「元趙三大天とは、名ばかりなのか」
と言葉を発したのは、魏軍本営に姿を見せた優男であった。その声に、後ろを振り返った白亀西は、その姿を視認すると姿勢を正して、その者の名を呼んだ。
「れ、霊凰様ッ」
優男こと霊凰は頷いて見せると、総大将である白亀西に矢継ぎ早に指示を飛ばした。
「白亀西とやら、第二、第三陣をすぐに動かせ。敵もすぐに動いてくるぞ」
霊凰とは、かつての戦乱を彩った魏国が誇る大将軍、魏火龍七師の一人である。その深淵なる策謀を巡らす姿から大軍師霊凰と恐れられていた漢であった。
「え、あっ、は、はい。た、ただちに取り掛かります」
此度の山陽防衛戦の総大将は白亀西である。しかしながら、魏火龍とは、秦における六大将軍に匹敵する力を有する者たちに魏王が贈った称号であり、白亀西との格の差は明確であった。そのため、白亀西は後方に控える幕僚に、霊凰の言葉を正確に伝えるために奔走することになる。
それに入れ替わるように、本営の丘から戦場を一瞥した霊凰は、つぶやくように言葉を発した。
「とはいえ、あの伏兵を読んだ、というのだから、侮れる相手ではないか」
また、その霊凰の後ろには、フゥーッフゥーッフゥーッと荒い息を吐き顔全面を仮面で隠す大男が付き従っていた。
「フッ なるほど。私は、もう古い人間だ。あの王騎は無名の将に敗れ、今、廉頗の策に対抗する者が敵にいる。私が囚われている間に、時代は、確実に次の世代へと移り変わっている、か」
ところ変わって、秦軍本営。
「むぅ、朱錐の救援によって、どうにか戦線は保たれたか」
と顔をしかめ難しげな表情をして言葉を発したは秦軍総大将蒙驁であった。
「はい。独断専行ではありますが、結果だけ見れば、我が軍の先陣は救われた形になります。ですが、栄備将軍を救うまでは至らず………」
という幕僚の発言に、蒙驁は「栄備よ………」と呟き、しばし黙した。
その沈黙を破るように、新たな報を携えた伝者が姿をみせる。
「れ、廉頗が中央の戦場に現れましたッ」
との報は、蒙驁に驚きの声を挙げさせた。
「廉頗がでたじゃとッ」
この蒙驁の驚愕をよそに、さらなる詳報が伝えられた。
「敵左翼後方より、両軍が入り乱れる乱戦に姿を見せたとのことですッ」
それに対して、普段ならざる決意をもっていた蒙驁は即断即決すると大声を挙げて指示を出した。
「ここが勝負所、出し惜しみはなしじゃ。ここで、廉頗の首を獲るぞッ」
そして、舞台は激戦の最中へと。
「君が僕を? いいね、試してみるといい。まっ 無理だと思うけ、どーーー」
輪虎がふと「敵副官の視線の先にあるものが一連の流れの本命であったとしたら」と戦慄した一瞬の間は、致命的な隙となって、輪虎に振り掛かろとしていた。
「もう遅い。俺じゃないよ。討つのは、ね」
蒙恬の言葉を示すように後方から迫っていた虎の爪牙は、輪虎の命脈を断つーーー
「伏せぇぇえいッ 輪虎ぉおッ」
「ッ⁉ チぃ はあぁッ」
には、至らなかった。
それは、一瞬の交錯であった。
朱錐の伝令から始まった一連の流れは、朱錐による介子坊への突撃から始まり、輪虎の裏を掻く蒙恬の動き、それを受けた王賁の機転、そして、そのすべてを囮とした輪虎を討ち取る必殺の策は、完全に魏軍の意識の外側であり、成就するはずであった。
この、廉頗の介入さえなければ、である。
廉頗は、介子坊の奇襲の前に動きだした軍の姿を見逃してはおらず、それに、追随するように動き出したもう一つの敵の隊を見た時、最悪となる図を頭内に描き出していた。
そこから、廉頗の動きは早かった。
廉頗は、中央の指揮が白亀西では難しいと即断すると、己の恥など持ち合わせてはいないかのように、後方待機をしていた霊凰に伝令を走らせ、自身は常に付き従う百騎の精兵を連れると、すぐに出陣。全速力を持ってこの場へと馬を走らせていた。
当然、その動きを視界の隅に捉えていた虎豹であったが、物理的な距離から廉頗の介入は不可能と判断、確実に輪虎を仕留めるために意識を標的に絞っていた。
結果的に、それが裏目となる。
廉頗は、間に合わぬと判断すると侍る兵から槍を受け取り、輪虎に当たるように、膂力に任せて投擲したのだ。
廉頗の飛槍は正確に輪虎を捉えていた。それはつまり、虎豹が輪虎を討つために交錯すれば、虎豹に飛槍が当たることを意味していた。
声と同時に飛来する槍は、仕留めるために意識を集中していた虎豹の動きを阻害するようにかすめ、輪虎は廉頗の声に従い身を馬と一体化するように伏せに入った。
飛槍は、確実に交錯する寸前の一瞬と言う間を稼ぎ、虎豹の奇襲を遅らせた。
しかしながら、それは、まさに一瞬という間であり、さしもの輪虎も無傷とはいかずに、深手を負うことになる。
虎豹は手応えから即座に仕留めそこなったことを理解して、馬首を翻して追撃に入ろうとしていたが、今度は廉頗当人が割って入り、それを赦さなかった。
廉頗は飛槍を投擲した勢いそのままに追撃に入ろうとしていた虎豹に向けて全力で矛を振るった。対して、虎豹はその一撃をまともに受けたことで、馬ごと吹き飛ばされる結果となった。飛ばされながらも馬を御すことで、踏ん張ると、敵意を持って廉頗に視線を向けて今に至る。
「ほう、あれ受け止めるか」
と廉頗は呟くと虎豹を睨みつけた。さらに、視線は虎豹から外さずに、輪虎に声を掛けた。
「無事か、輪虎よ」
「………ぃててて、無事です。とは言い難い、かな」
廉頗の介入により、虎豹の一刀は輪虎を仕留めるには至らなかったが、背中に深い傷を負わせていた。
「フン それだけしゃべれるのであれば、大した傷ではないわ」
とは廉頗の言であるが、実際の所、輪虎は重傷と言って差しさわりなく、すぐに戦闘に復帰できる状態ではなかった。
「…ッ もちろんです」
死に体とまでは言わないが、己の身を押して、矜持のみで構える輪虎の闘志に陰りはみられなかった。
「しかし、まあ この儂を初日から引き出すとはのう」
と泰然とした物言いをしながらも、廉頗の眼は、最初の奇襲を画策した王賁、蒙恬ではなく虎豹を捉えていた。
「お主、何者じゃ。儂の槍を避け、気取られることなく輪虎の背を突き、さらには、儂の一撃をも受け止めたその手腕。とてもではないが、ただの一介の将とは思えぬ」
「ッフ 私が誰であるかなど、些細なことだ。者どもッ 廉頗と言えど、引き連れている兵は少数である。この機に廉頗を討ち一気にこの戦を終わらせるッ ゆくぞッ 廉頗の首をーーー」
と高らかに剣を掲げ号令とともに振り下ろそうとした虎豹であったが、周囲の異変に気付くと、動きを止めた。
「ヌハハハッ、その意気や良しッ じゃが、儂をそう簡単に討ち取れるとは思わぬことだ」
廉頗の言葉を肯定するように、魏軍の後方より響くのは敵増援の報せであった。
「さあ判断せぇッ ここに留まれば、或いは、儂を討てるやも知れぬが、貴様らが全滅するのは避けられはせぬぞッ」
廉頗の言葉を肯定するように、魏軍は、魏火龍霊凰の指示を受けた総大将白亀西が動かした魏軍第二、第三陣総勢一万六千が突撃を開始していた。対する秦軍も、近年、稀に早さで決断を下した蒙驁の指示によって、第三陣八千に加えて中央軍一万が突撃を開始していた。
これにより、中央の戦場では、初日にして両軍合わせて六万に迫る兵が入り乱れる乱戦へと発展した。