第91話
「もっ、申し訳ありません。李牧様」
そう軍議の間に飛び込んで謝罪のために深く腰を折ったのは諜報に関する情報を取り纏める文官のひとりであった。
「見つかりませんでしたか」
「はい。なにをおもわれたのか国境を大きく超えられてしまったために一度見失ってしまうと捜索の手を拡げるわけにもいかず……申し訳ありません」
李牧は一拍ほど瞑目してから文官の報告に応じた。
「……そうですか。もとより、あのお方は私たちのような根幹となる思想を持ち得ませんから、一度こうと決めてしまえば国の境に縛られることはありません。しかし、そうなると困りましたね。次の戦で、できることなら働いていただきたかったのですが。ひとまず、捜索は続けて下さい。それと傅抵に伝言です」
そうして李牧はあらかじめ思案していた次善の策を文官に伝えた。
「ハッ。ただちにとりかかります」
李牧は軍議の間を足早に去る文官を横目にしながらさらなる指示をだした。
「公孫龍将軍。十万人規模の軍を興す準備に取り掛かってください。攻め入るのは、長年にわたって我が趙国を悩ませる隣国燕です」
「秦趙同盟が有効な今こそ叩いておきたい国ですな。大将は李牧様ですか」
「……そうなります。副将には慶舎を。将軍の李白、万極にも出陣の通達を。この戦いは、先の戦略にかかわる大きな一手。皆。心してとりかかるように」
それから一月ほど経った頃。
趙が燕に向けて大軍を発したという報が各国へと流れることになった。その報に外交先からの帰国の途についていた蔡沢は馬車の進路を変更して迎撃のために軍を発した燕国軍に向けて走らせた。
「お、おったおった。儂じゃ儂。ヒョーっヒョっヒョ」
「ンン。おぉ、蔡沢老師か」
「ヒョっヒョ 久しいな。燕の大翼劇辛よ。お主が出陣したと聞いて、これはひとつ忠告でも、とな」
「外交が畑の蔡沢が、儂になんの忠告をするつもりかァ」
「なあに、ただの年寄りの戯言じゃよ。聞いて損はなかろうて。どうじゃ。聞くか」
「ふん。タダなら聞くだけは聞いてやるぞ」
「ならばひとつだけ。李牧をけっして侮るなかれ。お主とて若造と舐めては痛い目ではすまんぞぃ」
「ああ……なるほどの。李牧のことか。儂は、貴様らが六将だ三大天だとはしゃいでおった頃より昔から前線にでて戦っておる。さらに儂はあやつらが頭角を現し始めた頃より見てきた。故に、実力は深く知る。李牧はそれを打ち破ったのだ。侮るはずがない。そして戦の強さに歳など関係ないことは百も承知している。なにせ、儂自らがそうだったからなァ」
そうして劇辛は「ワッハッハ」と大きく笑った。
「ヒョ、ヒョっ。頼もしいの。彼の軍神楽毅亡き後を支えた燕の大翼にはいらぬ言葉であったか」
「おう。ところで蔡沢。今日はひとりか。お付きはどうした」
「んん。あやつか。お主が見抜いた通りじゃよ。いまは己の任務を全うしておろう」
「そうか、そうか。なかなか面白い男であったからなァ」
「ヒョっヒョ。随分と気に入られていたようじゃ」
「……金で靡かん所は好かんがな」
「ヒョーっ ヒョっヒョっ。お主は真に金じゃのぉ」
「当然だ。金はあればあるほど良いぞ。儂が欲しければ金を積む。それだけだ。簡単だろうが。ワーッハッハ」
「丞相に伝えておこう。それではの劇辛よ」
蔡沢が劇辛と束の間の会談を終えてから幾日のち。
趙と燕の間で十万規模同士で開始した戦いは、周辺国の予想はるかに上回るペースで進行し、たった半日で佳境を迎える異常事態に陥っていた。
「報告。燕里様、燕比様ともに敵伏兵によって部隊は壊滅。討ち死に」
「救援要請です。さきほどうって出た黄騎隊が敵に外から横腹をつかれ苦戦中とのことです」
こうした自国の不利を伝える報告が燕総大将劇辛がいる本陣に絶え間なく押し寄せていた。この状況に、本陣預かりの幕僚たちの間には次第に焦りの表情ばかりが張り付くことになった。
「ワッハッハ。凄いな李牧という男は。儂が繰り出した手が悉く読み切られておる。この儂の想像を二回りは上をいっておるわ」
「そ、そんなげ、劇辛様」と不安を露わにして声を掛けた幕僚に劇辛は言う。
「狼狽えるな。本陣を狙った毒猫はどうしておる」
毒猫とは劇辛が誇る必殺の強襲部隊である。
「それが……、何度か敵本陣に迫っているのですが、その度に空振りに終わっていると報告を受けています」
その言葉に、毒猫の実力を知る幕僚からは、馬鹿な。あり得ぬ。とさらに焦りの表情を濃くした。
「ほう。あの毒猫から逃れている、と」
それとは対照的に、劇辛は毒猫の追跡を見事に躱す敵本陣の異様さに思案の根幹になった考え方を疑い始めていた。
儂が選抜して鍛えあげた毒猫から鈍重にならざるを得ない本陣が幾度も逃れれるはずがない。これは考え方を前提から改める必要があるかもしれん。
「毒猫が本陣を捉えられぬということはそれだけ身軽であるということ。本陣が思った以上に少数なのか。あるいはーー」
次に気に掛かるのは、儂の手の読まれ方だ。右方で伏兵にあい窮地に陥った燕里、燕比の両隊の犠牲前提に、さらに右に大きく展開させていた黄騎隊の動きに対して外から横腹を抉られたとは、どういうわけだ。その内側にいた両隊も最初の報告は同様であった。
「左の戦況はどうなっておる」
「左方はほぼ拮抗していて、時折ですが移動中の敵の不意をつく形で大勝していると」
ンン。なんだァ。右に比べて左は随分とお粗末ではないか。
「全隊に向けて伝令だ。敵と遭遇した際の詳細がいる。とくに敵部隊がどちらを向いていたか、をな」
儂の推測が正しければ、方向に偏りが出るはずだ。だとするなら傑物と言わざるを得ん。この山間の視界の効かない状況を最大限に活かしておることになるからなァ。
「伝令が戻り次第、敵の頭を叩き潰しに動くぞ。ここにいる全部隊を使ってだ」
待っていろ。こちらが弱った所でこの本陣にむかって一気に攻勢を掛ける気であろうがそうはいかぬ。
「先頭は毒犬だ。敵が態勢を整える間も置かせずに、その小癪な首を叩き落としてやるぞォ。李牧よ」
「急報ーッ。急報ッ」と山間に生い茂る木々の隙間から敵の様子を報せる兵が姿を見せた。
「敵本陣がこちらに方向を変えて進軍を開始。その数一万五千ッ」
敵の急な進発は李牧本陣の将兵に大きなざわめきを齎した。
「ッな。そんな。もうここの位置がばれたというのか」
「一万五千なら本陣にいた全部隊じゃないか。こっちは八千しかいないというのに」
「李牧様。急ぎご指示を」
この劇辛の動きは、李牧の予想を少なからず上回っていた。しかし、李牧は慌てることなく落ち着いた声色で敵を褒める言葉を発するとひとつの指示をだした。
「劇辛将軍。お見事です。流石にこのまま一筋縄にとはいきませんね。カイネは迎撃の準備をしてください」
「承知しました。私の隊が李牧様をお守りする。絶対に敵を李牧様に近づけるなッ」
カイネの檄に応えた部隊は高い士気を維持したまま守備の布陣を展開し始めた。李牧は明瞭な指示のもと動き出した本陣の様子に満足すると矢継ぎ早に指示の言葉を重ねた。
「任せましたよ。ここからは一気に動きます。まずは狼煙です。次に公孫龍将軍は手筈通り偽装本陣を止めて敵強襲部隊の足止めを開始。李白、万極の両将軍には総攻撃の命令を。敵の本陣が動いた今。全体の連携を取ることが難しくなっているところを衝きます」
そうして李牧は各方面にむけて駈ける伝令の背中と立ち昇った赤黒い狼煙を確認すると語気を強めた。
「最終局面です。仕上げに入ります」
第91話でした。
GWも残すところあとわずかですね。
あと二か月ちょっと先には、大将軍の帰還の公開もあります。アニメ版は『蔡沢の矜持』斉の王建王の言葉「最後に、為していった仕事は真に大きかったぞ 蔡沢」にはグッとくるものがありました。
本誌は、亜光に田里弥が……。山秀は山秀はどうなったんだ。それに信の悔しさをにじませる姿も印象的でした。