それは、呂不韋のもとに李斯が訪れた夜に発言されたものであった。
「儂は、丞相を卒業するぞ」
「は? 丞相を、ですか」とは、呆気にとられた李斯の言葉であった。李斯とて、呂不韋がこの国の実権を完全に掌握するために暗躍していることは承知の上だ。
そうであっても、呂不韋の言葉に、一瞬でも呆気にとられたのは、丞相という位はおよそ臣下が戴ける最高の位であったからだ。
「そうじゃ。奇しくも、今回の件で大王の派閥との力の差は、より鮮明となった」
「――な。まさか!?」
「察したようじゃのォ。李斯」
「っ。確かに、今であるなら可能でしょうが、それでは、各方面に、いらぬ疑念を持たれることになりませぬか」
それに、呂不韋は、わっははは。と口をあけて笑った。
「疑念、じゃと。李斯よ。儂ほど、この国のことをおもうておる者など、おらぬというのにか」
呂不韋の、泰然と、それがあるがままの自然のことであると語る姿は、李斯を一拍ほど硬直させた。そうして、しばしの瞑目し、目を見開き応えた。
「……紛れもない、事実。ですな」
この夜の会談を境に、呂不韋は精力的な根回しを自陣営はもとい中立派から対抗勢力にいたるまで行い、地盤をさらに強固なものにすると、右丞相を位を返還し、相国の位につくことになる。
相国は、臣下の戴ける最高位の席である。
これを越えるのは、もはや国王だけとなる。
そのため、相国の位を戴くのは、建国に際して多大な貢献、または、それに匹敵するほどの雄を内外にしらしめた者に、王から授けられる位なのある。
それを、臣下の側である呂不韋の働きがけで実現をさせた。
さらに、相国の位は、通常、空席であることが常である。
これは、王の次席である相国を位を空席にすることで、王の位は隔絶された権威であることを指し示し、臣下は叛意や簒奪など、あらぬ誤解をさけるため、座らぬのが常道なのだが――
それらの慣習を、呂不韋は意に介さず、自らの意志によって座したのである。
「これより、儂のことを丞相と呼んではならぬぞ」
この暴挙を、大王は止めることができなかった。
それほどにまで、両陣営の力関係は、おおきく傾いていたのである。
が、しかし。
この呂不韋の相国騒動は思わぬ余波をうみだし、大王陣営を大きく動かす要因になった。
「大王様。申し訳ありません。後宮の働きかけがあったとはいえ、呂不韋の暴挙を止められなかった、我らの力不足をお許しください」
大王嬴政の眼前で頭を低くしているのは、大王派の筆頭昌文君を含めた重臣たちであった。
「よい。昌文君。もともと、俺の力不足に端を発していることだ。お前たちの働きが無に帰することはないと明言しておく。いまは、これからのことのほうが先決だ」
大王嬴政こと政は、厳しい表情を覗かせながらも目に宿る意志になにひとつ翳りは有してはいなかった。
「ありがたきお言葉。しかしながら、我らと呂不韋の力関係は、いまや大きく引き離されております。まっとうな手段でこれに追いつくことは、何年、先の話になるか……」
「そうだな。現状は、俺もよく理解している。なにか案はあるか」
他の重臣が目を伏しているなか、大王派筆頭を昌文君とするなら、その次席にあたる肆氏は、伏せていた視線を上げた。
「大王様。私から口にすること自体が憚られますが、一つ、懸案となる事項を含めた策があります」
肆氏の表情に覚悟の色を見た政は、先を促すように頷いた。
「いまの状況を鑑みますに、すでに旗色を窺っていた腰の軽い連中は呂不韋のもとにむかいました。これから、我らの陣営が、いかに奮闘し、残る中立派のすべてを引き込んだとしても、ここまで明確になった力関係を完全に覆すに至ることは不可能でしょう。よって、確実に、どちらの手も掛かっていない。あの御方の、お力をお借りすることができないかと、愚考いたした次第です」
その内実を理解した昌文君は声を上げた。
「待て。肆氏。まさか、貴様。なにか媚薬を嗅がされたのではないだろうな」
肆氏は、その昌文君の疑念の目に理解を示しながらも断じた。
「昌文君。お前が私を疑う気持ちは十分に理解できる。だが、そのようなことは天地神明に誓ってない。もし、疑われるのであれば、いつでも、この首を差し出す所存だ」
そうして自らの手刀を首に添えて訴える肆氏の覚悟の深さに、昌文君も、むぅ。と声を漏らしたあと、自身の発言を恥じるように、謝罪の意をしめした。
政は厳しい表情でことの成り行きを見守ったあと、言葉を発した。
「肆氏の忠。確かに、受け取った。いま、お前が言った策は、俺も、同様のことを考えていた。だが、踏み切ることにためらいを感じていた。しかし――」
そう、内心をあかした政は、厳しい表情に決意の色を乗せると言い放った。
「事は急を要する。いまは一刻も早く体勢を立て直し、呂不韋に喰らいつかねばならない刻だ。皆、俺についてこい」
政は玉座から立ち上がった。
歩を進めるは、王宮内にあって切り取られたように孤立した大きな建物。
入り口には、衛兵が要人を警護するのと同時に監視を務めるために立ち並ぶ。
この内側に繋がる扉は、たった一つ。
重厚な鉄の扉が内外の物事から遮断するために鎮座していた。
このさきにある光景に物怖じする重臣たちを横目に政は声を上げる。
「いくぞ。扉を開けよ」
政の声が回廊に響いて、ギィと低く重い音とともに入り口が解放される。
扉のなかから光が漏れ出し、その筋を辿るように中に歩を進め、一番の奥にある居室にたどり着いた。
そこには、寝台のうえで、不敵な笑みをみせてくつろぐように横たわる男の姿があった。
政は、その者の姿を認めると名を呼んだ。
「成蟜」
そう。男の名は、成蟜。かつて、竭氏と結託して王位簒奪を目論み、ここに、幽閉された王弟成蟜であった。
「嬴政」
抜き差しならない因縁の二人は、交じり合う互いの視線のさきに、何を思うのか。
嬴政が、さきに口を開いた。
「久しぶりだな」
成蟜の切れ長の目が静かに睨み上げる。
「久しぶり、とは随分ではないか。この俺からの申し出を袖にし続け、こんな埃くさい場所に、三年もの間幽閉したやつが、まず、吐く言葉か。ん?」
政の目に強い力が宿る。
「馬鹿を言え。お前のした行いからすれば、甘すぎるぐらいだ」
成蟜は政の眼から視線を外すと応えた。
「フン。正当なる血筋をもつ俺が王位につくのは、当然のことではないか」
現王を前に不遜極まりない言葉に、昌文君がかみつくように声を上げた。
「その行いによって、どれだけの無辜の者たちが殺され、おおきな傷を負ったとお――」
声を荒らげようとした昌文君を片腕を上げて制止したのは嬴政であった。
「よせ。昌文君」
「しかしッ」と昌文君は納得できないと訴える。
政は胸の内を明かす。
「確かに、あの争いのせいで多くの犠牲をだした。成蟜を赦すことができないのは、俺も同じだ。だが、今は手段を選んでいる場合ではないことを理解しているはずだ」
昌文君は、口を噤むと、言葉の先を飲み込んだ。
その様に、成蟜はさも愉快だと口角を上げて、フッ。と挑発するように笑ってから続けた。
「嬴政。それに、昌文君。お前たちは、もっとはやく、ここに来るべきだったなァ」
その言葉に、嬴政は強く声を発して成蟜にむけて叩きつけた。
「成蟜ッ!! 俺は、お前がしたことを決して忘れはしないぞ。いま幽閉が解かれるかどうかは、俺の胸のうちにかかっていると思え」
ふたたび、成蟜の切れ長の目が嬴政の眼を捉えた。
「俺は曲げぬぞ。俺が俺の行いを恥じることは、死んだ者に対する冒とくだ。王である俺の命によって、死んだ。やつらに、恥じ入ることなど、一つもない」
その言葉に火を噴くように声を上げたのは、嬴政ではなく、昌文君であった。
「――貴様ァ なにも変わっておらぬではないか!!」
昌文君の、いまにも胸倉を掴みあげるような剣幕の最中、嬴政の眼は、成蟜の目を捉えて離さなかった。
「話にならん。行きましょう、大王様。期待した我らが愚かだったのです」
そうして、戻りましょう。と促す昌文君に、嬴政は視線を向けず成蟜のみに視線を注いでいた。
嬴政の様子に、昌文君が胸のうちに湧いた疑問を口にしようとした矢先であった。
おもむろに、成蟜が口を開いた。
「そう、いきり立つな。昌文君。俺は、ただ、秩序をもとの状態に戻そうとしただけだ。その過程で、お前たちと色々あったが、それはそれだ。なにも、お前たちに協力することを拒んでいるわけではない。なあァ 嬴政」
水を向けられた嬴政は応えた。
「打倒呂不韋に協力する。その変わりに幽閉されている成蟜一派全員を自由にしろ。それが、当初から成蟜に提案されていた話だ」
「言ったであろう。俺は、この国の秩序をもとに戻そうとしただけだと。その俺からして高貴な血を一滴すら持たぬ商人あがりのタヌキ風情が――」
言葉を発していくうちに、成蟜は内側に潜んでいた怒りが湧き出るように声量をあげていく。
「権力の座にあるなど、到底、許せることではない!! いま、すぐに解放しろ、嬴政。あのタヌキを叩き落とすぞ」
逡巡は一瞬。嬴政は応えた。
「わかった。俺に力を貸せ。成蟜」
この日を境に、大王派と呂陣営の間にあった大きな勢力差は、急速に失われていき、遂には互角まで持ち成すことになった。
第96話でした。
ここに、アニメを楽しむ者として、田中敦子氏の思いがけない訃報に、お悔やみを申し上げます。
キングダムでは媧燐を。フリーレンではフランメ。呪術廻戦では花御を。他多数。
アニメには人を変える力があると思います。
声優とは、その力を体現するひとたち。
多くの人に愛されたキャラクターたちとともに、永遠に。
これからも、誰かに届いていくのだと思います。