「私を欺き、これほどの兵を、今、この時に到着させるその技量は敵ながら天晴です」
両側が断崖に囲まれた釣り鐘状の平地に蓋をする形で出現した趙軍の数は四万にも及んだ。それは、この平地に秦、趙両本軍が到着した時点での総数を上回る数であり、勝敗を決定づける伏兵といえた。また、同時にそれだけの規模の軍を誰にも悟らせることなく出現させた李牧という漢の手腕も如実に物語っていた。
このあまりの出来事に王騎の側近でさえ、思考が停止してしまい立ち尽くす中、王騎は敢えて敵を褒めると不敵な笑みを浮かべた。
「ンフフ。見事としか言葉がありません。ここまでしてやられたのは、実に二十年ぶりくらいでしょうかねぇ」
王騎は敢えて先に結論を言葉にはせずに語り掛けるように続けた。
「血が沸き立つ感覚を持つのは久しぶりですねぇ。この私を欺いた策士の顔を是が非にも拝んでおきたいたいところです」
そうして、王騎は兵の意識を自身に向けさせると仕上げに入った。
「さて皆さん。いつまで呆けているつもりですか。この程度の危機など、私たちがかつて潜り抜けていきた戦いに比べれば、どうというほどではありません。そうではありませんか、この王騎に付き従う精兵どもよ」
王騎の言葉に歴戦の兵士ですら気持ちが下を向いていたことに気付くと、恐れを、あきらめを振り切るかのように声を、拳を、掲げた。
「よろしい さあ、立て直しますよ」
王騎は満足そうに大きく頷き息を吐くと、矢継ぎ早に指示を飛ばした。だが、それ遮る者が姿を見せた。
「王騎。 どこへ行くつもりだ。我との決着はついてはいないぞッ」
先の一騎討ちによって、朦朧としていた意識が回復した龐煖は、雑兵を斬り払うと再び王騎の前へと歩み出ていた。
「おや。決着もなにも、先ほどの事をもうお忘れになられたようでーーー」
「ッまだ勝負はついてはいない。我を殺すまではなぁッ」
龐煖は王騎の言葉を遮り勢いに任せて矛を振り下ろす。対して、王騎も「仕方がありませんねぇ」と言葉をこぼしながら矛を強く握り構えたが、遮る影に手を止めた。
「ムぅッ、邪魔をするなッ」
龐煖は、突如として現れた何者に向かって、激情に駆られるまま止められた矛にグッと力を込めた。が、微動だにしないことに驚き動きを止めてしまった。
「邪魔なのは貴殿のほうだッ」
朱錐は受け止めた矛を力の限りに振り払った。彼の者の膂力に任せた振り払いによって龐煖は矛を持つ腕ごと躰を持っていかれて、騎乗のままにたたらを踏み後退を余儀なくされた。
「王騎様。よろしいですね」
朱錐が落ち着いた静かな声を掛けると王騎もまたその意を汲んで言葉を返した。
「ええ、久しい感覚に血が滾っていたようです。あとは頼みましたよ。錐」
「諾」
「我に背を向けるつもりか王騎ぃッ」
龐煖は、王騎の視線がすでに己を捉えていないことに、強い憤りを覚えていた。
「ンフフ 先ほどまでとは違って、今のあなたと殺りあってもわりにあわないんですよ。ねぇ 龐煖さん。どうしても、とおっしゃるならば、この、私の盾を抜いてからにしてくださる?」
王騎は、龐煖の意識をさらっと朱錐に仕向けて悠然と背を向けると、本軍を適切な形に変更するために動き出した。
「どけぇッ 我の邪魔をするなッ」
龐煖からすると、かつて敗れた因縁の最中に割って入られた挙句、あまつさえ背を向けられたことで怒り心頭であった。それゆえに、立ちはだかった邪魔者を一刀のもとに切り捨てようとしたが、対して、朱錐は威力のみで単調に過ぎたそれを押し下げられながらも受け止めると、再び力の限りに振り払った。
「どうであれ、しばしの間付き合ってもらおうか」
朱錐の介入によって一騎討ちの体が崩れると一気に両軍入り乱れる乱戦へと移行した。
「我らは王騎様の背後を守護する。馮ッ。盾の配置を見誤るなよ。重装盾は私の指示に従え。李豹は回り込む敵を迎撃。各員、ぬかるなよッ」
龐煖から距離を置くことに成功した王騎は、全隊を立て直すにあたり、現在の位置取りのまずさを理解していた。ゆえに、敵援軍の突撃をそのまま受けるこの場に留まることを良しとせずに、元より対峙していた敵左軍を障害物に見立てて、その後方に拠点を作らせるように指示を出すと同時に移動を開始した。
当然、王騎が移動をすれば「逃がさぬぞ。王騎ぃッ」とばかりに龐煖が再び迫ろうとしたが、そのたびに朱錐が毅然と立ちはだかったために近づくことは叶わなかった。
「龐煖の武は群を抜いている。それゆえに、我らは戦いはしない。重装盾、一丸となりその身を盾と為せッ」
朱錐は龐煖が王騎に目を奪われていることを利用して、巧みにその進行方向に重装盾を展開しては行く手を阻んだ。
「盾では我は倒せぬぞッ」
龐煖は、絶対的に揺らぐことのない武への自尊を宿しているからこそ、今、この時に廻り道をするという選択肢を思い描くことができなかった。
だからこそ、大いにこの足止めに掛かっていた。
「ぬッ」
龐煖の一刀を受け止めた重装盾隊は、揺らぐのみで、道を切り拓くことはできなかった。
「だからどうだというのだッ」
面で突破できないのならば、点を突くのみ。と自身の躰を回天させながらの特殊な気を込めた逆突きを放った。これには、重さと頑強さが売りである重装盾ですら形を保てずに砕ける結果になった。
龐煖は、そこから左右にいる盾を押しのけようと力を込めようとしたが、不意に背筋に走った不穏な気配に、躰を捻りながら後ろに飛び下がった。と同時に轟音が響き渡る。
「重装盾を砕くとは、流石。だが、我らを楽に通過できるとは思わぬことだ」
回天と特殊な気を込める逆突きは一点を叩く大技であり、突き出した矛を収めるまでは、消すことのできない隙が存在していた。
「貴様ッ どこまで我の邪魔をする」
龐煖は、朱錐の振り下ろしを辛うじて躱して距離をとったが、その隙に開けた穴は塞がれて、再び壁となって行く手を阻んでいた。
「貴殿が諦めるまでだ。ここが正念場である。一瞬の隙が死を招くと心せよッ」
朱錐の檄に部隊は「「「応ッ」」」と大きな熱を放つとそれを共有し、一つになると敵を怯ませる威を発していた。
「さぁ我らと根競べと行こうか」
龐煖はその熱量に当てられたのか、厚く堅い扉を護る鬼の姿をも幻視してしまった。
また、龐煖にとっては、この塵芥のような何者でもない者たちに躓かされている状況に理解が追いついてはいなかった。そしてそれは、次第に歩みを重くさせ、遠ざかる王騎の背には焦燥感すら覚えさせる結果となった。
武において、およそ人外の極みに立たんとする「個」である龐煖だからこそ、「群」として立ちふさがる敵を打破する術を見いだすことができずにいた。
それはまさに、己が武を天に示さんとするがゆえの立ち往生であった。
王騎と龐煖の一騎討ちがうやむやになった頃、実質的な総大将であった趙荘に王騎の副官である騰の刃が届いた。
「この趙荘が死のうとも、もはや勝敗は揺るがない。先に待っているぞ。王騎ぃッ」
騰騎馬隊に貫かれた趙荘は、件の言葉を叫び、その生涯を終えた。
ひとまずの目標を排除した騰騎馬隊は、次なる目標にむけて馬首を揃えていた。
「趙荘は討った。殿には朱錐が付いているから問題はない。敵はこちらの数倍は居よう、ゆえに我らは新たに出現した敵本陣まで貫く。隙を作るぞ」
騰騎馬隊は隊列を整えると再び死線のさきに身を投げ出すように駆けだした。
この戦場に蓋をした趙指揮官李牧は、第一陣を出撃させてからも刻々と動く戦況の動きを静かに頭の中で組み立てていた。
「龐煖様は、王騎を討ち果たせるでしょうか」
その思考の泉に一石を投じたのはカイネであった。
「そこはおそらく、としか」
李牧はカイネの一言で、一騎討ちをしているはずの龐煖に関する報告がないことが今になって気に掛かっていた。
「誰か二人の一騎討ちの行方を知るものはいませんか」
すると「この者が詳細の報告に参りました」と一人の兵を連れてきていた。
「龐煖様と王騎の一騎討ちは敵将の介入によって、決着はつきませんでした。その後王騎はその場を離れています」
「ふむ、王騎は龐煖の相手をしませんでしたか、流石ですね。では、龐煖は王騎を追っていますか」
「いえ、追うことは叶わず足止めをされております」
李牧は「龐煖を足止め、ですか」と呟きながら、自身の知り得ない何かが起こっている。とふぃに胸騒ぎを覚えた。
「それは何者によってですか」
「名前まではわかりません。ですが、足止めを行う重装盾の姿が見受けられましたので、初日に渉孟様を討った部隊ではないかと」
「報告では、第六軍副官の虎豹、でしたか」
と李牧は魏加とカイネに視線を送るが両者とも首を横に振っていた。
「誰かその第六軍の将の名を知るものはいませんか」
李牧は少しでも正確な情報を得るために問いかけた。しばらくすると、前線から帰還してたであろう傷だらけの兵から「朱錐と呼んでいるのを聞いた」と報告があった。しかし、李牧には心当たりがなく、再び両者に視線を向けた。カイネは先ほど同様に首を横に振っていたが、魏加は「朱錐?どこかで聞いた名だ」と首をかしげていた。
「魏加殿には心当たりがある様子。その者になにか特徴はありませんでしたか」
「はっきりとしたものでしたら、鬼の面でしょうか」
魏加は「鬼…の面、朱錐」と言葉を並べるとよりわけられていた記憶が一つにまとまるのを感じた。
「その者が鬼面の朱錐と呼ばれていた者であるなら、覚えがあります。当時は昌文君という将の副官であったはず。中央が主戦場でしたので、北方が拠点であられた李牧殿が知り得ぬのも無理はないかと」
李牧は魏加の言葉通り、寡聞にして鬼面も朱錐という名も記憶に存在していなった。
「そうであったとしても、龐煖を止めるほどの手練れの名が多少なりでも流れなかったとは考えにくいのですが………」
「李牧殿。その者が件の人物であるなら、納得はできます。私の知る限りこの五年、いやおそらくはもっと。その名が挙がったことはないはずです」
「………そうですか」
李牧は新たに知り得た情報を精査しながら言葉を続けた。
「将の名は朱錐。渉孟殿を討ったのはこの者の副官の虎豹で間違いありませんね」
側近が肯定を示すように頷くと、確認するように、さらに言葉を発した。
「軍の規模はどの程度でしたか」
「昨晩、万極軍が接触した相手は、重装盾隊と盾隊が多く配置されていたとのことで、件の第六軍であると推察されます。規模で言えば二千、多くて三千と報告を受けています」
「二千から三千ですか。軍というよりは隊と言った感じですね。あの、李牧様は何か気になることがおありなんですか」
「カイネ。一人は龐煖を足止めにして、もう一人は渉孟殿を一騎打ちで討ち取るほどの手練れ。警戒するのは当然のことです」
そこで李牧は少し視線を下げると瞑目した。
「李牧様?」
「………、ここにきていない大隊に伝令を出します。急いでください」
李牧は得体のしれない将が紛れ込んでいるという事実に、今一度、何かを見落としてはいないかと、一人警戒心を強めていた。