夥しい量の血が飛び散ったコンクリートの床面から視線を上げる。
青い月光の射し込む廃工場、何度も夢で見てきた場所だ。
ただ、
血と肉と臓物と──それらが誰のものか、私は知らない。
履き慣れたロングブーツが
ぶよぶよした紐状の、本来は踏みつけてはならないもの。
「…赤子か」
血に塗れた臍の緒がコンクリートの床面を這って、月光の届かぬ闇まで伸びていた。
母体へ振り向くことなく、私は歩みを進める。
闇で蠢く存在は、尊ぶべき新たな生命に違いない。
「違う」
この世に存在してはならない冒涜的な、駆逐すべき化物であるという直感。
右手には扱い慣れたククリナイフが握られていた。
この飾り気のない凶器で、何度も頭蓋を叩き割ってきた。
「やめろ」
魑魅魍魎の悍ましい声が闇より響く。
黙っておけばいいものを、わざわざ私に醜悪な存在を教えるか。
誰の胎から出てきたか知らないが、この世に1秒でも存在できると思うなよ。
「くるなっ」
軽く素振りをして、重心を確かめる。
月光を反射して刃が瞬き、不気味な風切り音が耳を撫でた。
一般的なウィッチが──否、誰もが忌避し、目を瞑りたくなる所業。
それを私は旧首都の闇で何度も行ってきた。
血と汚物に塗れても、怪物を殺す。
闇の中で小刻みに震える影を見下ろし、ククリナイフを振り上げる。
「いやだ」
罪のない人々の命乞いを嘲笑い、蹂躙してきた怪物が口を開くな。
迸る憎悪を刃に乗せ、怪物の頭へ振り下ろす。
「ころさないで」
声色が、変わった。
脆弱な頭蓋を砕く手応えを確かに感じる。
血飛沫が散り、脳漿が床面を汚す。
致命的なものを砕いた気がした──本当にインクブスだったのか?
いや、これはインクブスだ。
血と脳漿のこびりついたククリナイフは敵だけを屠ってきた。
なら、なぜ右手の震えが止まらない?
「なぜだ?」
背後から声が聞こえた。
聞き覚えのある少女の──私の声だ。
ゆっくりと振り返り、月下に佇む人影を捉える。
純銀を思わせる長髪と白磁の装束が青を帯び、瞳だけが紅く光っていた。
「なぜ殺した?」
シルバーロータスは問う。
深い絶望と憎悪を浮かべる瞳には、血塗れの私が映っている。
私の姿をしているくせに、殺す理由を問うのか?
「インクブスを殺した」
「
なるほど、その通りだ。
震える右腕を左手で押さえると、生温い血の感触がした。
眼前の
「なぜ、罪のない人を殺した?」
顔色一つ変えず、それは冷酷に言い放った。
右腕の袖を握って、震えを止めんと力を込める。
甘んじて受け入れろ──何度も言い聞かせてきた言葉だろうが。
私を鋭く睨むウィッチの背後に人影が現れる。
ほとんど身長は変わらない。
「殺戮者め」
その者は私を指差し、生気のない声で指弾する。
月光のカーテンを潜った人影は、淀んだ色彩の装束を纏うウィッチだった。
「お前はウィッチではない」
「ただの人殺しだ」
「化け物だ」
廃工場内に次々と人影が現れ、私を指差して責め立てる。
人種や性別、年齢、服装の全てに規則性がない集団。
唯一の共通点は、顔が無い──当然だ。
私は、殺した人々の
ファミリアは障害となる人々を問答無用で引き裂き、叩き潰した。
苗床となった女性、人質となった子ども、洗脳されたウィッチ、傀儡軍閥の兵士──
「人殺し」
「許さない」
「許されると思うな」
気の遠くなる数の人命を奪ったのは間違いなかった。
だが、ファミリアは排除した障害の個々を判別しない。
誰を殺したか、私にも分からない──だから、顔が無い。
罪過はあっても償うべき相手が分からない。
ゆえに私が醜い自己満足を満たすため、この亡霊たちを生み出した。
「罪を償え」
誰に?
私は誰に許しを乞い、償いをすればいい?
責め立て、罰を求めるのは、私だけだ。
「お前に平穏はない」
「お前に居場所はない」
強く口を引き結び、胸を焼くような吐き気を堪える。
あの優しく、心地の良い日々に浸ることが許されないなど分かっている。
だが、誰も私の罪過を認めない。
私を否定しても、それ以上の称賛と羨望で絞め殺されそうになる。
「なぜ生きている?」
まだインクブスを駆逐していない。
無力で愚鈍な私を生かしている理由は、それだけだ。
これ以上、無為な犠牲を増やさないために、自称女神の悪意は絶滅させなければならない。
不可侵であるべき少女たちに助力を求めてでも。
「あれだけ殺しておいて」
「化け物め」
さも被害者の声を代弁するように亡霊たちが口々に宣う。
そこに
迷彩柄の戦闘服を纏った中肉中背の、若い男性だ。
「傲慢だな」
反吐が出る。
私の下らない自己満足に、友人の兄を勝手に加えるな。
自他の線引きも出来ないのか──
もういい、望み通りにしてやろう。
これ以上、醜悪な自己満足が増殖する前に
ククリナイフを握り直し、一歩踏み出す──
「死者が生者の足を掴んではいけませんよ」
場違いに明るいパートナーの声が響き渡り、眼前を漆黒の巨影が覆う。
荒々しい風が頬を撫で、血の絡んだ銀髪を弄ぶ。
「足を止めてはいけません、東さん」
8本の脚をもつ節足動物は、私の視界から月光と亡霊を隠した。
そして、背後の闇よりコンクリートを引っ掻く足音が迫る。
視界の端に映る鉤爪のような大顎、長い3対の脚、薄茶色の外骨格。
慈悲なきキリングマシン──グンタイアリの群れだ。
彼女たちは戦列を組み、眼前の敵に向かって突撃する。
「私たちはインクブスを喰らい、人々を救わなければならない」
悲鳴は聞こえず、ただ人体を破壊する音だけが響く。
顔の無い亡霊たちは物言わぬ肉塊となってコンクリートの床面にぶちまけられる。
「そうでしょう?」
凄惨な虐殺が繰り広げられる中、パートナーの声色に変化はない。
眼前の光景に一切の興味を示さず、ただ眺めているだけ。
「……誰だ」
いつも私の夢に現れるパートナーとは思えない。
いや、思いたくなかった。
「誰だ、なんて酷いじゃないですか」
ぐにゃりと視界が歪み、一寸先も見えない闇へ放り出された。
周囲からは外骨格の擦れる音、そして無数の足音が響く。
かさかさ、こそこそ──居心地の良さを覚え、瞼が重くなる。
それでも絶対に目は閉じない。
闇の奥底に潜む者を確かめるまでは意識を保て。
「レギですよ、東さん」
声の主は間違いなくパートナーだ。
しかし、この渦巻く禍々しいエナは、まるで──
◆
「最近、また睡眠時間が短くなっていませんか?」
左肩から問い掛けるパートナーは、小さく頭を傾げた。
当然だが、拳大のハエトリグモからは一片の禍々しさも感じない。
あれは夢だ。
「気のせいだ」
そう言って腕を組み、晴れ渡った夜空を見上げた。
陰鬱とした雨を降らす雲は去り、星の絨毯が一面に広がっている。
人工の光が絶えた旧首都から見える星の数は、両の手では足りない。
「そうですか…?」
「ああ」
無惨に突き破られた空気膜構造の屋根から人工芝のフィールドへ視線を移す。
数多の野球選手たちが駆けた芝地は、スマート爆弾で掘り返されていた。
ここはインクブスの巣だった──今は私のファミリアが支配する領域だ。
フィールドを巨大な節足動物たちが闊歩し、粛々と作業を進めている。
スタンドの座席は埃を被り、照明の残骸が夜風で虚しく揺れた。
この球場に活気が戻る日は来るのだろうか?
「──相変わらず不景気そうな面ねぇ」
無人の球場に響き渡る少女の声。
視線を走らせれば、スタンドのゲートから現れる人影を捉えた。
「ラーズグリーズ」
星明かりに照らされた空色の戦装束が靡き、ハルバードの石突がコンクリートを打つ。
自称女神を彷彿とさせる金髪碧眼のウィッチ──自他共に認める最強のウィッチ。
ナンバーズと行動していない今だからこそ接触してきたか。
フィールドを見下ろす私の隣まで歩いてきた彼女は、微かに足取りが重い。
「…疲れているようだな」
目を丸くするラーズグリーズはニヒルな笑みではなく、困ったように笑う。
「そう見える?」
「ああ」
スタンドに姿を現した時から普段の切れがなかった。
いつも横柄に振る舞い、弱味を見せないラーズグリーズにしては珍しい。
まだ旧首都がインクブスの巣窟だった頃、一度見たきりだ。
「まぁ……色々あるのよ」
ラーズグリーズは気怠げな溜息を漏らし、比較的汚れていない座席に腰かける。
手を離れたハルバードは倒れず、直立したままだ。
「そうか」
「どっかの誰かさんがリードを握ってくれればね~」
口を尖らせる金髪碧眼の戦女神は、抗議の眼差しを送ってくる。
自称女神と瓜二つの姿だが、その立ち振る舞いは似ても似つかない。
いや、そんなことよりもリード?
「犬のか?」
聞き返す私から視線を外し、ラーズグリーズは不機嫌そうに鼻を鳴らす。
いつも以上に気難しいな。
リードが何を揶揄しているか、さっぱり分からんぞ。
「それで──
獲物を見定めるように細められた碧眼に映るもの。
それは眼下のフィールドに穿たれた爆撃の痕、その中心にあった。
訪ねてきた理由──糸で厳重に拘束されたインクブスの兵器だ。
ゴブリンと同程度の身体能力──膂力に関してはオークと同等か──に加え、自爆能力を備えた歩く爆弾。
人間を素体とする最悪の生体兵器だ。
「制御権を奪えないか試す」
鹵獲されても自爆せず、外部からの刺激に反応するだけ。
これが感覚器官をエナの糸で遮蔽された結果なのか、単純に指示を待っている状態なのか、判断は付かない。
だが、インクブスが遠隔操作にエナを用いているのは疑いようがなかった。
であれば、干渉は可能だ。
「とんでもないこと思い付くわね」
奪還も自爆もせず、放置したことを後悔させてやらねばなるまい。
フィールドから少し視線を上げれば、美しい青緑の外骨格が星明かりを吸い込んで瞬く。
外野スタンドで出番を待つファミリアが私の視線に気が付き、触角を揺らす。
「そうか」
「そうよ」
座席に腰かけたラーズグリーズは頬杖をつきながら呆れ顔で言う。
齢は離れていないはずだが、彼女だけは未成年に思えない。
「作業中にどかんってなるかもよ?」
防爆用の土堤を作り、実験場を構築中のファミリアたちを見下ろす。
「最大限の注意は払っているつもりだ」
自爆の危険性がある以上、作業を行うファミリアは頑強な個体が選ばれる。
中でもハキリアリは今回の作業に適任だ。
原種は炭酸カルシウムを多量に含んだ鎧を外骨格の上に纏うことで、高い防御力を有しているという。
これを模倣したファミリアはエナを板状結晶に組み上げた鎧を有する。
「アリにテントウムシ、ゴキブリ……共通点は?」
「抗菌性だ」
頭部に生えたキノコから菌類の存在を疑い、ここには抗菌性があると
これまで遭遇したインクブスが微生物を認識している様子はなかったが、想定しない選択肢はなかった。
「あれが菌類であった場合を想定している」
土木作業を行っているハキリアリは共生関係の菌類に該当するものが存在しないため、原種が備える有害菌へ耐性があるかは未知数。
キノコの摂食を行う予定のキイロテントウムシも菌類の摂食は今回が初めて。
自爆に対する耐久実験を行うゴキブリは原種と同様に高い抗菌性を備えている、はずだ。
「インクブス菌?」
「あるかは知らん。鹵獲した際、私もファミリアも異常はなかったが、警戒すべきだろう」
この球場を選んだのは、菌類が飛散する危険性を最小限に抑えるためだ。
実験時は屋外へ退避してから観測を行う。
「霧と思ってたけど、菌という線もあるわね……BC兵器の判断も間違いではない、か」
独り言ちるラーズグリーズの言葉に気になる単語があった。
「霧」
「自爆した際に霧状のエナを放出するのよ、あれ」
その口振りから国防軍は複数体と交戦し、ある程度の情報を得ているらしい。
「触れた人間は例外なく脳死状態に陥る……まぁ、私は精神に干渉するマジックと見てるけど」
ラーズグリーズは口元で指を組み、淡々と語る。
ただの爆弾ではないと思っていたが、想像以上に厄介な性質を有しているらしい。
不用意に解剖していれば、どんな惨事になっていたか。
「厄介だな」
「ええ」
防爆用の土堤だけでは不完全だ。
密閉すべきか、それとも霧の飛散範囲を確認すべきか。
ひとまずハキリアリに土木作業の停止をテレパシーで伝達する。
「シルバーロータス」
「どうした?」
「あれ、検体として譲ってもらえない?」
飲食店で注文を出すような気軽さで言ってくれるな。
より多角的な情報を得るなら、国防軍へ引き渡すのが正解だろう。
そうなれば、自爆する危険性が高い実験は中止か。
しかし、私が欲する情報の多くは、そこから得られるものばかりだ。
「実験で喪失しなければ……で構わないか?」
「勿論よ。話が通じるって素晴らしいわね」
穏やかな笑みを零すラーズグリーズは年相応に見えた。
ここまで感情を表に出すのは珍しい。
国防軍との仲介役を自称する彼女ならではの心労があるのだろう。
同情的な私の視線に気が付いた少女は、鋭く目を細めた。
「何よ」
戦女神の機嫌を損ねる前に、私も情報を聞き出すとしよう。
「1つ聞きたい」
私の問い掛けに対し、ラーズグリーズは視線だけで次の言葉を促してくる。
「あれはインクブスのエナを微量に放出する。ファミリアでも察知可能だ」
明確にインクブスと認識できないため、発見次第即応は難しい。
しかし、ファミリアは微量のエナがあれば存在を察知できる。
だからこそ、1つの疑問が生まれた。
「だが、鹵獲した個体は
眼下のフィールドに安置されている個体は前触れもなく出現し、ヒメグモの巣へ飛び込んだ。
移動してきた痕跡がなく、出現地点には殺害された人間の遺体があった。
そこから予想される事象は多くない。
「あれは人間に擬態できるのか」
まだ推定の域を出ないが、確信している。
先日の襲撃事件からインクブスの戦略は明確に変化した。
略奪から殺戮へ──効果的に死と恐怖を振り撒くため、連中は手段は選ばない。
碧眼を閉じたラーズグリーズは静かに吐息を漏らす。
「人間が変異する、が正確ね」
ラーズグリーズは、あえて変異と称した。
「そうか」
つまり、あれは
国防軍が市街地に展開していた時点で、ほぼ答え合わせは終わっていた。
最悪は更新されたが、まだ切れる手札はある。
「ラーズグリーズ」
「だめよ」
「まだ何も言ってない」
「言わなくても分かるわ」
金髪碧眼の戦女神は片目だけを開け、私の仏頂面を映す。
「あなたのファミリアが捕獲作戦なんて始めたら、さすがの国防軍も静観できないわ」
図星でしょ、と目で笑ってみせるラーズグリーズ。
「被害は最小限に抑えられる」
モンスターパニックさながらの光景になるのは間違いないが、もう状況は──
「得意分野で活躍してちょうだい。適材適所、でしょ?」
ナンバーズの少女たちへ送った言葉が、そっくりそのまま返ってきた。
多様性に富むファミリアにも不得手がある。
それは市街地で、一般人の目がある環境下での戦闘だ。
適材適所と言い難いからこそ、私は黙らざるを得ない。
「インクブスは舐め腐った態度を捨てて、ようやく
口を噤む私を見遣り、いつになく真面目な表情でラーズグリーズは告げる。
「ここまで連中を追い詰めただけでも大手柄よ」
大手柄だと?
また、
インクブスの駆逐は当然であって評価されることじゃない。
むしろ、私は膨大な人命を奪った殺戮者だ。
「…そんな立派なものか」
気付けば、心中に留めるべき言葉が無人のスタンドに響いていた。
それから遅れて痛いほどの沈黙が満ちる。
完全に無意識だった──軽率としか言いようがない。
謙遜も過ぎれば嫌味、本心であっても言葉を慎めと自省したばかりだろうが。
同情の言葉を引き出したいのか?
醜い。
「立派よ」
ラーズグリーズは断言した。
それが世の理とでも言うように。
「数字が証明してるもの」
駆逐したインクブスの数しか知らない私と違い、ラーズグリーズは多くを知っている。
国防軍を通し、救った人々や国々の情勢を把握しているのだろう。
「その結果……多くの人間を殺してもか」
当然、私が奪った人命も。
コラテラル・ダメージでは済まされない惨禍を知らないはずがない。
「シルバーロータス、それはもう…!」
「終わってない」
苦々しい声で語りかけてくるパートナーを睨み、次の言葉を堰き止める。
私の罪過は消えない。
どんな理由があろうと消えるはずがない。
「馬鹿ね」
組んだ足を所在なげに揺らす戦女神は鼻で笑い、冷淡な声で切り捨てる。
「インクブスのせいで死んだ、それだけの話よ」
極論だが、間違いとも言えない。
だが、ラーズグリーズが口にした
全ての罪過を連中に押し付けて、目を背けているだけ。
私が殺した人間はインクブスに殺されました──そんなはずがあるものか。
顔も名前も知らない人々を殺したのは、私だ。
それ以上でも、それ以下でもない。
「…そうだな」
だが、それを声高に訴えたところで意味はない。
平行線を辿ると分かっているなら、自己満足など捨て置け。
今は有用な情報を得ることに頭を回すべき──
「分かってないでしょ、あなた」
不意に立ち上がったラーズグリーズが傍らのハルバードを手に取る。
無人のスタンドに満ちる空気が変わった。
肌を刺すような──殺意とでも言うべき圧迫感。
視界の端で空色の戦装束が揺れ、鋭利な風切り音が耳元に届く。
「…前から言いたいことがあったのよね」
一切の感情を殺した少女の声。
喉元に触れる冷たい刃が、私の熱を少しずつ奪う。
「そんなに罰が欲しいのかって」
私を映す宝石のような青い瞳には、怒りの炎が宿っていた。