ここは、秦国と楚国との国境線を越えた先にある緩衝地帯。そこで両国の軍は睨み合う形で膠着していた。
「うひょ―ォ 秦の腰抜けぇ玉なしぃいーなかーざーるゥ」
と秦の守備隊に向けて声を挙げて、あからさまな挑発行為を繰り返すのは楚の千人将項翼という者であった。
ドンドンドドンッ! ドンドンドドンッ!
また、その両の手にあるのは、剣や槍などの武器ではなく、脇に抱えられる大きさの太鼓を打ち鳴らしていた。
「おらおらッ。どうしたァ! 俺は楚の雷轟こと、項翼様だァ」
ドンドンドドンッ! ドドンドンドンッ! ドンドンドドンッ!
「秦の田舎猿どもォ、俺様にビビってんのか、ァアアン?」
ドドンドンドン! ドドドンッ!
「悔しかったら討ちとりにきてみやがれェ。馬ァーッ鹿。馬ァーッ鹿ァ」
このような挑発行為は崖に満たない程度の丘の上にある秦の防衛拠点を見上げる形で、すでに三日も続けられていた。また、時折だが、矢を射かけられることすらあったものの、秦の守備隊は反撃を行わず沈黙を保っていた。
この様子を、外から眺めてみれば、秦の守備隊はよく統制されているようも見えた。が、しかし、その鬱憤は静かに蓄積されていくものである。
「おい。あの野郎、また来てやがるぞ」
そう苛立つように声を出したのは、秦の楚に対する守備隊の一つとして派遣されていた信たち飛信隊のひとり沛浪であった。
そうして、ひとりが憤懣の声を挙げれば、同じように身の内を震わせていたほかの隊員たちも愚痴るように言葉を重ねる。
「楚の雷轟だか何だか知らねえが、こっちが手がだせねえからって調子にのりやがって」
「そうだ、そうだ」
「どうだ、皆ァ。一発かましてやらねえか」などと、血気に逸るような言葉が続いていく。しかしながら、本営からはそのようなすべての行為を禁止されているため、結局のところ、敵に攻撃を受けた亀のように身を縮こませて、苛立ちを募らせることしかできない。
そのことをよく理解させるために、河了貂はことあるごとに、子どもに言い含めるように声を挙げて語った。
「みんな。分かってると思うけど、絶対に、こっちからしかけちゃだめだからね。オレたちがいま対峙しているのは、中華でもっとも広大な領土と力を持っている超大国の楚だ。だから、大本営にいる先生も迂闊な行動から相手に口実を与えないように手を出すことを禁じているんだ」
それらの言葉に、信は、気に入らねえな、と応じた。
「おい、貂。軍総司令様は、相手が強えってだけで腰が引けてんじゃねえのか」
「信、怒るよ。先生に限って、そんなわけないだろう。いまは戦うことが得策じゃないってこと。仮にだよ。ここで楚と本格的な戦いが始まってしまったら、その余波で前線一帯が戦火に包まれることになる。そうなってしまったら、もう止められない。魏や他の国だって、楚に注力せざるを得ない秦の領土を狙って攻め入ってくるかもしれないんだから」
「……ッチ。そうかよ」
そう信は不貞腐れたように言葉を吐いたあと、頭の後ろで手を組んで壁に背を預けた。
「だけど、楚がどれほど強大だとしても、いつかは、戦うことになるよ。でも、それはいまじゃない。それだけは確かだ」
そうして河了貂が語る合間にも、ドドンドンドンッと打ち鳴らされる太鼓の音は響き渡り、木屋根にも矢が打ちまる音が消えることはなかった。
飛信隊が我慢の日々を強いられている頃。
王都咸陽では、大王嬴政と右丞相呂不韋による政争が、より過酷に、ただならぬ事態へと動き出そうとしていた。
事の露見は、呂不韋と太后の間の不義によって大王派に靡いていた貴族たちが、一転、呂不韋のもとに鞍替えを始めたことにあった。
そのことに、危機感を募らせた大王派筆頭である昌文君は同派の重臣である肆氏に問いかけた。
「高離家に続いて、臨家も呂不韋陣営に靡いたのか。ええい、肆氏よ。どうなっておる」
肆氏は苦みを押し殺した顔で、さらに、知り得た情報を開示した。
「それだけではないぞ、昌文君。中立派だった魚伯氏に楽卓の一族も丞相側に着いたと、今しがた、報告を受けた」
「なッ。それはどういうことじゃ。そなたは、呂不韋の動きに目を光らせておったのではないのか」
「当り前だ。一挙手一投足も見逃すまいと張り付かせていたさ。だが、やつらに、目立った動きはなかったのだ」
「むぅ……見落とし、ということはないのか」
肆氏は、昌文君の目を見据えると、はっきりと、ない。と言葉を切ってから続けた。
「忘れたのか。俺は竭氏のもとで謀略を振るっていた漢だぞ。その俺が、このような事態を見逃すとおもうか」
「ぬう……たしかに、その通りだ。ならば、一体何が起こっておるいうのだッ」
大王派が事態の全容を掴みかねている頃、優位にことを進めているはずの呂不韋派の重臣、四柱の一人、李斯も困惑に表情を曇らせていた。
「これまで中立派を気どり、日和見していた連中が、今になって、こちらに靡き始めているのはどういうわけだ」
そう。実のところ、呂不韋派も今起こっている事態の全容を把握できてはいなかったのだ。
「陣営がより太るのはいい。かといって、阿呆のようにその理由もわからぬまま、胸襟をひらくような真似をするわけにもいかん」
李斯は直立したまま胸の前で腕を組み渋みのみえる表情で思考を巡らせるものの、要因、遠因となるような出来事は、直近で起きても、起こしてもいなかった。
「少なくとも、大王派によるものではないのだけは、確かなのだが……」
その李斯のもとに、周囲の目を気にしながらスススっと近寄り、声を掛ける者がいた。
「李斯様。私に、すこしお時間をいただけますか。丞相様より伝言を承っております」
李斯は男に向き直るとギロリと視線を向けた。
「なに。なんだ、申してみよ」
「ここでは話せない内容です。周囲に、耳のない所に」
李斯は不機嫌そうにフンっと鼻をならすと、「ついてこい」と広間の扉に向かって歩き出した。向かった先は、李斯ら派閥の重臣の許可なく立ち入ることができない区画にある一室であった。
李斯は男と向き直ると言葉を発した。
「まず、聞く前にひとつ忠告しておくが、戯言であったら許さぬぞ」
時々に現れるのだ。俺に接近するために丞相の命だとたばかり呼び出す愚か者が。
「め、め滅相もありません。わたくしは、た、たしかに丞相様より言付けを預かった者です」
「ふん……。それで、丞相はなんと」
「じゅ、順を追ってご説明します」
この男は、確かに丞相の命を受けた者であった。男から語られた内容に、李斯は内心、わずかに表情を歪めたが丞相の目的、そして、これまで受けた恩に報いることの前で、それらは些事だと切り捨てた。
「お前の話は理解した。この内容は密にして秘するべき事柄だ。なぜ俺に話した」
「それは、李斯様にのみ、伝えよ命じられたからです。それと、この事を把握しているのは、もはや、この私と李斯様のみです」
「なに……、それは本当のことか」
「はい。間違いありません。なにせ、この件に関わった者たちすべてを私が始末させましたから」
李斯は、そう言葉を発して、にやりと口角を歪ませた男を熱をもたない冷めきった瞳で見据えた。
「そうか、よくやった。褒美には期待しろ」
「へへっ。ありがとうございます。危ない橋を渡ったかいがありましたな。褒賞、期待しておりますぞ。それでは」
と礼をしてから踵を返した男の背に向けて、李斯はちいさくつぶやいた。
「お主が心を患うようなことはもうあるまい」
その夜、とある貴族が、屋敷で何者かに襲われる事件が起こったが、血生臭い政争の真っただ中にある王宮では大して話題に上ることもなく、その命とともに消え去っていった。
その後、李斯はあらたに加わった貴族家をまとめ上げると、王宮内がすこし落ち着きを取り戻した時期を見計って、右丞相呂不韋のもとに姿をみせていた。
「呂不韋様。恙なく、すべての処理を済ませました」
欠けた月に掛かった雲がさり、なにものにも遮られることない星の瞬くの城楼の上。たいまつの炎に照らされた呂不韋の姿がはっきりと浮かび上がった。
「李斯よ。大儀であったぞ。この機に、儂は駒を次に進めるぞ」
第95話でした。