彼の者の盾はどこへ向かうのか。   作:mukurobone

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第97話になります。

新章に突入します。



秦に迫りくる脅威
第97話


 紀元前241年は秦にとって未曾有の事態を孕んだ年であった。

 それは、秦にとって唐突に湧いた国家存亡の危機であった。

 はじまりは、楚からであった。

 楚は、これまで周辺六か国が有する領土すべてを一国内に内包できるほど広大な領土をもつ超大国として恐れを抱かれながらも、他の四か国と国土を接するがため、ただの一国に対して本腰を上げることがなかった。

 しかし楚は、突如、秦の対楚防衛拠点にあたる南虎塁に兵五万で進軍し攻撃を開始したのだ。

 

「急報。急報であります!」と伝令部の者が、大王嬴政をはじめ、相国呂不韋ら秦の国政を担う重鎮らが一同に会す大広間に駆け込み伝えた内容は、その場にいるすべての者に衝撃をあたえた。

「なッ。楚が、秦に侵攻を開始しただと!?」

 そう第一声をあげたのは、大王派筆頭であり左丞相となった昌文君であった。

 大王派閥は、呂不韋の相国就任によって完全な空位になった二つある右丞相、左丞相という丞相位のうち一つの左丞相位を、権力闘争によって呂不韋派閥から奪取することに成功していた。

 伝令部は、さらに驚愕の報告を続けた。

「さ、さらには、南虎塁は、すでに陥落し、している。と」

 その報は、昌文君らに衝撃を与えた。

「南虎塁が、すでに抜かれているというのか――ッそれで、敵の数は。楚は、どの城に向けて進軍している」

「数は兵五万。さらに後方から見渡すほどの大軍の気配あり、と。そして、し、進軍経路なのですが楚は、周辺の城に見向きもせず、秦深部に向かってひたすら北上。侵攻をしていると……」

「なんじゃと。な、ならば、楚は、楚軍はいまどのあたりに――」

 その昌文君の問いに答えるように、さらなる伝令が届けられた。

「楚軍。野仙に到達。まもなく、通過するとッ!!」

 国政を司る重鎮たちが集まる大広間にもたらされたこの一報は、静かに状況の把握に努めていた文官諸氏らをして驚愕させた。

「や、野仙といったのか!?」

「野仙。といえば、秦南部の中間ではないか!!」

「な。ま、まずい。まずいぞ! そんなところにまで楚軍がきているというのか」

 大広間は騒然し、喧々諤々と、各々が撒くしたてた。

「まずは、い、急いで、防衛線を引きなすべきだ」

「ば馬鹿か。周辺住民の、住民の避難がさきであろう」

「き、貴様こそッ。これは国の、大事であるぞ。敵を押しとどめるのが先であろうがッ!!」

 大国楚という脅威の様が実体を露わにしたことで、彼らを、正しく、浮足立たせていた。

「そのような議論をしている場合か。それよりも――!!」

 と、そのとき、一人の漢が痺れをきらし、大広間を揺らすような一喝をした。

 

「――ええいッ。うろたえるな! ばか者どもがッ!!」

 

 声の大きさもさることながら、言葉一つ一つが腹にくる重き響きの波は、文官諸子の口から発せられていたちいさな波紋をたちまち飲み込み、とたんにして、大広間は凪いだ水面のような静寂さに包ませた。

 彼らの視線は自然と声の主のもとに吸い寄せられた。声の主は、ゆったりとした間を取った後、口を開いた。

「楚が、前から怪しい動きをしていたことは掴んでおった。それゆえ、南の要所に張唐、蒙武という豪将らを配置させていたのだ。そうであろう、昌平君」

 名を呼ばれた昌平君は肯定を示し、己の考えを述べた。

「その通りです。南虎塁もただの防壁の一つに過ぎません。たとえ破られ、防壁内に侵攻を許したとしても、後方に控えたこのふたつの軍の力をもって殲滅は可能である、と。しかし、敵もその対策を練ってきたようです」

 昌平君の含む物言いに、相国呂不韋は問うた。

「どういうことじゃ。答えよ昌平君」

「はい。敵は、張唐、蒙武の両軍が駐留する城が離れていることに着目し、あえて他の城を攻めず、さきに我らの南部防衛線を破る算段をたてたようです。そして、防衛線は守城戦における城壁に類するもの。ひとたび破られ、敵に城内への侵入を許せば掃討はより難しくなります。最悪。軍は、おおきな後退を強いられるでしょう」

「ふむ。両将の間を抜くか。しかし、それでは結局のところ、さきに侵攻した軍は孤立するのでは……いや、まさか――」

「はい。相国のご懸念の通りです。間違いなく、このあと侵攻してくる後軍こそ、本命。仮に、この敵五万に防衛線の裏に回られるようなことになれば敵の後軍を止めることは、もはや不可能。秦は、南部一帯を失うことになります」

 この軍総司令である昌平君の言葉は諸氏らに差し迫った危機の度合いを正確に受け止めさせた。ゆえに、再燃した危機感より場は再び慌ただしく動き出した。

「いい、急ぎ楚の第一陣を止めるよう両将軍に伝達を――」

「馬鹿な。敵はもう野仙だぞ。いまから間に合うというのか!?」

「なんでもいい――とにかく急げ!!」

 諸氏らの悲鳴にも近い声が響く大広間。

 そんななか、かつて昭王のもとで武人としておおくの戦場を駈けた経験を持つ昌文君が重く口を開いた。

「使いなどださずとも、両将軍はすでに走っておるわ。防衛線を抜かれることが、どれほどの危機を招くかなど、現場の将たちが一番わかっておる」

 そして事態を正確に理解している昌平君の物言わぬ視線を受け付け足すように言葉を紡いだ。

 

「ただ、間に合うかどうか。咸陽からわかりようもないがな……」

 

 その頃、防衛線を破られまいと張唐、蒙武の両将軍は懸命に封鎖地点に向けて駈けていた。

「張唐様。敵、楚軍の脚が止まりません。このままでは防衛線の裏に廻れられます」

 張唐は、先行させていた脚の早い物見からの報告に苦虫を噛み潰したような表情をし小さく舌打ちをした。

 しかし、いまはやれることをやるしかない状況にあると気の逸りを抑えて声を上げた。

「全軍の脚を速めさせろ。なんとしても、敵に防衛線の裏に廻られるまえにとめねばならぬのだ!」

 張唐の檄は、率いる歴戦の精兵たちの士気を高め「応ッ!」とおおきな声を挙げさせる。彼らの一体となった声に誰もが頼もしさを覚えることだろう。

 しかし、行軍の速度に限界はある。ゆえに、口惜しくも、いま張唐に打てる手はたったひとつだけであった。

 

「ひたすらに、走れぇッ!!」

 

 張唐がそうしたように、蒙武もまた必死に駆けていた。

「蒙武将軍に付き従う勇猛なる兵たちよ。休まず、突き進めぇ! もはや一刻の猶予もないと思え!!」

 声を挙げたのは、蒙武の副官のひとり来輝であった。

「応ッ!!」

 蒙武率いる兵のたちの士気も張唐軍と同様に高い。しかし、士気だけではどうにもならない状況でもある。そう指摘したのは、もうひとりの副官丁之であった。

「完全に後手にまわりました。よもや、周辺の各所の城を無視してまで侵攻する大胆な作戦を立ててくるなど、想像すらしていなかった」

 蒙武は副官たちの言葉に耳を傾けながらも、ただ進むべき道だけを見据えて静かに言葉を発した。

 

「……いまは、無心で走るときだ」

 

 対する楚軍は、順調すぎる過程にわずかな緩慢すらあった。

「ぎゃははッ! なんだよ。南虎塁を抜いたあとから、まともな敵が、てんででてきやしねえじゃねか!」

 それは楚軍の一端、千人将のひとり項翼であった。

「ビビってんのか。秦の山猿どもはよぉ。これじゃあ楚の雷轟こと、項翼様の名を挙げる機会もねえじゃねかよ」

 その項翼の言葉に、並走する同格の将は声を掛けた。

「項翼。気を緩めるなよ。まだ戦いは始まったばかりだぞ」

 それは秀麗な眉目をもち若くして中華十弓の名を戴く弓使い白麗という者であった。項翼は、お互いにして良く知る白麗に目を向けると親し気に言葉を返した。

「わかってんよ、麗。ただ、なんだ。ちょぉとだけ暇だなって話だ。いやまじで。まったくってほど、山猿どもがでてこねぇんだからよ。お前だってそうおもうだろ?」

「ふん。馬鹿を言うな。秦軍がいまだまともに出てこないのは、楚が南虎塁を本気で攻略するつもりがない。と秦に思い込ませていたからだ。宰相閣下は、こうした作戦のために、これまでの間に下地をなされていたのだろう」

「春申君宰相閣下殿、か」

 と項翼は、仰々しさを通り越していっそ無礼な敬称付けをしてその名を口にしたが、嫌っているわけではない。大国楚の宰相を二十年にも渡り務める偉人なのだ。彼の偉人は、口こそ悪いが、それ以上に敬うに足る貴人なのである。

「ハッ。さすがに超のつく大国楚の舵を一手に握るだけはあるってことかよ。って――」

 そのとき、進軍する先から舞う砂塵が見えた。

「やあっとお出ましかよ。俺は待ちくたびれて寝ちまいそうだったぜ」

 楚兵たちのどこか緩みのあった糸がピンと張り詰めるのに合わせて、項翼は声を挙げた。

 

「おらァ! お前ら敵さんのお出ましだァ。剣を握れッ! 槍を掲げろ!! 山猿どもを一匹も逃がすんじゃねえぞ! ぶっ殺せぇ!!」

 

 対し、先の砂塵。その一軍を率いるのは、元六将王騎の副官にして、大将軍位を返上した王騎に変わり、王騎軍の後事すべてをまかされた将軍騰であった。

「情報通り。とはいえ、相手は大国の楚。兵五千の我らに、敵は先兵だけで五万。それも精兵だろう」

 騰の独り言のような言葉に並走する録嗚未は視線を向けて声を掛けた。

「なんだ。まさか、敵の多さに怖気づいているのか」

 騰はちらりと録鳴未をみた。

「フッ。お前と一緒にするな。録鳴未。怖いのなら、朱錐と代わって来なさい」

「ぁあ˝? 誰がビビるか。むしろ、腕が鳴るわ。――つうか、よかったのか。勝手に持ち場を離れてもよ」

 騰は、周回遅れの心配事をする録嗚未に整然と応えた。

「持ち場は隆国に任せれば事足りる。王宮を動かすほどの確証を得られなかった以上は、こうする他なかった」

 騰の言葉に付け足すように干央が口を開いた。

「幾月前に、飛信隊の信が見たという李牧と楚が接触していたという一件ですね」

「ああ。他にも市井から吸い上げられる兵糧の動きにも怪しい所があったが、どれも決定打とは言い切れなかった。それほどまで楚は、秦と本格的に争う姿勢をこの機会まで見せてこなかった。ともいうな」

 騰の私見に録嗚未は応えた。

「つまりは上層部の連中がまんまと楚に裏をかかれた。そんで、その尻ぬぐいを俺たち騰軍がしてやろうって話だろう」

 ふいに、騰は録嗚未に視線をおくった。録嗚未は「ああ、なんだよ」と視線を返した。

「お前しては理解が速いな。ならば、我らの役目は言うまでもないな」

「馬鹿にしてんだろ。んんなもん、俺たちは一刻でもながくやつらの足止めする。それだけだろうが」

 騰は「フッ」と笑うと前方に視線をもどし、天に向けて佩きし剣を抜き放った。

「聴け。皆の者!! これより、我らは前方に迫る楚軍に突っ込む。この戦いの如何に、秦国の武威が示されると心得よ。一歩でも下がれば録鳴未のように気を飲み込まれるぞ」

「――っておい」

 と録鳴未の声は兵の応じる声と大地を踏みし駈ける馬蹄の音に消えていった。

 

「全軍。突撃!!」

 

 

 大国楚の侵攻を皮切りに、さらなる脅威が、秦に襲い掛かろうとしていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




第97話でした。

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