キングダム72巻が発売しましたね。
「ンァ。あれは狼煙か。李牧め。やはりこちらの動きが良く視える所に隠れておったか」
燕の大将軍劇辛は進軍の方角から昇った狼煙に確信を深めた。
「全軍、速度を上げるぞォ。毒犬をもっと走らせろ。片を一気に付ける」
「ぅオオオォッ」とあがる気勢のままに燕軍は森を駈け抜けた。
「毒犬から森を抜けた先に敵本陣発見の報告ッ」
劇辛は腹の底から笑った。
「ワハハッ。やはり、いたな。李牧が六将王騎を破ったいかな策士であろうが、あの軍神楽毅に培われ、さらに六十年もの戦役をかさねた儂に及ばぬということだ」
「燕軍ッま、間もなく現れます。お、おそろいし速さで接近しているとのことッ!!」
カイネは軽く舌打ちしてから言葉を続けた。
「お前たち、いそげっ。敵はもうすぐそこだぞ。もたもたするなァ!」
李牧本陣はカイネの焦燥を交えた声の通りに守備陣形の構築をいまだ完了していなかった。李牧は本陣の様子を注視しながらべつの空にも視線を向けていた。
「流石に燕国が誇る精鋭の足は速いですね。とても間に合いそうにありません」
李牧のいまの状況とは裏腹に落ち着き払った言葉にカイネは声を挙げた。
「李牧様っ。そんな落ち着いている場合じゃありませんよ。李牧様は私達の後ろにはやくおさがり下さい」
カイネの主をおもう忠言はもっともものであったが、李牧は視線をうごかすことなくその場に留まっていた。
「李牧様っ」とカイネが再び声を挙げたところで、燕軍はその姿を現すことになった。燕軍は李牧本陣に向かって敵を鋭く穿つ槍のごとく接近した。
「ようやくみつけたぞ、李牧ゥ」
そして燕の大将軍劇辛が姿を見せた時点で、劇辛が誇る最精鋭の毒犬部隊と李牧本陣の部隊は衝突寸前であった。
「とくとく味わえ。これが東中華を恐怖で震撼させた騎馬民族犬戎の力だ」
「先陣が敵と衝突しますッ!!」
李牧本陣は奇襲を仕掛ける目算で攻に偏った陣形であったことが裏目にでて守備陣形を完全に整えられてはいなかった。
「て、敵の勢いがと、とまりません」
しかし、それを差し引いたとしても劇辛の誇る必殺の犬戎部隊毒犬の突撃力が突出していた。李牧本陣の幕僚たちがわずかに浮足立つなかカイネの檄が飛ぶ。
「守備隊はなにをしている。前を固めて左右から挟み込めッ。李牧様にこれ以上は近づけさせるな」
その言葉は幕僚たちに正気を取り戻させて地に足をつけさせた。途端に、本陣が慌ただしく動き出す。
「後方にいた全ての盾部隊を敵前方に集結させろ。とにかく敵の勢いをとめさせるのだ」
「弓部隊は左右に開いて敵の後方からつづく兵に向けて掃射し続けさせよ」
「すべての予備隊を動員しろ。出し惜しみしては押し切られるぞッ」
いくつもの指示が飛び、部隊が展開していく。しかし流れは変わらない。カイネは叫ぶ。
「李牧様。はやく、はやく後ろにおさがり下さい。万が一もあり得ます」
カイネの憂いを帯びた声を前にも李牧は大河の流れのように悠然として揺らぐことなく言葉を紡いだ。
「頃合いでしょう。合図を」
そうして戦場に突如として響く銅鑼の音が戦況を変えていく。
「右方の茂みから敵の援軍が出現!その数およそ千ほどと思われます」
このとき劇辛の本隊は李牧に向けて一本の槍のように毒犬、燕の騎馬部隊、劇辛本隊、歩兵部隊と進軍速度の差に伴った形になっていた。そんななか、李牧はあらかじめ用意していた伏兵部隊を本陣に突き刺さった状態の毒犬でも燕の騎馬部隊でもなく劇辛本隊に向けて走らせた。それはこの本陣を劇辛が強襲するため全軍の速度をあげたために生まれた隙を突く一手であった。だが。
「やはりかァ。この状況を王騎を退けるほどの策士が想定していないはずがないと思っておったぞ」
劇辛は不敵な様をみせるように口角をあげると矛を高く掲げた。
「クハハッ。あおい、まだまだ青いぞォ。李牧。儂を甘く見積もっておったな。行けえィ!!」
この形で李牧が劇辛を討ちとるために兵を伏せていたように、劇辛もまた自身の本隊に余剰ともいえる騎馬部隊を抱えて備えていたのだ。劇辛は余剰な騎馬隊を本隊から分離させて迎撃にむかせた。
「儂にお前の策が届く前に儂の鉞が貴様の首に届くわ。その細首、小癪な策略ごとばっさりと刎ねてやるぞ」
趙と燕の両国の間で起こった戦の前半の趨勢が李牧の手のひらの上であったとするなら、この戦いの後半、それよりもっとも重要である勝敗を決める天秤を燕に傾けさせたのは劇辛の戦役の知そのものであった。
だがしかし、ここで劇辛の予測を上回る事態が一つ起こることになる。
燕の騎馬部隊は自国大将軍劇辛の読みどおりに現れた敵援軍に意気揚々とした面持ちままに突撃した。
「誘い出された趙の青二才どもの首を残らず刈り取ってやれ」
接敵の刻。唐突に空を覆う影があった。距離感を見誤ったわけではない。ただ彼らの予測を上回っていただけだ。自国の毒犬部隊に匹敵する趙国騎馬部隊の持つ脚の早さを。気づいたころにはもう遅い。そのとき大きな影によって握り込まれた大矛が唸りをあげた。
「だれが青二才かァ その身に刻むとよいぞ」
大きな影。振るわれた大矛。ただそれだけで両部隊の激突の趨勢は趙に傾く。もちろん部将ひとりの活躍によるものではない。
「馬南慈様に遅れるな。燕の騎馬がなにするもぞ。我ら雁門騎馬隊の力で蹴散らせえっ!」
馬南慈と呼ばれた漢が率いているのは、李牧がかつて赴任していた雁門の地、その最精鋭である。そして雁門は、北の異民族大匈奴の侵攻に抗いつづけた地。当然にして、隊は屈強にして精強にたる兵士たちで構成される。
「この馬南慈が、わが主を貶める輩に教えてやらねばなァ ヌオオッ!!」
この異変は、劇辛にはすぐに伝わった。
「フン」と劇辛はこの面白くない事態に嘆息すると新たな指示をだした。
「あれは、儂でなければ止められぬな。陣形に変更はない。お前たちは儂が新手を押しとどめているうちに李牧の首をとれ。行くぞォ」
劇辛は本隊のみを切り離して迎撃にでた。その馬上でおいても劇辛は戦の勝敗を確信していた。
「李牧よ。やるではないかァ あのような強烈な隠し玉をとっておるとはな。だが、儂の勝ちは揺るがぬ」
劇辛の頭脳は戦の流れを正確に捉えていた。
「誤ったのは李牧。お前だ。その伏兵は自身の守りに使うべきであったぞ」
そして戦いは決着の刻を迎えようとしていた。
第92話でした。
キングダム72巻。番吾の戦いが佳境に。
さきは語るまい……。
誤用に誤字報告ありがとうございます。