「? 玄象がどうかしたのか」
朱錐は疑問符を浮かべたまま、カイネに話しかけた。
「………なんでもない」
カイネは玄象を睨みつけていたが、その姿が見えなくなるとそっぽを向いた。
「ふむ、なにかはわからないが、私はこの件を預かることになった朱錐という。貴殿はーーー」
「カイネだッ」
朱錐は返事になにやら怒気が込められていること察すると、こちらから話すのではなく、質問に答える形に会話を変更することにした。
「うむ。それではカイネ殿。貴殿の聞きたいことに応えるので、質問があれば訊こう」
カイネは、朱錐の穏やかで落ち着いた声に、ふと我に帰ると言葉を正して、気になっていたことを尋ねた。
「………。どうして私は牢ではなく、この部屋に留められているのでしょうか」
「なるほど、まずは、こちらを読んでもらいたい」
朱錐は「許可を得て中身は改めさせてもらっているよ」と声を掛けながら、懐から竹簡を取り出すとカイネに手渡した。竹簡を開いたカイネは、これが李牧の書き記したものであることをすぐに察した。
「………李牧様」
竹簡には、「捕虜交換という形で交渉するので、短慮を起さないように」と綴られていた。
「そういった経緯から、捕虜である貴殿に万が一があっては、いけないからね。怪我の治療と経過をみるために、牢ではなくこの部屋になったというわけだ」
カイネは、その言葉に剣を突き立てられていた鳩尾のあたりに手を当てた。
「治療していただき、感謝します」
「大分落ち着いたようだね。あと、治療をしたのは、玄象であるから、もし礼をするなら彼女に言うと良い」
「あいつが………」
カイネは言い負かされたとまでは言わないが、さっさと逃げるように部屋を出ていった玄象の姿を浮かべていた。
「他に、なにかあるかな」
少し俯くと、意を決したように「朱錐殿は、趙人に対してなにか思うことはありますか」と言葉を発した。
「これは、不思議な質問だね。………なぜかを窺っても良いかな」
「先ほど、玄象から、お前たちは責任を擦り付け合って争い続けている。と言われました。それに私は答えることができず………秦人はどうなのかが、気になりました」
「ふむ。なぜそのような議論になったのかは気になる所だが、ひとまず応えるとしよう。まず、玄象の言は正しいと言えるだろう。国同士の争いとは、元より、そういうものだ。それは君にも理解できているのだろう」
「………どう言葉を取り繕ってはみても、否定はできない、と理解はしてます」
「うむ。なぜなら、国同士が争うのは、憎しみなどによる所ではなく、あくまでも、国益に沿う所にあるからだ。例え、そこに個人的な恨みが利用されることはあっても、だ。さらに、数百年も戦い続けているのだ。もはや、責任の所在などみつけようもあるまい」
「では、朱錐殿は、趙人と秦人は争い続けるしかない、とお考えですか」
「カイネ殿がそうであるように、私も秦国の将として、国の御旗のもと戦い続けるのみだ。ただ、私、個人としての見解は少し違う。カイネ殿は、商人をどう思われますかな」
「商人、ですか」
「うむ。彼らのなかには「利」を求めて、国を跨ぐものもいると聞く。それはなぜだろうか」
「それは、より多くの「利」を求めるからですよね」
「そう、国の色を背負う形になるであろうが、彼らからすれば、秦人であろうと趙人であろうと「利」の前では同じ人なのだ」
「同じ、人………」
「そして、秦人に罪人となるような罪を為すものがいるように、趙人にも同じような輩はいるであろう」
「同じ趙人としては、度し難いことですが、いないとは言えません」
「ならば、その逆も然り、とは考えないかね」
「その逆………。趙人でも秦人でも同じように良い人が………いる?」
「うむ。では、彼らを色分けているのは、何であろう」
「えっ、く、国?」
「そう。国だ。長年、争い続けた我れらが、これからも争い続ける要因はく………」
カイネは朱錐が言葉を止めたことに疑問符を浮かべて「どうかしましたか」と声を掛けようとしたが、機制を制するように「この話はやめておこう」と朱錐は言葉を発した。そのことに、真意を問おうとしたカイネであったが、朱錐は「カイネ殿の上官にでも訊くと良いだろう」とそれ以上は話さなかった。
「この話はここまでだが、一つだけ付け加えるなら、だからこそ、しっかりと守るべきものを己の芯に据える必要があるということだ」
「守るものを芯に据える、ですか」
「………ん? どうやら準備ができたようだ」
言葉を示すように入室の許可を求める声が外から掛かり、朱錐がそれに応じると数人の女性が入室した。
「捕虜交換の話はすでに済んでいる。この女性たちは、カイネ殿の身支度を整えるものだと理解して頂きたい」
その言葉に、カイネは「身支度ですか」と多少の疑問を抱いたものの、女性たちが「よろしくお願いします」と頭を垂れるので「お願いします」と応じるのであった。
「よし。カイネ殿。これで私は退出するが、あとのことは彼女たちに任せておけば問題ないので、従うように」
そうしてカイネに女性たちがスススッと近寄り、そっと両腕を抑えたために「えっ、ちょ、朱錐殿ッ ちょっと待ってください。まて、なんで脱がそうとするッ」とカイネは声を挙げていたが朱錐振り返らずに「カイネ殿においては、短慮を起さないように」と言葉を残して部屋をあとにした。
「お前も悪いやつだなぁ 朱錐」
部屋の外には壁に背を預けた虎豹の姿があった。
「悪い奴もなにも、あなたの指示でしょう。それに、怪我をしているのですから出歩かないように、と念を押されていたように思いますが」
虎豹は穿たれた脇腹の傷の具合よりも、こちらのことが気になり出向いていた。
「問題ないよ。象も付いていてくれるし」
ビクっとしたように応えのは、玄象であった。
「えっと、ついてるというか、部屋を出た所で捕まった、というのが正しい、かな」
と、どこか朱錐の視線を避けているのは、先程カイネを押し付ける形になった気まずさであった。それに、朱錐は「気にすることはない」という意味も込めて名を呼ぶと、今行われている事象について、虎豹に尋ねた。
「象が付いているのなら、安心だろう。それで、これの意図はどこにあるのかお聞きしても」
「おっ、何気に朱錐が象って呼んだの初めてじゃないか」
と茶化すように言葉を発すると「ほんとにそう。呼んでいいっていったのに、一回も呼ばなかった」と玄象も同意した。
「気軽に女性の名を呼ぶのは、それはそれで問題があるでしょう。それよりも、先程の意図をお聞きしたいのだが」
「大きな意味はないとは言わない。ただ、象の話を聞いてな、少しばかり想うことがあった。その程度のことだ」
朱錐は虎豹の言葉にふと考えたが、害をなす行いではないので、黙認することにした。
しばらく三人であれこれと会話を重ねたあと、朱錐は「捕虜交換に使う馬車の確認をしてくる」とその場をあとした。そうして「準備ができました」と部屋内から声が掛かると二人は中に入った。
「へぇ~、そう、ふーん」
と、興味深いようにまじまじと眺める玄象と
「随分と様になっているじゃないか」
と満足げに頷く虎豹の姿があった。
「ック 私になにをさせるつもりでこのような真似をしたっ」
カイネは、慣れないのかどこか恥ずかし気に声を荒らげた。
「何もさせないよ。私からの、ささやかな贈り物、ってところだ」
と虎豹は応えた。
場所は、馬陽近辺にある街道上の平地。
そこには、李牧と魏加の二人の姿とその護衛、そして、不測の事態で退却せざるを得なくなったときの支援のために趙国近辺で待機させていた趙将の姿があった。
「李牧殿、無事にことが運びそうで一安心ですな」
「ええ、魏加殿。こうして貴方に残っていただけて、心強く感じております」
「カイネとも知らぬ仲ではない故に、な。まあどちらも了承した交換であるのだ、大事はないでしょうがな」
「それでも、ですよ」
二人の和やかな会話の外では、悶々とぶつくさと愚痴を吐いている男がいた。
「ッチ カイネにもしもがあったらあんたをぶった斬ってるところだったってのによぉ」
その言葉通り、李牧からの報せを受けたこの男傅抵は、自身の部隊を置き去りにして李牧のもとに駆け付けると恐ろしほどの剣幕で言い募り、返答如何では李牧に対して剣を抜くことすら辞さない覚悟であった。
「どうやら傅抵の奴はまだ納得がいかない様子ですな」
「いえ、これは私の不徳によるものですので、ただ、受け入れるのみです」
「李牧殿が討たれるようなことになっては、私も傅抵を射らざるを得なくなりますから、努々お気を付け願いたいものです」
「ええ、そうならないように更なる精進を誓います」
彼らがそうして会話を重ねているうちに、複数の騎兵に囲まれた一台の馬車が、遠くからこちらに向かう姿が見えてきていた。