校舎3階の窓から見える世界は灰色だった。
降りしきる雨が全ての色を吸い取ってしまったような錯覚。
放課後となって校舎内の喧騒は小さくなり、廊下には雨音だけが響いている。
この独特の空気感が私は嫌いではない。
「打ちひしがれていましたね」
「ああ」
ただ、今は憂鬱な気分だった。
窓に映り込んだパートナーが、何か言いたげに前脚を彷徨わせている。
小さく溜息を漏らし、次の言葉を視線で促す。
「もう少し手心を加えても──」
「それは彼に対して不誠実だ」
つい先程、私はクラスメイトの男子から告白を受け、これを断った。
去っていく丸まった背中を見て、思うところがないわけではない。
しかし、言葉を尽くす彼の誠実な想いを、憐みで蔑ろにしたくはなかった。
「それはそうですけど……あなたのことを知らない、は酷かと」
「体調不良の時、保健室へ連れて行った以外に接点が──」
「それ以降も何かとお話してたじゃないですか!」
一言二言、他愛ない会話だったと記憶している。
しかし、私には世間話でも彼にとっては違った、そういう話なのだろう。
父や芙花から向けられる親愛は理解できても他者からの好意には疎い。
「何に惹かれたんだろうな」
窓に映る少女は仏頂面で、長い黒髪以外に特筆すべき個性がない。
容姿が全てではないと分かっている。
しかし、彼らも私の正体を知れば、幻滅するどころか忌避するだろう。
「その実直な性格ではないでしょうか」
閑散とした廊下に聞き覚えのある第三者の声が響き、しばし硬直する。
「…見てたのか?」
「消沈した新谷さんとすれ違っただけです」
ほぼ答え合わせは終わってるようなものだ。
私は見られて困らないが、彼──新谷くん──は違うだろう。
少しばかり抗議の意を込め、廊下に佇む女子生徒を見遣る。
「…すみません。2人が3階へ上がっていくのが見えたもので」
「心配するようなことはない」
肩上にかかる長さの黒髪で、学年章の付ける位置やスカート丈が全て校則通り。
模範生の図書委員、白石胡桃だ。
照明の点いていない廊下で、その表情に差す影は深く見えた。
「先日の事件以来、強引に交際を迫る生徒が増えたと聞きます」
「…意味が分からない」
何の因果関係がある?
先日の襲撃事件が多くの人々に傷痕を残したことは確かだ。
しかし、それが色恋沙汰に影響を及ぼすとは思えない。
「おそらくですが……ある日、前触れもなく隣人が消える恐怖を思い出したから、ではないかと」
ゆっくりと歩み寄ってきた白石が、私の疑問に答える。
教室の空いた席、机に置かれた花瓶──日常の中に混じる非日常。
この世界は呆気なく命を落とす悪辣さに満ちている。
どれだけインクブスの屍を築こうと連中の脅威は健在だ。
薄氷の上にある日常が視覚化され、自棄になる者が現れたというところか。
「今更だ」
「私もそう思います」
インクブスが出現した5年前から何も変わっていない。
本当に今更の話だ──彼彼女らが悪意と無縁であることは喜ばしいことだろう?
戦時下の日常という歪みが悲鳴を上げているのかもしれない。
苛立ちよりも虚しさを覚え、無意識に溜息が漏れた。
「…静華さんと律さんが教室で待っていましたよ」
「分かった」
わずかに声色を和らげた白石へ頷きを返す。
2人とは、今日一緒に帰ると約束していたのだ。
約束した以上、違えるわけにはいかない。
「恋などに現を抜かすべきではないと思いますか?」
意外な言葉を背中から投げかけられ、階段へ向かう足を止める。
足音が途絶え、雨音が廊下に満ちていく。
これまで聞かれたことのない問い──意図的に外した主語はウィッチだろうか。
極論、インクブスを駆逐するだけなら不要な感情だ。
余計な感情の起伏が増え、致命的な弱点となるかもしれない。
だが、それでも──
「思わない」
ウィッチは兵器じゃない。
様々な経験を経て成長していく子どもだ。
だから、恋慕とて切り捨てるべき感情ではない。
理想論だとしても、彼女たちが人並みの幸せを得る機会はあっていいはずだ。
「意外ですね」
ついさっき、告白を断っておいて──そもそも普段の私を見れば、そう思うのも無理はないか。
「東さんは好きな方がいるのですか?」
「いない」
東蓮花という少女になって16年、心身ともに女性と言っていいだろう。
男性が同性という認識は喪失しているが、未だに付き合ったことはない。
クラスメイトの男子を見ていると、微笑ましいという印象が先に来てしまうのだ。
「だからと言って否定する気はない。今しかできない経験もある」
「今しかできない経験、ですか」
「恋愛に限らず、立場も視点も固まってない今だからこそ貴重なものは多い……と思う」
そう言って横目で背後を窺えば、無表情とも違う神妙な顔をした白石が見えた。
願わくば全てのウィッチから機会が奪われないことを祈る。
私の場合は──人並みの幸せを手にすることが許されると思っているのか?
本来、この場にいることさえ許されない。
この泡沫の夢を見ているだけで過分というものだ。
「以前から思っていましたが、東さんは達観していますね」
達観とは、全体の情勢を広く見渡すこと、または遠い将来の情勢まで見通すことを言う。
そんな立派なものかよ。
「…買い被りだ」
私の人生はウィッチ一筋で終わるわけではない。
そんな甘ったれた見通しの結果が、無為な犠牲を生み出した。
傲慢だと理解していても許せないのだ。
一瞬でも喪失の痛みを忘れていた私自身が。
「過大評価ではないと私は思っています」
そんな心中を知る由もない白石は、眩しいものを見るように目を細める。
一昨日のプリマヴェルデと同じ──これは、おそらく羨望の眼差しなのだ。
最近、自他評価の一致しないことが増えた。
恐怖と嫌悪の視線に慣れた身で、彼女たちの眼差しは異質に感じる。
「あのナンバー1とも対等に渡り合っています。私たちは……
そこまで言葉を紡ぎ、口を閉ざす白石の表情に影が差す。
苦手や嫌悪といった単純なものには見えない──より複雑に入り組んだ感情の発露。
あの夜の邂逅を見る限りナンバーズとラーズグリーズの関係は険悪だった。
しかし、横柄な立ち振る舞いを嫌って、という話ではなさそうだ。
「…2人を待たせていましたね」
一瞬だけ私の姿を映した目を閉じ、小さく吐息を漏らす。
再び目を開いた時、白石は人形めいた無表情に戻っていた。
「行きましょう」
当事者でもない私が踏み込むところではない。
これは彼女たちの問題だ。
だから、私は頷きだけを返し、階段へ歩みを進める。
「東さん、教室へ戻る前に一つ確認を」
「どうした?」
不意に階段の踊り場で振り返った白石が真率な声で問うてきた。
「一昨日の件ですが、本当に1人で解剖を行われるのですか?」
一昨日の件とは、鹵獲した
現在、プリマヴェルデの解析を参考に、より詳細な情報を得るため様々な実験を行っていた。
ただ身体を破壊すればいいインクブスとは異なり、あれは未知の兵器だ。
運動能力の限界やエナの探知手段、精度などは知っておきたい。
「そのつもりだ」
今夜行う制御権の奪取、そして解剖には私も立ち会う予定だった。
だが、ナンバーズの同行は断っている。
それが白石は、いや彼女たちは不満らしかった。
「1人では不測の事態に──」
「巻き込む危険性がある以上、私だけの方が対処しやすい」
心配の色を滲ませる白石の言葉を遮り、淡々と
直接作業を行うのはファミリアで、同行者がいようと危険はない。
だが、私は彼女たちの同行を許す気はなかった。
「…無理はしないでください」
「ああ」
渋々引き下がる白石を見て、微かに安堵を覚える。
それでいい。
必要に駆られたから、
そんな悍ましい行為を行うのは、私だけで十分だ。
◆
下校する生徒たちの後ろ姿は傘で隠れ、その上から雨のベールに覆われる。
雨音が会話を包み隠し、彼彼女らが何に一喜一憂しているか、ここからでは分からない。
「雨が降る前に飛んでる虫って何なんだろ?」
正門を出て開口一番、政木は何のことはない疑問を口にした。
「あれはユスリカやアカイエカ」
雨音に負けないよう少しばかり声量を上げて答える。
細い喉が奏でる声は、どうしても甘ったるい響きになる。
「…蚊柱ということですか?」
ユスリカやヌカカ、ガガンボなど
しかし、そういう細かな話は脇に置く。
「そう」
わずかに傘を上げ、政木の隣を歩く金城へ頷きを返す。
私の身長だと差した傘で金城の顔が隠れて見えないのだ。
その拍子に跳ねた雨粒が制服を濡らし、冷たさが肌に沁みる。
「雨で生じた水溜まりへ産卵するために降雨の前日に繁殖活動を行ってる」
双翅目長角群の感覚器官は気温や湿度を検知し、降雨の兆候を捉える。
そして、雄が蚊柱を形成し、そこへ飛来した少数の雌が交尾を行う。
あれは強い子孫を残すための生存戦略だ。
「だから、雨が降る前は蚊柱が立つ」
「蚊柱立てば雨という諺にもなっていますね!」
頭に乗った水滴を払い除けず、うきうきで解説するハエトリグモもといパートナー。
「へぇ~」
私たちの解説を聞き、目を輝かせる政木は年齢よりも幼く見えた。
芙花を見ているような、そんな微笑ましい気分になる。
「田圃や湿地といった水溜まりが常にある場所では、雨に関係なく見られるそうですよ」
「詳しいのじゃな」
政木が手に下げる鞄に括り付けられた勾玉が、ちかりと瞬く。
「いや、その……物知りマスコットを目指してたもので……」
おずおずと頭に乗った水滴を下ろし、パートナーは私の左肩で小さくなる。
最近、交流の時間を増やしているようだが、それでも苦手意識が治る気配はない。
「そこまで恐縮することかや?」
「うちのタマがごめんね~」
「我は悪くなかろ…!?」
明滅する勾玉に対し、人差し指を頬に当て、視線を彷徨わせる政木。
「疑わしきは……罰せよ?」
「罰せずじゃ!」
裁判において、事実の存否が明確にならない時、被告人にとって有利に扱わなければならないとする法諺だ。
少なくとも下校中に聞くような諺ではない。
「疑わしきは被告人の利益に、とも言います」
金城の首から下がる十字架が補足を付け加えた。
オールドウィッチから遣わされたパートナーたちの出自は不明な点が多いが、これだけは言える。
一般的な社会人よりも教養がある。
そんな益体のない思考を回していると、傘越しに視線を感じ──薄茶の瞳と目が合う。
憂の表情を浮かべる大和撫子とは、雨の中でも絵になるものだ。
「どうした?」
聞かれることの予想は付いているが、あえて金城に声を掛ける。
「本当に同行する必要はありませんか?」
金城の放った言葉は、傘を叩く雨音に負けず耳に届いた。
まるで質量を持ったような、重々しい空気に包まれる。
やはり、彼女たちの心配事は
「必要な時は頼る。今は時機じゃない」
「無理してない?」
政木が前に立ち、正面から目を見据えてくる。
無理をしているのは、強張った表情を浮かべる政木たちだ。
実際に爆弾の解析を行ったプリマヴェルデ、もとい御剣菖は大きく動揺していた。
「ああ」
私も衝撃は受けたが、憎悪の次に思い浮かんだのは対応策だった。
やはり、人間性に欠陥があるのだろう。
だが、今は都合が良い。
「無理をして有効な対応策が──」
艶消しを施された濃緑色の車両を視界に捉える。
そして、進行方向に広がる水溜まりも。
「下がれ」
「え?」
咄嗟に傘を盾にし、政木と金城を背にする。
刹那、視界が白く染まる──夏場とは言え、雨水は冷たい。
大して傘が役に立たなかった。
頬に跳ねた泥を手で拭い、遠ざかっていく
雨で霞んでいたが、幌に覆われた荷台には武装した隊員の姿が見えた。
「わわっ…東さん、大丈夫!?」
背後へ振り返れば、政木が鞄からタオルを取り出すところだった。
私が上手く壁になったようで、飛沫を浴びた様子はない。
「問題ない」
「あれは避けようがありませんね……お互いに」
車両も水溜まりを回避しようとしていたが、無理な時はある。
それよりも車道側を歩いていたのが私で正解だった。
習慣づいた癖も役に立つものだ。
「問題ない、ではないでしょう」
呆れ顔の金城に頬を拭った手を掴まれ、近くの喫茶店へ引き込まれた。
庇の下に入ると影が深まり、互いの表情が見辛くなる。
「風邪を引きますよ……それと、ありがとうございます」
小声で感謝を口にして、金城はスカートのポケットからハンカチを取り出す。
「東さんのおかげで濡れずに済んだね──あ、動かないで」
「いや、大丈夫…むぐ」
並び立った2人を制止する間もなく、金城に頬を拭われ、政木に髪を拭かれる。
通行人からの視線が気になって仕方がないが、どうしようもない。
そのまま大人しくしていると、視界の端で鈍い輝きが瞬く。
「…その腕時計」
政木が身に着けている男性用の腕時計だ。
その質素なデザインには見覚えがあった。
「これ?」
手を止めた政木は慈しむように、そっとガラスを撫でる。
ステンレス製のケースには微細な傷が走り、僅かな光を反射していた。
「変、かな」
「いや…父が同じ物を持っていた」
父が友人から譲り受けた手巻き式の軍用時計。
ウィッチもインクブスも存在しない日常で見た平和の断片だ。
「大事に使ってるんだな」
随所に擦り傷はあるが、よく手入れされているように見える。
父が使っていた物は修理に出し、それきり戻ってこなかった。
インクブスの出現に伴い、メーカーも修理どころではなくなったのだろう。
それでも共有できる話題を見出し、私は──
「お兄ちゃんの……忘れ物だから」
心の底から後悔した。
この最悪の時世に、兄の忘れ物を身に着けている妹は弱々しく微笑んだ。
まるで痛みを誤魔化すように。
彼女の兄は──その腕時計を
沈痛な面持ちで私を見つめる金城に、目線で肯定を示す。
これ以上の言及は誰も望んでいない。
「…そうか」
「うん」
そこから一切の会話はなく、雨音だけが響いていた。
ありふれた悲劇だ。
だからこそ、この世界を呪いたくなる。
兄の腕時計:飾ると部屋の雰囲気を良くする。