こい【恋】一緒に生活できない人や亡くなった人に強く引かれて、切なく思うこと。また、そのこころ。特に、男女間の思慕の情。恋慕。恋愛。
♩
そうそう。こんな瞬間だった。
部屋の中には活動がなくて、窓から単調な白がのぞいていた。そして、俺はただぼうっと、悠々流れる雲を眺めながら、まどろむ意識をかきまぜている。
一言で表すならば、お昼寝が良く似合う日曜日の午後三時だった。
聞こえるのは、秒針の音と彼女の呼吸。取り込まれた洗濯物は山をなして、手をつけてしまうのがもったいないようにも感じられた。
慌ただしい日常から一転、穏やかな静寂のみが残る空間に、突然迷い込んだみたいだった。湿気も乾燥もない風が体の上を通り過ぎていく。それが薄い部屋着では少し涼しい。一年の中では一番過ごしやすい時期だろう。そんな貴重な時間を、ただ浪費しているのが惜しかった。でも、何もしたくなかった。なにかをしてしまえば、この不思議な空間は壊れてしまいそうだった。
ふと、子どものころを思い出した。こんな瞬間は前にもあった。両親はカーペットで寝転がり、意識をどこかへ捨て去って死んだように昼寝をしていた。今思えば幸せで優しいただの休日だったのだが、当時の自分にはなんだか恐ろしいように感じられたのだ。普段みんなで喋っている自宅が、全ての動きを止めて眠っている様が。途方もなく怖いものに感じられた。彼らを起こしてテレビをつけたかった。音がなければと思った。それでもなんだか動けなくて、唯一鳴っているかちこちの秒針に耳を塞いだ。両親と同じ死体にならなければ。そんな焦燥があった。意識を無理やりに閉じ込めながら、ぎゅっと目を瞑って死ぬのを待った。
夏のはじまる、少し前。これからどんな生物も活発になっていくのだろう。生き急いでいくのだろう。
ああ、やはり呆けているのは俺たちだけなのか。
隣で死んでいる彼女には、この静寂がどう映るのか興味があった。俺はひとつ、電気をつけずとも明るいこの部屋をフレームで囲った。
眠る彼女の髪ひとつ拾って、俺はあくびを混ぜながらシャッターを切った。
♩ 春
最初は春から。恋というものは、なんとなく春のようなイメージがある。風のように軽やかで、淡くピンク色。時折春嵐を巻き起こしては、乾いた地面を泥に変えてしまう。重い蓋を落としたような曇天を見上げ、なんとなく不安になる。それでも俺は、そんなグレイの空も美しいと思う。まあ、それはさておき。
まるで映画のプロローグみたいな出会い、とは言わないが、とにかくそれが全ての始まりだった。
トレーナー業というものは、残業なんて当たり前の仕事を職にするということだ。けれども俺は早く帰るようにしていた。寮生活をやめて、家を借りた。残業は減った。家に仕事を持ち帰るようになったからだ。早く帰る必要があったからだ。誰かの待つ家へ。
あの日は違った。中途半端に残った仕事を、せっかくならばと学園で片付けてから帰った。別にそれは、急ぐ必要があった訳じゃない。ただほんの気まぐれで、俺は帰りの電車を二本遅らせた。それがいけなかった。それがよくなかった。
出会った。
斜陽に刺された駅のホームだった。日のオレンジがレールに強く反射して、瞼の裏に紫のシミをのこした。ぬるい風を覚えている。
すぐ隣で、レジ袋が落ちた。中身が転がって、俺の靴へ。拾うためにしゃがみ込んだ。袋からはみだしたのは、パックのご飯やカップラーメンだった。しお味を手渡した。
「ありがとうございます」
「いえ」
あの、と彼女は少し恥じらうような、すこしふくれたような様子で続けた。
「あは、不健康だ〜とか、思いました?」
「え、いや……、まぁ」
仕事に気力を奪われちゃって、自炊する余裕なんてないですよ、と。彼女は冗談めいてはにかむ。それが綺麗に映ってしまった。
それが始まり。出会いなんてそんなものだ。景色の単なる一部だった「[[rb:他人 > オブジェクト]]」は名前のついた「あの子」になった。その境界線なんて簡単なきっかけで溶ける。
笑顔が素敵だった。
夕日があの子のショートカットを照らして、きらめく。オレンジ色に染まるあの子の髪が、その景色が、今でも脳裏のフィルムに焼き付いて離れない。
「また明日も話しませんか?」
目を細めてにやりとする仕草。どきりとした。ああ、その瞬間だったのではないだろうか。ダイヤルは、静かに回り始めた。乾燥した頬を風が撫でる。レールのオレンジを踏みにじって、電車が通過した。
恋というものは普通、もっと淡くて、清廉で、尊く綺麗なものを指すのだろう。この感情が不純なものであるとは分かっていた。でも、ただ、ただ、そうとしか呼べないほど、俺の中で生まれた純粋な、嘘のない感情だったのだ。
つまりは、俺は恋に落ちた。
とはいえど、恋に落ちる実感というものは、その瞬間には湧かないもので、俺もそれに気付いたのはもう少し後のことだった。
「おかえり」
タイシンと暮らし初めて数年が経とうとしていた。彼女にエプロンは非常によく似合っていて、実際のところ家事もとても上手だった。ご飯は美味しいし、洗濯だって手際がいい。タイシンは人付き合いこそ不器用なくせに、こういう所はものすごく器用だった。
「遅かったね」
仕事が残ってたんだ。
「専属の子?」
いや、ほんの事務作業だ。それに専属はいないよ。タイシンが言うから、俺はチームトレーナーになったんじゃないか。
「それで仕事が増えたんじゃ、世話ないね」
……ああ、そうだな。
俺が早く帰るようになったのは、こういう理由だ。チーム所属になったのも、タイシンのため。タイシンの愛情表現は不器用だ。分かっている。初めは可愛いと思っていたそれも、少し経てば、正直、ちょっと、疲れる。言葉にある少しのトゲ。それは決して本心じゃないなんて、昔から知っている。でもこっちはトゲを一度噛んで飲まなきゃいけないんだ。胃に積もるのは仕方ないだろう。
晩御飯を食べた。冷めていても、どうしようもなく美味しかった。お米が少し硬かった。乾燥、してるからだろうか。
へぇ、おいしそ。というタイシンの声が聞こえたので目を向けると、彼女はテレビを見ていた。グルメ番組で、とあるお店のプリンを紹介していた。高そうだ。タイシンは甘いものなんてあんまり好きじゃなかったろうに、珍しい。
茶碗に潰れてこびりついてしまったお米をなんとか箸でとりながら考えていた。ふと、あの子の顔が浮かんだ。ああいうの、好きなんだろうか。まさか。俺はタイシンを愛してるんだ。あの子とは、今日たまたま会っただけだ。
舌の奥、ほんのり香る苦い味。
皿を洗った。いつもはタイシンに任せっきりにしていた。どうしてだっけか。とにかくまぁ、だから洗った。罪滅ぼしのため。いや、罪なんか犯してない。
脳の裏にこびり付いたあの子の影を落とすように。タイシンのことだけ考えるように。
「あー、もう。ちゃんと水拭いてよ。もういい、アタシがやるから、お風呂でも入ってて」
横からタイシンが現れて、俺の手からスポンジを奪った。そのままタイシンは皿を洗う。手際が良かった。ああそうだ。俺は不器用故に、家事をさせてもらえないんだった。
「……そういうところだぞ」自分でも気づかないくらい小さな声で呟いた。その声が低くて、重くて、ぼとりと落ちた。口から零れたみたいな言葉だった。
俺はタイシンの為にやったのに。いや、そんな恩着せがましいのはダメだ。家事なんか二人でやって当たり前、俺が未熟なだけだ、俺が悪いんだ……。ああ、今日は早く眠ろう。なんだか疲れた、服を脱いだ。湯船はとうに冷めていて、ぬるかった。
翌日。電車を二本遅らせた。会いたかったんじゃない。確かめるためだ。
あの子は、俺を見るなり手を振った。駆け寄って、また会話が始まる。彼女の笑顔を見ていた。話す内容はなんでもない事。そうしているうちに電車が来る。乗って、また少し話す。俺の降りる駅が来て、別れる。それだけのこと。
ほら、タイシンの方がよっぽど可愛い。タイシンといる方が安らぐ。そうに決まっている。たかが駅に着くまでの、ごくごく短い時間。それなのに、あの子の声が耳にまとわりついていた。それが嫌だった。決して不快ではないその可愛らしい声。あの子に名を呼ばれることを、喜んでしまっているのが嫌だった。
頭を振るように、耳を何かで上書きしたくて、俺はタイシンに電話をかけた。
「もしもし。なに、どうしたの」
「あぁ、いや、仕事終わったから。もう帰るよって……」話すことなんてなかった。しどろもどろに言葉を続けた。
「それだけ?なんかあったのかと思ったじゃん」
「……ごめんな。そっちも忙しいだろうに。じゃ、切るからさ」
「いいよ別に。……、お疲れ様」
聞こえるなり、電話は切れた。お疲れ様、か。
なんどもなんども、しつこいくらい反芻した。ほら、やっぱりタイシンが一番じゃないか。そうだ。一番だ。でなければ……ああ。
どうしようもなく、あの子に惹かれていることを、認めなくちゃ、いけなくなる。
結果として、翌日からも電車二本分の時間が縮まることなどなかった。そういうところだ。
♩ 夏
あの子に誘われて、俺は小さな劇場にきていた。こうした箱の中で誰かの演劇をみるというのは、学生の時に友人がやった学園祭での芝居以来だった。やはり、それを職にしている人たちの演技というだけあって、面白かった。
客席と舞台が思いのほか近くて驚いた。あの子が取っていたのは真ん中辺りの席で、舞台の明かりがぼんやり届く程度の明るさだった。暗くなった手を開いては閉じてみたり、時折隣を見てはあの子の表情を伺ったりしていた。
彼女は、楽しめているだろうか。誘われた身のくせにそんなことが不安だった。少しカビの匂いの混ざった空調が、ウマ娘である彼女の鼻にはきびしいのではないかと考えた。あの子は寒かったのか、途中から薄い上着を着ていた。
緞帳が降りると、観客らから緊張の糸が解れるのが分かった。ふうと息をつくようなこの感覚は、なんとなく好きだった。
外へ出る、と、明るい。目を細めた。こちらは暑い。季節は廻り、とうに夏だった。あの子は上着を軽く畳んでバッグに入れていた。
土曜日だった。が、仕事帰りだった。当然だ。あそこの生徒たちは土日だって走る。俺は付き添う。別にそれについてはなんとも思わない。普通の部活動だってそんな感じだ。だが、近年の甚だしい酷暑により、午後からのトレーニングは禁じられていた。一日の気温というのは、大抵午後二時あたりがピークだからだ。
よって、俺は今ここにいる。汗ばんでいるから匂いが心配だった。それなのに、あの子は爽やかに香るので不思議だった。その匂いが俺についてしまえば、タイシンにバレるということは容易に予想できた。しかし、俺が数時間前まで居たトレセン学園とは、即ち女子校である。女の子の匂いなんてどれだけでも紛れてしまう。いくらウマ娘の嗅覚といえど、そんな高度な嗅ぎ分けを出来るとは思わなかった。
それに、別にバレても構わなかった。タイシンが嫉妬してくれると思ったからだ。もっと俺を大切にしてくれるようになると思ったからだ。俺の愚行は、タイシンを愛している故である。
……だなんて。
そんな都合のいい理由をでっち上げて、必死に自分へ言い聞かせているとしか、思えない。俺はどうにか目を背けていた。
街路樹が太陽を反射して、眩しい。緑が深かった。風はぬるいが、ないよりマシだった。あの子は暑いのがどうも無理だそうで、今は避暑地を探していた。
それほど歩いていないが、喫茶店に着いた。はめ込みガラスのドアを引いた。それに引っ張られて、涼しい空気が出迎えてくれる。あの子はみるみる生き返っていった。
とりあえず、アイスコーヒーを頼んだ。あの子も「じゃあ」と同じのを。そういうところが可愛らしい。
落ち着いた雰囲気だ。ここならあの演劇の感想も十分に語り合えるだろう。避暑の他にも、そんな目的があった。
コーヒーが目の前へ運ばれるのに、それほど時間は要さなかった。こういうところのは何となく高そうなのでこれまであまり来たことはなかったが、そうでもなかった。それに、ちゃんと美味しかった。
俺につられて、彼女も一口。あの子はその味に驚いた表情をして、急いでミルクを入れていた。どうやら、苦かったらしい。
「よくブラックなんて飲めますね」
あの子がそう言ったので、俺もミルクを入れた。
「いいや、どんなもんかなって一口飲んだだけだ。こういうとこのコーヒーは滅多に飲まないしな。俺だってブラックはちょっと苦手だよ」
嘘だった。ただ「あの子にあわせる」をしたかっただけだ。頭のいいあの子だから、きっと気づくだろう。気を遣わせてしまったと思うだろうか。素直に嬉しがるだろうか。
だらだらと話していた。なにか特別な気遣いなど、あの子にはいらない。それが、お互い信頼しているようで心地よかった。
時計を見た。ああ、帰らないとな。
「さ、そろそろ帰ろうか」
♩ 秋
喫茶店のドアを開けた。風は湿気を夏に置いていたようだ。落ち葉が地をかさかさ這っていた。秋。木々は燃え、葉を赤や黄に染めていた。
毎週この喫茶店に来るようになった。何回目になるのだろうか。もはやあの子との関係は電車二本分に留まらなくなっていた。
ある日は観た映画の感想をかたらったり、ある日は本屋でそれぞれ買った本を二人で読んだり。楽しかったことに間違いはない。が。
だんだん、「それ」が身体に追いつくようになった。焦って、駆け足になる。結果、息が詰まって冷や汗をかく。
それは必死に目を背けてきたもの。それは家路に向かう足を急がせ、重くする。
「おかえり」
それでも今日は、まだ、軽かった方だ。
「おみやげに、プリン買ってきたよ」
駅の構内でたまたま、出張販売をやっていた。いつかテレビで見たあのプリンだ。これしかないと思った。「それ」への埋め合わせには足らないかもしれないが、兎角縋るような気持ちで財布を開けたのだった。
「ほんと?ありがとう」
「とりあえず冷蔵庫入れとくよ」
ほら、これでタイシンの声色も明るくなったろう。上手くいった。よかった。
「先にご飯食べようよ」タイシンはそういって、冷蔵庫から麦茶を取り出した。先に俺は料理に手をつけた。ああ! 美味しいや。
完食したので皿を流し台に運んでいると、リビングのタイシンから声がした。
「プリン、食べるから取ってよ」
「ああ、もちろんだ」
冷蔵庫から取り出して、タイシンのもとへ持っていった。
「はいこれスプーン」
俺が手渡すと、タイシンは封を開けた。しばらく黙って食べ進めるので、俺は「どう、おいしい?」と質問する。早くこの行動が正しいものである確信が欲しかった。
「うん。おいしいよ。ただ」
「ただ、なんだ?」
「アンタはこれ、食べないの?」
俺が買ってきたのは、たった一つだった。
「……アタシは、二人で食べたかったかな」
ことばを失った。何も出来ず、ただ指の皮膚を爪で掻いていた。
「おやすみ。もうねるね」
「……歯、みがけよ」
ドアが閉まり、空の容器と消化不良の罪悪感だけが残された。鉄の塊のようなそれは、俺の気管を塞いでいた。
喉が乾いた。水を求め、何度も飲んだ。そうして、水浸しにしていた。でもそれは胃に注がれるだけで、潤いなど、絶対に与えなかった。
もう、タイシンを騙すことに、耐えられないかもしれない。それでも俺は、タイシンに俺を止めて欲しいと願ってしまう。俺は自分で自分を殺すことすらできないくらい、どうしようもなく屑だった。
なのでこうして、外へ出てしまう。タクシーのヘッドライトが、斜め下を照らしながら俺を追い越した。遅れて風がやってきた。静謐で甘美な秋の夜が、俺の純情をぐわんと揺らしていた。俺の足先は、俺も知らない。
♩ 冬
こい【恋】──異性に愛情を寄せること、その心。恋愛。
▽本来は、(異性に限らず)その対象にどうしようもないほど引き付けられ、しかも、満たされず苦しく辛い気持を言う。
あなたがそんなだから、冬については私から話そうか。
辞書の言にもある通り、恋とは満たされず苦しく辛い気持をいうのだよ。ひどい話だね。まぁ、何が言いたいのかといいますと、そもそも恋に純不純はないってこと。好きになっちゃったら仕方ないってことですよ。
でもね、この関係が間違ってることなんて、なんとなく気づいてたよ? そりゃあ当然。私はあなたに恋をしていましたから。あなたの声も匂いも音も、味も。ちゃんと覚えています。
けれど、私は間違いを確かめなかった。
……だって、知らないままだったら私、無辜のままでいられるでしょう?
私たち、たくさん同じ時間を過ごしましたね。それでも結局あなたは「君『だけ』を愛してる」だなんて言わなかった。
嘘はつかなかったってこと?中途半端に罪を重ねておいて、これ以上罪悪感に悩まされるのは嫌だったの?
あは、なんて自己中心的なんでしょう。
だから私は最後にひとつ、あなたに悪戯をしました。それはとっても簡単なこと。雪降る駅前のベンチで、手を繋いだ夜の日を覚えていますか? 白い息はマフラーへ溶けて、時間をゆっくり進めていたね。あの日だったはずです。
かすかなささやき声であなたに。
小さな言い訳を作ってあげました。
あなたの理性を、けとばして、あげました。
あの夜ほど満ち足りたものはないですよ!ロマンの欠片もなかったけれど、確かにあのとき、私に血は巡っていました。
あなたの一番じゃなくてもいいだなんて、そんなのわたしの本能が許しません。ハッキリ言えば、あなたを攫って逃げを打ってしまいたかった。でも残念! あな恐ろしや追込バ、です。
それじゃあ私は、また季節を動かしてしまいましょう。いつも受動的で、自分からは何もしないあなたのために。
さようなら。ナリタタイシンさんの、トレーナーさん。
♩ 六月
恋の終わりというものは、なんとなく冬のようなイメージがある。熱が冷めるからだろうか? でも、春が終われば、その次にくるのは、夏である。まったく、蒸し暑くて敵わない。乾涸びるどころか、汗をかけずに死んでしまう。そういう理由なのかは知らないが、最後は初夏だった。
「朝だよ。起きて」
目を開けて最初に見えたのは窓の雲だった。白い、白い、モノトーンの梅雨。雨を降らせるというより、空を覆って蓋をするためのような曇りだった。
「おはよう」
「ん、お、はよう。どうしたん……だ?」
休みの日だというのに起こすなんて珍しい。窓を開けるタイシンに、何かあったのか問えば、
「今日は外に出ないほうがいいよ」
と意味不明なことを言う。
「どうして?」
タイシンは外を指さす。
「ほら、雨降ってるでしょ?」
「雨? 降ってないじゃないか」
外を見渡しても、雨などどこにもない。前述の通り、雲はあれど雨の気配はなかった。
「朝ごはん。もうできてるから食べようよ」
話を断ち切るようにそう言って、タイシンが寝室から出るので、俺は追いかける。湿気を吸い込んで重くなった布団から抜け出し、畳みもせずに部屋を後にした。
顔を洗ってからリビングに向かうと、テーブルの上にパンとコーヒーが用意されていた。ほんのり、バターの匂いがする。タイシンは白いカーネーションを花瓶に挿した後、テーブルの椅子へ座った。
そこはかとない不気味さを感じながら、俺も席に着いた。向かいに座るタイシンに、パンは用意されていない。
「タイシンは食べないのか?」
「……」
「先に食べた、とか?」
「……パン冷めちゃうから。早く食べなよ」
食べるしか、ないか。手をつける。なんなんだろう。変な感じがする、な。
「湿気あるし、エアコンつける?」それほど感じないが、湿気は。だから少し戸惑った。
「え?」
「エアコン」
「あ、あぁ。別にいいけど」
タイシンはリモコンを操作し、机に置いた。人工的で涼しい風が降ってくる。二人で買った冷房。一年くらいしか経っていないそれの匂いはまだ清潔だった。それがしばらくすると異様に冷たくなったので、リモコンの設定温度を確認した。二十度を切っている。限界まで下げられていた。
おかしい。
「なぁ、タイシン。何か怒ってるのか?」
「怒ってる、だって? アタシも、そんな単純な感情だったら楽だったよ」
「どういうこと?」
「結局、アンタが好きってこと」
「ますます意味不明だ、教えてくれ」
「どうして、アタシから教えないとダメなわけ」
タイシンは、深くため息を吐いて、そして、続ける。
「ねぇアンタ。浮気、してるでしょ」
持っていたパンをコーヒーに落としてしまった。血の気が引く、という言葉をよくよく理解出来た。
「どうして……それを」
「どうしてって、アタシが気づかない訳ないでしょ」
「い、いつから」
「確信したのは、あのプリンを食べた時。どうせ罪悪感とかの埋め合わせのつもりだったんでしょ? そんときに、アンタの心はここにないんだって分かったよ。アタシの分しかないなんて、あの日々はそうだったのになって」
「あれは、」
「でも気付いた時なら、もっと前。去年の春ごろだよ」
最初の、最初じゃないか。どうして、俺は下手なんて打ってなかったはずだ。
だってアンタあの日から
ただいま。って
言わなくなったじゃん
アンタが面白いぐらい青ざめるので、笑ってしまいそうだった。そうだ。アンタは自分が賢いって、昨日まで疑ってなかったもんね。
アンタのただいまが無くなってからも、アタシはおかえりって言い続けた。でも返事はない。一体いつになったら、帰ってくるのだろう。
おかえりおかえりおかえりおかえりおかえり……
ねぇ、早く帰ってきてよ
さぁ、アンタは自分の不貞を暴かれたとき、どんな言葉を発する? 謝ってくれるの? それとも逆上する?
「すまなかった。タイシン」アンタはすぐさま頭を下げた。
ああ、なんの意外性もない退屈な返事。本当に仕方の無いヒトだ。
「すまなかったタイシン。本当に、ごめん。俺は自分勝手だ。でもどうか許して、くれ。俺は本当に、タイシンだけが、恋し……」
「何それ。じゃあ、相手の子には嘘ついてたってこと?」
「え?」
「アタシだけが恋しいなんて。アンタは、上っ面の愛を囁いて、嘘で誰かを傷つけるようなヒトだって、そう言うの?」
「そういうつもりじゃ……」
「じゃあ、もう、いい」アンタは泣きそうな顔をする。まったく、愉快だ。
「もういいよ。ほら、これ」
アタシは一枚の紙を差し出した。アンタはそれを見て、目を丸くする。驚いている。そんな表情。
「は? こ、これ……婚姻、届?」
「そう。アタシたち、結婚しようよ」
「……なんで、どうして」
「浮気を悟ったとき、びっくりするぐらい悲しかった。でもね、結局アタシには、アンタしかいないんだ。アンタも、結局アタシしかいない。だから、一生隣に縛り付ける」
まず、アタシはアンタを許さない。だってそりゃそう。このまま許したのなら甘すぎるからね。そんなの、いつか破滅しちゃうでしょ?
家事も育児も何もかも、アタシがやるよ。そうだ。賞金もあるんだから、アンタは仕事しなくてもいい。この罪を償わせるなんて、させないからね。
あぁ、酷かったなぁ。プリンの味。
カラメルもそうだよ。砂糖は、焦がすと苦くなるんだ。
ん、あの子に罪はないから手を出すなって? そりゃもちろん。だってあの子、自分が浮気相手だなんて知らなかったでしょ。それとも、何? あの子を庇ってでもいるつもりなわけ?
ああもう。言っておくよ。アンタを被害者にだなんて、絶対にさせない。罪悪感も消化させてあげない。だってさ、物語だってそうじゃん。愚行を犯したヒトが改心してハッピーエンドなんて、都合がよすぎるんだよ。許すのもバカらしい。
だから、一生それを抱えたままでいて。
そうして、アンタがそれに耐えられなくなった時、「アンタから」自分勝手にアタシを振ってね。
どんなに嫌いでも、大好きなあなた。
だから、全部全部ゼロに戻してもう一度、恋をしようよ。純粋無垢な、可愛い可愛い恋を。ときめきを。交換し合おうよ。
ああ、ここはアタシたちのお家。
なんて幸せな、アタシだけの牢獄。
―了―