彼の者の盾はどこへ向かうのか。   作:mukurobone

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第78話になります。


第78話

流尹平野からほど近く魏の国境を越えた先にある趙の城、環甘。

 

「秦はどう動くのか……」

 

 李牧は城の大広間に座したまま幾度目かの思案をしていた。その視線の先にあるのは、戦国七雄の名と主要な城郭におおよその国境線を記された大きな戦略図であり、その大きさゆえに床に拡げられていた。その横には、流尹平野の戦いを読み解くうえで必要となる山々の起伏など戦場を模した造りの戦術盤があり、その上に部隊を模した駒がいくつも置かれている。

 

 この大広間の様相は、さながら軍司令が軍略を練る一室そのものであった。

 

 そんななか、李牧は戦略図のある一点を見つめていた。

「よもや、あの廉頗将軍が敗れるとは思いもよりませんでした」

 山陽である。廉頗が敗れたということは、秦が山陽一帯を奪取したという事実の表われであった。

 

「あの、李牧様……」

 

 声を掛けたのはカイネである。カイネは、このところ大広間に籠っている李牧の身を案じてこの場に訪れていた。そして許可を得て入室して間もなく、李牧が独り言のように呟いた言葉に耳をとめると、その名を呼んで気遣うように言葉を続けた。

 

「そろそろ一度、休まれてはいかがですか。もう二日もまともに休まれていないではありませんか。それに、すでに王都に帰還する行程を一日延ばしています。明日中にはどうあっても帰還しなくてはならないのですから、移動も馬車ではありません。この調子で続けられては、李牧様がお休みになられる時間がありません。それでは、李牧様のお体に障ります」

 

 李牧は思案の淵を歩きながらもそれら言葉に反応を示して、安心させるように穏やかな声で言葉を返した。

 

「ん。私は大丈夫ですよ。カイネ。特段に無理をしてるわけではありません。ただ……私にしてこの形での決着は予想外でした。ですから、こうして今後の対応策をいくつもの可能性を探りながら練っているわけです。あと、さらに並行して、もう一つ。流尹平野の全容をなるべくはやくに知るためにギリギリまでここに滞在しているのも理由の一つです。この戦いの全容を知るほどに対秦国を想定したとき、将軍が敗れるほどの事態を招いた敵。中華にいまだ知られざる、王翦、桓騎という存在の大きさを早急に推し量っておく必要があると感じましたからね」

 

「……李牧様は、王翦と桓騎がそれほどまでの敵であるとおっしゃられるのですね」

 

「ええ。かなりの警戒を要する敵になるでしょう」

 

 それから李牧は、述懐する。

 

「秦魏山陽戦が秦の勝利で終結して、早二日。ようやく戦いの詳細を携えた斥候が戻り、この戦いの全体像を把握することができるようになりました。王翦、それに桓騎。どちらもこれまで名を馳せていなかったのが不思議なほどの人物です」

 

 カイネはそこに一つの疑問を呈した。

 

「李牧様。それに付いて一つお聞きしたいことがあります。今回の戦、手段こそわかりませんが、結果的に秦右翼の桓騎によって魏本陣が制圧されたことが勝敗の決め手だったように感じています。それに比べて左翼の王翦は、姜燕将軍と互角以上に渡り合った三日目の戦いこそは評価できますが、そのあとは逃げるように後方まで大きく後退していて、勝敗に直結するほどの働きをしたのかと言われれば疑問が残ります」

 

「なるほど。確かに桓騎が魏の本陣を四日目早々に占領した事実は大きい。ですが、実際に決め手になったのは、王翦が蒙驁本陣の後方に現れたことにあります。これによって蒙驁本陣を強襲していた廉頗将軍は前後を挟まれる形になりました」

 

「李牧様、そこです。わたしはそこが一番気になっていました。あのとき廉頗将軍は、蒙驁本陣を強襲して後方守備隊を蹴散らし、蒙驁本人を追い詰めていたと聞きます。なのに、そのあとすぐに和睦の申し出を……。私はあのとき将軍は、蒙驁を討ちとり自らが総大将となって魏軍を率いていれば、まだ勝機はあったのではないかと」

 

 カイネの私見を李牧は静かに精査し、それから言葉を返した。

 

「……おそらくですが、将軍は勝敗の見えない泥沼の消耗戦になる事態を避けたのだと思います」

 

 李牧は立ち上がると横に設置されている戦術盤の前に立ち部隊を模した駒を並べ替えていく。

 

「あの当時の戦況を俯瞰してみると、唐突に持ち上がった魏の本陣陥落の報せは、魏軍に大きな動揺を与えました」

 

 そして中央の平野ある駒を手や木製の鍬に似た道具などを用いて動きを再現した。

 

「その期を逃がさず攻勢にでた秦中央軍の勢いは、数で勝る魏の中央軍を後退させるほどであった。加えて、魏軍全体の情報を司る本陣の陥落は、遠く離れた秦右翼桓騎の本陣を包囲していた玄峰軍を孤立させることになります」

 

 カイネは李牧の語る全体像を耳にして、驚きに目を見開いた。

 

「……まさか。右翼の桓騎はそこまで考えて行動していた、と」

 

 「ええ。私はそう読みます。すくなくとも右翼の戦場に関して言えば、彼の者が思い描いた通りの結果でしょう。初日から行われた度重なる奇襲攻撃に敵兵の遺体を苛烈に弄ぶ所業。そして不自然に遠い本陣。私はそこに、幾重にも張り巡らされた策謀の糸の気配を感じています。魏の左翼軍はあの場で伏兵のあぶり出しを優先したようですが、仮に、彼らが短期決戦に出ていたなら、桓騎の配していた伏兵によって玄峰将軍は討たれていてもおかしくありませんでした」

 

 李牧の語る桓騎像にカイネは動揺の色を濃くして訊ねた。

 

「なっ、なら桓騎は一体どこからその構図を描いていたと李牧様はお考えですか」

 

 李牧は全体の戦況を鑑みて桓騎の思考を読み解き、私見を述べた。

 

「おそらくですが、初日から。それに、中央軍の戦果。この辺りだと思います」

 

 李牧が口にした通り、初日の中央軍の戦報を受けた段階で桓騎は、意図していた流れに変化を加えていた。

 

「しょ、初日からですか。で、では中央軍の戦果は何を意味していたのですか」

 

 カイネに見当もつかないことであったが、桓騎は、初日の流尹平野における中央軍の奮戦よって敵軍の重心に歪みを生まれると睨んでいた。 

 

「初日の中央軍の戦いは大荒れでした。どちらにも相応の損害はでていますが、目を付けるとしたら廉頗将軍自らが出陣することになった側近輪虎の一件でしょう」

 

 それは廉頗にして、攻を是とした策中に齎されたわずかながらの守の意識であった。

 

「そんな初めから」

 

 そして桓騎は初日と同様に戦場に赴いていたが魏軍の動向に生じた変化を鋭敏に感じ取ると、すぐに本陣に帰還を果たした。そこから雷土と帰陣の際に目をつけた壁に伝令を飛ばして本陣付近に待機させると、あとは着陣した姿を十分に印象づけて、裏から本陣を離れていた。

 

「そうでなければ、四日目の早朝に魏軍にまったく気取られることなくあれほどの兵を展開できるはずがありません」

 

 流尹平野中央から遠く離れた本陣。それを囮にして、桓騎は元より伏させていた兵を連れて、さらに大きく外側に進路を取って二日目の夜を迎えた。そして三日目を移動に費やし、部隊を展開させた。

 

「では、魏軍の後方に現れたという大ギコ盗賊団というのは桓騎軍……」

 

「ええ、ギコという名に心当たりはありませんが、十中八九、桓騎の策略でしょう。そして、桓騎は騒ぎに乗じて白亀西本陣を制圧した。総じて評するのなら、捕虜となった者たちを亡き者にしたことを除けば、見事な手腕と言わざるを得ません」 

 

 初日のうちに生まれた攻守のわずかな意識の差。そのわずかな差異は、四日目にして確かな刻の差となって現れることになった。

 そう、廉頗が蒙驁本陣の攻略に本腰を入れた頃には魏の本陣は陥落していたのだ。

 

「で、ですが、策のためとはいえ……、あまりにも自国の兵を見殺しにしていませんか」

 

 事実、カイネの指摘通りに伏兵となった秦の奇襲部隊には何の助けもだされることはなく、無残なまでに屍を野に晒していた。

 

「この戦の価値。それを天秤に乗せるのであれば、上策です」

 

「っ……。それでは秦の左翼、左翼はどうなのですか。王翦は姜燕将軍の猛攻からどのようにして逃れていたのでしょうか」

 

 李牧は盤上の秦右翼に向けていた視線を秦左翼に向けて意識を切り替えると言葉を続けた。

 

「……いくつかの可能性は浮かびます。王翦は一日目、二日目と姜燕将軍に押される形で後退しながら戦っています。ですが、三日目。王翦は攻勢でます。それも恐ろしいまでに激しい反転攻勢であったと聞きます。対峙している将軍もこれには面を食らったことでしょうね。そして、そこから読み解けるものが一つあります。王翦は、将軍の実際の強さを知り得ませんでした。そこで、この後退戦です。これは、被害を抑えながら将軍の戦い方をつぶさに観察するためだったのでしょう」

 

「あの後退にそんな意図が含まれていたなんて……」

 

「これらの出来事から、王翦はかなりの慎重を期す人物であることがわかります。そして、そこから四日目。王翦軍は一気に後退します。これは姜燕軍からみると五分で対峙していた敵が忽然と姿を消したようにみえたことでしょう」

 

 そこでカイネは、疑問に感じていたことを率直に訊ねた。

 

「……なぜ王翦はそのような動きをしたのでしょうか」

 

 李牧は視線を戦術盤からあげるとカイネに向けた。

 

「カイネ。それは自分が将軍の立場であったとして考えてみてください」

 

 その言葉を受けてカイネは、それぞれの手で反対の肘を覆うように組むと真剣な面持ちで思案を始めた。

 

「私が、将軍の立場なら……。私は、下がった敵をすぐに追います。それはもちろん斥候を放ったうえでですが、すぐに追うべきだと思います」

 

「それはなぜ」

 

「左右どちらかの軍が素早く敵本陣の裏を衝くことができれば、より戦況が有利になるからです」

 

「そうですね。姜燕将軍も同様に、ですが、もう一つ先を思慮した」

 

「もう一つ、さき」

 

「罠の存在です」

 

 事実、姜燕はその可能性を潰すために留まることになり、すぐに軍を動かさなかった。王翦軍のあまりに手際の良い後退劇が姜燕を慎重にさせた。

 そして斥候に王翦本軍の追跡をさせ、索敵をより細やかにすることで敵小部隊の潜伏をあぶりだそうとした。

 

「ところで、ここまで聞いてカイネは将軍が慎重すぎるように感じてはいませんか」

 

しかし、そのどちらも空振りに終わる。敵はいなかったのだ。少なくとも蒙驁本陣後方までの路には。

 

「えっ。……それは、たしかに」

 

「王翦の恐ろしい所はそこです。開戦当初から撤退するまでの流れは非常になめらかであり、それでいて対峙する敵には容易に飛び込みさせない心理的な罠を仕掛けている」

 

「心理的な罠ですか」

 

「ええ。三日目の苛烈な反転攻勢は、その布石です。それを実際に目にした将軍からすると、おおきく視界を確保できない自身の有利な山間において、自軍の戦い方を読まれ進路に伏兵を配置された。そのうえで、強軍による激しい攻勢で中央は押し込まる形になったのです。この王翦の智謀の鋭さと軍の精強ぶりを目の当たりにすれば、否が応でも警戒せねばなりません」

 

 カイネは左翼で目に映らないところで繰り広げられていた計略の深さに、ゴクリっと息を飲んだ。さらに李牧は続ける。

 

「そこから索敵をおえた姜燕将軍は進軍を開始します。そして発見する。蒙驁本陣より後方に位置した王翦の造った砦を。しかも一日や二日で落とせるようなものではなく堅牢に造られた砦です。私も含めて、これには将軍も相当に驚き、脚を止めています」

 

「王翦は、開戦前から砦の準備を……」

 

「やっかいですよ。唐突に地図にない堅牢な砦を出現させるのですから。この砦一つで軍略の幅はおおきく変わってしまいます。これだけでも王翦は中華有数の才の持ち主。そう認めざるを得ません」 

 

 姜燕は予想外の砦の出現により動きを止めた。というのも、まず砦の包囲を続けながら蒙驁本陣を襲撃するには兵数に不足がある。加えて、姜燕は危惧していることが一つあった。それは昨夜敵の動向を完全に見失っていたことに起因していた。

 

「そして私が疑問を感じたように、将軍も感じたはずです。この砦にいる王翦軍は本当にすべてなのか、と」

 

「えっ。それは全軍が後退したのだから砦にいるのはすべ、て……あっ」

 

「気づきましたね。そう、王翦は砦に籠ってはいなった。でなければ、廉頗将軍の後方をとることなどできません。こうして後から戦いを読み解いていくと、白老蒙驁が抱える両腕王翦、桓騎の異常さをはっきりと目にすることができます。ですが、いまこれを知れたことは、とても有益なことでもあります。そして最後に、中央です」

 

 そして李牧は視点を秦の左翼から中央に移した。

 

「大荒れだった中央の戦いも注もーーー」と李牧が口したところで、大広間の扉が勢いよく開いた。そこにいたのは李牧の秘書官であり、慌てた様子であった。

「李牧様。王宮より早々の帰還を促す書状が届いております」

 

 その言葉ですべてを察した李牧は、ため息を押し殺すように軽く息を吐くと了承の意を示した。

 

「…ふぅ、来るような気はしていました。王と出立の前に会談したことが裏目にでたようですね。わかりました。ただちに出立の準備を。カイネ、お願いします」

 

「ハッ」と拱手したカイネは「すぐに取り掛かります」と大広間をあとにした。

 

 李牧の言った出立前の会談とは、この戦いの展望について問われたものであった。そこで李牧は王に対して、多少の波乱はあれど廉頗将軍の勝利は揺らぐことはないと口にしていた。けれど、実際の勝敗はその逆であった。

 趙王はそのことを直接李牧に問いただすつもりであったが、李牧が帰還の行程を延ばしていると聞きつけたことで届いたのが、この書状であった。

 

「いずれにせよ、王にこれから始まるあろうあらたな中華の騒乱の話をしておかなくてはなりません」

 

 そう口にした李牧の目は、山陽を起点としてこれから起こる血生臭い中華の動乱の影を捉えていた。




第78話でした。














寿胡王
人は愚かじゃ。それでも悲劇のさきに、人の愚かさのさきに何かがあることを願うばかりだ。

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