遠くに見えていた馬車が到着すると、進み出た朱錐と李牧は言葉を交わした。
「この件を預かった朱錐という」
「私は李牧と申します」
李牧は、朱錐という名に思い至ると、気づかれない程度に注視することにした。
「まずは李牧殿。お互いの捕虜を、この場にて平和的に交換する。ということで、よろしいかな」
「はい。それで相違ありません。私にとってもあなたにとっても平和的であることを望みます」
「了承した。それでは、まず無事な姿を確認したいのだが、よろしいか」
「ええ、かまいませんよ」
李牧が後ろに顔を向けて頷くと、近くに停車していた馬車から一人、また一人と合計四人の者が地に足をつけた。
朱錐は四人に無事な姿を確認すると気になったことを李牧に尋ねた。
「こちらは一人の将校に対して、そちらは四人だ。なにか条件をつけてもよかったのではないのか」と。
「もとより、彼らは戦が終結した段階で解放する予定でした。そういった意味では、こうして交渉に使うこと自体は、本意ではない。ということです」
「なるほど。李牧殿はできた方のようだ」
「私など、できた、というほどに何かを為した者ではありませんよ。それよりも、こちらも確認したいのですが、よろしいでしょうか」
謙遜というだけはないな。と胸の内で言葉をこぼした朱錐は、李牧という人物は、慢心や油断を期待できるような将ではないと感じていた。
「朱錐殿?」
李牧はこちらを見据えたまま反応を示さない朱錐に再び声を掛けた。
「む、そうであったな」
朱錐が合図を出すと馬車の戸が開き、一人の女性が姿を見せた。
そこには、普段の姿とは違い、髪を綺麗に結いあげられた上に化粧をほどかされ、さらに、白を基調とした華やかな衣類に袖を通したカイネの姿があった。
「………、これはどういうことでしょうか」
しばし唖然とした李牧であったが、冷静さを取り戻すと尋ねた。
「李牧殿の言はもっともだと理解できる。これは私の副官虎豹の言であるのだが、ささやかな贈り物。であるそうだ」
「虎豹殿からの、贈り物、ですか」
「詳細については、私も聴き及んではいない。カイネ殿が所持していた物品は、あちらの者が持っているので、受け取られよ」
「そう、ですか」
李牧は狙いを察していたが、それを言葉にすることはなかった。そうして、お互いの捕虜は無事に交換された。
「り、李牧様。この度は私のせいでこのような交渉をさせてしまい、申し訳ありませんでした」
李牧は、華やかで美しい衣装に身を包んでいようとも、一武官として滞りない所作を見せるカイネの姿に、傷の具合は悪くはないようだと安堵した。
「あなたの無事が確認できて、何よりです。カイネ」
「李牧様………」
とカイネが感じ入るのを邪魔するように声を掛けたのは傅抵であった。
「お前、なんだその恰好はッ ついに俺の嫁になる決意ができたってことだろう」
と冗談半分本気半分で言い放って肩を組もうした傅抵をカイネは「馬鹿が」と一撃を喰らわせて一蹴した。
「傅抵、それにカイネもその辺にしておけ。ことが無事に済んだとはいえ、いまだ秦の勢力圏であることを忘れるな」
「あッ、と、魏加殿も私のために申し訳ありませんでした。それと、ありがとうございます」
「うむ。無事ならばそれでよい、気にするな」
李牧はひと段落着いたことを見計らうと声を掛けた。
「さあ、皆で趙国に帰るとしましょうか」
李牧は朱錐に最後の挨拶を済ませると踵を返して歩き出した。そうして、初めにその目が捉えたのは、出発のために帰り支度をしている皆とはべつに、李牧が戻るまでその場にとどまっていたカイネの姿であった。
「どうかしましたか。皆が待っていますよ」
カイネは、俯きながら何かを言いたげにしているが、その先の言葉が外にでてこないようであった。
「あ、あの、り、李牧、様………」
その様子に、李牧は手でカイネの言葉を押しとどめると言葉を発した。
「あなたには、白の衣装がよく似合いますね。とても綺麗ですよ。カイネ」
「あ、あ、あありがとうございますっ」
カイネの美しく着飾った姿に普段はあまり見せない反応。それらに少しばかり感じたおかしさに表情を緩めた李牧は言葉を続けた。
「さあ、皆が待っていますから、行きましょうか」 「はいッ」
李牧のやさし気な表情に見惚れていたカイネであったが、その実、李牧の瞳の奥には、誰にも知り得ない燻りが生まれていた。
順調に捕虜交換が行われていた舞台裏では、怪鳥王騎が重傷を負って敗走した。という一報が列国に衝撃を走らせていた。
秦国本営は、あくまでも趙の侵略を退けた王騎大将軍の活躍を褒めたたえて、国内の士気向上に努めた。だが、人の口に戸を立てることはできずに、聡い者たちは「六大将軍王騎の敗走」が齎す列国の侵略戦争を想像して、その身を震わせていた。
同時に、一時代を席巻した大将軍でさえも過ぎ去る歳月には勝てぬと悟らせ、列国が恐れていた六大将軍王騎という名への恐怖心は、大きく後退することになった。
それは、秦国領土に向けて盛んに行われるようになった侵攻作戦によって浮き彫りになっていくことになる。
また、王騎は秦本営に対して、此度の失態を理由に、大将軍の位を返還する意思がある旨を通達したことで、「王騎は完全に前線から退くつもりだ」という憶測を生み、さらなる混迷が巻き起こることになった。
当初はその申し出を固辞していた本営であったが、列国の侵攻作戦が頻発するようになると、王騎の名はすでに過去の遺物であると判断されて、承認される運びとなった。
そして………
「俺になんの用だ」
咸陽に戻っていた蒙武を呼び止めたのは、騰であった。
「殿より伝言を授かった」
蒙武はその言葉に興味を持つと「話せ」と先を促した。
「ンフフフ、蒙武あなーーー」
「待て」
「ーーーたの課題はめいーーー」
「俺は待てと言っているッ」と騰に掴みかかった。
「む、何だ」
とぼけようする騰であったが、蒙武の射抜く視線は真剣そのものであった。
「わかった。まじめに話す。手を放せ」
解放された騰は、蒙武に王騎の言葉を伝えた。
その頃、別の場所でも一つの出来事が起きていた。
「私の名は朱錐という。信殿で間違いないかな」
「うん?あッ、その鬼の面は俺を助けてくれた部隊の軍長だよな。ありがとな。尾倒のやつも助かったし、この借りは俺が出世して大将軍になったら、いつかぜってえ返すからよ」
信の言葉からは、大将軍にたどり着けないという負の感情を一つも感じさせないものであった。
「期待して待つことにしようか」
「おう。俺は絶対に成るからな、待っててくれ。それで俺に何の用なんだ」
「うむ。私は王騎様の命を受けて、これを渡すために来た」
と朱錐は後ろに控えていてた者に視線を送ると、布に包まれた矛とともに前に進み出た。
「お前、李豹じゃねえかッ あの時のことは忘れてねぇからなッ」
「ッフ お前は変わらないようで安心したぞ」
と、李豹は、熱くなっている信とは対照的に、王騎より預かっていた矛を静かに渡した。
「っと、なんだこの糞重たい上に、古くせえ矛は」
「いらぬというなら、私にそれを譲っても良いんだぞ。なにせ、王騎様が若かりし頃に振るわれていた矛らしいからな」
「まじか、王騎将軍が………この矛を」
李豹から矛の由来を聞くと、信は、たちまちとても価値のあるもののように思えてきて、思わず身震いした。
「李豹の言は正しい。が、王騎様が鍛錬のために使われていたものだと聞いている。その重さで分かる通り特注品ではあるが、売っても二束三文にしかならない品物のようだ」
一転、信は朱錐の言葉にがっかりした様子を見せた。
「んんだよ。期待させといて価値なしかよ」
朱錐は、その様子から、大将軍から矛を授かるということの意義を語った。
「矛自体の価値はそうかもしれないが、王騎様がその矛を授けた。という価値は、信殿が考えるよりもずっと大きいぞ。それと「まずはそれを自在に操れる程度には成長なさい」との言を王騎様より授かっている」
「自在に、ってこの重たい矛をかよ」
「無理なら私に寄越してもいいんだぞ、信」
李豹の言葉は、信をうまく焚きつけたようので、威勢のいい言葉を引き出した。
「っな、………俺はすぐにこの矛を使いこなして、将軍への道を駆けあがってやるから覚えとけよッ」
「その言葉を忘れるなよ、信。まあ俺はお前よりも早く将軍になってやるけどな」
「なんだとッーーー」
面一つとはいえ素性を隠してはいる李豹からすると、気の知れた信との掛け合いは、あの頃の自身を思い出せたのだろう。一人称は「私」から「俺」へと自然に変わっていた。
第44話でした。
この話で、馬陽攻防戦は終わりとなります。
次話からは、新章です。
風雲急を告げる超展開が、ここから、はじまりませんので、ご注意ください。
細々と更新を続ける予定です。
お読みいただきありがとうございました。