大王の暗殺騒動から明けて、数日。大王とそれを支える昌文君の一派と信は本殿の間で今後の動きを模索していた。
「呂丞相の名がでたのだから、我々は断固として追及の声を挙げるべきではあるが………」
「声を挙げてどうなるというのだ。大王様を支える我々と呂氏陣営との差は吹けば飛ぶほどに開いているというのに、逆に叩き返されるのがオチだろうが」
大王の暗殺という禁忌中の禁忌を呂丞相が犯したことは間違いない。けれど、現状の勢力差を正しく理解する彼らは、呂丞相に対して、それを追及することすらできない無力さに苛まれていた。それを理解している昌文君はこの場をまとめるように言葉を発した。
「残念だが、此度の騒動で奴を追い詰めることはできん。大王様もそれは承知されている」
「な、なに言ってんだよ昌文君のおっさん。証拠は挙がってんだから捕まえちまえばいいじゃねえか」
信の発言はそのあたりの内情を把握していない故の発言であるが「それができれば苦労はしない」と壁は優しく今の現状を信に告げた。納得がいかない表情をする信だが、壁たちの後ろに座っていた大柄な文官の姿を見つけると「文官のおっさん」と声を掛けた。
「これは信殿。どうしました」
「あんたもあの場にいたんだからよ。こうなんかあんだろ、うまくいくような案がよ」
「ふむ」と大柄な男はいかにも名案がありそうに大きく頷き、間をとると「………ともったい付けてもないものはない」とはっきりと告げた。
「って、ねえのかよっ」
ずっこけそうな姿の信がいたが、その横で壁は聞き覚えのある声に視線を向ける。
「それほどまでに、差があるということだ」
穏やかな表情をした男の姿は、どこから見ても一文官そのものであり、とても壁が知る人物と同一は思えなかった。
「昌文君。あの方はもしや」
「ん。そうか。壁も知らなかったのか。うむ、想像通りであるが、他言無用とせよ」
その時本殿の間の扉を開くと外から急使が飛び込んできた。それは呂丞相と四柱が揃って大王様に謁見を申し入れたというものであった。さらに、すでに丞相はここに到着して、こちらに向かっているとのことであった。
本来の手順をすっ飛ばしていることは明らかであるが、両者の明確な力関係の差がこれを不問させた。
本殿の間が開くと呂丞相を支える四柱と側近が、まず姿を見せた。
四柱とは、呂丞相を支える四人の傑物を評したもので、軍総司令の昌平君、剛力無双の豪傑蒙武、法の番人李斯、そして、秦国の外交を一手にまとめる重鎮蔡沢の四人のことである。
四柱と側近が本殿に入ると、最後の呂丞相こと呂不韋が姿を現した。
信は政を暗殺しようと刺客を使った卑怯者を睨みつけて、さらに文句の一つでもいってやるつもりだったが、彼らがそれぞれ纏っている空気に、気圧されて声が出せなくなっていた。
呂丞相は膝をつき、ひとまず大王の無事を寿ぐと「刺客を放ったのはこの私、呂不韋である」と声高に宣言した。それに対して、大王である政は「そなたであるはずがない」ときっぱりと否定した。それを受けて「もちちろんですとも、大王様。私が責任をもって首謀者を特定いたします」と完全に白であると大王に認めさせた。
これで、此度の騒動は一応の決着となる。つまりはこれが、呂丞相が「黒を白といえば白になる」を地でいく行いをしても、大王陣営と呂氏陣営のどうすることもできない力の差と言えた。
その後は、蒙武が六大将軍という制度の復活を上奏したり、蔡沢が場を転がしたりと波乱もあったが大過なく謁見は終わりを迎えた。
蔡沢は帰り際になって、気配を消すように大王派の後ろ端に座る大柄な男を見つけて「ヒョッヒョッヒョッ」と愉快気に笑い声をあげた。気になった昌平君が「蔡沢様?」と尋ねると「ヒョッヒョッ 昌平君。この場でなにか気になる者はおったか」と返した。
「………一人、手に入れたい駒としてですが、信という若者位でしょうか」
「ふむ。そうかそうか」と頷くと「ヒョッヒョッヒョッ 面白いのぉ」と笑い声を挙げた。
「?」と蔡沢の顔を覗き込んだ昌平君であったが、問答は終わりだとばかりに蔡沢はさっさと歩き出した。
本殿の間には、あまりにも強大な敵の姿に意気消沈した大王派の者たちだけが残されていた。
沈黙が支配する本殿の間に置いて、憤るように行動を起こしたのは、他ならぬ大王政であった。それは内から吹き出る怒りを玉座の側面を激しく蹴りつけることで抑えようとしてるかのようであった。そんな政を止めた信が「ちょっと外の空気でも吸いにいこうぜ」と提案すると、政もそんな気分なのか信を連れて本殿の間から移動した。
残された俯き加減の昌文君一派の者たちのなかで、一人立ち上がった大柄な男は、昌文君に一つの提案をすると踵を返して本殿の間をあとにした。
大王暗殺という最大の禁忌を犯したにもかかわらず、お咎め一つすることができないほどの力の差を見せつけられた大王派であったが、このことが逆に、彼らの結束を固める機ともなった。はっきりと見えていなかった相手の強さを認識したからこそ、彼らはそこを目指して走りだした。ただ守るのではなく、攻めるために。
そうして、まず行ったことは、此度の騒動をいち早くに予見して手を打っていた元竭氏の片腕肆氏を陣営へと迎え入れることであった。難色を示す者もいたが、政は「過去の遺恨は捨て去り、一丸となって戦わなければ呂氏には近づくことすらできない」と檄を飛ばして、その者たちの意識を変えさせた。
本殿の間をでた大柄な男は、ふと、王宮広場に降りる階段脇で座り込む少女を見つけて声を掛けた。
「君はたしか、河了貂だったかな」
「ん? あっ、あの時の妙に強い文官さん。長いから、オレのことはテンでいいよ」
「ふむ。では私のことはスイとお呼びください。ほら、王宮は色々あるから嗜む程度には、ね。それでテンはどうしました」
「へぇスイって言うのか。ていうか鬼強い羌瘣をぶっ飛ばしといて嗜むってどんだけだよ。はぁ………でも、あんなことが起こるんだったら戦えないと身が持たないよなぁ、やっぱり」
「皆が皆、戦えるわけではないですよ。昌文君は別としてね。それに適材適所って言葉もあります」
「適材適所かぁ。………オレにできるかな。軍師なんて」
「軍師?それはまたすごい言葉が出てきたね。なるのですか?」
「まだわかんない。知り合いがそういう師匠?を紹介してくれるって」
「紹介ですか。この辺りで軍師といえばあそこでしょうけど………」
「スイはどこか知ってるの?」
「まあ有名ですから。それはいつぐらいに」
「三日後。なにかあるの?」
「私からも紹介状とはいきませんが、うまくいくような書状を書いて渡そうかと。ほら、貸しがあるからね」
「本当っ!じゃ、それで貸し借りなしってことでいいよ」
「それじゃ届けさせるとするよ。書状は蔡沢という人に渡してほしい。いなかったら、すまないけど、使えないから処分してほしい」
「ふーん。そう聞くといまいちな感じするけど、可能性があるならもらっとく」
そうして、三日後。
河了貂は信に軍師になるために、家を出ることを告げた。
家をでて、待ち合わせをしていた羌瘣と合流するとそこには馬車があり「これに乗れば行ける。それにこれを渡せ」と書状を渡された。
こうして、河了貂は羌瘣と別れて単身馬車に乗って、向かう場所すらわからずに軍師への道へと舵を切った。
そして、どこかもわからずに馬車に連れられた先には、大層に立派な建物があり、その中には喧々囂々と議論を交わす声が響き渡っていた。扉を開くとなかには数十人の男たちが一対一の対面形式で向かい合い議論を交わしている姿があった。その一番奥の席には艶のある長い髪をした男を中心に左右に老人と少年が座っていた。