楚が侵攻を開始した同日。
「楚が秦に向けて進発したのは、確かなのだな」
魏の王都大梁でも動きがあった。
「間違いありません。その数およそ兵五万。南虎塁に向けて進軍しております」
「盟約通りか。ならば――」
漢は視線を君主である景湣王に向けた。
「これより、私。呉鳳明は魏軍総大将の任につき秦に向け出陣したいと考えます。よろしいでしょうか」
景湣王は抑揚にうなずき言葉をつづけた。
「うむ。征くことを許すぞ。呉鳳明。これまで秦から受けてきた辛酸。そのすべてを秦より打ち払い帰還せよ。そなたの働きに期待している。頼んだぞ。余の第一臣呉鳳明よ!」
呉鳳明は力強い拱手をし応えた。
「ハッ! 必ずや、ご期待に沿える勝報を持ち帰ります」
そうして謁見の間を退出した呉鳳明は、次に、師と仰ぐ者のもとに立ち寄った。
「師よ。行ってまいります」
そう拱手をみせる呉鳳明に師霊凰は軍議台を前に胸の下で組んでいた腕を解くと、徐に、駒の一つに手を伸ばした。
そして、その細い白魚のような指先で駒を玩びながら静かに応えた。
「私を、失望させるなよ。鳳明」
その声に熱はない。裏にあるのは、才を示してみせよ。という言葉のみ。それに、呉鳳明は応えた。
「魏国の武威を。引いては、この呉鳳明の名を。六国に示してまいります」
こうして、魏もまた、秦に向けて挙兵した。
魏が侵攻を開始した報せが王宮を揺るがす前に、その事態を目の当たりにする者たちがいた。
「――なんだよ……これ。この城は対魏防衛の要じゃねえのかよ!?」
飛信隊信たちであった。
「国は、後ろから援軍を出さなかったのかよッ!?」
その眼前に、剛陵城が燃える姿が映っていた。
河了貂は苦し気な表情で応えた。
「……しかた、ないんだ。楚が、秦に侵攻したから、オレたち……、みたいにたくさんの部隊が南に向かったはずだ。だから、ここに援軍を送る余力がなかった、んだ……と思う」
軍師である河了貂の言葉の意味は分かる。わかるけれど、どうすることもできない激情が信の口から溢れた。
「くッ。だからって……くそぉおおッ! 一体。なにがどうなってやがるんだ!?」
飛信隊が自国の領土を荒らされ、奪われていく様子に唖然としている頃。
騰軍参謀隆国は、伝令部から刻刻と伝わる戦況を整理しながら任された差配を淡々とこなしていた。
「鱗坊は引き続き敵に悟られぬように距離を取り、合図を待つように伝えよ。同金も同様だ。それで、他の将軍らの動きはどうであった」
問われた伝令の男は応えた。
「大本営からの指令もあり、各将軍は厳戒態勢に入り現場の保持。または後退を始めています。ただ……」
そう言いよどむ伝令に疑問を覚えた隆国は視線をむけた。
「――ただ。なんだ」
「協力を要請した麃公将軍なのですが『そなたらに何か狙いがあることはわかった。じゃが、儂はやることがある。』と部隊を前に動かされました」
「そうか。麃公将軍は前に動かれたか――」
隆国は眼前の軍略盤に視線を落とした。
「確かに、南に向けた防衛線の配置換えの最中。どこかの軍に割を食ってもらわねばならぬ状況であった。本当なら、我らが出るつもりであったが。将軍の英断。無駄にすることなく策を練らねばなるまい。これ以上、魏に好きなよう荒らされるわけにはいかぬからな」
隆国は軍略盤から麃公軍の駒を拾い上げ思案に耽った。
「この位置におられた将軍が前線に向かわれるとするなら、魏軍との会敵は……この辺りであろう」
隆国は与えられた役割。自軍の位置関係を鑑み、新たな指令を下した。
「よし。我らは全体を見渡せる位置まで下がって新たに指揮所を設ける。朱錐らを前にだし、将軍の支援に入らせる。ここで魏の足を止めるぞ」
隆国は送り出した伝令の背を見つめ、ふと湧いた懸念を口にした。
「しかし、来るなら趙と考えていたが、そうではなく魏が攻めてくるとは……いや、まさかな」
その名の上がった麃公はというと、魏軍を迎え撃つべく進軍を開始していた。
その軍中内にて。
「岳雷殿。少しよろしいか」
岳雷は呼び声の方角に顔を向けた。
「ん。これは主計長殿。どうされた」
主計長と呼ばれた男は、「新米ですけどね。」と微笑み言葉を続けた。
「此度の進軍に関してお聞きしたい。本営からの指示は待機であったと記憶している。しかし、将軍は前線に向けて軍を動かされた。これは、なにか、秘する任務の類だとすると私も相応の対応を考えなければならないのだ」
岳雷は言葉の意味を汲みとり、うむ。と頷くと回答した。
「主計長殿。難しく考える必要はない。殿の向かうさきは、苛烈な戦場がある。それだけ理解していれば、何の問題もない」
「……命令に反してまで行ってるこの行軍の目的が、ただ苛烈な戦場にむかうためのものであると……」
主計長は、にわかに信じられないという表情を見せた。その様に、岳雷の後方にいた側近が新鮮な反応だなと進み出て面白がるように声を掛けた。
「主計長。麃公将軍は、戦のこと以外はなんも考えちゃいねえんだよ。あのおっさん。動物みてえな本能で動いてんだ。要するにノリだノリ。ただし、それがべらぼうに強えってだけだ」
その言葉に岳雷は、「我呂。主君にむけて口が過ぎるぞ」と頭に拳骨をゴツンと落とした。
「っ痛えな、岳雷のだんな。そうはいっても事実だろ。毎回むちゃくちゃな指示で、結局は勝つんだからよ」
「それでも、だ。主計長殿。ただこれだけは理解してほしい。将軍が独断で動くとき。それは、必ずといっていいほど戦の勝敗に関わる重大時であるということだ」
岳雷の麃公将軍に向けゆるぎのない信を置く目に、主計長は己のなすべきことを理解し応えた。
「つまり、この行軍自体が勝敗に直結しているということだな。岳雷殿、助かった。私はすぐに戻り、戦に向けて万全に足るよう体制を整えることにする」
と、すぐに主計長は不自由そうな片腕でありながら巧みに手綱をさばいて馬首を翻すと軍中に消えていく。その背にむけて岳雷ついと言葉が漏れた。
「――拙速を尊ぶ篤実の士か」
岳雷は荒くれ者たちのひしめく麃公軍に主計長が容易に受け入れられた理由を垣間見た気がした。
「フッ。さらに部隊も率いられる力量もあるというのだから、我らのような無頼漢に好まれるわけだ」
王宮は楚に続き魏が侵攻を開始したという報せが入り波立ち泡浮き立っていた。
「楚に続き魏もが秦に牙を剥いたのかッ」
そう声を荒らげたのは、この場に集う文官衆のひとりであった。
「ハッ!! 魏は国境を超えて侵攻しています。その十数万ともッ!! すでに、対魏防衛の要である剛陵城は陥落。秦深部に向けてさらなる進軍を開始しているとのことです!!」
文官衆は、さらなる脅威の報告に口々にまくし立てた。
「じゅ、十数万だと!?」
「楚だけでも十万、いや十五万とも予想されるいま。魏に十万もの兵で襲い掛かられては、前線はひとたまりもないぞ」
「くッ……対魏防衛のために張っていた部隊の多くを南に招集しようとしていたところを狙われたか」
それら様を横目に、昌平君は側近の介億と目礼を静かに交わすと口を開いた。
「皆。そう、慌てる必要はない」
昌平君の声は決してそう大きくはなかった。しかし、その場にいる誰もの視線を集めさせた。
それは、相国呂不韋も同様であった。
「ふむ。昌平君よ。儂とて、軍事に暗いわけではないぞ。楚軍は十五万とも推測され、魏軍も十万超であるぞ。防衛は容易な話ではなかろう」
「勿論です。しかし、我らは冷静でなくてはなりません。そして、此度の魏の侵攻。火急の事態続きはいえ、その備えがまったくないわけではありません」
昌平君の視線の先。大広間の入り口で拱手をする介億に自然と視線が集まった。
「そうであろう。軍師育成機関特別顧問を務める――」
介億。その後方。小柄な老人でありながらぎょろりとした目に力を宿した漢の姿があった。
「元廉頗四天王がひとり。玄峰殿」
「なな、なんですとーーーッ!!!? げ、げ玄峰、とは。あ、あの……まさか」と思考の埒外にいた人物の登場に大広間は色めきだつものの、当の玄峰はどこ吹く風とかくしゃくとした足取りで前に進み出ると憮然とした面持ちで言い放った。
「フン。なんじゃ、お主ら。なにを呼び出されたのかと思い来てやってみれば、この程度のことで慌てふためきおって。お前たちは猿の集まりか」
第98話でした。