夕闇が侵食する空の下、影の深い住宅街には混沌が満ちていた。
先日の襲撃事件とは様相が異なり、襲撃者はインクブスではない。
人々を襲う漆黒の異形は
「母さん、大丈夫!?」
電柱に凭れ掛かった母親の下まで駆ける少年。
周囲に人影はなく、荷物が散乱した路面には血痕が残されていた。
「逃げて、早く…逃げなさい!」
この過酷な世界でも健やかに育った息子へ母親は声の限り叫ぶ。
その左足には痛々しい打撲痕があり、彼女は逃げられないと悟っていた。
「いやだっ」
それでも少年は母親の手を力強く握る。
恐怖に震えながら、ただ一人の家族を救わんと思考を回す。
「お、俺が背負って──」
言葉を途中まで紡ぎ、少年は自身を覆う影に気が付く。
背後へ振り向くと、そこには異形の人型が立っていた。
「ぁ…」
夕陽を背負う人型に顔はなく、黒い外皮は樹皮のよう。
かつて人間だった者、フェアリーリングだ。
「逃げて!」
母親の声は届かない。
具現化した死を前に動けない少年は、恐怖に顔を歪める。
黒化した異形の手が迫り──重機関銃の咆哮が轟く。
夕闇を切り裂く曳光弾の輝き。
その光芒はフェアリーリングの上半身に命中し、漆黒の外皮が弾け飛ぶ。
「きゃぁぁ!」
「母さん!」
母親を庇う少年へ伸ばされた魔手が完全に動きを止める。
先日の襲撃事件と異なる点が、もう一つあった。
それは──
「奴にキャリバーを撃ち続けろ!」
「了解!」
ライトアーマーの愛称で知られる装輪装甲車が住宅街を疾駆する。
その車上では重機関銃が火を噴き、薬莢をアスファルトの上へ撒き散らす。
「吉田、アクセル!」
「了解っ」
運転席の隊員は躊躇なくアクセルを踏み抜き、世界が加速する。
彼らの目的地は眼前。
重機関銃の射撃を受け、脚の止まったフェアリーリングだ。
「落ちるなよっ田井!」
「構わず行ってください!」
彼我の距離は目と鼻の先、隊員たちは衝撃に備える。
異形の影が2分割されたフロントガラスを覆う。
衝撃──それは想像よりも軽い。
吹き飛ばされた人型は、路面を何度も跳ねてから住宅の塀に激突する。
2mを超える筋肉質な体躯を持ちながら、フェアリーリングの質量は変異前の人間と変わらない。
「橋本、熊谷、行くぞ!」
すぐ衝撃から立ち直った国防軍の隊員は車外へ飛び出す。
電柱の傍で縮こまる親子を救出するために。
「よく頑張ったな、坊や!」
「お母さん、もう大丈夫です!」
生存者である親子を労わり、隊員の1人が母親を軽々と背負う。
国防軍とは、国民を守護する最後の盾だ。
誰一人見捨てはしない。
「分隊長、奴が動き出しました!」
フェアリーリングの動向を注視していた車上の若い隊員が声を張り上げる。
破壊された塀から姿を見せる怪物に目立った外傷はなかった。
「射撃を頭部に集中!」
「了解!」
日本国の防人たちは怯まない。
フェアリーリングの頭部へ銃口を指向し、躊躇なく発砲した。
頭部に生えたキノコ──それは通信機であり、信管だ。
急所に射撃を集中され、フェアリーリングは堪らず右腕で防御する。
「MCVが来る前に退避する」
「了解っ」
しかし、現状の火力で撃破は困難だ。
あくまで牽制であり、車外の隊員たちは装輪装甲車まで駆ける。
「そのまま大人しくっ!?」
上体を沈め、跳躍の姿勢に移るフェアリーリング。
脚の筋肉が膨張し、蓄えた膂力を解き放つ。
刹那、影が消えた──異形は夕闇を背負って頭上より迫る。
風切り音を纏い、装輪装甲車へ振り下ろされる左腕。
後退は間に合わない。
「うわっ!」
「ぐぁっ」
甲高い金属の悲鳴が響き、車内の隊員を衝撃が襲う。
衝撃を吸収できず、車体のサスペンションが悲鳴を上げて軋む。
「なんて馬鹿力だよ…!」
フェアリーリングの拳は装甲を易々と貫き、エンジンを破壊していた。
2人の隊員はドアを蹴り開け、車外へ脱出する。
「LAVは放棄、走れ!」
老年の分隊長は即座に決断を下し、脱出を援護するためライフルを構える。
住宅街を反響する重々しい銃声──それを遮るようにフェアリーリングは拳を振るう。
大破した装輪装甲車のフロントを繰り返し殴打する。
感情を出力する器官がない怪物が、憤怒を露にしていた。
「先に行け!」
親子を背負わせた隊員2人を先に行かせ、分隊長は残る隊員と殿に立つ。
下手に刺激せず、フェアリーリングと距離を取る。
だが、顔のない怪物は不意に殴打を止め、獲物を
「おい、冗談だろ…!?」
フェアリーリングは原形を留める装輪装甲車の下部を掴み、軽々と持ち上げてみせた。
わずかに上半身を反らした姿勢は、投擲の予備動作だ。
5t近い重量物の投擲とは、砲爆撃に等しい。
「牽制しろ!」
死を覚悟した隊員たちは交差点手前で足を止め、蟷螂の斧のようなライフルを構えた。
残弾を考えずトリガーを絞る。
しかし、頭部を弾丸で穿たれようとフェアリーリングは止まらない。
「撃ち続け──」
投擲の瞬間、人々は大気の悲鳴を聞く。
「っ!?」
突如、フェアリーリングの立つ路面が爆発した。
アスファルトの破片が四散し、荒れ狂う風が粉塵を散らす。
視界を遮られた隊員たちは思わず顔を覆う。
「何が起こった…!」
粉塵が晴れてもフェアリーリングからの投擲はない。
当然だ──胸部をスピアが貫通しているのだから。
怪物をアスファルトへ縫い付ける長大な一条は、まるで神器のよう。
その柄に巻かれた
「ウィッチ…」
「分隊長、この音は!」
ディーゼルエンジンの咆哮が交差点に鳴り響き、隊員たちの眼前へ飛び出す迷彩柄の車両。
8輪のタイヤで慣性を殺し、停止と同時に鋭利なデザインの砲塔が旋回する。
「MCV!」
高い路上機動性で迅速に展開する即応戦力の筆頭──国防陸軍の装輪戦車だ。
「射線上から退避!」
「了解!」
隊員たちは射線上から素早く退避し、親子を庇いながら衝撃に備える。
夕陽を浴びて輝く砲口が、フェアリーリングの頭部を照準。
発射──砲火が夕闇を打ち消す。
アスファルトに縫い付けられた怪物に対戦車榴弾を回避する術などない。
炸裂と同時に、鈍い爆発音が大気を震わせる。
「やったのか?」
酷い耳鳴りに顔を顰める若年の隊員は、油断なくライフルの銃口を向けた。
その心配は杞憂だ。
頭部を爆砕された今、フェアリーリングが動き出すことはない。
意思を失った両手から装輪装甲車の残骸が滑り落ちる。
「ああ」
甲高い金属の悲鳴を聞き流し、老年の分隊長は天を仰ぐ。
彼らを救った人物──夕闇に染まる空より大地を睥睨する戦女神。
人類の守護者たるウィッチは降り立つことなく飛び去る。
言葉など不要だと言わんばかりに──
「これで9体目……案外少ないわね」
夜が忍び寄る茜色の空で、ラーズグリーズは独り言ちる。
住宅街に出現したフェアリーリングの過半数を撃破した功労者は、微塵の疲労も感じさせない。
「汝の力を用いず、封殺できるとはな」
黒き翼を広げて飛ぶパートナーが、戦女神の持つスピアを見遣る。
柄に巻かれた純白の糸は、シルバーロータスのファミリアが紡いだもの。
「驚嘆に値する模倣品だ」
敵対者の拘束に使用されるクモ目の糸は、ただ強靭なだけではない。
原種を高度に模倣するファミリアは、糸の微小繊維まで再現していた。
蛋白質が高濃度に凝集することで生み出される繊維をエナに置き換えた時、1本の糸を形成するエナは驚異的な密度となる。
それは他者のエナに干渉し、時にマジックの発動すら阻害する。
「首輪を付ける相手、見誤ったんじゃない?」
舞台を整えることに夢中で、演者が見えていない。
自他共に認める最強のウィッチは、己に首輪を付けた上位存在を嘲笑う。
「堤は蟻の一穴で崩れるやもしれんが、天には到底届かぬ」
その遣いである漆黒のカラスは淡々と応じ、世の理を埒外の存在に説く。
傲慢な言葉だ──天に蟻塚が届かぬと誰が決めたのか。
ラーズグリーズは退屈そうに鼻を鳴らし、夕闇に沈む市街地を見遣る。
その碧眼はエナの微細な流動を捉えていた。
「新たな手勢のようだ」
国防軍が封鎖している市街中央に8体。
しかし、戦女神は高等学校近くの住宅街へ飛翔を続ける。
「本隊と見るが?」
「問題ないわ」
市街中央にはシルバーロータスの
過剰戦力と言っていい。
ならば、住宅街に出現したフェアリーリングの無力化を優先する。
市民への被害を可能な限り軽減する──それが国防軍からの要請だった。
市民には軍属でないウィッチも含まれている。
つまり、彼女たちが現れる前に無力化しなければならない。
「シルバーロータスから連絡は?」
「依然として無い」
フェアリーリングは国防軍でも対処可能だが、首魁のインクブスは彼女しか捕捉できない。
舞台装置が盤面を覆すことは許されなかったのだ。
「……遮断が正確やもしれん」
これだけ大々的に戦闘が行われている中、シルバーロータスが反応しない。
何重にも策を巡らせ、インクブスを駆逐する彼女が。
「
目的地の周辺を捉え、鋭く細められる碧眼。
「その可能性が高い」
主の問いに対し、あくまで平静に応じる漆黒のカラス。
ウィッチとパートナーの目には、住宅街を侵食する暗黒の霧が映っていた。
「運が良いのか、悪いのか……」
最悪の事態を前に、苦笑を浮かべるしかない。
戦女神は空色の戦装束を靡かせ、広がる暗黒の頂へ飛翔する。
◆
インクブスと国防軍が大規模に交戦した市街中央は復興が進んでいない。
積み上がった瓦礫の山、解体を待つビルディングの残骸、放棄された車両の数々。
旧首都を彷彿とさせる景色だった。
そこで爆発音が轟き、巻き上がる粉塵──絢爛豪華なドレスが花びらのように舞う。
ワインレッドの長い髪を風に靡かせ、茜色の空より市街地へ落下するウィッチ。
華奢な体躯に見合わぬバトルアクスを大きく振り上げる。
「てぇいっ」
落下速度を加味した一撃が敵を両断し、路面のアスファルトまで砕く。
四散する血と塵が混じ合い、夕陽の下で瞬いた。
右肩を失った人型の歩く爆弾、フェアリーリングは無様に転倒する。
「うんしょっ……あとは」
得物を路面から引き抜くレッドクイーン。
フェアリーリングが自爆する危険性を理解していながら、彼女は退避しない。
周囲から殺到する足音──瓦礫の山より現れる異形の影。
エナを板状結晶に組み上げた鎧を纏うハキリアリの群れだ。
シルバーロータスの遣わせた爆発物処理班がインクブスの生体兵器へ殺到する。
「ひっ……うぅぅ……」
大小に関係なく昆虫を苦手とするレッドクイーンはバトルアクスを握り締め、目を閉じる。
その間にもハキリアリは抵抗するフェアリーリングを押さえ付け、四肢の靭帯を切断。
環状に生えた頭部のキノコを引き抜き、捕食する。
「何をしているんですか?」
鈴を転がすような声が響き、レッドクイーンは恐る恐る声の主を見上げた。
舞踏会にでも行くようなドレスが風に揺れ、身の丈ほどもあるソードが夕陽を反射する。
「あ、アズールノヴァさん……」
横転した大型トラックの上に佇むアズールノヴァは、平坦な視線でバディを見下ろしていた。
「交代しましょうか?」
そう言って小さく首を傾げ、蒼を帯びる刃の切先で敵を指し示す。
灰色の粉塵が舞う国道──そこから現れる人影は小さい。
悠然と歩みを進める華奢な体躯は少女のそれ。
軍服に似た深緑の装束を纏い、背中には羽虫の如き翅が生えている。
「だ、大丈夫です…!」
レッドクイーンは必死に首を横に振り、道路に面する商業ビルへ駆けていく。
ウィッチとの交戦を極端に避ける彼女の線引きがアズールノヴァは理解できない。
眼前の敵は姿形こそウィッチだが、その内面はインクブスだ。
「もしかして、僕って舐められてる?」
軍装のウィッチが首を傾げ、銀のツインテールが揺れる。
所作こそ可愛らしいが、響く声は邪悪そのもの。
「君ら、前もいたよねぇ」
以前、ラーズグリーズが消滅させたインクブスと同一個体だ。
軍装のウィッチはインクブスの傀儡になっているわけではない。
内面を侵食され、完全に置換されている──まるで冬虫夏草だ。
ウィッチどころか人間ですらない。
エナの輝きを帯びる蒼い瞳は、その悍ましい状態が見えていた。
「もしかして僕のファンだったり──」
大型トラックのフレームが歪み、蒼き光芒が国道を駆ける。
戯言を紡ぐ口は強制的に閉じられた。
凶刃が頭上より迫る──それを白刃が迎え撃つ。
エナで形成された刃が打ち合う。
衝撃波が粉塵を一掃し、アスファルトの路面に亀裂が走る。
「図星、かなっ」
一撃の重みに軍装のウィッチは表情を歪め、全身を使ってサーベルを振り抜く。
鮮やかな朱の火花が散り、弾き飛ばされる蒼き影。
アズールノヴァは難なく姿勢を立て直し、軽やかに着地──
「邪魔な上にっ」
瞬きの後には、再び眼前に凶刃の輝きが迫る。
首を狙った一撃が銀髪を散らし、返す刃が深緑のスカートを掠めた。
「話が通じないなぁ」
アズールノヴァは沈黙を守ったまま、ただ斬撃を繰り出す。
対する軍装のウィッチは重い一撃を小手先で受け流し、カウンターを狙う。
風に靡く蒼と銀が交差する様は、まるで舞踊のようだった。
「ああ、鬱陶しい!」
力量差から不利を悟った軍装のウィッチが大きく距離を取り、左手にエナを収束させる。
虚空より現れるボルトアクション式のカービンを握り、間髪容れずに発砲。
「ちっ…」
弾丸を目視したアズールノヴァは迎撃せず、路面を蹴って射線から逃れる。
「邪魔だよ、虫けら」
軍装のウィッチは苛立ちを隠さず、背後から迫る3体のハキリアリへ弾丸を撃ち込む。
エナの弾丸はハキリアリの鎧を貫通できない──貫通する必要がない。
着弾の衝撃を受けた鎧の表面が一瞬にして凍結する。
節足動物の所以たる節まで凍りつき、ハキリアリは氷像と化す。
「なんでも喰う悪食には驚いたけど、頭が悪いんだよねぇ」
カービンの銃口を上げ、捕食者たちの氷像を退屈そうに見遣る。
フェアリーリングの受容体を捕食すれば、一時的な無力化は可能だろう。
しかし、それは自身が新たな媒介者になることを意味する。
下位の原生生物を模したファミリアは知性が低いのか、それとも──
「……理解できないのも無理ないか」
軍装のウィッチは口角を上げ、住宅街のある方角へ視線を向ける。
前座に過ぎなかった戯れで
「簡単に捕まっちゃう間抜けの眷属だからねぇ!」
翅の生えた少女は、心の底から愉快そうに嗤う。
仕上げの邪魔をされた苛立ちも今は愉悦の糧となっていた。
「おやおや、どうしたことかな?」
急速にエナの放射量が上昇し、周囲を漂う燐光の輝きが増す。
それは眼前のウィッチに大きな感情の起伏があったことを意味する。
彼女の場合は憤怒か──邪悪は新たな玩具を見つけた。
目的を達成した今、ここからは戯れの時間だ。
「エナが乱れてるみたいだけど」
無機質な殺意を宿した蒼い瞳が、悪辣なる怪物を映す。
「乱れている?」
アズールノヴァは言葉を反芻し、静かに息を吐く。
この世で最も敬愛するウィッチにインクブスの小細工など通用しない。
小細工を正面から捻じ伏せ、ただ殲滅する。
それは確信であり、不変の事実だ。
「ああ、なるほど……」
されど、彼女への侮辱は万死に値する。
己に求められる役割とは、迅速な殺菌である。
アズールノヴァは微かに足を開き、長大な刃を地に這わせるように構えた。
「菌類に目はありませんでしたね」
嘲笑ではなく確認。
眼前のインクブスを如何に抹殺するか、それだけに思考を絞る。
「お望み通り、殺菌してあげましょう」
絢爛豪華なドレスの裾が靡き、可視化されたエナが光り輝く。
夕闇に沈む灰色の市街地が満天のプラネタリウムへ変貌する。
「はははっ!」
アズールノヴァの宣言を受け、軍装のウィッチは声を出して笑う。
愉快そうに見えるが、眼には苛立ちが宿っていた。
菌類、殺菌──下等な存在から下等に扱われる。
矜持など不要と同胞を嘲笑っているが、その本質に大した差はない。
どれだけ知的に振舞おうと
「やってみろよ!」
両者は同時に地を蹴った。
パックル君を喋らせるの楽しい……線香花火みたいだぁ(曇りなき眼)