朱錐は取り残された残存兵をなぎ倒すと、おおきく息を吸ってこの場にいる全兵に語り掛けた。
「聴けえッ 土門将軍の兵たちよ。将軍は負傷ために離脱された。よってこれより、右軍を預かるこの朱錐が左軍全体を預かる。各隊は残存する敵を掃討し、次の戦いに備えよ」
朱錐の穏やかでいて包み込むような声は、将軍不在となったことで動きに迷いある土門直下の兵に明確な行動原理を与えることに成功した。また瀕死の土門を護り切った将軍の側近たちが率先して指揮系統の再構築に尽力したことで、この場の動揺は最小限にとどめられ、戦線の修復に乗り出すための陣容は急速に整えられていくことになった。
それらの様を間近で観察していた信は合間を見計らって朱錐に声を掛かけた。
「朱錐のおっさんって、すげぇんだな」
と信は朱錐の武の片鱗と部隊を掌握する力を目の当たりにして驚きのまま隠さずに述べた。それに対して朱錐は視線を信に向けると簡潔に応えた。
「これでも私は元王騎軍、そして現騰軍の第六軍を預かる身だ。そして、軍長六人の皆が相応の力を有している」
「そうなのか」と口にした信はそれぞれの軍長の顔を浮かべてからさらに言葉をつづける。
「やっぱ軍長くらいになればちげぇんだな。じゃあさ、あのすぐ怒鳴って絡んでくるおっさんもやっぱりずごい実力をもってるってことか」
朱錐は信の言葉から「怒鳴って絡むおっさん」と録嗚未をすぐに結びつけると応えた。
「録嗚未のことであろうが、はっきりいってあいつは強いぞ。だてに第一軍を任されてはいない。戦歴も豊富で軍も精強だ。騰軍中でも攻撃力だけなら軍長一といって過言ではないほどにな」
信はその評に「あのおっさんがなあ」といまいちピンッと来ていない様子ではあったが、そのあと「でももともと王騎将軍の軍だもんな」とつぶやくと一応の納得をみせた。
その様子に、朱錐は仮面のうちで録嗚未は性格で損をしているな、と苦笑を浮かべていたが、すぐに気を引き締めて次に向けての言葉を発した。
「さて、このまま話していたいのは山々だが、準備ができ次第私は戦線を押し戻すため前線に立つ。信殿は元の持ち場に戻り戦線を支えてもらいたいのだが、かまわないか」
「ああ、わかったぜ。俺たちはすぐに動く」
と信が副長である楚水に指示を伝えようと振り返ると隊列はすでに整えられて「準備はできております」と待機している状態であった。信は楚水の「ご指示を」と早々に段取りを整えて促す頼もしさに背を押される形で「おっしゃ! それじゃいくぞ飛信隊!!」と声を張り上げると全隊が揃って駆けだしていった。
その様は元下僕の十四、五歳の少年が隊長を務めているとはとても思えない光景であった。
「信殿を中心に乱れがない。昨日今日できた急造の部隊をここまで纏めあげているとは。なるほど、天下の大将軍になる漢、か」
と朱錐が見届けていたところに不満を述べるひとつの声が掛かった。
「到着が遅いぞ朱錐。あやうく、死ぬところだった」
朱錐が視線を声のほうに向けると、そこには戦い疲れた表情をみせる玄象が佇んでいた。
「象か。すまなかった。私の頼みのせいで随分と無茶をさせた」
と朱錐は玄象に謝罪とをねぎらいの言葉を口にしてから「誰か、玄象に馬を」と促した。
「ほんとだよ。すぐに駆け付けるっていったわりに遅いし……。まあ、それだけ相手が上手だったてことだろうけどさ。それに……」
とそこで言葉をとめ、少し眉をよせてバツが悪そうな表情をみせる玄象の言葉の先を察した朱錐は、その意を汲んで言葉を掛けた。
「土門将軍のことは、象のせいではない。これは昨夜、将軍を説得できなかった私の咎だ」
それは昨夜行われた軍議の一幕であった。
そこでは土門と朱錐の二人により中央軍全体での作戦目標やそれに伴う隊列の組み換えなどを話し合っていた。それらは概ね揉めることなく決定されていくのだが、ただ一つ、朱錐が挙げたある一つの事案のみ両者の見解が噛み合わず、部分的な変更がなされるに至った。
土門が唯一難色を示したのは、玄象と豹騎隊三百を土門隊に加えて万が一の襲撃に備えるというものであった。
「悪いが朱錐殿。その提案は断らせてもらう」
土門は極めて冷静に言葉を発していたが、その内心には確かな怒りがあった。
「我が部隊は精強を自負している。そこにどこの馬の骨ともわからぬ者たちを入れては、隊列に乱れを生じさせてしまう。そうであろう、朱錐殿」
土門の声は固く眼にも内に秘める怒の感情から力がこもっていた。
その段になって朱錐は、襲撃に備えるためとはいえ一個の武に誇りをもつ将兵に対して護衛を付けたいという提案自体が侮辱に値すると捉えられてもおかしくない事実に気付いた。けれど、このまま撤回すれば明日に憂いを残すことになりかねないため、土門の言を肯定しつつなお、提案を引っ込める気はないと示すために後半に向けて語気を強めた。
そうして朱錐から発せられた圧の意を汲みとると「このままでは平行線か」と土門は一旦胸にある怒りを収めるように、ふぅぅうと長めに息を吐いて理由を問うた。
「ならば如何なる思案によるものか、窺ってもよろしいか」
そうした土門の将器に触れる形になった朱錐はその懐の深さに感銘をうけながらも、ここが交渉の正念場になると内心で腹をくくって口を開いた。
「土門殿の言葉は理に適っています。ですが敵はその理を自在に操り戦場を股にかけて名を轟かせた魏が誇る大軍師霊凰です。そして、過去の戦いからも、霊凰はしばしば戦の最中に直接将を狙う戦術を使うことがわかっています。そうなれば狙われるのは、右軍と左軍を預かる私か貴方のどちらかになります」
そうして朱錐は願い出る意を込めて、両手を胸の前に挙げて組み拱手の姿勢をとって「どうか、ご再考を」と発した。
「……我らだけでは不足がある申されるのだな」
「そうではありません。かの霊凰には、狂戦士と渾名される乱美迫という猛将の存在があります。乱美迫とは、六将であった王騎将軍や摎将軍らでも手を焼くほどの武人。実際に私自身も打ち合い、その経験からして、できる備えは万全にしておきたい強敵であるということです」
土門は朱錐の言に内包されるまじり気のない警戒からの忠告に、むぅと唸り声をあげた。それから情報をゆっくりと咀嚼すること数拍。言葉を返した。
「すまぬ。我らが侮られているのかと少し頭に血が上っていたようだ。しかしながらだ、我らの武の誇りに掛けて
朱錐殿の言をすべて受け入れることはできない。連携こそが部隊の生命線。よって、小隊すべてではなく、その武に長ける玄象なる者と供回りだけならば、おおきな支障はないと判断する」
言葉のあと、土門の眼光はより一層鋭さ増して朱錐に向けられることになった。それは、朱錐に対してこれ以上の譲歩はしないと暗に告げるものであった。
「……わかりました。ですが、敵は強大にして狡猾。知らぬ間に誘い込まれていることもありますゆえ、土門殿に置かれましては常にご自身が狙われているという意識を持って警戒の色を薄めることがないようお願い申し上げる」
これにより、土門に玄象を付けることは成功したが、土門の全幅の信を得られなかったがために玄象は隊の端に配置されるにいたり結果、土門の窮地に遅れることになったのであった。
「うむ、承った。けれど、朱錐殿。将が狙われるのは戦の常だ。警戒はするが、将である私が縮こまっていては全体の士気にかかわるのだ。我が身を案ずる提案を嬉しく思うが、許されよ」
そして開始された三日目中央軍の戦い。霊凰は朱錐らの対抗策を嘲笑うように巧みに戦場全体を操ると正確に土門の首元に迫ったのであった。
話は現在に戻る。
「正直、将軍が助かるかは天にまかせるしかない。豹のときと違って外から強引に気を躰に流して息を吹きかえさせるっていう無茶なやつだから。あれは永い羌族の歴史のなかにある先人の知恵っていうか、掟に逆らった無謀な記憶っていうか……。伝承によればだけど、隠れて大事にしていた動物を助けるために使ったってことらしい」
「……そうか。もとより致命に至る傷であったのだろう。例え最悪の結果がまっていようとも、象の働きが無に帰ることはない。実際に土門殿は息を吹き返した。この事実が土門兵の戦意をギリギリで保ったのだ」
そうして労いともに気遣う言葉を掛ける朱錐にも玄象は自責の念が頭をもたげるのか「……わかってる」と声を落とした。そこで朱錐は話題を変えることにした。
「それで、おおきな外傷は見受けられないが、体調はどうだ」
「これくらいはどうってないよ。……って言っていいたいんだけど、しばらく無茶は遠慮したいかな」
「分かった」と返事を返した朱錐のもとに全隊の準備が整ったという報せがちょうど入ったことで、それを受けて朱錐は号令を発した。
「よしッ これより敵が開けた前線の穴を塞いで一気に押し返す。朱錐隊、出るぞッ」
そうして玄象には後方待機を命じて朱錐は自隊を率いて前線に向けて動き出した。
「土門兵は戦線修復に努めよ。敵は我らが蹴散らすッ」
こうして朱錐隊は割れた前線に群がっていた魏兵を排除していき、その後ろでは土門兵たちが戦線にあいた穴の修復をはじめることになった。
この朱錐という将自らの奮戦は、近場の兵たちの士気を盛り上げることには成功した。
のだが。
「さすがに嫌な手を使ってくる」
それがそのまま左軍全体の士気の回復に導くことはなかった。
というのは、霊凰が去り際に喧伝した「左軍の将はすでに討ち取った」という部分的に実をともなう虚報がおおいに効果を発揮していたからだ。実とは土門の負傷離脱のことであり、戦線後方からの敵襲に加えて姿をみせない左軍指揮官。
この二つがあわさったことで、戦線の修復に乗り出した朱錐たちの奮戦はあれど、そこから距離が離れるほどに虚報は効果を持続させて兵士たちを惑わさせ、彼らの胸のうちは、半信半疑に疑心暗鬼がまじわった複雑な状態の迷走状態に陥っていたからだ。
これにより朱錐は、前線の士気低下による崩壊を防ぐために、この場を離れることができずに釘付けになるのであった。
所変わって時刻は秦の両左右軍の境目に魏が突撃したあとまで遡る。
魏の中央軍突撃を指揮するのは、廉頗の飛槍輪虎であった。
「この突撃の勢いのまま、行ける所まで行くよ」
輪虎は突撃の初撃が問題なく行われたことに笑みを浮かべていた。
「魏良は魏人らしく任務を忠実に遂行しているみたいだね。それに火龍の名もある」
その言葉を拾い、側近のひとりは言葉を返した。
「さすがに自国の大将軍級である霊凰の策ともなれば、魏人に与える影響は大きいようですな」
「だね。近年行方をくらましていたって話だけど、だからと言ってその名声が地に落ちるわけではないからね」
輪虎の言葉に側近は、我々にとって廉頗将軍らがそうであるようにですね、と言い、そうだね、と輪虎は抑揚に頷き「それで首尾はどう」と側近に訊ねた。その返答に対して輪虎は続けた。
「よしよし。それじゃそろそろ敵の抵抗が激しくなるころだから準備をしようか」
そうして、初撃を成功させた輪虎隊の進撃を迎撃するべく出陣した虎豹隊とが激しくぶつかり合うことになった。
「絶対に抜かせるなッ 我ら虎豹隊の前に敵は存在しない」
と勇ましく高い声を張り上げたのは、朱錐の副官である虎豹であった。この時は虎豹は、普段とは異なり部隊の前列先頭付近ではなく中列から部隊に檄を飛ばしていた。
それは二つの理由が存在していた。
一つがこの場における全体の戦線修復の陣頭指揮をとるため。もう一つは、霊凰による隊列の大きな変化によって輪虎、介子坊といった敵主力級部将の動きを捉えることが難しくなっていたためであった。
「奴らの狙いでなんであろうと、一歩たりともここを通すなッ」
虎豹が天に向けて剣を片手に掲げて行った檄に対して隊から返るおおきな「応ッ」という声の大きさは、そのまま虎豹隊の士気の高まりを示していた。
そして六将時代に培われた高い経験値で兵士を鍛えあげ備わる超一級品の統率力で虎豹が率いる虎豹隊とは、朱錐軍中の最精鋭であり、その戦いぶりは、常に先陣を駆けて勝利を積み重ねて、歴戦の猛者に引けを取らない姿へと変貌を遂げていた。
その実力は多少の兵力差などものともしないもので、魏の突撃を悉く押しとどめていった。
そんな虎豹隊の動きを察知して、この輪虎、虎豹の両二隊の激しい衝突からすこし距離をとって機を窺う部隊が一つあった。
「……なんなのだ、あの隊は。俺の想像をはるかに超えて強い。まだ秦に俺の知らぬあのような将が存在していたのいうのか」
とわずかに目を見開いた表情をみせたのは、玉鳳隊の王賁であった。
王賁は虎豹隊の突撃力のすさまじさに驚きを示しつつも、すぐに気を落ち着かせて引き締めると言葉を続けた。
「だが、あの隊の予想を超えた強さが敵の進軍が滞りさせた。ゆえに、今はまさに好機と呼べる。動くぞ、玉鳳」
王賁は早々に敵の中央を突く突撃を押しとどめることは難しいと判断を下すと部隊を二つに分けたのち、そのうちの一つとともに突撃を指揮する敵将を横撃からの奇襲によって屠るために持ち場は離れていた。
「ここらは一気にいく。狙うは輪虎の首だ」
この王賁の読みは、虎豹隊の突撃力によってわずかに外れることになったのだが、戦況としてはむしろ悪くなく、好転していた。それすなわち、当初の作戦目標である敵部隊の長が虎豹隊によって動きを押しとどめられたことで、敵将の位置が把握しやすくなったからである。
こうして中央部の戦いは、突撃をした輪虎、迎撃の虎豹、奇襲を狙う王賁という三者それぞれの思惑や狙いが重なり合う複雑な戦いと化していった。
一方、朱錐が土門の救援に向かったことで将が不在となった秦右軍では馮と青騎が後方に下がることで戦線の均衡を保っていた。
「まったく、やってくれますねえ」
と青騎は感心するような声を漏すとさらに続けた。
「
霊凰さんは今日、この刻にそなえて一体いくつの策を弄してきたのか。大軍師の名に恥じないこの策略のキレ。腕は落ちていないようですねえ」
青騎はこれまでの戦場から読み取った戦況からそう評した。その評に馮は、顔から冷や汗を流しながら声をだした。
「私には想像もつかないのですが、このやり込められている状況すべてが敵の思惑通りだとすると恐ろしくなります」
濯の言葉に青騎は、あなたもよく理解できたようですねと示すように鷹揚に頷くと言葉をつづけた。
「霊凰とは、まさにそういう存在です。因縁のある私の存在をほのめかすことで狙いを絞らせられればと考えたのですが、霊凰はその逆。私という存在から我ら右軍の強さの幅を危惧したようです。そこから、もっとも効率的に私たちを壊滅するの術を構築した。それは陣容の大幅な変更からはじまり、中央への突撃、秦左軍攻略のために必要最少数の隊の派遣。そして朱錐が救援に動いた機をみたように攻勢をしかける介子坊さんの存在。後方予備隊をこちらに残している辺りにも警戒している度合いがよくでています」
「それはつまりーーー」
「ええ。すべては我ら右軍に気取られぬように策が施されていた、ということです」
「それは、あの奇妙な縦に長い隊列もですか」
「あれにも意味はあります。が、それよりも陣形を大きく変化させたことにこそ大きな意味があったのですよ」
濯は続きを促すように青騎を見つめた。
「ンフ 大きな陣形の変化は、無意識のうちに人にそのあとの形へと目を走らせます。そして、それは仕方がないことです。敵の陣形を知るということは、そのまま戦いにおける敵の狙いを知るも同然なのですから。そういう意味では、丘の上にから眺めていた蒙驁さんは随分と頭を悩ませたことでしょうねえ。なにせ、あの縦長の隊列に直接的な戦いにおいての価値はさほど存在しませんからねえ」
とそこまで話した青騎は「おや」と口すると続きを話すのを止めた。
濯もまた異変に気付いて視線を戦場に戻すとそこには、こちらまで聴こえてくるほどの大声を挙げる介子坊の姿があった。
「ようやく我ら介子坊隊の本領を発揮するときがきた。全兵は迷わず、この介子坊についてまいれッ」
そこから介子坊はさらに息を吸い込むと甲高く響かせた声で大号令を発した。
「秦の糞どもは一人残らず皆殺しだッ つづけぇええッ」
そうして先頭を駆けだした介子坊の全身から発せられる威は、趙と魏という異なる気質を持った二つの兵の垣根を超えて伝播し、強大な威となって秦に襲い掛かることになった。
「話はここまでです。私が介子坊さんの相手をします。あなたは戦線に穴が開かないように落ち着いて指揮を執りなさい」
こうしてぶつかり合った両者の戦いは夕暮れまで激しく続くことになる。それは他の戦場である秦左翼の王翦対姜燕の戦いも同様であったが秦右翼の桓騎軍対玄峰軍だけは様相を転じる機が訪れることになった。
「ヌハハッ やはりな。仕掛けて来ると思っておったぞ、桓騎よ」
第75話でした。