あのダービーから五ヶ月も経ち、京都競馬場には秋風が漂う季節。
俺の所有馬であり、愛馬である二冠馬カブラヤオーは、新緑に煌めくターフを鳥籠から解き放たれた鳥のように駆け出す。
本来ならば叶えられなかった、クラシック三冠目となる菊花賞への出走。
だがこの場に彼は立っている。そう、菊花賞に出走できているのだ。
鞍上の倉田さんと共に返し馬を行うカブラヤオーを遠目に眺めていると、どうしてだろう、目元から水が滴ってくる。
堪らずハンカチを取り出し、目元を拭う。今日は快晴だが、雨が降っているようだ。
ハンカチ越しに目元を抑える。間違いない、今日はゲリラ豪雨だ。でなければ、こんなに大量の雨が足元に滴るわけがない。
鼻までむず痒くなり、顔面はもうびしょ濡れだった。他から見たら、酷い顔をしているに違いない。
「……気に障ったらすみませんが、いい顔をされてらっしゃる」
心底感嘆するような声が、俺の耳に行き渡る。
ハンカチを顔から外すと、声の主はすぐにわかった。
「ああ、北見さんでしたか。すみませんね、雨でこんなになっちゃって」
「いえいえ、確かに大雨が降り注いでいますからね。傘を持ってくるべきでした」
北見さんは苦笑しつつ肩を竦める。
どうやら、俺と同じく傘を所持し忘れたようだった。
「それにしても、あなたはとても馬想いなのですね」
北見さんの口から、思いがけない言葉が飛び出す。
笑みを深めて、彼はさらに口を開く。
「雨を降らせるほど馬の出走を喜んでいらっしゃる。勝ち負けの世界でありますから、勝って喜び、負けて悲しむという馬主はいらっしゃいます。しかしそのご様子からして、出走するだけでも歓喜に震える馬主がいるとは。私の目では見たことがありませんよ」
「いえいえ、北見さんには及びませんよ」
「及ぶ及ばないではないのです。あなたは馬主として、そして、一観客のように競馬を楽しんでいる。その証明として、日本ダービーでは応援馬券を自作されていましたから」
北見さんは深呼吸するように息を吐くと、笑顔のまま遠目に晴天を眺める。
「その姿勢は、ビジネスマンの理想形というより、競馬を心から愛する馬主の究極形だと思います。あなたは心の底から馬を愛し、馬を大切にする。私にはどうしてもそのように映るのです」
「……そうでしょうか? 俺は一介の馬主に過ぎませんよ」
「あなた自身はそうお思いでしょう。競馬はひとつのビジネスでもありますから、どうしても勝ち負けのみに拘る方も多いのです。……そういえば、牧場も持っておられましたよね?」
「は、はい……そうですが……」
「来年頃になるのですが、とある馬を買っていただきたくて……。私自身はその馬の産駒が走っているところが見たかったのですが……」
「……まさか、メジロアサマをお売りになるつもりで?」
「その通りです。種牡馬として引き取っていただければ」
メジロアサマという馬は、史実においてもメジロの悲願であった天皇賞を勝利した名馬。
そんな名馬を、本気で手放すつもりなのだろうか。
北見さんの表情を窺うと、真剣そのものだった。
「……し、しかし、メジロアサマは天皇賞馬。メジロの悲願であったはずでは?」
「はい、そうなのです。それは今でも変わりません。
……ですが、メジロアサマを種付けしても不受胎ばかり。メジロ牧場内から疑問の声もあがり始めておりまして」
「なるほど……そのため、我々に購入してもらおうと」
「はい、押し売りのようで申し訳ありませんが。金額は一億円、厳しければその半分でも大丈夫です。
……電話番号を渡しておきます。後日、返答をいただければと思います」
電話番号が記載された名刺を手渡され、それを受け取る。
北見さんは懇願するような震えた声音で、言葉を続ける。
「……どうか、よろしくお願いします」
「……わかりました。検討させていただきます」
競馬場内でまさかの交渉があったことは完全な予想外だったが、気を取り直し、ターフの方を振り返る。
場内は既に静まり返っており、今か今かと時の訪れを待ち侘びていた。
――そして、十八頭の強豪たちが飛び出していった。
十八番から黒い弾丸が放たれる。カブラヤオーが好スタートを切ってくれたのである。
『スタートしましたっ! 二冠馬カブラヤオーは好スタートを切って、一気に先頭を奪います。ぐんぐん引き離していくカブラヤオー、やはり大逃げであります』
カブラヤオーと後続との差は四、五、六馬身と開いていく。
京都の芝3000mは、カブラヤオーでも粘りきれるかどうかの瀬戸際な距離。しかし、だからこそ大逃げを打つのだろう。
その証拠に、カブラヤオーで逃げる倉田さんが不敵に微笑んだように見えた。
『1000mを通過しましたが、これは超ハイペースであります! 前どころか後ろも総崩れしそうなほどであります! コクサイプリンスはついていくのが精一杯か!』
カブラヤオーが大逃げを打ったことにより生じる超ハイペース。それで他馬をすり潰し、逃げ切ろうという作戦なのだろう。カブラヤオーを信じきっていないとこんな大胆な作戦は実行できない。
2000mを通過していく頃には、遂に後退し始める他馬も出てき始めた。
恐らく、倉田さんの作戦が効き始めたということだ。
『残り800m! カブラヤオー、カブラヤオー、カブラヤオーだ! カブラヤオーが三冠を目指して突っ走っております! 未だに先頭はカブラヤオー! 二番手コクサイプリンスとの差は六馬身! 持ち堪えてくれ、カブラヤオー!』
倉田さんが鞭を打つ、手綱を押す。
残り400m。最後の最後、三冠達成まで目前となった。
『ポーンポーンと倉田隆景の鞭が入った! カブラヤオー先頭、カブラヤオー先頭! 無敗で三冠達成なるか!? カブラヤオーだカブラヤオーだ! だが後方からコクサイプリンス来ている! コクサイプリンス来ている! カブラヤオーここまでか!? カブラヤオー頑張れ、カブラヤオー頑張れ!
カブラヤオーが伸びた! カブラヤオーが粘って伸びた! カブラヤオーが再び伸びた! なんという逃げ脚!
カブラヤオーが一着! カブラヤオーが一着! 二着にはコクサイプリンス! カブラヤオーであります! 無敗の三冠馬が今、京都に舞い降りましたッ! 二着との差は二馬身ほど! 神戸新聞杯、日本ダービー、皐月賞のような圧勝ではありません! しかし勝ちました! 勝って証明しましたッ! その強さを! 大外も、距離も関係ありませんでした!』
十八番のゼッケンを、倉田さんと共に掲げる。俺も倉田さんも、大雨のせいで顔面がびしょ濡れだった。
伊坂先生はトロフィーを手にし、そんな俺たちに微笑んでいた。
「やった……やった……やったよ……遂に……!」
倉田さんは拳を握りしめ、歓喜に震える。
当の俺はというと、カブラヤオーに舐められまくって顔が違う意味で酷いことになっていたが。
倉田さんにゼッケンを手渡し、カブラヤオーを撫でて撫でて撫でまくる。
カブラヤオーもそれに呼応し、こちらを舐めて舐めて舐めまくる。
カブラヤオーの首元を叩いて、告げる。
「ありがとう……ありがとう……! カブラヤオー……!」
「倉田騎手、レースの方はどうでしたか?」
「最高の手応えで臨めました。先生の仕上げがとても良かったです」
「カブラヤオーはどうでしたか?」
「いつもより輝いて見えましたし、気合いも十分でした。カブちゃんにしては闘志が凄まじかったです」
「ご自身にとって最強馬というのは?」
「もちろん、カブラヤオーです。この馬と一緒なら、どんな馬にも勝てそうです」
「最後に次走については?」
「そこを聞きますか。GⅠ有馬記念の予定です。何も異常がなければ出るかもしれません」
「ありがとうございます。以上、倉田騎手の勝利インタビューでした」
騎手の脳を焼くのって楽しいよね。