乱美迫の矛による一撃を捌いた玄象であったが足に力なく、躰をよろめかせていた。その様子を見て取った敵部隊長は声を荒らげ号令を発した。
「その女狐を串刺しにしてしまえ!」
とめどなく額から流れ落ちる汗は黒く艶やかな髪をつたい地面を濡らしていく。
「ふぅ……ふぅ……ふぅ…」
玄象に余力はほとんど残されていなかった。全身は泥沼に浸かってしまったように重くなり、腕は剣の重みで肩から削ぎ落されてしまいそうな気怠い感覚に襲われていた。
「……ふぅ……ふぅ」
それでも玄象は呼吸をわずかでも整えようと試みていた。しかしながら、敵が悠長に待ってくれることはない。敵騎兵は槍を片手に握りしめ標的に向かって勢いよく突き出した。
「死ねぇえええ」
それは満足に躰を動かすことすらできない玄象に狂いなくせまりくる。玄象はふらつく自身の躰に鞭をうち、それまで片手で軽々と扱っていた剣を両の手でなんとか持ち上げると、敵騎兵の槍にぶつけて軌道を逸した。
「ふ、は…ッ、はぁ……はぁ」
ゆらゆらと揺られる髪をつたって流れ落ちる雫が地面にひろがっていく。もはや玄象の躰は体幹を安定させることすら難しくなっていた。そして目の前にあったひとつの危機はそらせても新たな危は間断なく襲い掛かっていく。
「化け物がッ」
「…はぁ……はぁ…はぁ」
息も絶え絶えの躰。あげることすら叶わない両腕の感覚……。
もう、剣は、扱えな、いな。ならーーー
「ッな!?」
と敵は空を切る穂先に驚きの声を挙げる。
「…くッーー、ふぅは…はぁ……はぁ」
玄象はふらつく躰を風に揺れる草木に見立ててわずかな緩急をつけることで敵の穂先を惑わせるも、身を残る力では踏ん張ることができずに地面を転がることになった。
そこには、さきほどまで宙を華麗に舞っていた玄象の姿はなく、戦場の土にまみれて薄黄土色に色付く衣を纏って伏せるひとりの少女だけであった。
「ちょろちょろとあがきよって。この儂自ら葬ってくれるわッ」
倒れふした敵の姿に痺れを切らしたように部隊長は自慢の愛槍を振り上げ止めをさすべくと駆け出した。
「……まだ、だ。まだ…し、ぬわけにはいかないーーー」
伏した躰を、もうどこからわいたかもわからないちからで玄象はたちあがろうとしていた。
漂……ごめん。だめかもしれない
目前にせまる己を絶命せしめる槍の脅威に動かぬ躰。
それでも最後まであきらめない、から
「………って、ね。瘣も、ごめんね」
たちあがってかおをあげたさき。
もう槍の穂先は敵を貫ぬかんとすぐそこにまでせまっていたがなにかに気が付いた玄象は口元にちいさく笑みを浮べた。
「遅いぞ……。朱錐」
そのとき戦場を切り裂く甲高い音が鳴り響き「ドスッ」と背に矢を受けた部隊長の男「が、ふっ。矢…どこ、か、ら」と馬上から崩れ落ちた。さらに「ピュィィーーーイ」とつづざまに戦場に響く甲高い音は矢の存在を大きく示し、そこにいる者たちの意識を音の方角にむけさせた。
「な、た、隊長が、ッて、敵だ。右から敵が来るぞぉ」
ふいに部隊長が矢に射られて戦場に散った動揺に加えて右方よりせまる敵援軍の影。それらに気を取られた魏兵のもとに、さらなる一報が加わることになる。
「急報ッ 突如左方より現れた敵小隊により部隊後方が攻撃を受けています」
強襲を仕掛けた部隊の名は飛信隊であった。
「いくぞッ おれたちが狙うのは魏火龍の首だけだ」
こうして玄象が身を削ってつくりだした僅かな刻は、決まりかけた戦いの趨勢にかすかな変化をあたえはじめることになった。
続けざまに届いた報を隊の中心部で護衛に囲まれながら受けた霊凰は敵小隊が現れた方角を見やり一考すると敵が突如この場に現れたからくりを察した。
「なるほど。少しは考えたものだ。小隊の利を活かして味方の中を強引に突っ切ってきたか」
とこぼした霊凰に側近は「如何なさいますか」と尋ねた。
「左の小隊は放っておけ。ここでするべきことは、すでに終えた。それより乱美迫の負傷の程度は」
「乱美迫様の御怪我の手当は済んでいます。しかしながら浅いとは言い難く……」
霊凰は乱美迫の様子をちらりと窺うと言葉を返した。
「そうか。……この十数年、秦という国には優れた個が集まる傾向があるようだ。あの六将然り、乱美迫に傷を負わせた年若い女戦士然りーーー」
とそこで言葉をとめた霊凰は何かを思い出したように「フッ」と声を漏らすと続けた。
「我が教え子をまがりになりに破った李豹とやらも秦に生まれた若芽であったな」
と、どこか愉快気に語る霊凰にゆっくりと近づく大きな影。それとは別に側近は己の考えを声にのせて発した。
「左の小隊を蹴散らして退却致しますか」と。
それに対して霊凰は腕をあげ進行すべき方向にむかって手のひらを向けると号令を発した。
「退路はそこにある。ゆけ、乱美迫」
乱美迫は霊凰の命に応えるように「フウーーーッ」と雄たけびを挙げて駆けだしていく。向かう先は、右でも左でもない。
それは、戦線を保つべくこちらに背を向けて魏軍と戦う秦兵の後方であった。
「う、うしろからて、敵襲だぁあああ」
浅くはない怪我をものともせずに激走する乱美迫によって後方を突かれる形となった秦軍の戦線は、おおきく左右に割れることになる。
そして霊凰が退却にむけて動き出したその時。
一本の飛矢が霊凰に迫った。
「魏火龍だかなんだが知らねえが逃がさねえぞッ」そう声を挙げ霊凰に接近していたのは飛信隊の信である。
信は仲間たちの援護を受けて単騎に近い形になりながらも火龍を討ち取るべく勇ましく駆けて霊凰に迫っていた。
「天下の大将軍になる俺の邪魔をするんじゃねえ」
信はそう息まき剣に力に込めて立ちはだかる魏兵をひとり、つぎのひとりと倒して火龍霊凰に肉薄していく。
はずであったのだが……
「小僧がッ 霊凰様に易々と近寄れるとでもおもうたか」
そう言葉を吐き奇襲の勢い乗って突き進んだ信の剣を受け止め進撃を妨げたは、霊凰直下の精鋭であった。
「ック、なんだこいつら、さっきまでのやつらとは違って、俺の剣を受け止めやがった」
いかに強力な飛矢であっても一度勢いを失われてしまっては、もはや火龍の首に届くことはない。それどころかーーー
「その餓鬼を囲って殺せッ」
霊凰の周囲をかためるのは、苛烈な時代を生き抜いた歴戦の精鋭たちである。それゆえに襲い掛かる敵を排除すべく的確な行動を瞬時に行っていく。
結成からの年月から鑑みれば一際強烈な攻撃力を誇る信たち飛信隊といえども、羌瘣という強力な札を欠いた状態で大将首に差し迫るにはまだ力は足りてはいなかった。
信は大手柄を前にして届かぬ剣に悔しさをにじませた。
「大将首が目の前にいやがるってのに、とどかねぇ。く、糞ッ があああ」
霊凰は歴戦の護衛に護られながら、すぐそばにまで近づいてみせた威勢の良い少年を一瞥すると駆け出した。そうして馬上で薄い笑みを浮かべてふと呟く。
「困ったものだ。かの六将は王騎を残して過ぎ去り、あの三大天もいまや廉頗を残すのみ。私が戦を離れているあいだに傑物たちは過去に消え、次は鳳明らの時代かと思えば、その下で活きの良い者どもが名乗りを挙げる」
魏、秦軍がしのぎを削る戦線を縦断する霊凰の目に映るのは、今も昔も変わらぬ戦いの世の真理であった。
「大功を求め戦に夢を描くか。まったく、戦乱の世のなんと愚かなことよ」
もはや乱美迫や霊凰をとどめるものはなにもなく、彼らは一つの報を喧伝しながら撤収、退却することになった。
信は目前の敵と刃を交えて攻防をしながらも遠のく霊凰たちの姿を垣間見ていたが、敵精鋭が囲んで自身を討ち取ろう能動的に動き出したことでその視線をきって目の前の脅威に意識を移して吠えた。
「てめえらに簡単にやれるほど俺はヤワねえぞ。どっからでもかかってこい」
と威勢よく啖呵をきったものの周囲から発せられる殺気にすぐに包囲まれていることに気付いた信。
「小癪な小僧が。貴様はすでに死に体だ。すぐにもで葬ってくれる」
そうして彼らは歴戦の精鋭らしく「一気に殺るぞ」と目配せだけで意識を疎通させると各方角から一斉に襲い掛かった。
それはどんな達人であと一度に対処することはできない全方位から信にむけての刺突であった。精鋭の名に恥じない一糸乱れぬまま狂いなく突き出された槍の穂先に信の躰は串刺しにーーー「ッ!?」
「おりゃぁぁあ」
はならずに信の姿は馬上から消えて宙にあった。その声に彼らが顔を上げれば、さきほどの小僧が両手でもった剣を振り下ろす瞬間であった。
敵兵は信に肩から腹部までを勢いよく切り裂かれ「な、ばか、なッ……」と驚愕の表情を浮かべたまま馬上から崩れ落ちることになった。
なんと信は敵の一斉攻撃の間隙に身軽で丈夫な躰のおもむくままに馬上から宙に飛び出し一番偉そうだった敵にむけて剣を振り下ろして切り裂いたのであった。
そしてさらに着地と同時に近くの敵をひとり、ふたりと斬ったあと異変に気付くことになった。
「どうだッ 俺の実力は……、って、やべえ」
いつならこの調子で敵を切り倒して敵が動揺している隙に脱出するところであったが歴戦の精鋭が易々と標的を逃がすことはなかった。それは既視感のある状況であった。信を取り囲むのは敵兵。中心にいるのはもちろん信。そして飛信隊の仲間はここまで信を送り出すためにいまだ敵にその脚を止められていていない。
さきほどと唯一の違いは信が騎乗していないこと。つまりは、さっきはあった宙という選択肢がなくなり、信に残された逃げ場と呼べる空間が存在しないということであった。
敵もそれは承知しており、じりじりと包囲を縮めていく。それでも信は剣を構えたまま周辺にむけて視線を彷徨わせて活路を見出そうとしていた。が。
「……ッチ、これはやべえな」
しかし敵に一切の油断や慢心といった隙は見当たらなかった。ただ粛々と確実に標的である信を仕留めるべくにじり寄っていく。
「ッ、俺はただじゃやられねえからなあ」
信はいまの状況を打破する術がまったく浮かんでいなくても、生を諦める気は微塵もない。
「命のいらねえ奴から掛かってこいッ」
そうしていよいよ襲い掛かってきそうな敵の気配に、覚悟を決めた信が目を「カッ」と見開き敵兵を睨みつけて決死の勢いで後の先ではなく機制を制しようと飛びかかろうとしたその時であった。
「ゴシャッ」となにかが物凄い勢いでぶつかりつぶれるような音とともに信を囲う敵兵だったものの躰が数体吹き飛び散った。
「よくぞもたせたな。信殿」
現れたのは、騎乗した並みに者ではまともに扱うことが困難で重厚な肉厚で形つくられた鉄昆を片手で振りぬいた鬼の面の将であった。
「貴様はぁッ」と憎き敵に漢に表情を変える敵精鋭に朱錐は極めて平坦な声で言葉を発した。
「信殿に刻を掛け過ぎたな。すでにお前たちに退路はないぞ。投降しろ」
その言葉に敵があたりを見渡せば到着した朱錐隊によって自部隊は先を行く乱美迫本隊と分断されている事実が見て取れた。
しかし、彼らに投降する意志は存在しない。
「なにを馬鹿なことを。貴様を討ち取ればもうはや退路など必要ないわッ」と朱錐に特攻をかけようとする敵に信も上等だ、と言葉を発して地面を踏みしめようとしたとき「下がっていろ」と朱錐の声が掛かった。
それに信が「えッ」と戸惑う間に馬を数歩前に歩かせた朱錐は「残念だ」とこぼして鉄昆を握りしめると敵対する者を悉く土へと還していくのであった。
第74話でした。
我慢できずに『キングダム 運命の炎』を観てきました。
詳しい内容については言及しませんがよかったです。気になる方は是非劇場でご鑑賞ください。
あと、評価に誤字脱字の報告等ありがとうございます。