蒙驁軍の兵に囲まれている玄象は、いら立ちを抑え込むように胸の前で腕を組んで佇んでいた。
「ッ、李豹………、朱錐はまだなのかッ」
時は少し遡る。
玄象は、最初の攻防で仕留めきれなかった襲撃者が路地に消えていくのを臍をかむ思いで見逃すと、重傷を負っていた李豹に応急処置を施していた。だが、駆け付けた巡回兵は、手当がひと段落着いたのを見計らうと、所属が不確かな玄象を怪しみ、身柄を抑えに掛かった。
「私に触るなッ 早く二人を治療できる所に運べ。生死にかかわるぞ」
玄象の視線の先には、辛うじて息をしている二人とは違い、すでに息絶えている洪の姿があった。
「むッ 承知している」
巡回兵の長は、手で息のある二人を運ぶように指示をだすと言葉を続けた。
「だが、そなたは身元がはっきりするまで拘束させてもらうぞ」
「ッチ 朱錐を呼べ。私は本日到着した第六軍所属副官付きの玄象だ。軍長の朱錐を、早くッ」
その頃、近利関をうまく抜け出した襲撃者である輪虎は、馬で駆けていた。
「やられたよ。油断したわけじゃなかったんだけどなあ」
腕に巻かれた包帯の下には深い傷が刻まれていた。その様子に、部下は労わるように声を掛けた。
「輪虎様にそのような手傷を負わせるとは、そやつは何者でしょうな」
「どうだろう。増援が来たって話だし、そっちの将かもね。う~ん正直、腕は僕と互角か、或いは、上かもね」
「っな。輪虎様よりですかッ」
「いやいや、腕だけだよ。なにも一騎討ちで勝負するわけんじゃないだからさ、驚くほどじゃない。それに、僕ぐらいの腕なら、そう多くはないだろうけど、いないわけじゃないよ。個で敵わないなら群で勝てばいい。それだけさ」
「いえ、たしかにそうでしょうけど………」
「ん? 納得できないのかい。まあ僕も玄峰様からの教えを受けてなかったら、君にように考えていたかもね。戦いは勝つことがすべてなんだよ。どんな手を使ってでもね」
と不敵な笑みをみせた輪虎は、敵に負わされた手傷のことには執着せずに、戦全体のことを思案すると言葉を口した。
「とりあえず、殿に報告しとこうか」
まどろみから覚めた世界は、何もない空間であった。
躰をみても確かに受けたはずの傷はなく痛みもない。周囲を見渡せど、ただ白く薄く拡がる世界があるだけ。
「俺はなぜここにいるんだ」
出したはずの声は宙へと消え、耳にも残らない。
「………、だれか、だれかいないのかッ」
ふと、去来した寂しさに声を張り上げようとも、声はどこかに届くこともなく消えていく。そのとき、ふと、顔に手を当てるとさわり慣れた面がひとつあった。
「面………、なぜ俺はこんなものをしているんだ」
そう思って手に取った面は霧にのみ飲まれるように手から消えていく。
「なんだったん………、いやたいしたことでもないな」
ただただ拡がる白い薄い世界は、少しずつ「李豹」の世界を消して景色と同化していく。
「私は、わたし? いつから私と。俺は俺といってなかったか」
引っ掛かった記憶の隅に引っ張られるようにだした言葉は、その間にも拡く薄く白く消えていく。
「俺はどこにいこうとしているんだ」
いつの間にか遠くに出現していた構造物にも「漂」は、何一つの違和感も抱かない。
その時、何かが聴こえた気がした。
「………?」
誰かの声が聞こえる。
「ーーーな、戻ってーーー 豹」
「豹………漂………ヒョウってだれだ。すまないが、俺は行かねばならないんだ」
声を無視するようにーーーは歩みはじめた。少しずつ露わなる構造物。
「あとすこし………なのに、進めない」
前方から肩を抑えられたような感覚を受けて歩みを止めると、今度は、なにかに後ろから抱きとめられたように、躰は前へと進むことができなくなっていた。
再び、誰かに声がした。
「お前はッ 大将軍になるんじゃなかったのかッ」
聴いたことのある声だ。
「だいしょうぐん?」
けれど、何を言っているのか理解できない。
「わからないのかッ 私がッ お前はッ私がわからないのかッ」
抱きとめた腕は次第に鮮明となり、背中には確かな温かさが生まれていく。
「………あれ、象。なんでここに?」
「豹、行くなッ 私を置いていかないでくれ。お前がどうしても行くというなら、私もともいくからッ」
「………、俺が、象を置いていくわけがないじゃーーー、なにをーーー」
李豹が振り返えると、そこには玄象の姿があり、それと同時に、二人を包み込むような光が発せられた。光に視界が覆われた世界の先に人影が一つ。
目を開けば、そこは、どこかの建物の中であった。
「ここは」
「李豹ッ 目覚めたのか」
「え………、しゅ、朱錐、様」
「ふぅ。一先ずは、意識が戻ったようでよかった。象はお前を助けるために無茶をしたらしい。あとで礼をいってくように」
「象が………、俺は斬られて?」
意識の混濁が見られる李豹に、不機嫌さを隠さずに言葉を発したのは見知らぬ者であった。
「お前の命は、この世から離れようとしていた。象姉はそれを止めるために禁術に手を出した。ただの伝承だったはずなーーー」
李豹は見知らぬ者の言葉に理解がおよばずとも、よからぬことが起こていると直感したのか、慌てるように声を発した。
「き、きんじゅつ? 象は、象は無事なのかッ」
見知らぬ者は、自身を顧みないように姉の安否を気に掛ける李豹の姿に、姉が何を想って禁術に手をだしたのかを少しだけ理解ができたがゆえに、不機嫌さを抑えて現状を告げた。
「………、たぶん大丈夫。息はしてる。だけど詳細は私にもわからない。あとは、目覚めるまで待つしかない」
「象………」
事は、朱錐たちが玄象の身元の照会をした後まで遡る。
そこは、とある家屋の一室であった。部屋には、朱錐を含めて、六人。一人は玄象であり、残りは、巡回兵の長に護衛が二人、それに詳細を記録している者が一人であった。
「お前が拘束対象になるなど、一体なにがあった」
朱錐の言に、玄象は時間が惜しいばかりに口早に経緯を語りはじめた。
「李豹に会ったあと、怪しい人影に気付いた。そいつを殺るついでに情報を聞きだそうとしたけど、それなりの手練れで口を割らなかった。黒衣を纏った亡骸はそのままにしてあるから、三つ見つかるはずだよ」
朱錐が視線を蒙驁兵に向けると静かに頷き「今の所、黒衣を纏った二つ死体が確認されています」と口にした。
「その壁面上にもう一つあるはずだから、よく探しな。それから、敵の狙いが秦将だってわかったから、首魁を捕まえるつもりで、騒ぎが起こっていく場所から、おおよその位置を割り出して通りに出た所で、豹が………」
玄象はギチリと歯を食いしばり、怒りを露わにしながら続きを口した。
「斬られる寸前だった。あとは、そいつを殺るべく突っ込んだんけど、殺しきれなくて逃げられた。その辺は、そこにいるおっさんも見てただろう」
「ああ、確かにみた。だが、そなたの身元が不明であった以上は、間者かどうかを疑わねばならなったのは、理解してほしい」
と巡回兵の長は語った。
「なら、もういいだろう。私は豹のそばに行く」
と歩き出そうとしたのを留めたのは、先程の長であった。
「羅元様の裁可が下るまでは、待機して頂きたい」
「ッ、どーーー」
その言葉で、頭に血が上った玄象が暴発しそうなのを察した朱錐は玄象の両肩に手を置いて押しとどめた。
「落ち着け、象。すでに虎豹が事情を説明するために走っている。もう帰ってくる頃だろう」
朱錐の言葉が示唆した通りに、虎豹が伝令を引き連れて姿を見せた。
「行け。南の救護室だ」
部屋に入るやいなや虎豹は入り口を明け渡すと玄象を走らせた。
「な、なにをッ」
と慌てる巡回兵の長に、虎豹は伝令を指さした。
「事情を聞くといい」
朱錐は、巡回兵の長の視線が伝令に移ったのを確認すると虎豹に訊ねた。
「それで、羅元殿はなんと」
「なんてことはない。何かあれば責任をとれ。だそうだ」
朱錐は「なるほど、承知した」と口にすると、伝令から報告を受けている巡回兵の長に声を掛けた。
「すまないが、敵の容姿について窺ってもよいか」
家屋から飛び出してきた玄象を視認した馮は、叫ぶように言葉を発した。
「南の救護所は城門通り沿いにあるッ」と。
「すまないッ」
玄象は、馮が指し示した方角にある家屋の屋根に駆け上がると、一気に加速して街を横断していった。
「豹ッ………」
そうして、全速力で駆け抜けた先にあった救護所に飛び込だ玄象を待っていたのは、治療を受けたとはいえ、弱弱しい呼吸音を響かせたまま、横たわる李豹の姿であった。上半身にまかれている包帯からは、斬られた箇所を沿うように、朱い血が滲んでいた。
「豹………、死ぬんじゃないぞ」
横たわる李豹の手を両手で握ると祈るよう言葉を紡ぐ。
「豹、行かないでくれ。私を置いていくな」
救護室にむなしく言葉が消えていこうとも、言葉は溢れていく。
「頼む。死ぬな、戻ってこい。豹ッ」
すがるような願いもむなしく、玄象の直感は告げていた。今まさに消えてしまいそうな命の灯が消えてなくなろうとしていることを。
玄象は記憶にずっと留めていた術を試す決断を下した。
「必ず、かならず、助けてやるからな。もし………だめだとしても一緒だからな」
そうして、玄象は、記憶にとどめていた口伝の禁術を紡ぎ始めた。
「第一の門くぐりーーー第二のーーー盤古のーーー天は地へーーー人の命は連華の光、人の命は」
「唯 唯 光」
玄象の視界は光にまみれた。
ここに、常人には気取ることのできない気の流れの中に一つの特異点が生まれた。
そして、この特異な気の流れに気付いて、すぐさま駆け出した者が一人いた。
だが、ついた頃には、重傷で横たわる者に両手を添えて寄りかったまま意識のない姉の姿があるだけであった。