第62話
流尹平野の戦い、二日目の朝。
秦軍総大将蒙驁は、昨夜、軍議の最中に両副将からのあった提案により、土門が指揮する第一陣に、栄備を失った第二陣、さらに、第三陣を合流させることを決めた。そして、同じく、両将からの献策を採用する形で拠出された五千ずつを一人の将に預けることを決断した。
「朱錐。守りを得手とする、そなたに、亡き栄備に変わり、中央右翼の指揮を任せたい」
これにより、両副将から拠出された総勢一万に及ぶ兵が朱錐たち第六軍の指揮下に加わることになる。
「謹んで拝命致します」
そして、蒙驁は、中央本軍全兵の前に姿を見せると語りかけた。
「皆の者ッ 昨日の働き、真に見事であった」
その蒙驁の声は、穏やかでありながらも力強さを感じさせて、よく透る声であった。
「じゃが、戦いは、まだまだこれからである。儂には、頼りになる副将王翦、桓騎の両将がおる。よって、本日、儂がそなたら全兵に伝える戦術は一つ」
これらの言葉に、本日の行動指針が話されると察した全兵士が息を飲んだ。
「それは、守備じゃ」
昨夜、軍議中にあった献策の内容は、兵の拠出や軍編成だけではなかった。
「儂の両腕とも呼べる両将の力は本物じゃ。必ずや、対峙する敵を打ち破って敵本陣を突くであろう。よって、儂は、敢えて、護りを固めて機が熟すのを待つことにする。皆よ。戦とは、なにも、自らが攻めこむだけが戦いではない。軍略とは、そういうものじゃ」
両将は、昨日の中央本軍の戦いに廉頗が顔を出したことで、単純な力押しのみでは、天秤がどちらに傾くかを予測することは難しいという結論に達していた。
「儂が王翦、桓騎両将軍を信じるように、皆も両将軍を信じよ。仮に、もし知りもしない二人を信じることができぬというなら、この儂の言葉を信じればよい」
そのため、中央本軍は守備に徹することで刻を稼ぎ、両翼に配置されている両将軍が対峙する敵を打ち破るという蒙驁軍が誇る必勝策を上申していた。
「よいな。秦国を支える我が子らよ。儂ともに、戦おうぞ」
決して、激しく感情を掻き立てるような檄ではなかった。だが、蒙驁から発せられた朗々として偽りない言葉は、兵たちの心の芯を確かに打っていた。
「うぉぉおおッ」
その証拠に、一人が胸の高まりをそのまま声に乗せて挙げれば、それは、波紋のように広がり、大きな歓声へと姿を変えていった。
「おっしゃッ いくぞ、皆ッ」 「「「応ッ」」」
飛信隊隊長の信も胸を打たれた一人であり、昨夜のことを吹っ切るかのように声を挙げると、配置場所へと向かうのであった。
時間は遡り、両軍が激突した一日目の夜。魏軍。
魏軍中央本陣の天幕内で、一人杯を傾けていた漢は、入ってきた大柄な漢の姿を視認すると声を掛けた。
「どうじゃ」
その声の主は、魏軍大将軍であり、元趙三大天の廉頗であった。
「ハッ 殿。命に関わるほどではありませんが、万全とは言い難く、それでも、明日も戦場に出ると」
と、言葉を返したのは、廉頗四天王筆頭である介子坊であった。
「フッ 左様か。輪虎が出陣するというのなら、好きにさせればよい。あやつは、できぬことを口にはせぬ。しかし、じゃ。策を読まれたばかりか、輪虎に傷まで負わせることになるとはのぉ。儂は、些か敵を侮り過ぎておったか」
との廉頗の反省の弁に対して、介子坊は、別の考えを示すべく口を開いた。
「殿。その様な事はないと、私は愚考します」
廉頗は、その言葉に興味を示すと、杯を机の上に置いて先を促した。
「ほう。なんじゃ、子坊。申してみよ」
「ハッ 殿の策に抜かりはなく、確かに、成っておりました。その証左に、敵は、私の出現に酷く狼狽しておりました。途中、生意気な小僧の隊に横腹を突かれたこと、また、その隊にいた面妖な者との交戦で、思わぬ足止めを食らうことになりましたが、敵将軍の首までは、容易であったと断言できます。と、するならば、殿の策が、ではなく、殿の策ごと喰らいつくそうとする新たな敵が現れたと考えるべきではないかと」
つまり介子坊は、慢心などの己の内からくるものによっての結果ではなく、廉頗という個を脅かす外敵が出現したのではないか、というものであった。
「ふむ。汝(ウヌ)の言、一考に値する。儂は、王騎の言葉にあった王翦、桓騎という名に、少し気を取られ過ぎておったのかもしれん」
と重く受け止めるような廉頗の言葉に、介子坊は「あくまでも、愚考ですが」と小さく口にした。すると、廉頗はそれに反応して、さらに、言葉を続けた。
「子坊、何を言うか。現に、王騎は李牧という当時ほぼ無名な将の前に敗北を喫しておるではないか。王騎にして、儂に起きえないなどと驕るほど、耄碌しておらんわ」
介子坊はその言葉を受けて感服したように、流石は殿です。と口にすると頭を垂れた。
「フン 世辞などいらんわ。まあよい。それで、久方ぶりに対峙した鬼面はどうであった」
「正直に申しまして、手間、ですな。打ち倒すことは難しく、趙として対峙していた頃よりも、力は増しているかと思われます」
「フッ お主にそこまで言わせるとは、あの奇怪な面を付けた小僧が随分と成長しよったものじゃな」
「………私としましては、奴の武器をへし折ったあの時、始末していればよろしかったように感じておりますが、なぜ、お見逃しになられたのですか」
「昔の話じゃ、大したことではない。ただ、儂を前に一歩も引かぬ気概にな。許せ」
それは、英傑特有の強者となる者を欲する悪癖の一つと言えた。
「いえ、私の出すぎた発言こそ、お許しください」
「よい。実際、長い戦乱の中で、ここまで生き残ってくる者など稀とはいえ、儂の咎じゃ。しかし、初日にして、輪虎が傷を負い、子坊の前には、鬼面の奴が現れ、さらには、儂の一撃をも受け止める虎豹なる者、か。驚くことばかりじゃな」
「それでは、殿。如何いたしますか。私に号令を下されば、必ずや前線を突破してみせまするがーーー」
との言葉に、廉頗は腕を胸の前で組んで姿勢を正すと言葉を発した。
「それも悪くはないが、まずは、両翼に伝令じゃ。それと、霊凰にも使いをだせ」
「御意に」
こうして、魏軍の夜は更けていった。
明けて、二日目の朝。
廉頗は、中央の左右軍となる左軍介子坊、右軍輪虎に対して、両翼と中央本軍から拠出させた兵を補充して、それぞれに二万の兵を持たせていた。
「さて、そろそろ始めようかの。介子坊ッ」
「ハッ 殿。いつでも行けます」
「うむ。では、輪虎ッ」
「僕も問題ありません」
「うむ。戦はこれからじゃ。汝は、くれぐれも無理はするでないぞ」
輪虎は廉頗に向けて拝手をすると答えた。
「もちろんです。殿。ご心配になられずとも、僕には、できないことを口にする趣味はありませんよ」
廉頗は、その鋭い観察眼で輪虎の傷の具合を察していたが、この漢が判断を誤るはずはない、と止めはしなかった。
「ふん。そうであったな」
そして、廉頗は秦軍が布陣を始めた戦場を睨みつけると続けざまに言葉を発した。
「とはいえ、今日に限って言えば、中央はそう難しい戦いにはならぬ。奴らの狙いは、六将もかくやの力を持つという両翼からの戦線押し上げじゃ。じゃが、その狙いに乗ってやるほど、儂は、甘くはないぞ。蒙驁」
介子坊は、高まっていく戦意と号令を間近にして、声を掛けた。
「殿、ご武運を」
そして、舞台は、秦軍朱錐率いる第六軍軍中に移る。
「ねえ、昨日はなんで私を此処に配置するように進言したの。私が姉さんたちと一緒に行ってたら、輪虎ってやつ、確実に討てたんじゃない」
と、問いかけるように声を挙げたのは、玄象であった。
「おや、それは結果ですよ。あの場面、追随する部隊があったからこその奇策と言えます。ですので、本来であるならば、伏兵の部隊を止めるのが精々、敵将を討ちに行ったのはおまけです」
玄象の言葉に対して、諭すように応じたのは、青騎であった。
「それはわからなくはないけどさぁ、なんか、置いてけぼりにされた気分」
「ンフ あなたの実力は理解していますが………」
と青騎は言葉を止めると玄象に視線を向けた。
「なに?」
「あなた、本調子ではないのでしょう」
「ッ!?」
咄嗟にこちらを仰ぎみた玄象の姿に青騎は龍面の奥で笑みを浮かべて言葉を発した。
「ココココ その様子では、事実を肯定しているようなもの」
「ッ、どうして」
「どうして、もなにも、あなたなら想像がつくのではありませんか」
その言葉に、即座に浮かんだのは妹の名であった。
「………瘣やつだ、余計なことを」
と、苦虫を潰したような表情を見せてた玄象の姿に、青騎は気遣う言葉とともに別の理由もあることを告げた。
「ンフフ あなたのことを心配してのことでしょう。それにーーー」
青騎の視線の先には、玄象に付けられた新たな小隊の姿があった。
「本調子ではないあなたでは、彼らが窮地に追いやられた際、不覚をとる可能性があります」
小隊である彼らとは、隊長、副隊長の両名が脱落したことで浮いた三百人隊の隊員たちであった。
「………それは、そう、かも」
彼らは、玄象が襲撃者を撃退した功として、朱錐が蒙驁に申し入れた結果である。ただ、その功績によって、というわけではなかった。
では、なぜ実現したのか。
それは、蒙驁の視点でみると理解がしやすい。
これから始まる戦いとは、蒙驁にとっては、生涯を賭けるに値する大戦である。その戦いを前にして、増援である朱錐たち第六軍の要請を聞き入れることで恩を売り、それによる士気の向上への期待、さらには、元が同じ軍ということで受け入れやすく、急造でも戦力として期待できる点などを熟慮した結果であった。
「言わずもがな、彼らは仇敵を前にしても冷静ではいられないでしょうねえ」
「ぁあ、わかった。納得した。もういいよ」
確かに、と理解はできるものの、感情までは御しきれずに、玄象は少し不貞腐れたようにして、その場をあとにした。
「おやおや、困ったものですねぇ」
ものなく、流尹平野二日目の戦いが始まろうとしていた。