遮光カーテンの隙間から射し込む夕陽。
男子生徒の気合十分な掛け声に、甲高い打球音が加わる。
全国規模の大会は開かれていないが、様々な関係者の尽力によって県大会は開かれている。
ゆえに休日であっても生徒は練習に励み、グラウンドに汗を流す。
委縮するよりは健全なのだ、きっと。
「じゃあ、お先に〜」
アッシュグレイに染めた髪が揺れ、遠ざかる足音。
普段通りの人懐っこい笑みを浮かべる横顔に影はない。
「お疲れ様でした、牡丹さん」
「気をつけて」
「はいはい~」
ひらひらと手を振りながら、黒澤は図書室の扉から廊下へと消える。
猫のように気まぐれで、飄々と振る舞う少女。
その後ろ姿が儚げに見えたのは、先日の取り繕った笑みを見てからだ。
――もう終わったことだからさ。
そう言って笑った黒澤は、ここではない遥か遠くを眺めていた。
とても過去を断ち切った者の目とは思えなかった。
本当に終わったことなら、どこを見ていたのか。
分かるはずもない解を探してしまう。
「これを仕上げたら、私たちも切り上げましょう」
逸れていた思考を引き戻す事務的な声。
白石が色画用紙に鋏を入れ、一輪の花を切り抜く。
丁寧に切り抜かれた青いキキョウは金城が描いたものだ。
やはりデフォルメの塩梅が上手い。
「東さん、そちらの糊を取っていただけます?」
「分かった」
差し出された御剣の手にスティックタイプの糊を渡す。
触れ合った手は悪辣なインクブスを砕いてきたとは思えないほど華奢なもの。
「ありがとうございます」
御剣は穏やかな笑みを浮かべ、キキョウの裏面に糊を走らせる。
その横には『夏休みに読みたいオススメの10冊!』と書かれたポップ、積まれた10冊の書籍、そして文房具。
現在、私たちは図書委員である白石の作業を手伝っていた。
日常を演出する要素の一つ――それでも疎かにしていい理由はない。
担当していた紹介文の清書を終え、ポップの内容は埋まった。
今は白石と御剣が仕上げを行っている。
黒澤の引いたレイアウトに沿って。
「2人に……」
気が付くと口を開いていた。
余計な詮索をすべきではないと理解している。
「聞きたいことがある」
それでも一度開いた口を閉じる気にはなれなかった。
「なんでしょう?」
作業の手を止め、顔を上げる白石と御剣。
向けられた2対の眼差しには、私に対する一定の信頼を感じられた。
だからこそ、慎重に言葉を選ぶ。
「黒澤さん――」
すぐ喉元まで上がってきた言葉を押し留める。
語弊があってはならない。
「
これは東蓮花ではなく、シルバーロータスとして問うべきだ。
「それは……」
穏やかだった表情を強張らせ、言葉に詰まる御剣。
おおむね予想通りの反応だった。
ダリアノワールと関係がある以上、共に行動していたナンバーズも無関係ではないだろう。
そして、触れたくない禁忌となっているのも想像に難くない。
「答えにくければ答えなくてもいい」
あくまで私は部外者だ。
無理強いしてまで聞き出すつもりはなかった。
尊重すべきは彼女たちの意志であって私じゃない。
「いえ、大丈夫です」
机上の鋏をペンケースに仕舞い、白石は淡々と告げる。
まるで自分に言い聞かせるように。
「東さんには話しておくべきでしょう」
「そう、ですわね」
白石と視線を交え、御剣も小さく頷いた。
しかし、図書室に訪れたのは、重苦しい沈黙。
俯いた2人の横顔には深い影が差し、ひどく痛ましい。
「――私たちは初めからナンバーズだったわけではありません」
それでも口を開いたのは、白石だった。
「教え導いてくれる先達がいましたわ」
次に続く言葉を御剣が引き継いだ。
始まりから異端であった私に先達はいなかったが、彼女たちは幾分か恵まれた環境だったらしい。
インクブスとの戦いに身を投じる時点で最悪という現実は脇に置いて。
「1人はウィッチナンバー1」
「…ラーズグリーズが?」
意外な人物の名前が飛び出し、思わず目を丸くする。
「意外でしたか?」
「ああ」
私が見た限りでは、ナンバーズとラーズグリーズの関係は険悪と評するしかなかった。
敵対こそしていないが、友好的ではない。
「犬猿の仲に見えたが」
「以前は……尊敬する先輩でしたわ」
様々な感情の入り混じった、過去を懐かしむ声色。
御剣は夕陽の射す机に視線を落とし、寂しげな笑みを零す。
「他者の追随を許さない、文字通りの最強でしたから」
「あの頃から気難しいところはありましたけどね」
ラーズグリーズは初めて顔を合わせた時から気難しいウィッチだった。
露悪的に振る舞い、決して本心を見せないが――
「でも、なんだかんだ言って面倒見の良い方でしたわ」
誰かを救うことに躊躇がない。
星明かりの注ぐスタンドで私を諭したラーズグリーズは、確かに善なるウィッチだった。
最近になって彼女の一片を理解できるようになった気がする。
「金城さんは苦手そうでしたけど」
「そうですか? 武器の扱いは彼女を真似たのだと思っていましたが……」
白石と御剣は寂しそうに、それでいて楽しげに語る。
彼女たちがナンバーズに至るまでの道筋は辛く険しいものだったはず。
それでも希望を見出せる日々があった。
その事実に少しだけ救われた気分になる。
「良い先輩でした……あの日までは」
だが、始まりがあれば終わりがある。
口を閉ざした2人は一呼吸置く。
「あの日?」
窓外で飛び立つ鳥たちの黒い影が、夕陽の朱を細切れに断つ。
「もう1人の先輩と関係がありますの」
おそらく、次に紡がれる名前が核心。
ダリアノワールの心に留まり続けている影だと確信した。
「アムルタート」
その名前を耳にした瞬間、世界の色が反転する。
夕刻の図書室が裏返り、月光降り注ぐ廃工場へと移り変わる。
――そこは私が始まった場所。
無力を知り、己を呪い、異端が産声を上げた場所だ。
血塗れのコンクリートを震わせる酷い耳鳴り。
無数のノイズが走る視界の端に歪んだ空白があった。
そこには私を救うため、インクブスに膝を屈した
シルバーロータスと瓜二つの姿をしたウィッチが。
いや、待て。
何かがおかしい。
あそこにいたのは、私とレギと――
「東さん?」
黒い瞳に可愛げのない仏頂面が映り込む。
こちらを心配そうに窺う御剣の背景には本棚が連なり、埃臭い廃工場など影も形もなかった。
私は何を見ていた?
「なんでもない……続けてくれ」
妙な違和感は残っているが、おそらく先日の一件が尾を引いているのだろう。
白石たちに続きを促し、耳を傾ける。
「アムルタートさんは最初のウィッチナンバー4ですわ」
初めて聞く名前だ。
オールドウィッチが定めた序列に興味がなかった私はウィッチナンバーに疎い。
物知りマスコットを目指していたパートナーなら分かるかもしれないが。
「今の私たちが在るのは、彼女のおかげと言っても過言ではありません」
白石は机の上に置いた手を組み、あくまで淡々と語る。
しかし、言葉の端々からアムルタートに対する敬意が感じ取れた。
「理想のウィッチ……いえ、今の理想を形作ったと言うべきでしょうか」
「ラーズグリーズとは正反対の方でしたものね」
ナンバーズの原点とも呼べる理想のウィッチか。
この国に根付いている魔法少女像を確立してしまった――違うな。
第三者が勝手に祭り上げ、都合の良い偶像にした。
アムルタートに恨み節を向けるのは、まったくの見当違いだ。
己の浅慮が心底嫌になる。
「あの時の私たちには眩しかった」
「ええ、どんな絶望も打ち払う光でしたわ」
すべては過ぎ去った遠き日々。
それを思い起こす2人の瞳は、希望の光を見出しているようには見えない。
「東さん、3年前のストーカー事件を覚えていますか?」
白石の問いかけが答え合わせだった。
ウィッチ関連のニュースを意図的に避けてきた私でも知っている。
分別のない
これ以上は聞かなくとも――
「被害者の1人が彼女だと考えられています」
紡がれた言葉は、断定ではなく推定。
「確認したわけではないのか?」
眉を顰める私に対し、白石は待ったを掛けるように手を小さく上げた。
「当時、私たちは彼女の正体を知りませんでした」
「親しき仲にも礼儀あり。互いのプライベートを尊重した結果……ですわね」
そう言って私を見つめる御剣の目には、後悔と安堵が入り交じる。
なるほど、そういう
忘れ難い傷を負ったからこそ、律と金城はなりふり構わず私を追ってきた。
ひどく苦々しい気分になる。
「彼女の妹から事件当日に失踪したことを聞かされ、ようやく事態を把握しました」
断定するには証拠が不足している。
だが、事実は不変だ。
最初のウィッチナンバー4、アムルタートは何も告げずに姿を消した。
それだけは変えようがない。
「私たちはアムルタートさんを必死に探しましたわ。でも……」
「諦めざるを得なかった。状況が許さなかった…!」
白石の平静だった声に静かな怒気が滲む。
それは何も知らなかった自分自身に対する怒り。
「牡丹の後悔は、分かります」
遮光カーテンの隙間を見遣り、白石は事務的な声を絞り出した。
射し込む夕陽を反射し、朱色に染まる眼鏡。
「どうして気付けなかったのか。どうして助けられなかったのか。どうして――」
独白のようで、懺悔のようにも聞こえた。
「力が無かったのか」
責を問われるべきは加害者であって被害者ではない。
それでも己を責めるのは、彼女たちをウィッチたらしめる善性ゆえか。
静まり返った図書室に空調の無機質な音だけが響く。
無意識のうちに握り締めていた掌を開き、ゆっくりと息を吐き出す。
「……いつだってそうだ」
無力を呪ったのは一度や二度ではない。
ありふれた悲劇などと反吐の出る言葉が罷り通る世界で、誰もが抱く後悔だ。
「肝心な時に手が届かない」
両手を広げても、私たちは取り零す。
初めから全てを持ち合わせ、全てを救うなど不可能だ。
ウィッチナンバーの上位に名を連ねるウィッチ、ラーズグリーズでさえ例外ではない。
ならば、残された選択肢は――
「
停滞は悪ではないと今でも思っている。
だが、いずれは前へ進まなければならない。
後悔のない道を。
「そうですね……そう思います」
私の拙い言葉を聞き、寂しげな笑みを零す白石。
理解していても実践することは難しい。
よく知っているとも。
◆
約束の夜が来た。
ダイニングテーブルの上に広げていた予習ノートを閉じる。
今日も元気に遊んできた芙花は一足早くベッドに入り、リビングに残っているのは私と父だけ。
最近の父は原隊復帰に向けて色々と準備を進めているようだった。
今も分厚い書類を捲り、文面に目を走らせている。
「どうしたの、蓮花?」
私の視線に気づいた父が書類から顔を上げ、口元を緩めた。
昔と変わらぬ穏やかな表情だからこそ、頬に残る傷が目を引く。
望まずとも変わってしまったもの。
しかし、父は決して後悔を見せなかった。
「たとえば、なんだけど……」
シャーペンを机上に置き、あくまで自然体を装って聞く。
これまで一切話題に出さず、心配させまいと意図的に遠ざけてきた。
「もしも私がウィッチをやっていたら、父さんはどうする?」
ある日突然、私が戻らなくなった時に父や芙花が
そんな身勝手な理由が口を開かせていた。
「ウィッチか」
何とも言えない表情を浮かべる父は、手元の書類をテーブルに置く。
冗談を言っているわけではないと一瞬で汲み取ってくれる。
「父親としては……」
自然と話す姿勢に移り、しばし言葉を探す。
テーブルの上で視線が交差する。
「危ないことはしてほしくない」
それは、その通りだろう。
大人として、親として模範的な回答。
そう言ってくれるに違いないと確信があった。
空になったマグカップの縁を撫でるとアルミ特有の無機質な冷たさが伝わってくる。
「でもね」
だが、回答には続きがあった。
「父さん
「え?」
予想していなかった言葉を耳にして、マグカップに落としていた視線を上げる。
いつも私の背中を押してくれる人だった。
でも、こればかりは許されないだろうと諦めていた。
「強制されているなら何が何でも辞めさせるよ」
「……国防軍の命令だったとしても?」
「関係ないよ」
父は当然のように断言してみせた。
ダイニングテーブルの端に書類を寄せ、それから予習ノートの上にそっと手を置く。
「たしかに父さんは国防軍のパイロットだけど、一番守りたいのは蓮花と芙花だ」
言葉にしなくても知っている。
母が行方不明になってからも私たちを守り続けてきた立派な背中を。
「父さんにとって家族より大切なものはない」
一言一言を刻み付けるように語る。
九州に襲来するインクブスや傀儡軍閥と戦ってきたのは、本土に住む私たちのため。
その結果として多くの人命を救っただけ。
「だから、相手が誰であっても戦うよ」
父の言葉に嘘偽りはないだろう。
そこまでの決意がありながら、守りたい者が自ら死地に飛び込むことを止めない。
「私の意思だったら…?」
「見守るよ」
即答だった。
国防軍に所属する父がウィッチの末路を知らないはずがない。
もしも私が戻らなかったら、父は自分自身を許せるのだろうか?
「父さんが守りたいのは、ありのままの蓮花だ」
無責任な放任主義にも聞こえる。
だが、私を見据える眼差しは、どこまでも真剣なものだった。
北九州に赴く日、私に芙花を任せると言った時と同じだ。
「鳥籠に閉じ込めておけば、安心はできるかもしれない」
その眼差しがリビングの片隅へ向けられる。
かつて母が座っていた椅子は、当時と変わらぬ場所に置かれている。
沈黙――小さく漏れる吐息。
あの日の痛みと後悔が父の内から消え去ることはないだろう。
それでも――
「でも……それは父さんの自己満足だ」
私の言葉を否定しようとはしなかった。
ただ無条件に庇護すべき娘ではなく、東蓮花という個人を尊重してくれる。
「蓮花」
「はい」
改めて名前を呼ばれ、背筋を伸ばす。
「考えて決めたことなら、最後までやってみなさい」
いつだって父は私の味方だった。
背中を押してくれる力強い言葉が、霧のように滞留していた不安を消し去る。
「分かった」
だから、迷うことなく頷けた。
不俱戴天の仇であるインクブスを駆逐するため、ウィッチとなったことに後悔はない。
それが正解だったか、未だに答えは出ていない。
ただ、シルバーロータスを突き通す理由がまた1つ増えた。
「ありがとう、父さん」
「どういたしまして」
昔と変わらない笑顔を見せる父につられて頬が緩む。
やはり、この人には敵わない。
母は強しというが、私の父も引けは取るまい。
そんなことを考えながら壁に掛かった時計を見れば、約束の時間が迫っていた。
「おおっと、もうこんな時間か」
席を立つのに合わせて、2人分のマグカップを手に取っておく。
右手を空振りさせた父と目が合い、少しばかり意地の悪い笑みが零れた。
「片付けておくよ」
「奇襲とはやるな、蓮花……ありがとう。お願いするね」
何かと手伝おうとしてくれる父には申し訳ないが、私がやりたいのだ。
背中でリビングのドアを開け、キッチンまで足音を立てずに歩く。
芙花を起こすわけにはいかない。
「おやすみ、蓮花」
「おやすみなさい」
片付けを終えた私たちは階段前で挨拶を交わし、それぞれの部屋に向かう。
ドアを閉めれば、我が家に夜の静寂が訪れる。
聞こえてくるのは空調の音だけ――
「よし」
ここからはシルバーロータスの活動時間だ。
時刻は午後10時30分、窓から見える世界は月のない暗夜。
あまり時間に余裕はない。
足音を殺して階段を下り、玄関まで向かう。
照明をつけずとも歩けるほど往復してきた道だ。
「約束の時間まで30分か」
「心配ご無用です」
スニーカーに足を通し、靴紐を掴んでいたハエトリグモを指に乗せる。
旧首都でも激戦地となった目黒区まで30分。
飛翔のマジックが使えない私は、ファミリアの翅が頼りだ。
「間に合わせてみせます!」
「頼りにしてる」
定位置の左肩へ手を寄せ、飛び移ったパートナーが指先を撫でた。
触れ合う毛深い前脚に温もりは感じないが、不思議と落ち着く。
心配する必要はない。
いつも通りにやればいい。
「いってきます」
静まり返った玄関のドアを開き、祝詞のように言葉を紡ぐ。
返答はない。
次回、三者面談(三者とは言っていない)