夕刻になっても足元のアスファルトは熱を放ち、吹き抜ける風は暑い。
それでも今年の夏は、まだ過ごしやすかった。
地球温暖化の原因が減ったからだと宣う者もいるが、真相は誰も知らない。
「やはり、落ち着きませんか?」
定位置の左肩から頭の上に移動したパートナーが、そわそわと動く。
今の私は険しい表情をしているのだろう。
私たちは健常な人間と敵を区別できない──どうやっても対応が後手に回る。
行き交う人々の中にフェアリーリングが潜んでいるかもしれない。
必要最低限の外出でも神経を尖らせる必要があった。
歩道の隅に寄り、電柱の陰でケータイのインカメラを起動させる。
「連中に動きはないか」
「はい」
画面を確認するように振舞い、パートナーと視線を合わせる。
いちいち私を見ている通行人もいないだろうが、注意するに越したことはない。
「テレパシーに類するエナの流動は確認できません」
私の黒髪に埋もれたハエトリグモがインカメラ越しに真っすぐ見返してきた。
インクブスは攻撃の時間と場所を自由に選定できるが、こちらの条件は逆だ。
どうしてもイニシアチブを握られてしまう。
「そうか」
連中に動きがない以上、私に出来ることはない。
夕飯の材料を入れたエコバッグを左肩に掛け、来た道を振り返る。
見慣れた道、家へ急ぐ人々、そして沈む夕陽──何の変哲もない日常だ。
誰もインクブスの脅威が身近にあるとは思っていない。
先日の襲撃によって停滞することはなく、恐怖も不安も呑み込んで社会は回っていく。
私だけが足元の影のように取り残されている。
「どうして外出の自粛なのでしょう?」
インカメラ越しに私を見つめるパートナーが疑問を呈する。
行政は外出自粛を求めているが、その語調は強くなかった。
インクブスの再襲撃に対する警戒だけで、フェアリーリングに関する情報は開示されていない。
「外出を禁止した方が被害を抑制できますし、信奉派を発見しやすいと思うのですが…」
それは私も同意見だ。
フェアリーリングは群衆を狙う際に最も効果を発揮する。
群衆が多ければ多いほど、フェアリーリングの隠密性と得られる戦果は高まるだろう。
しかし、外出禁止という対応は難しい。
「外出禁止が強いる負担は大きい。特に期間が定かでない場合な」
インクブスは今日明日に攻撃してくるとは限らない。
つまり、外出禁止の期間は未定だ。
これが長期となれば生活への影響は無視できないものとなる。
「しかし、あの襲撃があったばかりです」
目の前を通り過ぎる男子生徒たちの影が、私の影を上書きする。
3人の視線が手に持つ駄菓子から私へ向く──目が合った瞬間、慌てて逸らされる。
小走りで駆けていく彼らの後ろ姿は、ありふれた日常だ。
我が国は戦時下でありながら、泡沫の平穏を演出してきた。
「多少の不便は許容されませんか?」
「問題は、それだけじゃない」
いざ外出禁止が命じられれば、人々は粛々と従うだろう。
決してインクブスの脅威を忘れたわけではない。
ただ、これまでとは明確に異なる点が1つある。
「……隣人を疑わなければならない」
ラーズグリーズ曰く変異する人間はインクブスを信奉する
しかし、フェアリーリングは変異するまで一般人と見分けがつかない。
それを知った人々は、どんな反応を起こすか?
「外部との交流が限定される状況で」
外出禁止によって情報を制限され、人々の視野は狭まる。
恐怖と不安に駆られ、無関係な人間を信奉派に仕立て上げ、私刑を行うかもしれない。
それに対する報復が始まれば、収拾がつかなくなる。
「場合によっては自滅しかねん」
「それは……」
さすがに極論だが、間違いなく社会は混乱するだろう。
見えない敵は存在を認知された瞬間、社会を脅かす毒となる。
社会という複雑な構造から毒を排出するのは困難だ。
「厄介ですね」
「ああ」
パートナーの呟きに頷き、何も知らない男子生徒たちの背中を見送る。
その進行方向にあるマンホールの蓋が微かに上がり、ちらりとジグモが眼を覗かせた。
視線で隠れるよう指示──そっと音もなく蓋は閉じられる。
会話に夢中な男子生徒たちは全く気が付かない。
いや、足下に人間大のジグモがいるとは思わないか。
「被害の完全な抑制は不可能だ」
「だから、あえて伝えないと…?」
どれだけ対策を講じても、フェアリーリングの攻撃による被害は免れない。
ならば、多少の被害は許容して日常を続けさせる。
首魁たるインクブスを仕留めるまで──
「あくまで推測だがな」
所詮は素人の妄言に過ぎない。
私は政治家でもなければ、軍人でもないのだ。
「私たちの目的は変わらない」
「インクブスを駆逐するだけ、ですね」
「そうだ」
首魁を仕留めない限り、この状況は続く。
被害を抑えるために、初動で位置を逆探知して確実に息の根を止める。
パートナーと目的を再確認し、ケータイのインカメラを停止。
「あれ~東さん?」
私を呼ぶ声に視線を上げると、長い三つ編みが目に入る。
見慣れたチェック柄スカートが風に揺れ、微かに甘い香りが漂う。
「かくれんぼ~?」
どこか眠そうな、目尻の下がった瞳が私を映す。
クラスメイトにしてナンバーズの一角──政木律は小さく首を傾げた。
その手元には可愛らしい狐の刺繍が施された手提げバッグ。
既視感のある光景だった。
「…そんなところ」
当たらずといえども遠からず、と言ったところか。
鬼は私で、子がインクブスだ。
ケータイをスカートのポケットへ入れ、電柱の陰から抜け出す。
「根を詰めすぎちゃだめだよ~」
そう言って小さく笑う政木が自然と隣に並び、車道側を私が歩く。
下校時と全く同じ並びだ。
「善処する」
「善処じゃなくて約束してほしいなぁ」
のんびりとした口調は普段通りだ。
しかし、クラスメイトの横顔に微かな違和感を覚える。
「本当に、ね……」
普段の柔らかな雰囲気はなく、硬い笑顔には影が差していた。
夕陽の射す道から人通りが途絶える──アオマツムシの歌声だけが残される。
私が何を探しているか、政木は知っている。
そして、その方面で力になれないことも。
「頼りにしてる」
政木の瞳を真っすぐ見据え、私の意思を言葉にする。
正面戦闘においてナンバーズは他の追随を許さない。
首魁の位置さえ捕捉してしまえば、そこからは彼女たちの独壇場。
つまり、適材適所だ。
「ふむ……政木や、まだ心配かや?」
政木の手元、手提げバッグに付けた勾玉のストラップから声が響く。
「…ううん、大丈夫」
政木は首を小さく横に振り、長い三つ編みが揺れる。
複雑な感情を呑み込んで、ひどく弱々しい笑みを浮かべた。
「ごめんね」
似ている。
不安を誤魔化し、私を心配させまいと笑う芙花に。
不安か──当然だろう。
人間を素体とした歩く爆弾が日常に紛れ、無差別殺戮の機会を窺っている。
心穏やかでいられるはずがない。
「誰だって不安になる」
考え無しに開いた口からは、ひどく陳腐な言葉しか出なかった。
「東さんも?」
目を丸くする政木に、頷きで応じる。
インクブスが滅びる日まで、安心できる日は訪れない。
それを表へ出さないよう努めているだけで、私は疑い続けている。
これまでの判断は正しかったか、これからの判断は誤っていないか、と。
「どれだけ手札を増やして、策を講じても」
考えられる不確定要素を潰しても──
「結果は最後まで分からなかった」
そこまで口走って、ふと気付く。
不安を抱いている相手に何を吐露している?
政木は同調してほしいわけじゃない。
しかし、吐いた言葉は飲み込めず、私は茜色の空を仰いだ。
「……そうだよね」
政木も空を見上げ、独り言のように呟く。
その呟きは、アオマツムシの涼しげな鳴き声と──けたたましい羽音に遮られた。
頭上を通り過ぎていく迷彩柄の機影は、国防軍の輸送ヘリコプターだ。
もう
それを見送った私たちは示し合わせたように視線を交える。
「ちょっと気が軽くなった、かな」
そう言って政木は微笑んだ。
夕陽を浴びる穏やかな笑みに影はなかった。
「…私は何もしてない」
それでも一助になったのなら幸いか。
私たちの脇をクロスバイクが風と共に通り過ぎていく。
颯爽と走るサラリーマンは、いつも政木と別れる交差点を右折する。
「政木さんも買い出し?」
当たり障りのない話題を振ることで日常へ意識を戻す。
別れ際まで非日常の影を追わなくてもいいだろう──
「そろそろ律って呼んでほしいなぁ」
突如、投げかけられた要望に思考が停止する。
アオマツムシの涼しげな鳴き声が、よく聞こえた。
聞き間違いではない。
「試しに言ってみてよ~」
「む……」
冗談めかしに言ってるが、じっと私を見つめる瞳は期待で輝いていた。
何を期待しているんだ。
ええい、儘よ。
「律、さん……」
私たちの間柄は友人といっていいかもしれないが、馴れ馴れしくないか?
「じゃあ、私も蓮ちゃんって呼ぶね~」
しかし、ふにゃと笑う政木を見ると何も言えなくなる。
もう好きにしてくれ。
ずり落ちかけたエコバッグを辛うじて支え、ぐっと溜息を飲み込む。
「蓮ちゃんも買い出し、だよね」
左肩に掛けたエコバッグを見遣り、政木は小さく首を傾げた。
「ちょっと前より量が多い?」
よく覚えてるな。
今日は帰ってきた父の分に加えて、普段より多めに買い込んでいる。
フェアリーリングとの偶発的遭遇は可能な限り回避すべきだ。
なるべく外出の回数を減らしておきたい。
「それは……」
交差点に入る直前で足を止め、周囲の通行人を見遣る。
鈍感な私でも分かる──視線を感じた。
獣欲を剥き出しにしたインクブスの粘つくような視線とは違う。
これは敵意だ。
「蓮ちゃん?」
まだ気付いてない政木を背に隠し、視線の主を睨む。
「なぁに見てんだぁ、おい!」
対面に設置された一時停止の標識、その陰に立つ男が怒鳴り声を上げる。
「人を犯罪者みたいに見やがって!」
野太い怒鳴り声に通行人たちも何事かと振り向く。
父よりも年上に見えるが、浮浪者のような格好で実年齢は分からない。
敵視される理由も分からない。
ただ、嫌な予感がする。
「どうせお前らも魔女なんだろ!?」
「えぇ、何言ってるの…?」
支離滅裂な言動に困惑する政木の手を握り、ゆっくりと後退る。
ウィッチに変身していない私たちは、ただの女子生徒に過ぎない。
視界の端で、ケータイを取り出す大学生の姿を捉える。
通報してくれるらしい。
「人の皮を被ったセイラムの、ま、魔女めっ」
ぎらぎらと輝く目は、私たちを照準していた。
見覚えのある目だ。
臍の緒が繋がるゴブリンを我が子と言った被害者の──狂人の目。
信奉派という単語が脳裏を過り、口を強く引き結ぶ。
背筋を流れる汗は、夏の暑さが原因じゃない。
「お、お前たちこそ排除されぅべきっ!」
「政木、走るぞ」
「う、うん」
ぬるりと標識の陰から出てきた男が、交差点に影を伸ばしてくる。
千鳥足とも違う不自然な歩行、夕陽を浴びても小さくならない瞳孔、そして一部が黒化した肌。
正常な人間じゃない。
「排除はい除排じょはいじょぉぉぉ」
嫌な予感は的中した。
野太い声が咆哮へと変わり、前触れもなく途絶える。
次の瞬間──男の身体が膨れ上がる。
全身の筋肉が泡立つように膨張し、黒化した肌が衣服を引き裂く。
そして、人体の壊れる音がした。
「見るな」
「え?」
肩に掛けたエコバッグを落とし、政木を抱き寄せて視線を遮る。
身長差のない華奢な少女は、死地を駆けてきたウィッチだ。
それを理解していながら、無意識のうちに身体が動いていた。
「ひぃっ!?」
「うわぁぁぁ!」
「ば、化け物!」
夕陽で赤く染まる交差点に、黒い人型が姿を現した。
周囲には悲鳴を上げて逃げ惑う一般人しか見えない。
市内全域を補える人員が国防軍にいるものかよ。
急行まで何分だ──それまでに何人が死ぬ?
許容できる犠牲などあるものか。
ここでフェアリーリングは無力化する。
「やるぞ」
「はい!」
打てば響くパートナーの反応。
衆人環視で変身が出来ない以上、即応可能なファミリアで頭を潰す。
「うわぁ!」
「マンホールがっ!?」
跳ね上がった金属製の蓋がアスファルトを叩く。
マンホールから飛び出した影が路上を駆け、硬質な足音を刻む。
フェアリーリングは四肢に膂力を蓄え、跳躍の姿勢を取る。
「潰せ」
そこへ薄茶色の影が躍りかかり、漆黒の巨躯をアスファルトへ引き倒した。
「受容体を破壊しますっ」
滅多に全身を見せないジグモが夕陽を浴び、長大な鋏角を振り下ろす。
一撃で頭部を削ぎ、キノコの破片が路面に四散する。
全身を痙攣させるフェアリーリングは──自爆できない。
キノコを模した受容体は、中枢であり信管だ。
そこさえ潰せば──
「お、お母さん!」
交差点を反響する子どもの悲鳴。
逃げ遅れた親子連れが、ジグモの前脚近くで縮こまっていた。
辛うじて動く右腕を伸ばし、握り潰さんとするフェアリーリング。
「いかん!」
「危ないっ!」
ジグモが引導を渡すより先に、政木は親子連れの下へ駆け出していた。
自身より他者のために動ける──さすがウィッチだ。
だが、この状況下では悪手だった。
テレパシーを発した首魁の位置は、まだ探知できていない。
「待て、政木!」
鋏角の切先がフェアリーリングの頭部を貫通し、完全な停止を確認。
同時に、上空のヤママユガが発信源を逆探知する。
発信源は──
「政木さん、離れてください!」
「あはっ」
少女の口が三日月のように裂け、吐き気を催す邪悪なエナが溢れ出す。
エナの感知に長けた政木すら欺く擬態は、間違いなくネームドの技。
最悪だ。
「っ!?」
政木が手を振り払うのとジグモの疾駆は、ほぼ同時。
躊躇している暇はない。
「見つけぁぇあがっ」
鋭利な鋏角が華奢な体躯を貫き、血飛沫がアスファルトの路面に散った。
胸を貫通した鋏角から血が滴り、夕陽を反射して瞬く。
芙花ほどの小さな、子どもの影が路面から剥がれる。
「…仕留めたか」
エナの放射が絶え、インクブスは物言わぬ屍となった。
肺の濁った空気を吐き捨て、しっかりと奥歯を噛み締める。
政木は無事、死傷者も今のところ見当たらない。
「おそらくは──」
滞空中のヤママユガが
その距離は目と鼻の先。
「失礼な奴らだなぁ」
我が子を刺殺されても無反応だった母親と目が合う。
ガラス玉みたいな目に、見慣れた悪意が宿る。
「傀儡!?」
「残念、不正解!」
薄気味悪い笑みを浮かべる女の背中から
同時に放射されるエナの濃度が急激に上昇。
間に合わない。
「遅いよ」
ジグモの鋏角が首筋を捉えるより早く、高濃度のエナが弾けた。
それは夕陽を吸い込む暗黒の霧となって世界を覆う。
──触れた人間は例外なく脳死状態に陥る。
──精神に干渉するマジック。
脳裏に過るラーズグリーズの言葉、これから訪れる最悪の結末。
「逃げて!」
政木は助けを求めず、ただ力の限り声を上げる。
暗黒の霧へ呑み込まれる瞬間まで、その瞳は私を見ていた。
迫る死よりも他人の心配だった。
「会ったこともない神に感謝したいね!」
耳障りな笑い声が反響し、世界が暗黒に包まれていく。
私も死から逃れることは不可能だろう。
だから、どうした。
死は決断より早く訪れる──知ったことか。
暗黒の霧は影すら呑み込み、全ての境界が曖昧になっていく。
だが、この意識が消滅しようとインクブスは絶滅させる。
「レギ!」
「はい!」
口と鼻を腕で覆い、テレパシーの伝達へ意識を集中。
暗黒の霧も、次元も、距離も超え、記憶を司る
「終わりだ、災厄のウィッチ」
そして、世界から音が死に絶えた。
やったか!?(フラグ建築)