚に上げた無責任な言葉の数々を。
「……がんばってるのに」
それを聞いた芙花は不服そうな表情を浮かべ、テレビへ視線を向けた。
芙花は、戦場に立った父を見ている。
今まで知らなかった防人の側面を知った今、思うところがあるのだろう。
「ありがとう、芙花。そう言ってくれるだけで十分だよ」
いつもと変わらぬ穏やかで、真摯な声だった。
そこに無粋な言葉を挟む余地などなく、私たちは口を閉じる。
父は誰かの評価を求めて、防人になったわけじゃない。
力を持たない
「さぁ、冷める前に食べよう!」
力強く背中を押され、私たちは席に着く。
貴重な家族団欒の時間を、苦々しいものにしたくない。
釈然としない表情の芙花はボロネーゼ風パスタを前に、一転して瞳を輝かせる。
それを見られただけでも作った甲斐があるように思えた。
「…いただきます」
3人揃って手を合わせ、フォークを取る。
鋭いフォークの切先でパスタを崩し、ソースに絡めていく。
2つの大陸、そして異界のインクブスも同様に切り崩し、駆逐できている。
計略を疑うほどに順調だった。
惨劇こそあったが、大局は好転しつつある──そう、信じている。
本章はヒロイン(虫)の要素が少ない……(´・ω・`)