魏、韓、楚の三国それぞれの国境からほどよい距離にある秦国内の野営地。
朱錐は自身の名を冠した軍とともに防衛を支える任に着いていた。その本営となる天幕に朱錐はいた。
「届けてきたぞ」
その声に朱錐は目を通していた書簡から顔を挙げた。
「虎豹、巡回兼運搬の任務ご苦労だった。向こうの状況はどうであった」
「まず録嗚未から援助品への感謝を伝えて欲しいと。敵に関しては、木っ端兵ばかりで張り合いがないわ、とボヤいていたな。まあそれもてっきり魏軍が本腰を入れて山陽奪還のために揺さぶりをかけくると警戒していただけに肩透かしを食らった格好になるからな。干央はいつも通り黙々と任務に、だな」
「録嗚未は血の気が多い。そのさまが容易に浮かんでくるな。録嗚未と干央が並んでいる以上は、滅多なことになるまいが、こちらは南にすこし変化があった」
「ん。まさか楚が動いてきているのか」
「いや、秦に攻め入るという様子ではない。が、前線兵力の増強してきているようだ。楚側の警戒に当たっている隆国の見立てでは、秦による山陽攻略。それによる余波のひとつではないか、と」
「なるほどな。山陽は秦が中華に出るための要所になる。楚はそれを重く見て圧力をかけてきているということか。そして万一、大国楚が動くとなれば秦楚大戦は免れないだけに警戒も怠れない」
「ああ。それを騰将軍も危惧されて周辺国一帯に向けて目をひからせている。この動きは、ここら一帯の兵力を山陽に向かわせないようにするためのものと騰将軍と隆国の見解は一致している」
「そうだな。遠回しだが魏の援護にもなる。あとは韓の動向になるが……」
「そのための我らであろう。この三国のうちどこが動いて来ようと即応する部隊としての役割を担っている」
「部隊も一万にまで増員されたしな……っと、そうだ、そのことで朱錐に聞きたいことがあった」
「なにかあったか」
「今回の増員に伴って重騎兵を編制しただろう。そして、その少し前から隊全体の装備の拡充が行われていたこと。この二つを同時に行うのは相当な元手が必要になったはずだ。どこからでている」
「なるほど、そのことか。隠しているわけではないが、元手はある大家からの援助金によるものだ。今回録嗚未たちに届けさせた嗜好品も同様にな」
「相当に名のある大家みたいだな。お前が受け取るということは、ちゃんとした協力関係の相手ということだろう」
「その通りだ。これらの対価となる条件を満たすためにも必要なことなのだ。大家の名は聞かぬのだな」
「必要ない。じいの片腕であったお前だ。そこは信頼している。それよりよかったのか。その大家から送られてきた嗜好品を他の隊にまで分けてしまって」
「我が隊への援助物資ではあるが、与えられたものをどう扱うかはこちらの裁量だ。それに一隊の士気によって得ることのできる益はそう多くはない。それくらいならば全体に分け与えて各隊の士気を向上させた方が、結果として損失を減らせるうえに、これを各隊への後々の貸しとして、いつか返してもらうさ」
「フフ そうか。お前らしいな。青騎の姿が見えないのは、また城に戻られたのか」
「ああ、少し前にな。ここでは得られぬ情報をお纏めになられるとのことで、しばらくは時間が掛かるやもしれんな」
「そうか。騰からは何かあったか」
「将軍からは、嗜好品の礼と引き続き周辺警戒を怠るな、と。あとは、さきほど軍司令部から作戦の指令書が届いたくらいか」
「軍司令部から朱錐にか。内容は」
朱錐は手元に置いてあった書簡を虎豹に手渡した。虎豹はサッと目を通すと所感を述べた。
「フム。なんというか軍総司令らしくない内容だな。たしかに我らは前線に張っていないから適任ではあるが……」
「青騎によると、軍司令部に新たに加わった軍略家による賜物でしょう、とのことだ」
「ああ、あのジジイか。それにしても、ほんと王騎様は大胆な手を使われたと思わないか」
当時六将として最前線で戦っていた者たちからすれば相応に因縁の相手である。それらを意に介さずに登用を仕掛けたその器の大きさに虎豹は感嘆の言葉をもらし、朱錐もまた「そうだな」と同意を込めて首を縦に振った。
「夫人としては、気が気ではないか。しかしながら、敵国であった秦の侵攻に幾度となく抗いその蓄積された経験は疑いようがない。そして、それほどの人物を口説き落とした王騎様は流石としか言いようがない」
その頃、魏の中枢で鋭敏な手腕を振るっていると思われていた呉鳳明と霊凰は宮殿中央でなく、その控えの間の席にいた。
「先生、本当によろしかったのですか。いまも中央で行われている軍議に参加をなさらなくて」
霊凰は目を細め薄い笑みを浮かべて言った。
「鳳明、お前も理解っているのであろう。私が何を意図してこの場に留まっているのかを」
「はい。先生は魏・軍師八師。その有用性を図られておられるのかと」
「その通りだ。あれらが組織化された概要は耳している。あとは、どの程度の者であるのかをはっきりさせておきたくてな」
「それは、先の大戦。あの本陣陥落の一件からですね。ですが、私は総大将であった白亀西がひときわ愚かだったとは思いません」
「ほぅ。それはなぜだ」
「私は白亀西がというよりは、一介の将軍ならあの大戦の最中盗賊風情に尻を叩かれたなどと騒ぐこと自体を恥だと考えるのは自然な流れかと愚考するからです」
「そうだな。本当であるなら白亀西はすぐにでも本陣敵襲の合図を挙げるべきであった。そうしなかったのは、偏に自軍の優勢の報を信じて疑わなかったこと。そして、白亀西が盗賊程度であれば本陣の精兵で対応は十分に可能であると思い込んだことだ」
「それでしたら、なぜ今回彼らを試そうとなされているのですか」
「それはな、鳳明。私は助言をしていたのだ。本陣の守備をくれぐれも疎かにすることのないようにとな。だが、現実はどうであった」
「白亀西は早々な解決を目論み多くの守備兵を迎撃に費やしたことで手薄になった本陣を桓騎に強襲、占領されました。そして、結果としてそれが戦の勝敗を決する状況を招きました」
「難しいものだと思わないか。私たちにどれほどの才覚が備わっていようと実行に移す者たちの思慮が足りなければ、与えた策もそこから破綻していくのだ。私はな、最後に策の成否を決めるのはいついかなる時であろうと人であると考えている」
「それが以前に仰られていた戦は部将の取り合いであるというお考えに繋がるのですね」
「そうとも言える。が、これはただの教訓でもある」
「教訓、ですか」
「そう、遠い過去の教訓だ。まったく。下らぬ男のもとに有能な人材が存在したがゆえに起きた無用な争いであったわ」
そこで霊凰は瞑目すると過去の出来事を逡巡してと「ふっ」と声を漏らして言った。
「百の戦略、百の戦術、百の策謀を張り巡らせようと、人を見誤ればすべては台無しになる。策に情は不用なれど味方に足を掬われることもあるということだ。努々忘れるなよ、鳳明」
魏里井攻略軍本陣には、この軍を指揮する将軍である間永と軍師である氷鬼の姿があった。
「氷鬼よ。飛信隊の攻略は順調だな」
氷鬼は応えた。
「左様ですね。多少はやるようですが私の敵ではないかと」
「フフ 頼もしい言葉がきけて安心だ」
「敵がこのまま粘ってくれば、裏手をとらせるべく回らせた別働隊が退路を遮断。そうなれば、今日中の壊滅も十分に可能でしょう」
「飛信隊は袋の鼠か。隊長信の首を挙げて山陽奪還の狼煙としようか」
そう間永と氷鬼のふたりの目論見通りにことが進むと思われていた戦場で、変化を告げる伝令の声が挙がった。
「敵部隊は後退ッ 後退です」
即座に反応をしめしたのは、軍師氷鬼であった。
「なに……、全部隊か」
「はい。交戦中の敵全部隊であります」
この戦況の変化に間永は軍師に意見を求めるべく声を掛けた。
「おい、氷鬼」
「問題ありません。将軍。敵が退くのであればこちらは前進するのみ。この地の戦局がこちらに傾くということは、ここと隣接する戦線にも良い影響を与えることになります。また、この先には土地を隔てる川が流れています。ですので、敵はこの周辺で唯一かかっている美仁橋を拠点に定めて後退するつもりであるかと。将軍。追撃のご命令を」
間永はうむ、と納得の声を出すと指示をだした。
「道清に追撃に移るように伝えよ。ただし、追うのは橋までとする。いけ」
この日飛信隊は、これまで死守していた前線地を捨てて川のさき、橋の向こう側まで大きく後退した。
「こんなに退いちまって本当によかったのか」
そう声をだしたのは隊長の信。声のさきにいるのは、さきの戦いの最中に赴任した旧知の河了貂であった。
「信。さっきも言ったけど、もうあそこで戦える状況じゃないんだ。いまこの一帯では、各地に配備されていた魏の小隊が次々にこの里井に集まってきている。だから例え、あの場所で粘ったとしても、部隊を展開しやすい場所だったから、単純な兵力差で押しつぶされてたよ。それに最悪、裏をとられて今日渡ったあの橋を占領されて、全滅の憂き目にだってあってたのかもしれない」
当初、唐突に姿をみせた河了貂が「信。すぐに部隊を後退させるんだ」と声を挙げたことに驚き動揺をみせた。しかしながら、現在の戦況を河了貂が的確に言い当てながら毅然とした態度で現況のまずさを語ったことで、守りやすい防衛拠点まで部隊を下げようという河了貂の提案を受け入れたのであった。
そのため、里井における前線守備拠点をを失うはめになったが、その反面、飛信隊の損耗は軽微にとどまることになった。
「貂。それはわかったけどよ。ここだって川があるぶん守りやすさはあるけど、いまのその兵力差ってのは埋められないじゃねえのかよ」
河了貂は里井の戦略図から視線を上げると意外そうな声を挙げた。
「へえ。信もちょっとは戦術のことがわかるようになったんだね。前の信なら全部ぶっ倒すだけだって叫んでそうだよね」と。
信は少しばつの悪そうな表情を見せて言った。
「……壁のあんちゃんのおかげだ。こいつをもう自分は暗記してあるってくれたんだ」
信は懐にしまってあった書物を取り出して河了貂に手渡した。河了貂は「フーン」と声を漏らしながらなかを検めると驚くように声をだした。
「……って、よくこんなもの壁は譲ってくれたね」
信はきょとんとして言った。
「へ、いや。特別だぞってわりと普通にくれたぜ」
その様子に、河了貂は兵書と言えるこの書物について語った。
「信。わかってないみたいだから教えるけど、こういう個人の注釈をつけた書物っていうのは、本当に貴重なものなんだよ。書き入れた人物が優れていればいるほどに、その人物の考え方が反映されたものになって価値あるものになるんだ」
それに信は「そ、そんなに価値があるもんなのか、それ」と驚きの声を挙げた。
「うーん。まあそうは言ったけど、これは本当に部隊運用における初心の書って感じだから特別なことは書かれていないとおもう。でも、文体を分かりやすくするために、ほら。こことか書き入れてあるでしょ」
河了貂は書物の一文に分かりやすいように指を這わせた。その示された一文を見た信は声を挙げた。
「おう、それか。学がねえ俺にもわかりやすくて、めちゃくくちゃ役に立ったぜ」
「ね。そういうこと。それに、この書の端々の汚れ具合からして何度も読み返して書き加えていたんじゃないかないかな」
「そんな……、壁のあんちゃん。そんなに大事にしてたものを俺に渡してくれてたのか」
「そうだよ。だから壁に、ちゃんとお礼を言っとかないとだめだよ」
「おう。けどそれはちゃんとここで勝ってからだ。それに、今日は貂。お前の言葉に従ったけど、次のが納得できねえような策なら俺は承知はしねえからな」
「ああ分かってるって。我に策ありだ。ここに来るまでにある程度の段取りは整えてある。たぶんそろそろーーー」
その後、飛信隊の野営地にひとつの書簡がとどけられた。
そして、この戦いは軍師河了貂のしての門出であり以後飛信隊の軍師として同行していくことになる。もちろん軋轢がまったくなかったわけではない。
しかし、壁が信をおもって譲った書物によってそれぞれの隊員が問題意識を抱いていたことや隊長信の旧知の者であること。また、その河了貂がその力量の一端を早々にみせたことで懸念されていた摩擦は、ほとんど起こらなかったのである。
河了貂は書簡の中身を確認すると意を決して言った。
「よし。信、主だったひとを集めて。明日の作戦をみんなに伝えるから」
第84話でした。
本誌の展開も気になるところですが、年末です。
まずはアニメキングダムは「大人の戦い方」の黒羊戦。
次に控えるは実写キングダム。大将軍の帰還の公開日が発表されましたね。
いやはや来年のキングダムも楽しみがいっぱいです。