「むぅぅンンン バハァーッ!!」
劇辛は本隊の三千を率いて伏兵部隊の迎撃にでていた。眼前には大矛を縦横無尽に振るう敵影。
「ヌゥ フン ンゥヌううン!!」
それは李牧が配した伏兵部隊の長である馬南慈であった。
「グぅ……。なんという膂力よォ。お主が雁門の鬼人、馬南慈か。噂通りに手強い」
「ほう。燕の大将軍であらせられる劇辛殿に名を知られていようとは、儂も有名になったものですな」
「匈奴を震わせた名だ。知らぬはずがないわ」
「ハっハっハ。それは光栄ですな。手前は長らく雁門をはなれることがありませんでしたからな」
「フン。しかしだァ。お主、儂の相手を悠長にしている場合か。儂を早く獲らねばさきに李牧の首が飛ぶことになるぞ」
「勿論。承知の上ですぞ。劇辛殿」
劇辛は対峙する敵の気勢をそぐ目的も秘して言葉を交えていたが、馬南慈の返答に思考を走らせた。
なんだ。確かに、この馬南慈は雁門の鬼人との通り名に偽りない実力の持ち主であることは、矛を数合交えただけで理解できる。こやつの実力を甘く見積もったとしても儂と同等か、或いはそれ以上だろう。だがしかし、それによって儂が儂が討たれるかどうかは別の問題だ。なぜなら儂は馬南慈を必ずしも討つ必要はないからなァ。だがそのわりには奴に焦りがないことが気に掛かる。
敵を見据えたまま思考を重ねていた劇辛の意識を浮上させたのは、その敵である馬南慈であった。
「むしろそちらこそ、この馬南慈に時間を掛けてよろしいのですかな」
「何。どういう意ーーー」とそのとき本隊後方から戦場の異変が伝えられた。
「劇辛様。本陣あった場所から火の手がっ」
「なんだとォ」
どうなっている。確かに戦況的に押されてはおった。儂が全部隊を率いて本陣に離れたことで李牧が攻勢を強めさせたことくらいは容易に察せられる、がだ。儂が本陣を手放して出撃したことで李牧もまた儂に対応するために追加の指示をだす暇などなかったはず。そして燕の精兵たちが正面からの戦いで趙に大きく後れを取ることなどありえん。とならばーーー
「別動隊かァ。李牧め。反対側にも兵を伏せておったのか」
これはまずいぞ。すでに本陣としては空も同然とはいえ、こちらの後方を敵にとられていること自体が
燕軍全体の士気を下げかねん。ただちにここから強引に離脱をしてでも李牧の首をとる必要がでてきたか。
そんな劇辛の内心を見抜いたように馬南慈が立ちふさがる。
「どうにもこちらの狙いがバレようですな。ですが逃がしませんぞ。劇辛殿」
馬南慈は自らの大矛に力を込めて威圧を強めていく。それは長年に渡って戦い続けてきた劇辛をして、いま背を見せることが死につながると直感させるに充分であった。
「ぬかせェ。儂をいくら足止めしようと毒犬の手が李牧に届くことに変わりない、ぞォおおッ」
劇辛と馬南慈の火花散る剣戟いが苛烈さを増していく中で、戦況は佳境に向けて動き出す。
「李牧様。敵の侵攻を緩めることに成功しましたが、いまだ留めるには至っておりません」
李牧本陣は一気呵成に攻めたてる燕軍の猛撃に本陣守備隊の中腹まで侵攻を許していた。
「燕国大将軍劇辛が誇る精鋭である毒犬部隊。さすがの突破力ですね」
しかし李牧の表情は凪いだままに変化はなく視線を向けた幕僚が頷くのを確認すると続けた。
「すべての盤上が整いました。始めてください」
そして李牧の命令のさきにいる人物は待ちわびたと口を開いた。
「このような大役を授かるとは。これまで、待機の命に従って姿を隠していた甲斐があったというもの」
己が自負に見合う仕事に漢の口角は自然とあがった。
「静かに移動する。これより大事を成すぞ」
同じ頃。燕軍の本陣あとを攻め落とした趙軍副将は馬脚を速めていた。
「時間だ。これより誘い出された燕軍総大将劇辛の首を刈り獲りにいく」
趙軍の別動隊兵三千率いているのは李牧の副将、名を慶舎と言った。それは起伏を富まない声色に醒めきった眼の奥に熱をともす漢であった。
「作戦に変更はない。金毛、岳嬰は劇辛の後方に喰らいつけ」
「ハッ」「仰せのままに」とそれぞれが拱手のままに応えた。
「森を抜けるぞ。狩りの時間だ」
別動隊であった慶舎隊は森を抜けると燕軍の後方から勢いそのままに突撃を開始した。
「チィィ 狙いは儂かァ」
このとき劇辛は燕軍本陣を陥落させた趙の別動隊が自本隊後方に出現した時点で、これまでのすべての流れがここに自身を誘い出すための策略であったことを悟っていた。
「ハハハッ 立場が逆転しましたなァアアッ」と、さらなる馬南慈の猛撃に劇辛は対処しながら戦のさきゆきに暗雲が立ち込める事態に内心の表情を歪めていた。
まずい。まずいぞ。このままでは敵に飲み込まれかねんぞ。千の敵に対して同数をあてがい、さらに儂の本隊の三千。馬南慈の武が想定外であったとはいえ、速攻を是として本隊のみを切り離したことが裏目に。いや、まさかそこまで……。しかし李牧め。是が非でも儂の首が欲しいようだなァ。
「だがッ なめるなァ。この首はそう易くはないぞォ」
ここにきて劇辛は討ちとられるような隙をつくらぬように、あえて秘していた渾身の力でその矛を振るった。それにより両者の矛同士が激しくぶつかり合う結果となり両者の距離がわずかに開くことになる。その間を狙っていた劇辛は自馬の馬首をすばやく翻すと一途離脱を図った。
「儂は本軍まで退く。敵の足止めしろ」
そうして劇辛と馬南慈の間に燕兵が滑り込むと、途端にさきほどまであった将同士の一騎打ちの態は崩れて将兵入り乱れる戦いの場に姿を変えた。
その最中、馬南慈はこの場から離脱していく劇辛をすぐに追うことはぜずにその背を目で追っていた。
「流石は燕が誇る大将軍の本気の一撃。まだ腕に衝撃が響いておる。ふむ。でき得るならこの手で。とも思っておったが……まあよい」
そう言葉を発したのち大きく息を吸い込むと声を張り上げた。
「我らは目の前の敵を粉砕しつつ、逃げるやつらの背を討ち続けるぞォおお」
一方、燕本軍に合流すべく駈ける劇辛は背を追われつつも思案を続けていた。
「この状況。よもや奴は儂が策を読みきるところまで想定して策を練っていたと考えるべきか……。敵を甘く見積もっておったのは儂の方であったか」
ここに至って、開戦前に受けた蔡沢の言に偽りなしと素直に認めていた。
「李牧。奴は儂がこれまで築き培ってきた戦役の知を上回る正真正銘の化物かもしれん」
この劇辛の弱気ともとれる発言には長く使える側近の兵も「そ、そんなげ、劇辛様」と信じられないとばかりに口走った。
しかし、劇辛はそんな周囲の様子に、ンン。喉を鳴らすと「狼狽えるな」と声をだして続けた。
「たとえ李牧がどれほどの化物であろうと、軍神楽毅の策謀を直に肌で感じとり我が戦としてきた儂に解き明かせぬものなどない。次の戦では目にものをくれてやるわ」
そう意気を新たにした劇辛の耳元にふいに声がとどいた。
「お前に、次はない」
それは剣を高く振りかざして劇辛に迫った。剣の主は趙軍副将の慶舎。
「ここで死に絶えるがいい」
正に横撃であった。慶舎は部隊をあらかじめ二つ分け副官金毛と岳嬰を前衛部隊として先行させつつ、自身は後衛部隊にはいって転進。劇辛が馬南慈との戦いから離脱するこのときを狙ってその横腹に喰いつける機を冷静に窺っていたのだ。
これに対して、さしもの劇辛も己が身に降りかかった命の危機を跳ねのけようと声を荒げて矛を振るおうとした瞬間の出来事であった。
「小賢しい小僧がァ。この程度でこのわし、が……うーーー」
「ドスっ」という音が一つ。頭から生えた一本の矢。あとは一瞬のことであった。それは頭上から吊り下げられた糸がぷつりと切られた人形のように馬上から転げ落ちた。
「げ、げ、劇辛様ァああああ」
そう馬上から力なく滑り堕ちごろりと転がり仰向けに倒れているのは、まぎれもなく燕の大将軍劇辛その人であった。
第93話でした。
刻一刻と『キングダム~大将軍の帰還~』の公開が迫っていますね。とても楽しみです。
本誌も八百回目というあらたな歴史が積み重ねられようとしています。積み重ねる。といえば、原作者様もあらたに御歳を積み重ねられたそうです。キングダムが完結するその日まで、いえ、その日からあとも健やかであられることを天に祈る次第です。
最後に、巷で色々とありましたでしょう……。という前置きの元に一言を添えておきます。
原作者様はもちろんのこと、この二次創作小説をここまでお読みいただいた読者の方々、それに加えて、サイト運営元の方々に多大な感謝を申し上げます。
これからも細々と更新を続けていきます。
※新たな一文を加筆してことで起こった結果を鮮明しました。