そして、書籍版第1巻発売から1周年ゾ!
泡沫の平穏の中で人々は日常を謳歌している。
休日の昼下がり、市内の大型ショッピングモールには親子連れや学生が多く訪れ、活気に満ちていた。
真夏の陽射しを避け、娯楽に興じられる場所とは少ないものだ。
人類の天敵が残していった傷跡から目を逸らせる場所は、より少ない。
「赤坂さん」
「ひゃ、ひゃいっ」
名を呼ばれた少女、赤坂美兎はブラックコーヒーを容れたタンブラーから慌てて口を離す。
ベンチから飛び上がる大袈裟な所作は否応なしに通行人の目を引く。
その視線から逃れんと赤坂は慌てて床を見つめた。
「別に付き合う必要はありませんよ?」
そんな協力者へ胡乱な視線を投げるのは、私服姿の久遠天峯。
甘ったるいアイスココアを口に含み、ベンチの横に置かれた紙袋を見遣る。
中身は特筆する点のない雑貨や日用品だ。
「ええっと、その、予定がなかったので」
「それで、わざわざ私と買い物に?」
形の良い眉を顰める久遠に対し、赤坂は気まずそうに目線を泳がせる。
2人の魔女は久方ぶりの平穏に身を置いていた。
シルバーロータスに仇なす敵を全て屠ったわけではない。
しかし、ラーズグリーズに信奉派追跡はアメリカ軍の仕事と釘を刺されては引き下がらざるを得なかったのだ。
「実は……お母さんからの圧が、その」
観念した赤坂は恐る恐る言葉を紡ぐ。
手に持ったタンブラーと隣に座る久遠を交互に見る姿は、臆病な小動物を彷彿とさせた。
「この前、私の服を選んでもらった1件が嬉しかったらしくて……」
赤坂は普段の野暮ったい格好をしていない。
以前、久遠が選んだライトブルーのワンピースに身を包み、長い髪はハーフアップに整えている。
小洒落た雰囲気を纏う赤坂は、以前とは別人のようだった。
そんな赤坂と久遠が並んで座る様は、通行人の視線を自然と集める。
「――母親、か」
それらを歯牙にもかけず、タンブラーを静かに傾ける久遠。
零した言葉は誰に宛てたものでもない。
近くを通った親子連れの足音に掻き消されてしまう。
「久遠さん?」
「なんでもありません」
一切の理解を求めていない明確な拒絶に、赤坂は開きかけた口を閉じる。
休日の買い物に付き合う仲になっても壁は消えない。
詮索は不要と分かっているが、やはり一抹の寂しさは残る。
会話が途切れ――やがて人の流れも途切れる。
平穏を享受する人々の声が聞こえ、穏やかに時が流れていく。
「……久遠さんは
吹き抜けから間接照明が降り注ぐ休憩スペースで、魔女たちは言葉を交わす。
「以前にも言いましたが、無駄なことに労力は割きません」
信奉派は絶滅させるべき害獣だが、有象無象の全てを相手取る必要はない。
それは赤坂も理解している。
しかし、逃走中の信奉派残党が元情報機関員となれば、ただの有象無象と侮ることはできない。
「……任せても大丈夫でしょうか?」
「不安ですか?」
喉元まで上がってきた言葉は飲み込むも、力強く頷いてみせる赤坂。
強気なバディに目を丸くした久遠は、思わず苦笑を漏らす。
「私もです」
アメリカ軍は国防軍と協同で作戦を行っているが、信用を置ける存在ではない。
彼らは同盟国の、それも大人の軍隊なのだ。
国家の論理で動き、意思統一のできない集団ゆえに綻びが多い。
「な、なら…!」
「
だからといって介入するには、ラーズグリーズの忠告は無視できない。
自他共に認める最強のウィッチは露悪的に振る舞い、決して本心を表へ出すことはない。
しかし、渡される情報は常に正確だった。
都合の良い駒を潰さないためか、それとも彼女なりの贖罪か――興味はない。
重要なのは、情報の正確性だ。
利害が一致している間、利用できれば問題ない。
「今は注視に留めておきます」
背凭れに体重を預け、長い睫毛を伏せる。
平穏に身を置こうと久遠天峯の心は、そこにない。
敬慕するウィッチの障害を全て取り除く、その一点に思考を傾ける。
否、傾けなければならない――
「シルバーロータス様…?」
「へ?」
不意に、久遠が背筋を伸ばす。
開かれた瞳に星が宿り、手元のタンブラーが微かに悲鳴を上げる。
その時、赤坂は飼い主を見つけた大型犬を幻視する。
「シルバーロータス様って……」
久遠の視線を追った先には、年齢の近しい女子のグループ。
仲睦まじく談笑しながら歩いてくる6人組だ。
その中で1人、気難しい表情を浮かべる少女は――シルバーロータスこと東蓮花だった。
今日は制服ではなく私服に身を包んでいる。
あくまで肌を見せないコーディネートが実に彼女らしい。
友達から話を振られるたび返答に窮する姿に、赤坂は妙な親近感を抱く。
「よ、よく分かりましたね」
エナの流動を感知しなかったことから、久遠は権能を使っていない。
つまり、己の目だけで東蓮花の姿を捉えたのだ。
いかにウィッチの写真を熱心に収集していた赤坂でも、群衆の中から一個人を見つけ出すことは容易ではない。
そもそも、この遭遇は
「赤坂さん、私が日常的にストーキングしているとか思っていませんか?」
「うぇ!?」
底冷えするような声が隣から響き、赤坂の背筋も強制的に伸ばされる。
読心術を会得しているのか、そう思うほどの差し込みだった。
「そ、そんなこと、思ってませんよっ」
冷汗を流す赤坂は、油の切れた機械のように首を回す。
視界の端に入った久遠の口元には、穏やかな笑みが浮かんでいる。
しかし、目は直視できない。
「なぜ、目を逸らすんですか?」
その目が微塵も笑っていないからだ。
怒れる肉食獣と真正面から睨み合おうとする小動物はいない。
「……プライベートを追うような真似はしません」
「な、なるほど……」
久遠は作り笑いを消し、額を押さえて溜息を漏らす。
シルバーロータスへの敬慕と献身は、誰にも劣らない自負がある。
しかし、アズールノヴァは分別なきファンではない。
まったく興味がないと言えば、嘘になるが――
「そろそろ水着を選びに行きませんか?」
「静ちゃん、大胆~」
「東さんの水着姿、気になるもんねぇ?」
「どうしてそうなるのですか…!?」
「……そう」
傍らを通り過ぎる少女たちの和気藹々とした会話。
無関心を装っていた大型犬の耳が立つ。
6人の足音が雑踏に消えるまで、しばしの沈黙があった。
「……とはいえ、不測の事態も考えられます」
アイスココアを一息で飲み干し、おもむろに立ち上がる久遠。
キャスケットを目深に被る様は見るからに怪しい。
「護衛は必要かもしれませんね」
そんな彼女は致し方ないと言わんばかりに、これからの行いを正当化する。
驚くべき変わり身だが、全く悪びれた様子がない。
むしろ生き生きとしている。
「プライベートは追わないんじゃ……」
「何か言いましたか?」
「な、なんでもありません…!」
触らぬ神に祟りなし。
赤坂はタンブラーを容器回収用ごみ箱に入れ、久遠の背中を慌てて追う。
斯くして2人は、休日を満喫する少女たちの尾行を開始するのであった。
◆
今世の夏は前世ほど異常気象に見舞われていない。
日陰に入れば、打ち水だけでも快適に過ごせる季節だ。
ミスト発生器が設置された屋外休憩スペースのベンチなど、休憩に最適だろう。
「……疲れた」
ベンチに腰掛けた瞬間、どっと押し寄せてくる疲労感。
インクブスを相手にしている時よりも疲れた気がする。
買い物とは、こんなにも大変なイベントだったか?
「いやぁ、大変だったねぇ」
視界の端で風に揺れるアッシュグレイの髪。
そして、鼻をくすぐる柑橘系の香り。
すぐ隣に腰掛ける猫のような少女――黒澤牡丹は軽やかに笑う。
カーキ色のワイドパンツにシャツ姿というメンズ寄りの格好だが、胸の主張が少し強い。
そこを言及したが最後、揶揄われるのが分かっているから何も言わないが。
「慣れないことだったから余計に……」
「あはは、お疲れ様」
能天気に笑っているが、黒澤も私を着せ替え人形にした1人だ。
さすがに抗議の視線を送らなければなるまい。
「……黒澤さんも楽しんでなかった?」
「そうだったかな?」
わざとらしく目を逸らして恍ける黒澤。
ちらりと私を見遣り、それから口元を綻ばせた。
本当に猫みたいな少女だ。
「いやぁ、何着せても似合うから楽しくて」
今日は人生で最も服を着替えた日だろう。
ファッションに興味がない私には、服の良し悪しなど分からない。
本来であれば、今日も制服を着て行くはずだったが、芙花に止められた。
芙花といい、黒澤たちといい、なぜ私に服を着せようとする?
「海に行く日が楽しみだねぇ」
「私が何を着ても大して変わらないけど」
「あ、うん……そうだね」
なぜ一拍置いた?
明らかに含みがあったぞ。
「ごめんごめん、そんな恨めしそうな目で見ないでよ」
ひらひらと手を揺らし、人懐っこい笑みを浮かべる黒澤。
煙に巻こうとしているのは明白だが――
「まぁ……いいか」
ベンチに背を預け、ミストの白霧から覗く蒼穹を茫と眺めた。
私の精神的疲労は脇に置いて、彼女たちが買い物を楽しめたのなら良しとする。
無愛想で口下手な私と一緒にいても退屈なだけだろう。
今だってそうだ。
「荷物番は私がしてるから、黒澤さんも皆の所へ」
「もしかして、お邪魔?」
「そんなことは……ないけど」
私と黒澤はベンチの一角を占領する荷物の番をしていた。
律、金城、白石、御剣の4人はクレープの甘い香りに誘われ、広場のフードコートにいる。
いつの時代も甘味は人気者だ。
本当は黒澤も行きたかったのではないか?
「なら、よかった。東さんとは2人で話してみたくてね」
そんな私の思考を見透かすように、黒澤は柔らかく微笑んだ。
これまで2人だけで話す機会は何度かあったが、彼女にとっては違うのだろう。
日陰に漂う静寂を風が連れ去り、私たちの髪を弄ぶ。
「それで――」
姿勢を正し、黒澤の言葉に耳を傾ける。
「今日のデートはどうだった?」
なんだって?
飛び出しかけた言葉を慌てて飲み込む。
「デート」
思わず鸚鵡返しに答えてしまった。
聞き間違い、ではない。
これは
そもそも多人数とデートなんてあるのか?
黒澤は揶揄っている――わけではない。
私を見つめる眼差しは真剣そのもので、冗談を言っているような気配はなかった。
気の利いた言葉を求めていないというのは、鈍感な私でも分かる。
だがしかし、どう答えたものか。
ええい、儘よ。
「良かった……と思う」
いつものように、口下手なりに答えるしかない。
今日一日、黒澤たちと過ごした感想を。
「平和だった」
騒々しくも愛おしい一日。
言葉にしてみると、なんとも味気ない。
泡沫の平穏だと穿った見方をする私が心の片隅に必ずいる。
だが、誰かと過ごした穏やかな時間とは、泡沫であっても尊いものだ。
今日は、それを思い出す良い契機になった。
「東さんが守ったものだよ」
優しげな声が耳を撫で、微かに口元が緩む。
まるで示し合わせたように、私と黒澤はキッチンカーの前に並ぶ友人たちへ視線を向けた。
青空の下、和やかに談笑する光景は平和そのもの。
「静華も律も、この街も」
それは国防軍とウィッチの献身が生み出したものだと
謙遜ではなく、ただの自己嫌悪。
殺すしか能がない私を認めないために輪から外そうとした。
「ああ」
だが、今なら黒澤の言葉に頷くことができる。
決して罪過が消えることはないが、守れたものは確かにあった。
夏の風が吹く――視線に気が付いた律が小さく手を振ってくる。
インクブス真菌の生み出した領域で、私は彼女の手を掴めた。
この血に塗れた手でも誰かを救うことができた。
だから、振り返す手が震えることはない。
「もっと早く出会えていたら、先輩も……」
不意に、黒澤の口から零れ落ちた言葉。
それは陽炎のように揺らいで消える呟きだった。
「先輩?」
深く考えず復唱した瞬間、空気が変わる。
「あ……あぁ、えっと」
両手を膝上で組み、視線を宙に泳がせる黒澤。
普段は飄々としている彼女が目に見えて動揺していた。
言うはずじゃなかった、と。
「黒澤さん」
「なんでもないよ」
流れを断つように勢いよく立ち上がり、アッシュグレイの長い髪が踊る。
黒澤は見慣れた笑みを返してくるが、いつもの愛嬌はない。
それが取り繕った笑みだと分かってしまう。
「もう終わったことだからさ」
分かったところで、私に何ができる?
壁を作った黒澤牡丹へ踏み込む足掛かりがない。
律の時とは、まるで状況が違う。
「……そう」
目は離せないが、彼女にかける言葉がない。
奇妙な沈黙が屋外休憩スペースに満ち、ミストの噴霧される音だけが響く。
クレープを選んでいる最中の4人は、まだ戻ってこない。
ここは別の話題で――ふと、視線を感じた。
人間とは異なる、ファミリアに近しい無機質な視線。
視線の主は一目で分かった。
広場に設置されたLED式の外灯、その先端に止まるカラスだ。
フードコートの飲食物には見向きもせず、じっと私を観察していた。
ただのカラスじゃない。
「黒澤さん」
「はいはい?」
努めて普段通りに、黒澤の名を呼ぶ。
私に認知されたと知るや翼を広げ、軽やかに舞い上がるカラス。
「荷物番、任せても大丈夫?」
「いいけど……どうしたの?」
おもむろに立ち上がった私を見て、黒澤は小さく首を傾げる。
協力者であるナンバーズには本当のことを伝えるべきか?
しかし、思い返す限り
罪悪感はあるが、ここは適当に誤魔化すべきだろう。
「…お手洗い」
それだけ告げ、ミストの白霧を潜って日向へ一歩踏み出す。
目に突き刺さる夏の陽射し。
その下で悠々と飛ぶカラスは旋回をやめ、一直線に屋外トイレの方角へ向かう。
誘導しているつもりか。
「東さん…!」
左肩から聞こえるパートナーの声には緊張が滲む。
これまでシルバーロータスと接触を図ることはあっても、東蓮花に直接接触してくることはなかった。
公私で明確に線引きをする彼女にしては妙だ。
違和感がある。
ただ――
「心配するな」
彼女が突然なのは毎度のことではある。
それを言うと間違いなく不機嫌になるから言わないが。
案内役のカラスを見失わないよう、石畳の道を早足で進む。
すれ違う人が徐々に減っていき――私だけになった。
屋外トイレを囲う植栽の陰に、誰かが隠れている様子もない。
不自然な静寂の中、漆黒の翼が風を切る音だけが響く。
「こうも容易く擬態を看破するとはな」
外灯に降り立ち、私を見下ろす漆黒のワタリガラス。
その声は淡々としていて、生物的な温もりを感じない。
無機質なようで愛嬌のある私のファミリアとは違う。
形だけ借りた模倣品だ。
「あれで擬態していたのか?」
「仔細なかったように思うが……これからは留意しよう」
真夏の直射日光を受けても微動だにしないカラスがいるものか。
自分の体色が何色か少しは考えろ。
いや、そんなことを説教するために来たのではない。
「用件は何だ」
テレパシーではなく、あえて接触してまで直接伝えたかった用件。
それを聞くために来た。
「伝言がある」
誰からの伝言か、そんなこと聞くまでもない。
私を外灯より見下ろす案内役は、ラーズグリーズのパートナーだ。
烏「人払いヨシ!」