なりそこないの逃避行 作:彩玻
むかしむかしこの地球で、色々な悲劇が起きた。それは例えば戦争で、病気で、災害で、とにかく恐ろしい出来事たちだった。人は銃で撃たれて死んだし、病魔に蝕まれて死んだし、割れた地面に呑まれて死んだ。全部が終わった時にはもう、人類は全盛期の一割以下の数しか居なくなっていた。
残った人々は世界中で協力して地球の復興を始めた。その甲斐あって人々の生活は悲劇が起きる前と同じレベルにまで持ち直したけれど、死んだ人間は戻って来なかった。
広くなりすぎた地球を心細く感じた人類は、労働力の補充も兼ねて人に似せたモノを創ることにした。ひとつはクローン、もうひとつはアンドロイド。
優に10年はかけて開発されたそれらは、明日正式に日の目を見る。
完成品ができるまで繰り返された、数々の失敗を置き去りにして。
「――なんてね、どう?僕の語り部っぷりは」
白い部屋に、灯りはひとつ。照らされてできた影はふたつ。得意げに語る少年と、冷ややかに見つめる少女。
「いきなり現れて、何?」
「え、昔話だよ」
「それは知ってる。基礎知識はインストールされているもの。私が言いたいのは、そんな分かりきったことを言いにここまで不法侵入してきたのかってこと」
ここまで。それが意味するものを少年も理解していると知っての言葉だった。少女1人のために用意された部屋、少女を1人にするために他の誰の侵入も許されていなかった部屋。そんなところに、なぜ、と。
「そりゃあ本題は違うけど、円満なコミュニケーションの為には他愛ない会話を挟まないと」
「くだらないわね」
「……冷たいなあ」
少年はわざとらしく悲しそうな顔をする。少女は正しくその感情を読み取って、だが特に意に介さず話を続けた。
「そう。それで、本題は?」
「ああ、うん。君に頼みがあってきたんだ。僕と一緒に、ここから逃げて欲しい」
少女が次の句を発する前に、爆風と共に扉が吹っ飛んだ。
〇 〇 〇 〇 〇
白くて狭い簡素な部屋で、少女は長いこと一人きりだった。それに孤独を感じたことは無い。というか、感じられない。彼女はそういう風に出来てしまっていた。だから、冷静に淡々と自分はこのまま最後まで1人きりで処分されるのだろうと予測していて、覆される日が来るとは思っていなかった。
「1、2……21人追ってきてるみたい」
「まあ、研究所きっての失敗作2人が揃って逃げてたらね!」
「人という単位は人類にのみ適用されるから今の言語表現は間違いよ」
「その話今じゃなきゃダメ!?」
黒髪黒目、中肉中背。なんでも元になった遺伝子が日本人のものだったとか。完成品よりも随分と地味な見た目をした少年は、きっと今完成品の誰よりも派手なことをやらかしている。
「それにしても思い切ったことをするものね、まとめて爆破だなんて」
この大捕物も三割程度は少年のとった手段が原因だ。少女の部屋の扉、少年の部屋、通用口、会議室、休憩室、薬品倉庫、エトセトラ。しめて15箇所に爆弾をしかけて同時に起爆させ、研究所に大混乱をもたらした張本人は笑顔を浮かべていた。
「だってほら、これくらいしないと出られないじゃん」
「脱出するために私達以外に気を取られてもらう必要はあるにせよ、この量は過剰でしょう」
「んー、僕ちょっと失敗作だから難しい計算わかんなくて」
だから多めにやっといた、と少年が言った瞬間、ぼん!と新しい爆発音を聴覚が拾う。
「……追っ手が減ったわ、現在18人」
「お、ラッキー!じゃああと6回やればいなくなるね」
「……」
あまりに開き直った様子に少女は言うことが無くなった。沈黙をどう受けとったのか、酷く機嫌のいい少年が不意に「あ」と呟く。
「ねえ、なんで何も言わずに着いてきてくれたの?」
「すごく今更ね。もう逃げ始めて10分と45秒経っているのだけれど」
「そういえば聞いてなかったなーって思い出して。ホントはちゃんと同意もらうつもりだったんだけど、時間なくなっちゃって」
余計な昔話をしなければ良かったのに、と少女は呆れた顔をした。
「まあいいわ、答えましょう。特に断る理由がなかったからよ」
「……それだけ?」
「ええ」
「じゃあさあ、僕が君の手を離して置いていったら、抵抗せずに捕まるわけ?」
「抵抗する理由もないから、そうなるわね」
どこまでも淡々とした回答に少年は表情をくるくると変化させて色々な感情を示し、最後に満面の笑みを形作る。
「あはははは!すごくいいや!面白い!君を選んでよかった!」
「まさか私の欠陥を知らなかったはずもないでしょうに、何が面白いの」
そう、少女は欠陥品だ。この研究所内にいるものなら誰でも知っている。至上の機械の完成品にしてアンドロイドの欠陥品だった少女は、アンドロイドの完成品のお披露目と同時に廃棄処分を受ける予定だった。そして少女の手を引いて走る少年も、また同じ。
「データとして知っていることと実地で体験することとは別物だよ」
「……一理あるわね。あなたも、聞いていた話よりずっと奇妙」
「そんなに褒められても何も出ないんだけどなー」
「褒めてない」
「えー?」
「ところで、どうするつもり。この先は行き止まりでーー」
ぼぼぼぼぼん!連鎖した爆破音が、再度少女の言葉を遮る。
「壁なんて、壊しちゃえばいいんだよ」
ね、簡単でしょ?と笑う少年を、少女は真っ直ぐ見つめ返す。少女にとって長考を要する問ではなかったから、答えはすぐに出た。
「そうね」
その即答を聞いた少年は、息を呑んで、吐いて、それから。
「……ああ、やっぱり」
「なに?」
「いいや、そろそろここからお暇しようか。それじゃーカウント」
――ワン・ツー・スリー!
▽ ▽ ▽ ▽ ▽
コンコン。控えめなノックな割に、不躾にも程がある時間帯。これが何の予兆かなんて決まっている。生まれてこの方68年、幾度も経験してきたそいつの名前は緊急事態という。
「金山さん。ちょっといいですか」
「はいはい、今出るよ」
パジャマ姿だが、まあそんなことを気にするタチでもない。多少取り繕おうとコートハンガーからとった上着を羽織ってから鍵を開けた。ドアの前にいたのはまだ若い青年。今年から入ったメンバーで、名前は確か水原だったか。こっちがそれなりに大物だとあって、眼差しは些か不安げだ。多少やらかしたって取って食ったりしないのだが。
「すみません、こんな夜更けに」
「構わないさ。もし今報告を聞けなかったら、あとから困るのは私だ。そうだろう?」
「……はい。悪い知らせですから」
「うん。それで、一体何が?」
明日は人類念願の“隣人”が誕生する祝いの日。その前日に起きて、かつ半分隠居寸前の金山に声がかかる事態。この時点で何が起こったのかはある程度絞りこめる。完成品の研究データが消えた、完成品に何らかの不具合が見つかった、裏切り者が見つかった、もしくは――
「製造ナンバーAφ0161と製造ナンバーCλ0027の2体が脱走しました。詳細は取り急ぎですがこちらのファイルにまとめてあります。研究所内に爆弾が仕掛けられていて、その対処に人数を割きながら追跡を行ったところ完全な包囲に足る人数が集まらず、壁の一部を爆破した2体に逃げられました。その後の位置情報はまだ掴めていなくて、2体が逃げた目的も不明です」
先程までの申し訳なさそうな態度とは打って変わって、はきはきとした要点を抑えた報告。これは案外使える人材に育つかもしれない、と未来に希望が出てくる。しかし、そんなのはただの現実逃避だ。金山だって現状が最悪の事態だと既に理解している。なんなら年甲斐もなく泣きたい。年長者の意地で表情を保って、努めて冷静に言葉を返した。
「なるほどね。それはまた随分と、……あー、マズイ。非常にマズイな」
冷静なつもりだったが、なりきれずに幼稚な言葉が口をついた。取り繕うにもなんだか面倒で、全てがどうでもいいような気にもなってくる。脱走、そういう事態も想定しなかった訳では無いが。なぜ、今。よりにもよって、あの2体が。
「えっと……そんなにやばいんですか」
「あれ?わかってないで来たのか君」
「いや、その!自分今年からこの研究所に配属になって、研究の内容難しくて、追うのに必死だったんで、失敗作のデータ、までは……」
次第にしりすぼみになっていく声から察するに、勉強不足の言い訳にしかならないとわかったのだろう。人手が足りなくなった研究所で、名誉所長への報告を押し付けられた新人。説明を求めようにも先輩達は軒並み手一杯、自分一人でやるしかない、その不安の中で資料を用意し事態の説明をまとめ、なんともまあ立派な事だとは思う。慰めるつもりこそないが、その奮闘に敬意を評して解説くらいはしてやるとしよう。
「いいよ別に。どうせ彼等はすぐには捕まらないだろうから、説明ついでにお茶でもどう?」
「え、いいんですか、ヤバいんじゃ」
「ヤバいのはそうだけど、急いでも何にもならないからね」
「はあ……じゃあ、お言葉に甘えて」
「紅茶でいい?ミルクいる?」
「ストレートでお願いします」
それにしてもこの新人、さっきから遠慮がない。これは本当に大物に育つんじゃなかろうか。ティーポットの中でダージリンをくゆらせながら、金山はやっぱり現実逃避をした。
テーブルと椅子、あとは紅茶と貰い物のロールクッキー。それだけあればお茶会だと感じられる金山は、元イギリス人達からすれば背徳者になるのかもしれない。そうは言っても紅茶もお茶菓子も美味しいならそれで良いだろとしか思えないのだが。金山が紅茶とロールクッキーを用意する間にテーブルをセッティングしたらしい水原の対面に座って、さて何から話そうかと考える。一応時間はあるといったわけだし、実際あるし、ここは基礎からおさらいするべきか。
「まず、私達がアンドロイドとクローンの研究をしている経緯はわかるね」
「あ、はい!人に似せた人では無い物を我々の隣人とする、みたいなスローガンで初代所長がクラファンして、そっから規模がでかくなって国家レベルのプロジェクトに、って」
「うん。その認識であっている。では、なぜ人に似せた物だけではなく、人では無い物までをスローガンとしたかはわかるかな」
「え……?」
「似ているという表現は、同一でないことと同義だ。つまり人に似せた物である時点で、それは人では無いんだよ」
「えー、はい」
水原は肯定の返事をしたものの、まだちょっと怪訝な顔をしていた。言葉遊びが苦手な研究員は多いから仕方ない。あの弁舌の際に溢れまくっていた初代所長がすごかっただけなのである。
「それでも人では無いと断言したのは、絶対に人にはしないという強い意志の表れだ」
「うーん、よくわからないんですけど。じゃあ完成品は何なんですか?あれ、どう見ても人間、で……」
まさか、という顔をした水原に、やっぱり飲み込みが早いなと思う。金山は話が早い奴が好き、というか話が通じない奴と会話する労力が無駄だと思うタイプなのでありがたい。
「そう、基礎スペックは同じだよ。一応アンドロイドの方は計算能力と記憶能力が高かったり、クローンの方は運動神経がよかったりするけどね。そこら辺は調整を重ねて人間平均より上、くらいにした。でも大事なことはもっと別。感情の強度だったんだ」
「……僕は基本バイタルとったりとかデータの分析やったりとか資料まとめたりとかで、直接的な研究に関わったわけじゃないですけど。脳のデータばっかだったのは覚えてます。……でも、感情があるってのは、人間の条件だから、だから研究してたんじゃないんですか。あれは……感情を無くさせるための研究だったんですか?」
人に近づける研究か、人から遠ざける研究か。研究内容は感情で同じなのに、その二択を違えるだけで水原が持つ印象は変わるらしい。それはそれとして人情味が強すぎるところは減点。
「ちょっと違うね。感情を消したかったんじゃなくて、あくまで調整したかった。彼等は隣人だから、人を常に愛していて、人に逆らってはならない。自由にさせ過ぎてクーデターなんて起こされたらたまらないから」
隣人という言葉はローマの辺りに住んでいた人間から聞いたらしい。良い言葉だよねえと邪悪な笑みを浮かべていた初代所長の顔が金山の頭をチラついた。今考えても本当に悪趣味な言葉回しだ。適度に人間っぽい決して逆らわない存在を隣人とは。水原は複雑そうな顔をしていて、紅茶を飲む手もロールクッキーを摘む手も既に止まっている。それでも、会話を止めることは無かった。
「……まあ、わかりました。それで、それがなんで失敗作の話に繋がるんです?」
「うん。失敗作とは言ってもね、さっき言ったように基礎スペックは同じなんだ。問題は感情面。今回逃げた2体はね、どっちもそれが振り切れてる」
「振り切れてる、って言うと?」
「簡単に言うとね、Aφ0161は感情の無いアンドロイド、Cλ0027は感情の有り過ぎるクローンなんだよ」
まあ、どっちも致命的だ。
感情の無いアンドロイドは機械としては優秀だろうが、人とは明らかに似ていない。ついでに適度に人に似せるために、「人を害する」選択肢は存在しないが「人の意思と違う決定をする」くらいは出来るようにしてある。その状態では、人間一般の倫理観に従う感情という理由を持ち合わせないあれは、手にする人間によって容易に驚異となり得る。
感情の有り過ぎるクローンに至っては論外。そもそも今回の脱走を企てたのもこっちだろう。感情の無いアンドロイドでは生存本能も存在しないから、何も言われない限り自分が明日死ぬとしても部屋から出るなんて選択肢はない。それを無理やり動かすには、あれに意志を与える存在が必要だ。人と同等の感情を持って自分の行動を自分で決める、意思持つクローンが。
「なるほど。そいつらが逃げたってことは、目的は……」
「Cλ0027は普通に死ぬのが怖いからだろうね。Aφ0161は、特に逆らう理由がなかったとかそんな感じかな。君は目的不明って言ってたけど、たぶん周りの人は知ってて言いづらかっただけだと思うよ」
「先輩……」
「それも優しさかなあ。だってただの作品ならいざ知らず、人と同じような奴を態々追いかけて殺さないといけないのは嫌でしょう」
「……そう、ですね」
これから、自分達は逃げた処分対象の捜索を行う。見つけてどうすると言ったら、最初の予定通り処分するのだ。当たり前の行動。当たり前の判断。だけどそれは、残酷でないこととイコールではない。
「一応、本当に一応の質問なんですけど。放置って、選択肢は」
「有り得ないね。感情の無い割に完璧な性能を持ってるAφ0161を放っておけば誰に悪用されるか分からないし、Cλ0027も放置して感情の有りあまってるクローンを平然と処分しようとしてたのが国民に知れ渡ったりしたらイメージダウンだ。これでも色々世のため人のためを思ってやってるんだけど、上手くいかないよねえ」
「……そうですね」
さっきと同じ答えだ。でもそこに潜んでいる感情は少し違っている。迷いと罪悪感、そこから、悲しい覚悟。
「私達も人間だ。だからこそ、情を捨てないとやってられない時もある」
「……はい」
「でも、それは今じゃないかもしれない」
「え」
「助けろとは言わないし、助けてあげてなんてお願いする気もないけどね。君がやりたいなら止めないよ」
金山は、今更優しい人間になろうとは思わない。直接的に災害にも病気にも戦争にも関わらなかったが、その後始末の過程だけでも色々なものを失った。天国なんてないし、地獄なんてもっと無い。そんな世界だ。神をも恐れず人に似せた存在だって創れる。そんな自分だ。だから目の前の素直な新人研究員を止めないのもいつも通り、その方が面白いと思ったから。
「……裏とかないですよね?」
「真正面からそれを聞くあたりいいところだね。裏は無いけど、自分の協力者が現れた時の2体のデータは欲しいよ」
「金山さん、めっちゃ研究者ですね」
「そうだね。そうじゃなきゃ、何もかもみんな死んじゃった時点で、とっくに後を追っていたよ」
死にたくなったことは数え切れなくて、それでも死ななかったから今を生きている。半世紀もやっていたものだから、研究者の生き方が骨身に染み付いてしまった。
――悲しくはない。それが私だから。
そのセリフはかつての大切な友人のもの。当時は頑固すぎて呆れていた彼女の考えに、今なら快く賛同できる。歳をとるとは恐ろしいものだ。
「わかりました。僕は、……俺は、俺の好きなようにします」
ほら今だって、若いっていいなあとか年寄り臭いことを思った。
「うん、名誉所長権限で許可しよう。あ、でも私より地位が上の人間の命令には大人しく従いなさい。君の未来が詰むのまで許容したつもりは無いから」
「はい。あの、ついでにもうひとつ聞いてもいいですか」
「なんだい」
「僕、金山さんに親切にしてもらうようなことしましたっけ……?」
「ああ、そんなこと?そこは単純な話だよ。死んだ友人に似てるんだ。君」
「え」
「顔の輪郭がね」
「はあ」
「こう、シュッとした感じが本当によく似てて」
「詳しい解説は結構です!」
それではおやすみなさい!と勢いよく開いてしまった扉を前に困惑する金山に対して、死者と生者を混同するものじゃないと教えてあげられる人間はいなかった。
〇 〇 〇 〇 〇
無事に爆発落ちと研究所からの脱出を果たした2人は、森にいた。何故、というほどのことはない。ただ研究所が森にほど近いところに立っていた、それだけである。
「それで、この後どうするつもりなの」
「さっきも聞いたね、それ。もう少し今のことだけ考えて生きようよ」
「データ収集をすることは感情野と関係ないところで設定されているからそれに従っているだけなのだけれど」
アンドロイドとは機械であるが、人間社会に出たら普通の人間に紛れて生きていくことを想定されている。だから一度世に出たら人間ドックの感覚で定期メンテナンスは存在するが、パッチを当てられたりはできない仕様になっていた。生まれ落ちた状態から、周りの情報を収集し、徐々に社会にふさわしい姿に変容していく。人間の特質をなぞるようにつくられたのが、彼女の中のデータ収集アルゴリズムだった。
「ええ、そういわれてもなあ。具体的な予定はないし」
「……」
「いや待って嘘だ嘘!やりたいことあった!」
はいはいはい!と2人しかいないのに大仰なリアクションで存在を示す少年。少女は森の静穏と少年のノイズの音量差を検知した。ただ、それで五月蠅いと怒ることはない。感情の欠落とは、そういうことだった。
「そう、何かしら」
「名前、教えて」
「名前?」
「これからしばらく一緒にいることになる仲でしょ、名前くらいいいじゃん」
「いえ、そうではなくて……それは製造番号とは違うものなのよね。なら私に名前はないわ」
少女に感情はないが、情報はある。製造番号はあくまで番号であって、名前とは呼ばないことくらい知っていた。それこそ人間に一郎、二郎と名付けても、一、二と名付けることがないように。番号と名称の間には、明確な隔たりがある。
「うーん、確かに」
「大人しく識別番号で呼び合うのが無難じゃないかしら」
「じゃあ、僕が決めてもいい?君の名前」
少女の提案を暗に却下して、少年は腕を組んで目をつぶってうんうん唸った。少女からすればその行動は無意味だ。どのようなポージングをしても脳の出来が変わるわけでもない。でも、この少年が自分に理解できないことをすることを既に少女は学習していた。だから特に声をかけるでもなく、ポーズのことを問うでもなく、少女はただ少年を見ていた。ずっと見ていたものだから、一分ほどして顔をあげた少年とすぐ目が合った。その目は相変わらず濁っているわけでも透き通っているわけでもない、普通の黒で。その奥にある感情に、少女は気づかなかった。
「リナ」
「それが、私の名前?」
「うん、嫌じゃなかったら」
「別に構わないわ、どうせあなたくらいしか呼ばないでしょう」
「え?これから町に行くから、名前は必要だよ」
町。町と言えば古今東西定義は同じだ。すなわち、人がたくさん住んだり活動したりしている場所。
「大丈夫、僕たち見た目は普通の人間だから」
「大丈夫じゃないとは思っていないけど、名乗るほど親しくなる予定なの?」
「場合によるかな」
少年の返答はあいまいだ。どっちつかずで宙ぶらりん。それを意に介すかは人それぞれだとしても、少年が意図的にぼやかしているのは紛れもない事実だった。
「あ、ついでに僕の名前も考えたから、今後はそっちで呼んでよ。あなたってなんか落ち着かない」
「はあ、良いけど」
「じゃ、僕カイだから!はいほら早く」
「カイ。これでいい?」
「えー、なんかもうすこしない?」
「もうすこし」
少女としてはこの我儘に付き合ってやる義理はない。今従っているのは逆らう理由もまた存在しないからだ。逆らう理由があるならとっくに脱走を妨害していただろう。だが、もし。従う理由と逆らう理由が同時に存在していたら自分はどうしたのか、少女に――リナに、明確な答えは、まだない。今はただ、その願いにこたえるだけだ。
「……これからよろしく、カイ」
「……うん。よろしくね、リナ」
互いにさっき初めて出会って、名前もようやく知ったばかり。それでも2人は既に運命共同体で、共にどこまでも逃げるしか生き延びる道はない。その先に、何が待ち受けているとしても。
――逃走開始から00:28:57――