厩舎に充満する獣が発する独特な匂いが、鼻腔を掻き乱していく。好き嫌いこそはっきりと分かれるが、こういう匂いは好みだ。
奥へ奥へと進んでいく。馬房を横切りながら、この厩舎に滞在する馬たちに挨拶をしながら。たとえ馬であろうと、礼節を欠くことがあってはならないだろう。
もう少し進んでいく。厩舎のところどころから差し込む陽射しが、明るい未来を示唆しているように思えた。
やがて足を止め、振り向く。辿り着いた場所は、ひとつの馬房だった。
馬房を覗き込むと、そこには黒い塊が鎮座していた。
その塊に、俺は一声かけるとする。
「こんにちは。久しぶりに来たぞ、
黒い塊はピンと耳を立てると、馬脚を現して四足歩行の巨大馬となる。
巨大馬――グリーングラスはこちらに振り返り、口を天に突き上げて嘶く。まるでこちらの挨拶を理解しているように。
のっそのっそと巨体を揺らめかせて、グリーングラスは馬房の柵に頭を擦りつけるように寄せる。撫でてとでも言わんばかりに。
せっかく栗東にある伊坂先生の厩舎に来たのだから、撫でないわけがない。
「伊坂先生、撫でてもいいですか?」
「大丈夫ですよ、グリーングラスは大人しいですから」
柵の隙間に手を入れ、頭を上から下にかけて撫で回す。
グリーングラスの表情はすっかり綻び、先ほどまで巨体から醸し出されていた威圧感など見るまでもなく消え去っていた。
馬の体毛はやはり触れ心地がいい。俺でもグリーングラスと同じような顔になりそうだ。
「いやしかし、これほどの馬を預けていただけたのは予想外でしたね。カブラヤオー以外にもいるのかと」
「はははっ、グリーングラスはいい馬ですよ。以前は柵を飛び越えたりして一悶着ありましたけどね。……あと一頭、一歳馬がいるんですけどね」
「えっ」
あまりの情報量にオーバーヒートし、今にも湯気が沸き立ちそうなぐらいに顔を真っ赤に染め、興奮を隠せない伊坂先生に苦笑しつつ、グリーングラスの方を見向く。
相変わらず可愛い顔をしている馬だ。仕草も一々可愛いから、猫可愛がりしたくなってしまう。だがそうすると、馬にとってもこちらにとっても悪影響が及ぶため、節度を保って接していることを心がけている。それはそれとして愛くるしいが。
しかし彼もいずれ、競走馬となり、ターフを駆け抜けていく優駿となるのだ。
勝ち星をあげてくれることも嬉しいが、何よりも無事にレースを終えてくれることの方を願わずにはいられない。
それから、グリーングラスにはやがてぶつかるであろう強敵も現れる。かの『天翔ける名馬』と『流星の如き貴公子』とは必ず激突することになるだろう。
だが、グリーングラスとて名馬の器だ。そう簡単に負かさせはしないだろう。
古馬路線、いや、クラシックで相対するであろう強敵たちを思い浮かべる。
彼らは仕上がりが早く、一方でグリーングラスは晩成型。はっきりいってしまえばクラシックで打ち勝つことはかなりの難題かもしれない。
それでも、俺はグリーングラスが勝ってくれると信じている。所有馬贔屓と指されればそれまでだが、彼らと激闘を繰り広げ、その末に勝利を掴んでほしい。
ふと、ある懸念が電撃のように頭をよぎった。
「……そういえば伊坂先生、新馬戦はいつの予定で?」
「今が十月なので、それから二ヶ月後の予定です。クリスマスプレゼントはグリーングラスの勝利ですね」
思わずホッと息を吐き、安堵する。どうやら予想以上に育成が順調のようだ。
「ところで、騎手はどなたの予定でしょうか?」
次点で気になっていたことを尋ねる。だが伊坂先生は首を捻り、目を細める。
「申し訳ないです、まだ決まってないのですよ。倉田くんに依頼しようとしたのですが、カブラヤオーと被ってしまいそうで」
「そうでしたか。でしたら、ひとつお願いがありまして」
「……ほほう? お願いとは?」
咳払いして、俺は告げる。
「ある若手騎手を、グリーングラスに乗せてほしいのです」
「こんにちは、伊坂先生はいらっしゃいますか?
「ああ、来てくれたのか。わざわざすまないね、遠くから来てもらって」
「いえいえ、構いませんよ。僕のような新人でもお役に立てることなら」
「今まさにキミが役立つ時だよ、
「よろしいのですか? 乗鞍がないので乗らせてもらえるなら乗りますが……」
「いいんだよ、オーナーが望んでいることだから。じゃあ、早速調教で乗ってくれ」
「えっ」
的田くん、将来はマークの名手になってそう。